第35話
建国祭の翌日。
無茶したアレク様が風邪を悪化させたと聞き、私は昼休みにグリムガル公爵家の屋敷を訪れていた。
私のためにパーティーに参加してくれたので、お見舞いに来るのは当然のこと。別に好きな気持ちを制御できなかったわけではない、そう自分に言い聞かせている。
どうしてアレク様と会うだけなのに、ドキドキしてしまうのか。これが薬師では治せない恋の病というやつかもしれない。
メイドさんにアレク様の部屋の前まで案内してもらった後、深呼吸して心を落ち着かせ、ドアをコンコンッとノックする。
「……」
返事が返ってこないので、眠っているんだろう。こう言った場合は薬をメイドさんに渡して、引き返すのがセオリーだ。
でも、せっかく勇気を振り絞ってきたんだから、一目くらいは会いたい。よし、アレク様の寝顔を見よう。
こういう時、影が薄いという特性は非常に便利である。フゥーと大きく息を吐き、ただでさえ薄い気配を消失させ、部屋の扉をそーっと開けて侵入することにした。
「お邪魔しまーす」
部屋の中に入ってみると、やっぱりアレク様は眠っている。当然、気配を消した私に気づくはずもない。
早速、可愛らしい寝顔を拝見したいところだが、まずは薬師の仕事をしよう。頭が冷静に働くうちに対処しておきたい。
ゆっくりとアレク様の元まで近づき、持ってきた薬師カバンから薬を取り出す。
置き手紙と一緒に机に置いておこうと思い、机の上を確認すると、そこには一通の手紙が置かれていた。
勝手に人の手紙を見るわけにもいかないが……、なんか見慣れた文字だな。公爵家に届く手紙にしてはシンプルで、私の元に届く手紙に似ている。
いや、さすがにアレク様の交友関係に知り合いがいるわけ――。
「えっ? うちのお母さん? ちょ、ちょっと待って。どうしてお母さんがアレク様に手紙を?」
私に宛てた手紙が間違って届いたのかな。それとも、ラルフ様との婚約の件についてだろうか。
アレク様に許可なく見てはいけないと思いつつも、自然と手が伸びていた。
『いつもご支援していただき、誠にありがとうございます。おかげさまで十年ぶりに仕事を再開することができ……』
間違いない。お母さんの文字だし、似たような手紙が私にも届いたばかりだ。
でも、支援ってどういうこと? 私が婚約する前から資金援助してもらう理由なんてないし、そんな話は聞いていない。
ましてや、うちは金銭目的の政略結婚である。まだ私がラルフ様の婚約者と決まっていない以上、明らかに不自然だった。
ただ、こうしてアレク様の元に手紙が届いているのは、事実であって……。
「お母さんの体調が良くなっていたのは、本当だったんだ」
母からの手紙の内容を疑っていた私としては、こんなに嬉しいことはない。
娘の私に心配させまいと、嘘を書いていたわけではなかった。支援者に虚偽報告をする意味はないので、手紙に書かれていることはすべて事実だったんだろう。
思わず、安堵のため息がこぼれる。その瞬間、ビクッと反応するようにアレク様が目を覚ました。
「ニーナ、か。気配を消して入ってくるのは、やめてくれ。暗殺者かと思ったぞ」
「すいません。気を緩めてしまい、僅かに存在感が出ちゃいました」
「そういう問題じゃないだろ。人の部屋には勝手に入っていけないんだ」
毎朝鍵を開けてくるアレク様に盛大なブーメランが突き刺さるが、殿方の部屋に不法侵入するのは良くない行為だ。私だって、絶対に見つからないように寝顔だけ見て帰ろうと思っていたから。
でも、予期せぬ事態が発生したのだから、仕方ない。
「アレク様。この手紙はどういうことですか?」
机の上に置いてあった母の手紙を見せると、アレク様は罰が悪そうな表情になった。
「読んだのか……?」
「見る気はなかったんですが、母の字だったので、つい……」
正直に答えてみると、観念したかのようにアレク様が大きなため息を吐く。
「実は、ニーナの母親が体を悪くした原因は、俺なんだ」
「はい?」
衝撃的な新情報ばかりが頭に入ってきて、脳内で渋滞を起こしている。言葉の意味はわかるものの、頭でうまく理解できていなかった。
私のお母さんとどんな関係があるのだろうか、と思っていると、アレク様は昔のことを思い出すように窓の方を眺め始める。
「子供の頃、旅先で魔物に襲われた時があってな。その時に魔物の攻撃を受けそうになった俺をかばってくれた人がいたんだ」
「それが私の母だった、ということですか?」
コクリッと頷くアレク様が嘘をついているようには思えなかった。
「ずっと支援していたつもりだったんだが、どうにも中抜きしていた連中がいたみたいでな。宮廷薬師に就職したニーナの様子が変で、色々探ってようやくわかったんだ。全然治っていなかった、と」
ルベット男爵家が、グリムガル公爵家に金を催促するはずもない。爵位の低いうちなら問題にならないと思い、お金を抜いていたんだろう。
迷惑な話だが、アレク様に非があるわけではない。お母さんも元気になっているのなら、問題を大きくしない方がいい。
