小悪魔
翌日。里奈は夕方から収録があるとのことだったので、午前のうちに必要なものを買いに行くことにした。
2人がドアを開け外に出ると、膨らんだエコバッグを手にした、どうやら買い物帰りと思われる遥奈と出くわした。
将也はきまり悪さを感じ、一瞬顔をしかめる。
「あ、朝倉さん、おはようございます!」
しかし遥奈は特に気にした様子はなく、今にもぴょんぴょんと飛び跳ねだしそうな高いテンションで笑顔を将也に向けた。
「あ、ああ、おはよう。……この前はすまなかった」
しかし、いくら遥奈が気にしてなさそうでも、謝罪をせずにはいられなかった。
「いえいえ、ってあれ、その人彼女さんですか?」
遥奈は里奈を見るなり、目を細め、白い歯を見せて意味ありげに笑った。
「いや、それは……」
将也がなんと答えたものか考えていると、
「はい。私将也さんの彼女です」
里奈は演技なのか素なのか、将也には判別のつかない笑みを浮かべた。今日の里奈は普段は下ろしている髪の毛を結び、メガネをかけている。
「まあ、じゃあ、そういうことだから」
遥奈に色々聞かれても面倒だ。将也が遥奈の横を通り抜けようとすると、
「……もしかして、三代里奈さんですか?」
「え?」
将也と里奈は同じタイミングで遥奈に顔を向けた。
「やっぱりそうだ」
遥奈は将也が今まで見たことが無いほどに興奮した様子で里奈に駆け寄った。
「え、いや、私は」
里奈が困ったような笑みを浮かべながら遥奈から視線を逸らすと、
「三代里奈さんですよね? その少し低めで真面目そうだけど、実は詰めが甘そうな声……間違いなく三代里奈さんです!」
遥奈は褒めているのか貶しているのかよく分からない事を言いながら、視線を逸した先に回り込んだ。
「……あれだけで分かるなんて、すごいですね」
里奈はごまかすことを諦めたようだ。
「もちろんです! 私、三代さんの大ファンで、出てるアニメは全部チェックしてますから!」
「は、はあ。ありがとう、ございます……」
遥奈は里奈が露骨に引いた表情を浮かべるほどに距離を詰めていき、そして不意に泣き出した。
「信じられない……まさか、こんなところで会えるなんて…………って、あれ、なんで私泣いてるんだろう……すみません、感動しすぎちゃって。私、2人のお邪魔ですよね。失礼しました」
遥奈は鼻をすすりながら涙を手で拭うと、2人から離れていった。
「……なんかすごい子だったね。知り合い?」
遥奈を視線で追っていた里奈は、遥奈が自分の部屋に入っていくのを見届けると、将也に尋ねた。
「同じアパートに住んでるってだけだよ」
将也が歩き出すと、
「それにしてはなんだか親しそうに見えたけど?」
里奈もそれに続き、将也と肩を並べて歩く。明らかに何か探りを入れているように言う里奈に、
「そういう奴なんだよ。妙に社交的で、誰にでも気さくに話しかけてくるような奴、いるだろ?」
別に誤解をされていても困ることはないのだが、無意識のうちに将也は否定していた。
「まあいっか。それにしても、泣くほど嬉しがられるって初めてかも」
結局、里奈はその後もそれ以上は追求してくることはなかった。
その日の夜。将也は部屋の整理をしていた。理由は里奈の荷物が増えたからだ。洋服掛け、収納ボックス、化粧箱、そして浴室にはメイク落としに化粧水と一気に部屋が手狭になってしまった。
今までは1人で住んでいたため、多少散らかっていたところでそこまで困ることはなかった。しかし、里奈の生活用品が置かれたことで少し散らかっているだけで生活スペースが圧迫されるようになってしまい、片付けをする必要に迫られてしまったのだ。
それにやはり散らかった部屋に里奈を住まわせたくないというプライドがあった。広い家に住まわせることができないなら、せめてきれいな家にしたい。
時計を確認すると、21時を回ろうとしていた。もう少ししたら里奈を迎えに行くために家を出なければならない。
以前里奈とまだ付き合っていた頃、里奈を家に泊めることは何度かあった。それでもせいぜい1泊だ。しかし、ここまで生活用品を買い揃えたということは、しばらくここにいるということだ。
そもそもストーカーがいつ諦めるかも分からない。この狭い家でいつまで里奈と一緒に過ごすことになるのだろう。そんなことを考えていると、部屋干しされている洗濯物が視界に入った。
里奈の下着だ。将也は誰も見ていないにも関わらず、知らない人と目が合ってしまったかのように目を背けた。自分の家の中だというのに、見るのが憚られるモノがぶら下がっているというのは落ち着かない。
