再開
三代里奈(みしろりな)はスタッフからセリフの印刷された紙を渡されると、目を通し始めた。頭の中で場面を思い描き、もし自分がそのような場面に遭遇したらどのような変化が起きるかを、理屈ではなく、感覚でイメージする。このキャラと自分はどこが違っていて、どこが似ているのだろう。このセリフをかける相手のことをどう思っているのだろう。
そんな疑問を自問自答しているうちに、いつの間にか頭の中でスイッチが切り替わっている。うん、いける。
里奈は収録ブースに入ると、ガラス越しにこちらを見ている男性たちに向かって笑みを浮かべた。その中には何度も顔を合わせたことがある音響監督がいた。
「イーマックス所属、三代里奈です。佐倉華をやらせていただきます」
そう一言言うと紙に目を落とし、セリフを読み始める。
「あなたって、生まれつきそんなに鈍感なの? 私、あなたのこと大嫌いなんだけど。話しかけないでくれる?」
「私、あなたのこと大嫌いって言ったこと覚えてる? あはは。そりゃ覚えてるか。……信じられないよね。今ではこんなにもあなたのことが……好き」
違う場面のセリフを連続して読み上げていく。里奈が演じた佐倉華は、人気ラブコメマンガ、『2000日後の花嫁』のメインヒロインだ。主人公とは最悪の出会い方をしてしまい、しかも2人は許嫁だということが判明する。最初は主人公を汚物のように扱っていたのに、徐々に惹かれていく、という王道ストーリーだ。
里奈はすべてのセリフを言い終えると頭を下げ、収録ブースを後にした。時間にして5分も経っていないにも関わらず、それでも緊張から背中には汗が滲んでいる。
「三代さん、お疲れさま」
ブースの外で待っていたマネージャーの久保翔(くぼしょう)がねぎらいの言葉と共にミネラルウォーターを渡してきた。年齢は里奈の一回り上の35歳で、短くアップバングにした髪型も相まって、営業マンのような風貌をしている。
「ありがとうございます」
里奈は受け取るとその場で開け、一口飲んだ。緊張で熱くなっていた体が冷えていくのを感じる。心地よい。
「今日も調子良さそうだね」
「そうですね。手応えはあった気がします」
里奈は手にしたペットボトルのキャップを締めながら言った。
「ところで全然話変わるんだけど、三代さんって今彼氏いたりするの?」
「え?」
真顔で本当に全然違う話を振ってきた久保に、里奈は固まった。久保は悪い人ではないが、そういう対象には見られないし、そもそも今は誰とも付き合う気はない。
「竹沢彩美って知ってるでしょ。彼女ドル売りしてたのに彼氏と歩いてる所すっぱ抜かれちゃったじゃん。三代さんはドル売りしてるわけじゃないけど、写真集とか出してるしやっぱりその辺り今一度気をつけてほしいなって思って」
「あ、はい。大丈夫です。今の所誰とも付き合うつもりはありませんから」
早とちりしてしまった恥ずかしさをごまかすように、里奈は満面の笑みを浮かべた。
「よかった~。それなら安心だね!」
久保は胸に左手を当ててため息をついた。その薬指には結婚指輪がはめられている。
里奈は今年で4年目を迎える23歳の若手声優だ。養成所1年目に事務所所属を果たし、4年目という短いキャリアにも関わらず、今では多忙を極める人気声優になった。
里奈の風貌でまず目が行くのは、肩甲骨にまでかかる長い黒髪だ。前髪は水平に切りそろえられたいわゆる『前髪ぱっつん』で、そんな男オタク受けのいい見た目も手伝い、おかげでファンの9割は男性だ。
見た目に助けられている一面もあるが、彼女が今の地位を得ることができたのは別のところにある。
「あれ、そういえば隣でも何かやってるんですか?」
里奈は隣のブースでもスタッフが出入りしている事に気づき、マネージャーに尋ねた。
「ああ、あっちは『俺は彼女に嫌われたい』のオーディションだったかな?」
『俺は彼女に嫌われたい』は、主人公がなぜか最初から自分に対して好感度が高いヒロインに嫌われるため、様々な手段を尽くす。という作品だ。
最近流行の、最初から好感度が高いヒロインが登場するラブコメをあざ笑うようなストーリー展開が人気を博し、今回里奈がオーディションを受けた『2000日後の花嫁』と同じクールにアニメ化されることが決まっている。
「私、あっちにも参加してきます」
「え、三代さん、ちょっと!」
マネージャーの静止をまるで意に介すること無く、里奈はドアを開けると、収録ブースに入っていった。当然、里奈は『俺は彼女に嫌われたい』のオーディションには呼ばれていない。
「あれ、君は……三代さん?」
突然入ってきた里奈に、コントロールルームにいた男が尋ねた。里奈は男に見覚えがあった。何度か収録で顔を合わせたことがある音響監督の照井だ。
「私もオーディションに参加させてください」
「そう言われても、今ちょうど終わったばかりなんだよなあ……」
照井が弱ったように腕を組んでいると、
「ああ! 三代里奈さんじゃないですか! 照井さん、三代さんも特別にオーディションを受けさせてあげてください。……あ、僕、原作者の五代良太って言います。実は三代さんの大ファンで……よかったら後でサイン書いてもらってもいいですか?」
突如照井の横に駆け寄ってきた長髪の痩せた男が『俺は彼女に嫌われたい』の原作者のようだ。
「う~ん……まあ、五代さんがそういうなら、いいでしょう」
照井は腕を組んで渋い表情をしていたものの、こうして里奈は飛び入りでオーディションに参加することになった。
里奈がセリフを読み終え、2人に向かって頭を下げると、
「あああ……生の三代さんの声を聞けて感動です。もう、どう考えてもあやねの声は三代さんしか考えられないですよね?」
五代は隣の照井の目を見ながら言った。疑問形で尋ねているが、照井も同じ考えだと自信を持っているようだ。
「もちろんです。今日初めて意見が合いましたね。私も同意見です」
照井は五代に手を差し出し、2人は固い握手を結んだ。
「後で改めて事務所に連絡しますが、先ほどセリフを読んでいただいた倉敷あやねは、三代さんにお願いしたいと思います」
「ありがとうございます」
里奈はガラス越しに興奮した様子の2人に向かって頭を下げた。この貪欲さが、里奈を今の地位へ押し上げたのだ。
「実は、三代さんが来るまでは坪江千尋さんにするか照井さんと揉めてたんですが、三代さんの演技を聞いたら、もうあやねの声は三代さん以外考えられなくなりました! 坪江さんと三代さんでは声質が違うのに、三代さんの演技を聞いた瞬間、僕の頭の中のあやねの声が三代さんに更新されちゃいました! やっぱりプロの声優ってすごいですね」
コントロールルームとブースを隔てるガラスに顔を押し付けそうな勢いで熱く語る原作者の五代に引きながらも、里奈は「そう言っていただけると嬉しいです。頑張ったかいがありました」と笑みを浮かべながら理想的な模範解答で応えた。
里奈は笑みを浮かべながらも、以前事務所で聞いた話を思い出していた。
『坪江千尋は声優から足を洗うことを考えている』
もしかしたら、自分が役を奪い取ったことで坪江に引導を渡してしまったかもしれない。しかしここはそういう世界なのだ。手を抜いたら、次に食われるのは自分だ。里奈は、胸の奥に抱いた罪悪感を振り払うようにブースを後にした。
オーディションを終えた里奈は自分が所属している事務所が入っているビルに来ていた。この事務所は里奈がかつて通っていた養成所から駅に向かう途中にある。
養成所に通い始めたばかりの頃、事務所の前を通りかかるたびに「いつかここに所属声優として足を踏み入れることができたらいいな……」と思っていたことを思い出す。
本当にその夢を果たし、初めて中に入ったときは異世界へのドアをくぐり抜けたような心地だったが、慣れてしまった今となってはただの年季の入ったビルでしかない。
事務所のある3階にたどり着き、里奈がドアノブに手をかけようとすると、ドアが開いた。出てきたのは、里奈がオーディションで役を奪い取った坪江千尋だった。
