同衾

 里奈は将也の家に上がるなり、「うわ、きたな……」と呟いた。しかしその声は動物園で珍獣を前にした子供のように楽しそうだ。

「……あんまり見るんじゃない」

 将也は手早く床に投げ散らかされていた服を拾い上げると、洗濯機に放り込み、チューハイの空き缶をゴミ袋にまとめていく。

 将也の住む部屋は1Kだ。ドアを開けてすぐに台所とユニットバスが左右にあり、その奥に進むと6畳の部屋がある。置かれていて目立つものは、ベッドと机の上に置かれた、もう5年も使用しているノートパソコンしかない。

「あ、この電子レンジ、まだ使ってるんだね」

 里奈は将也の言うことを無視し、冷蔵庫の上に置かれている電子レンジのドアを開いた。昔はもう少しきれいだったものの、掃除をすることがまったくないので、中は茶色い油がこびりついている。

「懐かしいな。昔これでココア温めたりしたよね」

 里奈は微笑を浮かべながらドアをしめた。

「そんなこともあったな」

 将也はゴミ袋の口を縛ると、三和土に置いた。あの頃ははっきりとした根拠があるわけでもないのに、『喉にはココアだ!』と寒い季節になると里奈が家に来るたびに2人はココアを飲んでいた。当時のことを思い出すと恥ずかしくなってくる。

「うん」

 里奈は電子レンジの前を離れ、奥の洋室に足を踏み入れた。

「あ、昔と全然変わってないんだね」

 里奈の後を追って入ってきた将也に向かってそう言った里奈の表情は、かつて2人が付き合っていた頃の記憶の映像と、今この瞬間の部屋の光景を重ねているように見えた。

「よく覚えてるな。まあ、家具を買い換える金もないからな」

 将也は里奈の右後ろで壁に背中を預けながら鼻で笑う。

「うん、覚えてるよ。私の大事な思い出だからね」

「っ……」

 しかしそんな皮肉は里奈には効かなかったようだ。里奈はベッドに腰を下ろすと、

「懐かしいなあ。ここで肩を並べて台本の読み合わせしたりしたよね」

 上体を後ろに倒し、両腕で体を支えながら頭上を見上げる。

「……思い出話はもういいか?」

 将也は収納からタオルと昔使っていたジャージを乱暴に引っ張り出すと、ベッドの上に放り投げた。

「あ、そうだね。将也にはあまり気分のいいものじゃないよね……ごめん。お風呂、借りるね」

 里奈はタオルとジャージ、コンビニで購入したお泊りセットを手に浴室へ向かっていった。

 将也は里奈が部屋を出ていったのを見届けると、普段の定位置であるベッドの上に倒れ込み、楽な姿勢でスマートフォンを操作しはじめた。普段ならこれで1時間は軽く潰せるというのに、今日は全く気晴らしにならず、ベッドの脇に放り投げた。

 そのまま手持ち無沙汰に天井を眺めていると、浴室からはシャワーの音と、鼻歌が耳に入ってくる。自然と「今も鼻歌を歌うのか」と自然と昔のことを思い出してしまっていた。

「……すまん」

 将也は体の右側を下にすると、壁に向かって小声で呟いた。子供みたいな態度を取ってしまった自分が恥ずかしい。里奈はこんなクズとの思い出を今でも大事に思ってくれているという事実に、申し訳なさから消えたくなってくる。

 里奈は別に頼れる人間は他にいくらでもいるはずだ。つまり、わざわざ自分に頼ってくるということは、きっとまだ自分の事が好きなのだろう。そうでなければ、かつては付き合っていたとは言え、恋人でもない男の家に泊まり込もうなんて思わないはずだ。

 だが、里奈が好いてくれた自分はもうどこにもいないのだ。それに人気声優をこんな狭くて汚い家に住まわせるなんて、情けない。


「……さや。お風呂上がったよ」

 いつの間にか寝てしまっていた将也は、頭上からの里奈の声で目を覚ました。

 将也の視界にジャージを着てメイクを落とした里奈が映り込む。

「どうしたの? あ、メイク落として別人だなって思ったとか?」

 将也は里奈が困ったような笑みを浮かべるほどに、里奈の顔を注視してしまっていた。それは、記憶の中の里奈とほとんど変わらなかったからだ。

 おかげで里奈と過ごした記憶が蘇り、胸の奥が詰まるような、ただ決して不快ではない感覚を将也は抱いていた。

「じゃあ、俺が入る」

 さっきまで懐かしんでいた里奈にきつく当たっていたというのに、自分も懐かしさに浸りそうになってしまった。将也は後ろめたさから里奈と目を合わせようとせずにベッドから起き上がると、風呂場へ向かっていった。


