🦍 × 💫

ピチョン、ピチョン、ピチョン。


一定の間隔で滴る水の音以外、辺りは静寂に満ちている。

通路は狭く、薄暗い。

天井の蛍光灯はどれも切れかけており、不規則な点滅を繰り返している。

不快な悪臭が立ち込め、行き場のない淀んだ空気が足元に溜まっている。


ティティは歩き続けることしかできない。

道しるべも頼るものもない。

それは、まだ4歳の少女にとって、精神限界を遥かに超えたストレスだった。

左手の薬指に激しい痛みを感じて立ち止まる。


彼女の指に嵌められた「マジカルリング」は、持ち主の恐怖やストレスに反応。その肌に強く食い込み、堪えがたい痛みをもたらす。

それから逃れる方法は一つしかない。


ティティは、口の中で小さく呟いた。


「ティティプリティーマンゴスティー…」


途端、彼女の全身が何とも形容し難い色に発光する。

そして光が消えた時、ティティは少女趣味の衣装を身にまとい、

肉色のステッキを握った、「プリティーティティー」に変態していた。


痛みは治るが、不安感までは消えてはくれない。


“変態”には、何段階かのステージが存在する。

現在のティティは1stステージ。


体は人間のままだが、身体能力の劇的な向上。そして見るものに、根源的な恐怖を与える。


しかし、えもいわれぬこの感覚は、価値観の異なる虫けらには通じない。

通路の隅をカサコソと蠢くゴキブリの一匹が、ティティの足元に走り寄った。


「ひっ」


目に涙を溜め、慌ててのけ反るティティ。

その瞬間、彼女の体の何処からかピュッと粘液が発射され、足を取られたゴキブリは身動きが取れなくなる。


2ndステージ。


体のいたるところから粘液が分泌され、眼球が出現する。

触手も生え出して、辺りを探りだす。

各関節が自由に可動し、動きに人間らしさが失われる。

並みの精神であれば恐怖で逃げ出すか、あるいは失神してしまう程に、おぞましい外見となる。

精神も錯乱状態に陥り、心の拠り所を激しく求める。


「まことちゃんまことちゃんまことちゃんまことちゃん」


愛しい姉の名前を繰り返し口にする。


2ndステージまで進むと、変態は加速度的に進行する。

ティティの精神を癒すものが現れない限り。

もちろん、そんなものがここにあるはずもない。


3rdステージ。


頭部が花のように開き、中から「最も恐怖するもの」が現れる。


ティティの場合、漆黒の「手」。


頭以外からも出鱈目に生やされる手は、健気に心の拠り所を探し出そうと、中空を掴む。

身体中のそこかしこに開いた穴が、一様に、愛しい名前を繰り返す。


「まことちゃんまことちゃんまことちゃんまことちゃん」


それは調子外れの不協和音を奏で、聞くものの精神を狂わせる。


変態は、対象の意思によっていつでも解除が可能である。

しかし、今のティティに人に戻る意思はない。

守るべきものも縋る相手も、どこにも見つからないのだ。

やがて、彼女は自らが人間であったことも忘れ、名状しがたき者に成り果ててしまうだろう。

それが最終段階(ラストステージ)である。


その時。

彼女の眼前の闇から、妙な音が聞こえてきた。


ッチャ、ッチャ、ッチャ。


名状しがたい者の注意を引く有効な手段の一つが、音である。

感動的な音楽であったり、親しい者の声、あるいは人間であった時に馴染みがあった生活音。


ティティは動きを止めて闇の先を見据え、正体を探る。


ッチャ、ッチャ、ッチャ。


ゴリラだ。


ティティは小さく混乱し、再度よく目を凝らす。


ッチャ、ッチャ、ッチャ。


混じりっけなしのゴリラである。


ゴリラが、バナナを食べている。

聞きなれた生活音、バナナを食べる音。


ティティの大好きだった姉は、バナナが好物だった。

普段は感情の分かりづらい彼女だが、好物のバナナを食べる時に限っては、目を剥いて一心不乱にかぶりつくのだ。

それが面白くて、ティティは自分の分まで姉に与えたりしていた。

4歳にバナナを与えられる姉である。


姉の記憶に触れ、錯乱がやや収まる。


するとゴリラが


「おいで」


と。


いや、そう言ったわけではない。

ゴリラが口を聞く訳がなかろう。

眼差しだ。

そんな眼差しで、ティティを見据えたのだ。


哺乳類であれば虫などの低級の生物と違い、名状しがたき者のおぞましさは十二分に理解できる。

ましてや人に近い感性を持つ、ゴリラである。

だのにそれを前にしてこのゴリラは、無防備に両手を広げたのだ。

並々ならぬ精神力。見上げたゴリラである。


名状しがたき者の注意を引くもう一つの有効な方法。

それは触覚。温もり。


ティティはよろよろと、ゴリラの胸元に引き寄せられるように、歩む。

そして胸の中に体を預け脱力した時、触手も、黒い腕も、悪い夢であったのかのようにドロリと溶け、いたいけな少女だけが残された。


「…恐れ入ったよ」


いつの間にか、傍らに黒いスーツの一組の男女が立っている。

男の方は首から荒縄をぶら下げて、青い顔をしている。女は大柄な体躯に長く伸びた黒髪と対照的に、顔色は紙の様に白い。表情は、恐怖に引き攣っている。