「あれ、里奈? お疲れ様」
坪江は一晩徹夜したかのような精気のない顔で笑みを作った。動かない筋肉を無理やり動かしたような笑顔が痛々しい。
「あ、お疲れ様です」
里奈は動揺している自分を隠すように、声と笑みを作って返した。
坪江は里奈の5つ上の28歳だが、デビューはほぼ同時期だ。そんな事情もあり、仕事で一緒になると食事に行くこともあったりと、比較的仲のいい女性声優の1人だ。
坪江は日頃から言っていた。この業界は食うか食われるか。私はあなたと役の取り合いになっても遠慮しないし、あなたもしなくていい。
事実、里奈は坪江と過去に役を奪い合いになり、破れたこともある。だがそれは過去の話で、里奈が着実に役を勝ち取っていく中、坪江はオーディションに勝ち抜けなくなっていった。
里奈自信も、遠慮しては生き残れない業界だと分かっているし、今までも顔見知りがいるからといってオーディションの手を抜いたことは一度もない。それでも、引退を考えていると噂されている同期の声優から役を奪い取った直後に会いたくはなかった。
「私ね、声優をやめることにしたの」
やはり、噂は本当だったようだ。思ったよりは驚かなかった。だが、里奈は言葉が見つからず、表情から笑みを消して坪江の次の言葉を待つことしかできなかった。
「……最近はせいぜいモブ役くらいしかやれてないし、私もいい年だから、いい頃合いかなって。今日のオーディションもダメだったしね」
坪江は寂しそうな笑みを浮かべながら、事務所の名前が書かれているドアへ視線を向けた。
「いい頃合いって、坪江さんはまだ若いじゃないですか。キャリア的にも、これからです」
年下の人間にこんな事を言われても、馬鹿にされていると思われるだけかもしれないと一瞬脳裏によぎったものの、里奈は言わずにはいられなかった。
確かに坪江は役に恵まれず、対して自分は着実にキャリアを積むことができてはいるが、自分と坪江の実力に差があるとは思えない。どんなに努力を尽くしても、結果がついて来ない時期はどんな世界でもあるのだ。
「ありがとう。だけど、決めたことだから。ずっとこの仕事で食べていくことは叶わなかったけど、子供の頃の夢が短い間だけど叶ったし、それで、満足……かな」
坪江の目尻からは涙が滲み始め、坪江は指でそれを拭った。
里奈は何も言い返すことはできなかった。きっと坪江も、もう少し頑張ったら役を貰えるようになり始めるかもしれない。と悩んだかもしれない。しかし、そんな実現するかどうかも分からない未来は、今この瞬間を耐え続けられるほどの力は与えてくれない。
「これからは、どうするんですか?」
「しばらくは今のバイトを続けて、彼と結婚かな。引退しちゃえば『一般の方』なんて変な言い回しもいらないしね」
相変わらず寂しそうな表情だったが、軽口を叩けるようになったあたりからして、出くわした直後よりも元気が戻ってきたようだ。
「あ、そうなんですか。……というかいつの間にか相手作っちゃってるなんて、ちゃっかりしてますね」
里奈も坪江の調子に合わせて軽い口調で言う。2人の間を流れる空気が軽くなっていく。
「そうなの」と坪江は表情を緩ませると、
「じゃあ、私は声優をやめちゃうけど、里奈はこれからも頑張ってね。応援してるから」
里奈に手を振り、階段に向かって歩いていった。
残された里奈は坪江が去っていった階段に視線を向ける。最初ははっきりと聞こえていた坪江が階段を歩く音が徐々に聞こえなくなり、遠くから聞こえる車の音以外何も聞こえない静寂が訪れた。
今頃になって、他に話すことがあったのではないかという考えが里奈の頭の中で生まれ始めていた。あなたの役を奪ったのは私ですとか、もう少しだけ声優を続けてみないかと粘ってみるとか。
しかしすぐにそんなことに意味はないと思い直し、一度深呼吸をして心を落ち着かせると事務所のドアを開けた。
中には見知ったスタッフ、先に事務所に戻っていたマネージャー、そしてかつて里奈と養成所で同じクラスだった岸健史が彼の担当マネージャーと何かを話していた。
健史もまた、里奈があまり会いたくない1人だ。手早くここを後にしたほうがよさそうだと判断した里奈は速歩きでマネージャーの元に向かい、話を必要最低限で済ませると事務所を後にした。
「里奈!」
里奈が階段を降りようとすると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。振り返るまでもなく、健史だとすぐに分かった。
「これからちょっと空いてるか?」
健史は駆け足で里奈に追いついた。
聞く者の胃袋まで震えているのではないのか、と思うほどの自慢のバリトンボイスが響き渡る。
年齢は里奈の3つ上の26歳。髪の毛は短く、黒縁のメガネというスーツが似合いそうな風貌をしている。決して美形というわけではないが、自分が自分であることに疑いを抱いていない自信に溢れた目つき、そして色気のある低い声と相まって女性ファンが多い。
里奈は健史に一瞬だけ振り向き、
「ごめんなさい」
そう一言答えると、階段を降りる速度を早めた。
健史以外から誘われたなら「これから用事があって」が付け加えられるのだが、何度断っても今回のように心折れること無く誘ってくる健史には、いつの間にか「ごめんなさい」の一言しか返さないようになっていた。
そして、断ってもしつこくついてくるのもいつもどおりだった。
「里奈、どうしてもダメか?」
健史も階段を降りる速度を早め、里奈に追いついた。
「……」
里奈は返事の代わりに視線を落とし、ペースを落とすこと無く歩き続ける。
何度断っても、諦めること無く健史は誘ってくる。間違いなく自分に好意を持っていることに里奈はとっくに気づいていた。もちろん気持ちはありがたいし、健史のことが嫌いなわけではない。
だが、それに応えることはできない。今は特定の誰かと付き合うという気になれないから。
健史は一旦は諦めたように立ち止まると、
「……分かった。また誘う」
里奈の背中に向かって言った。
それに対して里奈は特に反応することなく、階段を降りていった。
里奈は事務所を後にして3分ほど歩くと立ち止まり、ビルの間から見える夜空を見上げた。時刻は21時を過ぎているが、その割に星は全く見えない。地元の夜空に比べると、東京の夜空はただの濃い灰色でしかない。
そんなことを考えていると、地元が恋しくなってくる。しかし、今帰るわけにも行かないし、一時帰省するような時間もない。
上京してきて早5年目。声優の仕事は増えていく一方で、それ自体はいいことだ。だが、グラビアを撮ったり、トーク番組に出演したりと演技とは関係ないタレントの仕事も同じように増えていく。
もちろんそれらの仕事は楽しいし、現代の声優は人気商売という一面もあるから仕方がないというのも分かっている。だが、自分の本業は役者であり、今の人気は見た目と若さに助けられている。だから、それらを使い切った時に年齢相応の演技力を伴っていなかったらと思うと怖くてたまらない。
だからといって演技だけの仕事だけしたいというのはワガママだと自分を納得させ、再び歩き出そうとしたところでカバンに入れていたスマートフォンが震えた。カバンから取り出して通知を確認すると、思わずため息が出てしまう。母親からのメッセージだ。
里奈が声優の仕事を快く思っていない両親は事あるごとに里奈に「地元に戻ってこい」や「お見合いをしろ」と言ってくる。
もちろん、両親の親心も分かる。声優という仕事は不安定だ。今は同年代と比べて遥かに稼いでいるものの、将来はどうなるか分からない。とは言ったものの、正直な所余計なお世話だ。
だが、無下にする訳にも行かず、こうしてメッセージが届くたびに気が重くなってくる。
カバンにスマートフォンを戻して再び歩き始めてしばらく経ったところで、ふと、後ろに気配を感じた。