1人アルコール度数の高い缶チューハイを飲みながら、眠気が来るまでだらけるという生活がよかったとは決して思わないが、そんな生活は里奈がいる以上はできなさそうだ。そう思うと無性に恋しくなってくる。
手が止まってしまっていた将也が掃除を再開しようとすると、インターホンが鳴った。最近はこんな時間でも宅配便が送られてくることがある。きっと里奈が何か注文したのだろう。将也がディスプレイを確認すると、そこには遥奈が立っていた。
居留守を使うか将也は悩んだ。誰にでも分け隔てなく社交的に接してくる遥奈が、将也は苦手なのだ。だが、結局立ち上がり玄関に向かった。
「どうした?」
ドアを30度ほど開けて隙間から遥奈に尋ねると、
「朝倉さんにお願いがあるんですけど」
テンションが高かった午前中とは打って変わって、真剣な表情で将也を見据えた。遥奈は将也より背が低いため、自然と見上げる姿勢になる。
「なんだ」
嫌な予感しかしなかったものの、将也はとりあえず遥奈に尋ねた。
「私と、三代さんが仲良くなる協力をしてください!」
「断る」
将也が即答してドアを閉めようとすると、
「ま、待ってください!」
遥奈はドアの間に足をねじ込み、閉めるのを阻止した。
「なんで俺がそんなことする必要があるんだ。足を離せ」
「足が抜けません! ドアを開けてください!」
「開けたらお前入ってくるだろ」
どう考えても遥奈は入って来る気満々だ。
「入らないから開けてください!」
「絶対入ってくるだろ!」
「入りません! 信用してください! というか足が痛いです! このままじゃ折れちゃいます!」
遥奈が履いているのは押し売りのセールスマンが穿いているような革靴ではなく、大きな穴の空いたクロッグサンダルだ。ドアに足を挟まれたら間違いなく痛いだろう。
思わず将也が手の力を緩めてしまうと、その一瞬のスキを見逃さなかった遥奈は家の中に滑り込み、後ろ手で鍵をかけた。
「ふふ、これで、もう逃げられませんね?」
遥奈は口の端を釣り上げ、不敵な笑みを浮かべながら将也に詰め寄る。
「不法侵入だぞ」
しかしここで折れるわけにはいかない。家に押しかけてきてまで頼みたいだなんて、ろくでもないことを考えているに決まっている。将也はあくまで冷静な態度を貫こうとしたものの、次の遥奈の一言で将也の決意は一瞬で崩れてしまった。
「……私にそんな口利いていいんですか? 『人気声優三代里奈熱愛!』ってどこかに垂れ込んじゃってもいいんですよ? 私はここのアパートの住人ですから、2人がどんなに気をつけても一緒にいるところを写真に収めることは難しくありませんよね?」
「なっ」
遥奈は後ろで両手を組んでわざとらしく首を傾げ、上目遣いで将也を見た。しかし目は笑っておらず、普段の遥奈とはまるで違う低い声で、そのちぐはぐさに将也は不気味さを感じた。
事実、遥奈の言うことには一理ある。どんなに気をつけていても、四六時中辺りを注意するわけにはいかない。そして、遥奈はそんなことはしないと言い切れるほど、将也は遥奈の事を知らないのだ。
将也は身長175センチ、対して遥奈は156センチだ。それだけ身長差があるにも関わらず、遥奈は怖気づいているどころか、自分が捕食者で将也が被食者のような振る舞いだ。将也は見上げられているというのに、見下されているような威圧感を抱いた。
「お前は、何が目的なんだ」
将也は威圧感を弾き返すように、声を張った。
誰だって有名人とお近づきになりたいという思いはあるだろうが、遥奈は脅迫をしてまで里奈と関わりを持ちたいと思っている。その異常さに、将也も警戒を抱かずにはいられなかった。
「それを答える義務はありません。協力してくれるんですか? それとも、してくれないんですか?」
相変わらず遥奈は感じの良さそうな笑みを浮かべているが、得体の知れない不気味さは増していく一方だ。
ここで遥奈の要求を受け入れたら、里奈に迷惑がかかってしまうかもしれない。だが、この状態でうまく断る方法も思いつかない。ここは一旦受け入れておいて、後から考えるしかなさそうだ。
「……分かった。できる限りのことはやる。だけど、仲良くなれるかどうかはお前次第だ。それでいいか?」
協力はすると約束はするものの、上手くいくかどうかまでは保証しない。これならば失敗したとしても言い訳はできる上、里奈への影響も少なく済ませられる。
「ありがとうございます。さすが朝倉さん! 頼りになります」
遥奈はいつもの表情に戻ると、将也の手を取った。見慣れた笑顔のはずなのに、今の将也には何を考えているのかわからない、不気味な表情にしか見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます