元彼女は人気声優

アン・マルベルージュ

失職

 6月初頭。

 バイトをクビになってしまった朝倉将也(あさくらまさや)は、自分をクビにした店長の悪口を言いながら、最寄り駅から自宅へ向かって歩いていた。

 将也の手には『アルコール度10%!』と書かれたチューハイがあり、顔は赤く、ろれつも回っていない。

 将也の身長は175センチでガッチリとした体型にも関わらず、猫背とぼんやりとした目つきのせいで頼りない印象を与える。しばらく髪を切っていないため襟足は首にかかっていて、くせっ毛のため毛先は不規則にあちらこちらを向いている。年齢は25歳だが、不摂生な生活が祟り、もっと年上に見える。

 将也の自宅は閑静な住宅地にあり、時刻はすでに23時を回っているため、人影は将也以外にはない。アルコールが回り饒舌になってしまい、辺りに誰もいないことも手伝って悪口は途切れることなく出続ける。

 お前だって、毎日朝7時から下手すれば閉店まで働かされるような仕事にしか就けなかったくせに俺を見下しやがって。

 声が小さいだの、態度が悪いだの、最低時給で働いてるバイトに何を求めているんだ。

 ただでさえ人手不足なのに、俺をクビにしたらシフトが回らなくて困るだろうにバカじゃないのか。

 だが、いざ本当にクビにされてしまって困っているのは将也の方だった。ただでさえバイト代は安く、休日は飲み歩いたり雀荘に行ったりと、貯金などできるはずもない。1ヶ月無収入なだけで財政破綻してしまう状態でバイトをクビになってしまったのだ。本来ならば酒を飲んで酔っ払っている場合ではない。

 しかし今はアルコールが回ってきたためか、どうでも良くなってきていた。

「朝倉さん!」

 自分を呼ぶ声が後ろから聞こえ、将也は立ち止まると振り返った。

 将也は声の主を知っている。将也と同じアパートに住む、八雲遥奈(やくもはるな)だ。チャームポイントである背中にまで届くツインテールを揺らし、これまたもう1つのチャームポイントである、大きな目を輝かせながら小走りで近づいてくる。

 遥奈は将也に追いつくと、

「朝倉さんお疲れさまです!」

 深夜だというのに昼間のようなテンションで、右手を胸の高さまで上げ、手のひらを将也に向けると、笑みを浮かべた。体の動きで再びツインテールが揺れる。遥奈は身長156センチと将也に比べて小柄なため、2人が並ぶとより遥奈が小さく見える。

「ああ……お疲れ」

 無愛想に将也が挨拶を返し、2人は肩を並べて歩き始める。

 将也は水をさされた気分だった。せっかく酔っ払って好き勝手に悪口を言えていたのに、遥奈が現れたことでできなくなってしまったのだ。アルコールのおかげで抑えられていたネガティブな感情が少しずつ将也の頭の中で広がっていく。

 遥奈が将也が住むアパートに引越してきたのは今年の3月。大学進学を機に一人暮らしを始めたと以前将也は聞いていた。浪人をしていなければ今年19歳のはずだ。

 今どき珍しく、わざわざ引越しの挨拶をしてきたのが遥奈と知り合ったきっかけだった。それ以来、アパートや今回のように帰り道で出くわすと話しかけてくる。

 もっとも、将也にだけこのような態度を取るのではなく、元々このような性格のようで、以前将也は遥奈が他の住人にも同じように気さくに挨拶をしているところを目撃していた。

「またそれ飲んでるんですか? それ体に良くないみたいですよ。気をつけてくださいね」

 遥奈は将也が手にしている缶チューハイを見ながら、咎めるように言った。

「そんなこと、言われなくても分かってるよ」

 将也は缶を口元に持っていこうとしていたのをやめ、腕を下ろした。体に悪いことを承知で飲んでいたにも関わらず、そんなことを言われてしまうと途端に飲む気がなくなってくる。

「私まだ未成年だから飲めないんですけど、そんなにおいしいんですか? 夜に電車に乗ってるとおじさんが飲んでるところ見かけますし」

「……別にうまくはないよ」

 別においしいから飲んでいるわけではない。安くてすぐに酔えるからいつの間にかバイト帰りに買って飲むのが習慣になってしまっただけだ。それどころか、貯金もないのにバイトをクビになった状態であるにも関わらず買ってしまうのだから、もはや中毒のレベルなのかもしれない。