もちろんここは東京。自分以外に誰も歩いていない場所なんてそうそうない。だが、里奈が歩いているのは副都心でも夜になると人影が一気に減るエリアだ。自分の後ろをずっと誰かがついてきている状況は異常な上、最近自分が後をつけられている気配を頻繁に感じる。
後ろを振り向いて確認するべきだが、怖い。気のせいであってほしかった。しかし、振り向いて確認をしないと気のせいかを断定することはできない。
里奈は決意を固めた。何食わぬ顔で歩いているのを装いながら、前触れもなく後ろを振り向いた。
いる。はっきりとは人影を確認することはできなかったが、何者かが陰に引っ込んだのが見えたのと、靴で砂利を踏み鳴らす音が聞こえた。6月だというのに、里奈の全身を寒気が通り抜ける。
里奈は向き直り、走り始めた。幸いなことに、里奈がいるのは少し歩けば大きな駅まですぐの場所だ。人混みに紛れ込んでしまえば撒くことができる。
なぜ自分は今こうして走っているんだろう。どうして私なんだろう。自分はただの声優でしかないのに、どうしてストーカーに遭わなければならないのだろう。
走りながら里奈は頭の中で何度も叫んでいた。
雀荘を後にした将也はポケットに手を突っ込み、背中を丸めながら歩いていた。
1度大きく負けた時にやめておけばよかった。何回か打ってすぐやめるつもりだったのに、気がつけば熱くなってしまい、低レートで打ったとは思えないほど財布が軽くなってしまっていた。
いや、そもそも無職なのに雀荘に行っている事自体がありえない。後悔の念から自然とため息が出てしまう。
将也が歩いているのはターミナル駅のすぐ近くということもあり、すでに21時半だというのにまだ人通りは多い。今日は平日。おそらくほとんどの人達が遅くまで働き、家に向かう途中なのだろう。
こんな有象無象の1人になりたくない。そう思ってかつては声優を目指したはずなのに、今では道行く人たちが羨ましい。彼ら彼女らと比べると、今の自分は孤独に雑草すら生えていない荒野を好き勝手に歩いているようなものだ。そこからは何も生まれない。
しかしそれなのに今更あのような生活が送れる気はしないし、羨ましいと思っているはずなのにあのような生活を送りたいとは思えない。声優という夢を未だに諦めきれていない証拠だ。
バイトもクビになり、わずかに残っていた貯金残高もダメにした商品の弁償と麻雀で大負けしたことでほとんど消えてしまった。両親とは声優を目指すと話してから絶縁状態。
もう死ぬしか無いかな。そんなことを考えてしまう。しかしそんな度胸はない。
「とりあえず……帰るか」
道行く人たちを眺めているうちにいつの間にか立ち止まってしまっていた将也が再び歩きだした瞬間。
「あ!」
「え!?」
何かから逃げるように走っていた若い女性とぶつかってしまった。体格のいい将也にぶつかった女性は弾かれたように地面に倒れ込む。何人かが将也達に視線を送ったものの、すぐに見てはいけないものを見てしまったかのように素早く視線を戻し去っていく。
将也は思わず舌打ちしたくなってしまったのをこらえた。何事もなかったかのように立ち去ることもできないし、手を差し出しても文句を言われたりと面倒なことになりそうだからだ。
しかし結局「すみません。大丈夫ですか」と中腰になり、手を差し出した。
「いえ、こちらこそ……」
相手の女性も将也の手を取ろうと手を伸ばす。
女性と目が合った瞬間、将也は顔に見覚えがあることに気がついた。
「……里奈?」
三代里奈。ここ最近出演本数が増える一方の人気女性声優であり、かつて将也の恋人だった女性。当時の面影は残っているものの、服装も、髪型も、メイクも将也と付き合っていた頃より洗練され、昔より遥かに美しくなっている。
元々整っていたが自信のなさそうな顔つきはメイクのおかげか、キャリアを積んだおかげか、冷静さと静かな自信を感じさせるものに変わり、昔から変わっていない指通りの良さそうな長い黒髪はこれ以上の完成形は無いと思えるほどにセットされている。