「あの、恐ろしくキモいあれを初対面で抱くかね…。尊敬に値する精神力だな…」


男は心底恐れ入った様子で何度か頷き、女は理解に苦しむ様に口をへの字に曲げた。

ゴリラはティティを守るように抱きかかえると、理性的な目で2人を見つめる。

その瞳を受けて、男は答える。


「危害を加えるつもりはない。こいつを渡しに来たんだ」


チチチチ。

男が胸ポケットから取り出したのは、青い小さな小鳥だった。

それを無造作に空中に放り投げると、小鳥はヨタヨタと飛行し、ゴリラの頭の上に止まった。


「おちびにはこれだ」


もう一つ投げてよこしたそれを、ゴリラは器用にキャッチする。

それは、化粧の際に使われる、掌サイズのコンパクトのようだった。


「さて。前に説明したように、お前らには殺し合いをしてもらう。

相手は『強虫』と『駆け落ちの令嬢』だ。

終了条件は、どちらかの一組の死。それまでは終わらない」


ゴリラは微動だにせず、眼差しだけで物を言う。


「ああ、もちろん条件は忘れていない。

おチビは勝ち抜けば人間に戻れるし、ゴリラは─会いたいヤツがいるんだったな。会わせてやるさ、いつかと言わず今すぐに」


男はニヤリと笑う。


「何かわからないことがあったら、“端末”に訊くといい。検討を祈る」


言うが早いか、男女は煙のように消えてしまった。

そして、ゴリラと少女が残された。


その時、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてくる。

ぐったりと無反応だったティティは、パッと目を見開き、声の主を探した。

声はゴリラの手の中、コンパクト型の“端末”の中から聞こえてきていた。


「…ティティ…、ティティ……!蓋を開けて…!」


慌ててティティはゴリラから端末を受け取り、蓋を開けて中を確認する。

そしてティティは、目を潤ませた。


「…まことちゃんッ…!!!」


コンパクトの鏡面部分に、人の顔が映し出されている。

そこにはティティがこの世で最も愛した人物。

腹違いの姉、柊誠(ひいらぎまこと)の顔があった。


「ティティ。ケガはない?」


素っ気なく落ち着いて聞こえるが、いつだって妹への愛が籠った声。

ティティはこの声を聞くのが大好きだった。


「うん!だいじょうぶだよ!ごりらさんがね、助けてくれたの!

まことちゃんもきてくれたの?」


「いや、残念だけど僕はまことちゃんじゃない。君の姉を再現した、仮想人格だ」


「まことちゃんでしょ?」


「違うんだ、正確には…」


「まことちゃんだよ!」


「ええとね」


ゴリラがめんどくさそうな眼差しを送る。ややあって、


「…うんまあ、まことちゃんなんだけれども」


仮想人格が折れた。


「まあ、それはどうでもよくて。

いい?落ち着いて聞いてほしい。

あと7時間56分後、君たちは異世界に転送され、殺し合いをさせられる。

勝利条件は相手チーム二名の死亡。

当然、相手も死力を尽くして君たちを殺しに来る。

殺られる前に殺るしかない」


ふふふふ、とティティは笑い出した。


「まことちゃんの言うこと、ぜんぜんわかんない」


「…そうだと思うよ、わかんないよね

…さすがにゴリラに言葉は通じないだろうし」


誠の仮想人格は、特に声色を変えずに淡々と呟く。

しかし、聞くものが聞けばわかる、本当に困っている時のトーンだった。


「だいじょうぶだよ、まことちゃん」


ティティが慰めるように、優しく言う。


「まことちゃんはね、わたしが守ったげる。

プリティーティティーに変身して、悪いやつみんな倒したげるから」


「…ありがとう、そうだね」


「それはよくない」


ゴリラが穏やかに、言う。

いや、言わない言うわけがない。

しつこい様だがゴリラが喋るわけがない。

ただ、ゴリラの眼差しは優しげに、誠を諌める。


まさかゴリラに諭されるとは予想していなかった誠は言葉に詰まった。

確かに、それは“よくない”。

変態は、指輪の持ち主の恐怖によって反応する。いいことであるはずがない。


ティティは僕が守らなくちゃいけないのに、いつの間にか、変態させることになんの疑問も抱かなくなっていた…!


でも、それじゃあ誰がティティを守るんだ?

手も足も出ない、無力な仮想人格の僕に何が出来るんだ。

誰がティティの代わりに、敵を殺してくれるんだ?


その気持ちを汲み取るかのように、ゴリラは暖かい眼差しを送る。


それはまるで、全てを自分に任せろ、とでも言うかのような、カリスマ性に溢れた頼もしい眼差しだった。


依然として通路は薄暗く、蛍光灯は激しい瞬きを繰り返し、遠くでカサコソとゴキブリ共が蠢く。

状況は何一つ改善しておらず、未だ絶望の淵に立たされていることに、かわりはない。


それでもティティは、まるで姉に抱かれ布団でまどろんでいる時のような、深い安心と幸福を感じるのだった。

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