 遥奈は悪気があって言ったわけではないと分かっていたものの、まだ25歳だというのに自分もおじさん扱いされているような気がして、不愉快な気分になってくる。

「じゃあ、少し控えたほうがいいですよ。もうちょっとアルコール度が低いお酒にするとか」

「まあ、気をつけるよ。じゃ」

 ちょうど2人はアパートの前に到着し、これ以上遥奈と話したくなかった将也は速歩きで自分の部屋へ向かっていった。

 2人の住むアパートは、駅から徒歩20分のところにある。部屋は狭く駅から遠いためか、家賃の割に築年数も新しく、防音もしっかりしている。

 将也は部屋に入ると鍵を閉め、背負っていたリュックサックを床に放り投げた。

 正直なところ、遥奈にお前に俺の何が分かるんだ。と言いたい気分だったが、遥奈はお節介ではなく本当に自分の事を心配していることが表情や声から分かるのに、そんなことを思ってしまう自分が恥ずかしい。

 将也は手にしたままの缶チューハイを見つめた。まだ少し残っているが、遥奈にあんな事を言われたあとでは飲む気が起きない。捨てることも考えたが、やはり勿体ない。とりあえずラップで口元を塞ぎ、冷蔵庫にしまうことにした。

 続いてスマートフォンでラジオアプリを起動し、ベッドの上に放り投げる。ちびちびとチューハイを飲みながら、まどろみの中ラジオを聴いて孤独感をごまかすのが将也の日課だ。本当はこんな事をしている場合ではないが、酔っ払っているのだから仕方がないと心の中で自分に言い訳をする。

 適当に選局すると、BGMとともにナレーションが流れ始めた。どうやらCMの時間のようだ。

『声優の岸健史(きしけんじ)と磯辺穂香(いそべちほのか)が毎週月曜日深夜1時にお届けする、岸辺ラジオ!』

 色気のある、耳に心地よく染み込んでいくバリトンボイスがスピーカーから流れ始める。しかし将也にとってはそうではなかった。

「ああ、くそっ!」

 将也はすかさずラジオアプリを終了した。激しい運動をしたわけでもないのに、息が荒い。

 ラジオから聞こえた声の主は、最近名前を見かけることが増えてきた声優の岸健史だ。かつて将也と健史は同じ声優養成所に通い、しかも同じクラスだった。

 声優養成所に通えば誰もが声優になれるわけではない。日々レッスンをこなしつつ、所内または所外で行われる気が遠くなるような倍率のオーディションを勝ち抜き、事務所所属を勝ち取る必要がある。

 だが、大抵の受講生は決して安くはない受講料を払ったにも関わらず諦めることになり、将也もその1人だった。もう2年も経つ。

 将也はシンクに向かいコップ1杯の水を飲み干した。冷たい水が胃に流れ込むと、気持ちが落ち着いてくると同時に危機感が湧き上がってくる。

 声優の道を諦めてからも、将也は養成所に通っていた頃とあまり変わらない生活を続けていた。仕事を変えること無く、シフトを増やしたり減らすこと無く同じバイト先に向かい、養成所が無くなった分増えた休みは、いつの間にか飲み歩いたり雀荘通いに使われるようになった。

 養成所に通っていた頃はまだ真面目な態度で働いていたものの、養成所をやめてからは真面目に働く意欲がなくなっていき、クレームをもらう頻度や、社員から注意される回数が増えていった。そして最終的にクビになってしまい、今に至る。

 遥奈に注意されて缶チューハイを少ししか飲まなかったためか、普段より早く酔いが冷め始めていた。アルコールによって抑えられていた自己嫌悪感が徐々に脳内で大きくなっていく。

 将也は冷蔵庫にしまった缶チューハイを再び取り出すと、残りを一気に飲み干した。しばらくすると再び自己嫌悪感が収まっていく。実際は収まったのではなく、感じなくなってしまっただけなのだが。