「え、将……也?」
里奈も気づいたのか、困惑した表情を浮かべ、将也の手を取ろうとしていた右手は途中で止まり、下がっていく。
将也は里奈に手を貸すのを止め、背を向けてその場を立ち去ろうとした。だが、1人で立ち上がった里奈は小走りで将也の前に立ちふさがる。
「将也、待って」
「……もう俺たちは何でも無いんだ。こんなところ週刊誌にでもすっぱ抜かれたら困るだろ」
将也は里奈の横を通り抜けようとしたが、里奈は両手で将也の左腕を掴んだ。
「将也、行かないで。お願いだから。私、誰かに後をつけられてるの」
その声は震えていた。
「なんだって」
聞き捨てならない一言に将也は立ち止まると、里奈に視線を向けた。
「本当なのか?」
将也がそう尋ねると、里奈は暗い表情で小さく頷く。
「マネージャーには相談したのか?」
里奈はうつむき加減で首を左右に振る。
「なんでしないんだよ」
「ストーカーに遭ってるなんて……言えない」
里奈の声は今にも泣き出しそうだ。
将也は苦々しい表情を浮かべながら里奈から視線を外し、頭をかいた。見た目は恋人関係にあったころとは随分変わったが、他人に迷惑をかけることを嫌がる性格は変わっていないようだ。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
将也の口調が刺々しくなる。困っていて、頼れる相手がいるのならば素直に頼ればいい。自分には頼れる人間がいないというのに、自分勝手な理由で1人で抱えきれない悩みをどうにかしようとしている里奈に、いらつかずにはいられない。
そんな将也に、里奈は信じられない一言を言い放った。
「しばらく家に置いて」
「……は?」
予想外の里奈の一言を将也は一瞬理解できなかった。家に置く、つまり、家に泊まる……。
無意識のうちに、足の踏み場はあるものの、机や台の上がまさに『物置き』になってしまっている、お世辞にも片付いているとは言えない部屋の状態を頭の中に映し出していた。
「いや、ムリだよ」
将也が反射的に拒否すると、
「一方的に理由もなく私を捨てたのに?」
里奈は将也の体が一瞬強ばる程の低い、非難の込められた声と共に将也を睨みつけた。
「それは……」
将也は言い返すことができず、口ごもる。実際、直接話しもせず突如別れを告げたのは自分なのだから。だが、それはそれ、これはこれだ。
「それについては悪かったと思ってる。だけど、ムリなものはムリだ。家までは送ってやる。それで勘弁してくれ」
「どうしても?」
なおも食い下がる里奈に、
「俺たちはもう付き合っていないんだ」
将也は突き放すように言った。
「だけど、知らない仲じゃ」
「そういう問題じゃないんだ」
将也は里奈の手を振り払い歩き始めた。
里奈は『将也が考え直してくれるかも』という希望的観測を抱いているのか、将也の背中に視線を送りながらその場に留まっていたものの、結局小走りで将也に追いつくと、肩を並べて歩き始めた。
「そういえば、最寄り駅はどこなんだ?」
里奈が追いつくと、将也は尋ねた。
「……だよ」
不本意なのが分かる小さな声で告げられた駅名は将也には聞き覚えのないものだったが、里奈が路線名を補足すると大体の場所を把握することができた。
2人はそのまま無言で歩き続け、見上げると『南口改札』という案内が見える距離まで来たところで、将也は急に立ち止まった。将也の後ろを歩いていた通行人が迷惑そうな視線を将也に向けながら横を通り抜けていく。
「どうしたの?」
先に進んでしまっていた里奈はUターンし、将也のもとに歩み寄った。
将也は里奈の問いに答えること無く、道の端に移動して財布を取り出すと、中身を確認し始めた。
財布の中には、140円しか入っていなかった。
将也は今日改札を出た時の残高を覚えていた。どう考えても、里奈を最寄り駅まで送り届けられるほどの残高は残っていない。そして、銀行の残高は不足分を下ろすのすら惜しいほどしかない。