 将也は風呂から上がると、髪の毛が生乾きの状態で冷蔵庫を開けた。中にはアルコール度数の高い缶チューハイが3本入っているだけだ。将也はそのうちの1本を取り出すと、ステイオンタブに爪をかけた。

「あれ、何飲むの?」

 浴室の洗面台に向かおうとしていたのか、将也の元へ向かって歩いてきた里奈は歯ブラシを口から離し、将也が手にした缶チューハイに視線を送る。

「……それ、あんまり体に良くないやつだよね。よく飲んでるの?」

 将也が答える前に、里奈は何だか分かったようだ。将也が缶チューハイを飲むことをあまり快く思っていないのが声から伝わってくる。

「まあ、たまに」

 本当は毎日のように飲んでいるのだが、正直に答えても非難されるだけだ。将也は「たまに」という曖昧な表現で答えた。

 里奈の「体に良くないやつだよね」の一言に飲む気をなくしてしまった将也は、持ち上がってしまったプルタブを指で押さえつけると、再び冷蔵庫に戻した。以前遥奈にも似たようなことで注意されたことを思い出してしまい、ついドアを閉める力が強くなる。

 アルコール度数の高いチューハイは体に良くないことは将也も当然知っている。アルコール度数とは裏腹に味付けがジュースのように甘いため、速いペースで大量に飲めてしまう上に値段もそこまで高くない。おかげで病気になってしまったり、アルコール依存症になってしまうリスクが極めて高いのだ。よって毎日のように飲むものではない。

 しかし、気がつけば里奈に指摘されるまで、当たり前のように缶チューハイを飲もうとするまでに習慣になってしまっていた。その事実に、風呂上がりだと言うのに肌寒さを感じずにはいられなかった。


 10分後。

「……もう寝るぞ」

 将也は部屋の端に畳んであった冬用の布団を床に広げると、部屋に入ってすぐのところにあるスイッチに向かった。

「あれ、一緒に寝ないの?」

 ベッドの上でペンを片手に台本を読んでいた里奈は顔を上げると、将也に視線を向けた。

「寝るわけないだろ」

 将也がスイッチをオフにすると、外から差し込むわずかな光で部屋に置かれているものの輪郭が何とか分かる程度に部屋が暗くなる。将也は布団に戻ると、里奈に背を向ける格好で横になった。

「そんな薄い布団じゃ体痛くなっちゃうよ?」

 背中越しに里奈の心配そうな声が聞こえてくるが、無視して瞼を閉じる。その後も背中に視線を感じるが、それでも無視して1秒でも早く眠りに落ちられるように、脳の奥に意識を集中させる。

「……」

 将也は里奈がベッドから降りた気配を感じた次の瞬間、将也の背中は何か柔らかいものを感じた。目を開けるまでもなく、漂ってくる柔らかい香りから、里奈だとすぐにわかった。久しぶりに感じる里奈の体温に、将也の心拍数は上がり始める。

「おい、夜はまだ冷えるぞ。ベッドに戻れ」

「将也があったかいから大丈夫」

 里奈はベッドに戻ること無く、将也に絡みついている手の力を強める。

 おそらく明日も里奈は仕事があるだろう。固い床で寝てしまっては仕事に影響が出てしまう。自分のしょうもないプライドに付き合わせて足を引っ張りたくなかった。

「……はぁ、分かったよ。ベッドで寝ればいいんだろ」

 2人は起き上がると、上から見て里奈が右、将也が左でベッドに横になった。狭いシングルベッドなため2人の距離は近くなってしまい、将也は体の右側を下にして里奈から背を向けた。

「……将也の匂いがするね」

 不意に里奈は掛け布団を鼻の近くまで引き寄せると、匂いを嗅ぎ始めた。

「まあ、そりゃそうだ」

「懐かしい匂い。安心するな」

「やめろ」

 恥ずかしくなってきた将也は布団を被り直した。しばらくはこのような生活を送るのかと思うと、眠れる気がしなくなってくる。それでもなんとか意識が霧のように散っていくイメージをしているうちに、意識が徐々に遠のいていった。

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