「ふぅ……」

 ベッドに腰を下ろすと首を前に曲げ、床を見つめた。部屋は気が向いたときにしか掃除をしないので、糸くずや髪の毛を探す間も無くすぐに見つけることができる。

 自分はどうなってしまうのだろう。酔った頭では上手く考えることができないが、それでも、今より暗い未来が待っているのは確実だ。

 後ろに体を倒し、天井を見つめる。普段はなんてこともない天井の模様が、不吉なものに思えてきて、恐怖から「助けてくれ!」と無性に叫びたくなってくる。

 なんでこうなってしまったんだろう。夢は叶わず、気がつけば堕落した毎日を送る毎日になってしまい、気がつけばバイトをクビになり、貯金はろくに無い。お先真っ暗だ。

 もう、嫌だ。この不快な感情を紛らすためにもう一本飲もう。

 将也が立ち上がろうとした瞬間、ベッドの上に置かれたスマートフォンが震えた。養成所時代からの友人、荒川巧からのメッセージだった。


 翌日。将也は巧と2人で都内のチェーン居酒屋に来ていた。こうやって定期的に飲みに誘ってくれる巧は、将也の数少ない友人だ。

 座敷席に向かい合って座り、とりあえずビールを2つ注文する。

「いやー急に悪いな」

 おしぼりで手を拭きながら巧が言う。

「いや大丈夫。ここは家から結構近いし」

「まだあのアパートに住んでるんだっけ?」

 以前、一度だけ巧は将也の家に来たことがある。

「ああ」

「まあ、あの辺住むには良さそうだもんな」

 そこで話が途切れ、いいタイミングでビールが運ばれてきた。将也は巧と乾杯し、ジョッキを口に運ぶ。

 どういう風の吹き回しか、今日は巧の奢りということでお金のことを気にすること無くビールを胃に流し込んでいく。うまい。思わずため息が漏れてしまう。

 巧は注がれたビール一気に飲み干すと、ジョッキを置く間もなく、「そういえばさ、聞いてくれよ!」と話し始めた。本当に話したかった話題はこっちなのだろう。

「この前、仕事で収録スタジオに行くことがあったんだよ。そしたらさ、ちょうど何かの作品のオーディションをやってたみたいで、いかにも関係者って感じの人が部屋を出入りしてるし、オーディションに参加してる声優の声は聞こえてくるし、テンション上がっちまったよ」

 巧は眉が太く、濃い顔つきをしている。将也は絶対九州出身だと思っているが、怖くて聞いたことはない。仕事帰りなのか、ワイシャツにスラックスというクールビズスタイルだ。巧も2年前に養成所をやめ、小さなオフィス用品メーカーで営業として働いている。

「へえ、そうなんだ」

 声優の話題に流れるのが嫌だった将也は引きつった笑みを浮かべた。声優を諦めてから、声優の話題になると嫌な気持ちになるわけではないが、無性に他の話題にしたくなってしまうのだ。

「そうなんだよ。それにしても、やっぱりああいうの見ると、魂が熱くなってくるよなあ!」

 巧は突然立ち上がると、

「やいやいやいやい、さっきから黙って聞いていれば好き勝手言ってくれやがって。俺が西荻の狼、吉田だと分かった上で言ってるんだろうな?」

 2人がいるのは角の席にも関わらず、反対側の角の席にいた客が振り向くほどの通った声でセリフを言い始めた。かつて2人が養成所に通っていたときに使った台本のセリフだ。

「おい、周りの迷惑になるからやめろって」

 将也は立ち上がると巧の肩に手を置き、座らせようとした。

 しかし、隣の席にいた50手前と思われるグループは巧を気に入ったのか、

「いいぞ兄ちゃん! もっとやれ!」

「いい声してるぞ!」

 真っ赤な顔で巧をおだて始めた。

 結局店員がやってきて「ほかのお客様の迷惑になりますので……」と静止するまで巧は大げさな演技でセリフを言い続けた。


 その後2杯3杯とビールをジョッキで飲み続け、気がつけばいつものように2人は思い出話を始めていた。まだ、自分の可能性を信じられた頃だ。

 といってもたった2年前の話なのだが、それでも20代前半の頃と比べると、ちょうど20代の折り返し地点である25の今では精神的な違いがあることを将也は感じていた。

 20代も後半戦に突入すると、30代という可能性が閉じ始める年代が視野に入り始める。そこから逆算すると、自分という人間の伸びしろがなんとなく分かってしまうのだ。そうなると、20代前半のように無根拠に自分の可能性を信じることはもうできない。

 だから、気がつくと自分に無限の可能性を感じられた頃の話をするようになってしまうのだろう。

 昔はおっさんが昔話ばかりしたがる理由が分からなかったが、少しずつ分かるようになってしまい、それが少し嫌だった。

 気がつけば1時間半が経過し、巧はもう何杯目か分からないビールを飲み干すと、急に居住まいを正し、真剣な表情で将也を見つめた。

「そういえばさ……将也に大事な話があるんだ」

「え、どうしたんだよ」

 壁に背中を預けていた将也も、普段とは明らかに様子が違う巧につられて姿勢を正し、巧を見つめ返した。

「俺、結婚する」

「え……」

 その一言を聞いた瞬間、周りの騒ぐ声が一瞬聞こえなくなった。まるで自分以外誰もいない暗闇に放り込まれたような気分だった。

「あ、ああ……おめでとう。いつの間にやることやってたんだな」

 すぐにこういうときは祝いの言葉をかけることを思い出し、将也は作り笑いを浮かべた。

「そうなんだよ~。相手は実は今の会社の事務の子でさ、うちの会社の社長ザ・昭和って感じの人なんだけどいい人でさ、お互い独身だからって間を取り持ってくれたんだよ。いい人すぎない?」

 その後巧は結婚相手との馴れ初めを話し続けたが、まるで頭に入ってこなかった。

 

 帰り道。将也は最寄り駅から自宅に向かって歩いていた。酔いで得られる高揚感や暗い感情の抑制などといった『一番いい部分』はすでに過ぎ去り、今残っているのは体のだるさと頭痛、そして飲みすぎてしまったことによる自己嫌悪感だ。

 将也にとって巧は、お互い芽が出ずに養成所をやめ、夢を諦めてしまったものの完全に諦めきれていない仲間という認識だ。

 だが、そう思っていたのは自分だけだったようだ。挫折していつまでも前に進めずにいたのは自分だけで、巧は新たな道を見つけ、進み続けていたのだ。

 こんな事を思ってしまうのは自分勝手だと分かってはいたが、巧に裏切られたような感情を抱かずにはいられなかった。そして、そんなことを思ってしまうことが恥ずかしい。

「朝倉さん!」

 ネガティブ思考の沼に浸かってしまっていた将也は自分の名前を呼ばれたことで我に返り、後ろを振り向いた。遥奈が手を振り、自慢のツインテールを揺らしながら走ってくるのが見える。

「あれ、今日も飲んでるんですか?」

 遥奈は姿勢を落とし、下を向いている将也の顔を覗き込んだ。左側のツインテールが下に向かって垂れる。将也は街灯の薄暗い明かりでも分かるほど、顔が真っ赤だ。

「まあな」

「またそんなに飲んでて大丈夫なんですか? 体壊しちゃいますよ」

 いつものように将也の身を心配してくれる遥奈に、

「今日は缶チューハイじゃないからいいだろ」

 将也は屁理屈で返した。

「そういう問題じゃ」

「ほっといてくれよ」

 言い返そうとする遥奈が最後まで言い切る前に、将也は言葉を被せた。言われなくても、分かっている。

「だけど、朝倉さん、大体帰り道に酔っ払ってるじゃないですか。まだ若いからって……あっ」

 将也は急に走り始めた。これ以上、遥奈と話を続けたくなかった。

 しかし、今の体調は走るには最悪な状態だ。頭は痛いし、うまく走れない。シラフの状態ならばつまずくこともない段差に足を取られ、将也は地面に倒れ込んだ。

「大丈夫ですか!」

 将也がよろめきながら起き上がると、遥奈が駆け寄ってきた。

「どこか怪我してないですか? 私、除菌ティッシュ持ってます」

 遥奈は肩にかけているトートバッグに手を突っ込み、除菌ティッシュを取り出そうとしている。

「っ……」

 遥奈の問いかけに答えること無く再び将也は走り出した。遥奈の親切心が逆に毒だった。親切にしてもらえるのは嬉しいが、自分みたいなアル中で無職のクズにここまでしてもらうことが耐えられない。

「朝倉さん、待ってください!」

 後ろから遥奈の呼ぶ声が聞こえるが、将也は無視して走り続けた。頭の中を流れる血液の音がうるさい。少し走っただけで大げさに鼓動を刻む心臓の音がうるさい。

 そして何より、ネガティブな事を考えてしまう自分の心の声が一番うるさかった。

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