すでに制裁を加えられているはずだから。
「それで私が実家を離れた後に、お母さんに支援してくれていたんですね。初めて聞きました」
「伝えようと思ったんだが……、恨まれるんじゃないかと思い、なかなか言い出せなかった。支援が遅れてしまって、本当にすまなかった」
「あっ、いえ。大丈夫です。アレク様が悪いわけではないですし、あの……治療費、ありがとうございます」
素直にお礼を伝えたものの、何とも言えない感情が芽生えてくる。
だって、前回風邪を引いて悪夢を見る時、アレク様が変なことを言っていたから。
「一つだけ確認したいんですが、アレク様が言っていた『子供の頃の後悔』って、もしかして……」
「ああ、このことだ。ニーナは覚えていないかもしれないが、その時に一度看病してもらっている」
お母さんが病弱になった頃に看病した経験があるのは、私の記憶ではたった一人だけ。あれがまだ大人になりきれていないアレク様だったとしたら……。
「もしかして、私を座敷童と思っていた子ですか?」
「いや、あれはどう見ても座敷童だっただろ。大人には見えていないのに、部屋の隅でじっと見つめてくるんだぞ。正直、魔物の呪いじゃないかと怖かった」
間違いない。私の部屋で一週間共に過ごし、ずっと看病していた少年は、アレク様だった。
どうりで懐かしい気持ちが湧いてくるはずだ。汗で塗れた服の着替えを手伝い、ごはんを食べさせ、同じベッドで添い寝していれば、アレク様の温もりを体が覚えているわけで――。
い、いや、まあ、子供の頃の話だし? ぜ、全然動揺していないけどね?
むしろ、アレク様が後悔している相手が自分だったことに戸惑いを隠せない。
だって……。だって……!
「は、初恋の相手とか、言ってませんでしたっけ? あれ? 私、ラルフ様の婚約者候補のはず……でしたよね?」
混乱する私とは違い、アレク様は何か心に決めたような真剣な表情で見つめてくる。
「あの頃に抱いた気持ちを、ずっと忘れることができなかった。だが、心のどこかで自分が幸せになってはいけないと思っていたんだ」
どうしよう。これってやっぱり、そういうことだよね……?
思い返せば、溺愛しているはずのラルフ様と同じくらい私は溺愛されていた。弟の婚約者候補という理由が原因だと思っていたけど、現実は違う。
最初から溺愛していた私とラルフ様をくっつけるために、アレク様は動いていたのだ。私たち二人が幸せになれる方法を考えた結果、結びつけることにしたんだろう。
でも、その思いが周囲にバレバレだったのは間違いない。
ラルフ様は言っていた。二人で婚約すればいいのに、と。
セレス様は言っていた。ニーナと付き合ってると思ったんだけどねー、と。
つまり、親しい人が見ればどう見ても両想いな展開であり、本人たちが気づいていなかっただけではないだろうか。
「ラルフとの婚約なんだが、なかったことにしてもらえないか?」
「えっ?」
「その代わり、俺が責任を取る」
責任……。責任とは、もしかして――。
「俺と結婚してもらえないだろうか」
「……はい」
あまりにもストレートな言葉で言われ、私は自然と素直な声が漏れ出ていた。
い、いや! ちょ、ちょっと待って! さすがにそんなわけにはいかない!
天才魔術師と言われる公爵家の長男と、男爵令嬢が結婚するなど、世間が許してくれるはずがない!
「ちょっと待ってください。今のはナシです。身分的な問題がありますよ。私、男爵令嬢なので」
「すでに国王には許可をもらっている」
いったいどうして!? 一番高そうな障害がすでに攻略済みとは!
もしかして、国王様に認知されていたのは、そういう理由だったんですか? すでに説得した後だったと……!
「でも、ラルフ様と婚約予定だったわけで……」
「すでに謝罪は済ませ、許可をもらっている」
ですよね。なんか応援してくれていたくらいですし。
「私、影薄いですよ」
「知っている」
「意外に食べますよ」
「知っている」
「見た目、めちゃくちゃ平凡ですよ」
「それはない」
そうだ。溺愛されているんだった。くそっ、何か他に諦めさせる方法は……って、別にいいのか。
王族と公爵家の人間が認めるのなら、悪く言ってくる人はいないだろう。ましてや、身内の許可が下りているし、同じ公爵家のセレス様と私たちは友達だ。
何も問題ないのではなかろうか。私の心が爆発しそう、という問題以外は。
「やっぱり俺と婚約するのは、嫌か?」
そして、子供の頃の件で嫌われていると誤解したアレク様が、妙に弱気だから困る。
嫌なわけがない。幸せという希望の光が眩しすぎて、直視できないだけだ。
「……風邪薬、文句を言わずに飲んでくれたらいいですよ」
どうしても素直になれなかった私は、変な条件を出して誤魔化すことにするのだった。
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