「……もしかして、お金ないの? それならどこかで」
「そんな余裕もないんだ」
心配そうに表情を伺う里奈に、将也は食い気味に答えた。
「冗談、だよね?」
「本当だよ」
信じられない、といった様子の里奈に将也が即答すると、
「……将也、ちゃんと生活できてる?」
里奈の表情は、睨みつけるような真剣なものに変わっていた。
「できてるよ」
「嘘。服もよれてるし、肌も昔と比べて荒れてる。ちゃんと生活できてる人の格好じゃない」
将也が里奈の視線に耐えきれず、目をそらしながら答えると、今度は里奈が食い気味に将也の答えを否定した。
「っ……」
いたたまれず、無意識のうちに将也は地面に視線を落としていた。それでも、里奈が自分に非難の視線を送っていることが伝わってくる。
「そんなこと、お前には関係ないだろ」
「あるよ。このままじゃ私家まで送ってもらえない」
なんとか言葉を絞り出し反撃を試みるも、即座に潰される。
「…………貯金は全然ないし、バイトもクビになった」
頭の中で何度も言うべきか言わないべきか考えた末、将也は正直に話すことにした。
こんな恥ずかしいこと、言いたくはなかった。かつては同じスタートラインに立っていたはずなのに、気がつけば里奈は手が届かないどころか、目を凝らしても背中すら見えないところに行ってしまった。
対して自分は声優の道を諦めてから完全に腐ってしまった。気持ちを切り換えて違う道に進もうともせず、現実を受け入れることを拒否して、好きでもない仕事を淡々とこなす苦痛だけで成長もなにもない、生きたくても生きることができない人に人生を譲ったほうが遥かに有意義な、まさに人生の無駄遣いの日々。
だがそれと同時に、誰にも認知されていない、成長する意欲もないゴミのような生活を送る自分を、誰かに知ってほしい。そんな思いもあった。
「そっか」
里奈は両手を腰に当て、小さくため息をついた。そして将也を見つめ直すと、
「じゃあ、これならどう? 出世払いでお金を貸してあげる。その代わり、しばらく家に置いて」
「はぁ?」
将也が反射的に里奈に振り向いてしまうような事を言い放った。
「大丈夫。私、将也が思ってる以上に稼いでいるから」
視界の先には、真顔でこともなげに言う里奈がいた。
「いや、そういうことじゃなくて」
うまく言い返すことができず、将也は言葉を濁した。
「そういうことじゃないなら、どういうことなの?」
「それは」
将也にとって、里奈に金銭的負担が発生することはどうでもよかった。それより問題なのは、里奈と生活を共にすることだ。過去に里奈が家に泊まりに来ることはあったとはいえ、1日2日泊まっていくのととは訳が違うのだ。それになにより、劣等感を抱いている相手と生活を共にするなんて、耐えられない。
「じゃあ、頼るあてはあるの? 実家とは絶縁状態だって言ってたよね?」
里奈の追求は続く。昔付き合っていた頃、将也はその事を里奈に話していたが、まさか覚えているとは予想外だった。
確かに里奈の言う通り、将也には経済的に頼れる人はいない。数少ない友人の巧も結婚を控えている。何かとお金がかるはずだ。そんな状況の相手に金を借りるなんてできるはずがない。
しかし今将也は貯金がほんどなく、さらに無職だ。だが、そのような状態でも家賃は払わなければならないし、それ以外にも生きていくためにはどうしても出費は発生する。いくら考えても、将也には里奈に頼る以外の方法が思いつかなかった。
「……分かった。しばらく家にいていい」
受け入れる事を拒否する脳を無理やり押さえつけるように、将也はその一言を絞り出した。
「ありがとう。将也」
里奈は控えめな笑みを浮かべた。先ほどまでの低く冷たい声とはまるで違う、心が優しく包まれるかのような温かい声だった。
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