『紅茶の余香』

紅茶の余香

 光のほとんどが逃げだしてしまった部屋で、ぼうっとスマートフォンの画面を眺めていた。意識が、現実と夢のちょうどまんなかでふらふら揺れている。行き場のない焦燥のような感情の、輪郭が押し広げられていく。部屋の外をバイクの音が通り過ぎていったときに意識が引き戻されて、その瞬間、画面の日付がひとつ加算された。私は二十歳になっていた。


 春というのは本当にどうしようもない季節だと私は思う。冬の毛布なしでは生きられない厳酷な寒さなんかより、春の中途半端に暖かい風のほうがずっと人肌の恋しさを想起させる。友人たちから送られてくる誕生日おめでとうのメッセージになんとなく返信し終わった私は、未読マークが連なる過去のやりとりたちのなかから彼とのトークを探した。彼からのメッセージは来ていなかった。彼は、別れを告げた恋人にお祝いのメッセージを送るなどという非一般的な行動を取ることはしないようだった。


 携帯を枕元へ放り、ごろり、身体の向きを変える。窓から差し込む月明かりが、半分だけ中身の残ったペットボトルに乗っかっている。花粉とか青春に満ち溢れているとか、そういうものよりもっと実体の薄い、春の、空間的な肌触りが嫌いだった。三十分が経っても、携帯が彼からのメッセージを通知することはなかった。


 昨日の別れ話を済ませてから、心が空っぽになっていた。それなのに、元々空っぽだった部屋はどんどん足の踏み場がなくなってきている。私の上手く生きられなかった残骸がそこら中に転がっている。手の届く場所にあったティッシュペーパーは、鼻の奥を切り裂くような匂いがした。ゴミ箱が遠かったので、起きてから捨てようと思い、元あった場所に放置した。


 何かをしようとするたびに身体がぐっと重くなり、行動できないまま、気づけば取り返しの付かないところに立っている。その繰り返しだった。何度もデートに遅れてしまったのは私だけが悪かった。どれも、楽しみにしていなかったわけではない。身体の各部位がそれぞれ自我を持っているみたいに、私の意思ではコントロールが効かなくなるときがある。鬱とはこういうことを言うのだと最近になって知った。


 ストレートティーの紙パック、断線した充電コード、ナプキンの包装、煙草のパッケージ。一足先に成人を迎えていた彼は「これで煙草が吸える」と嬉しそうに語っていた。それ以前から吸っていたことには、引き続き気づかなかったフリをした。彼の、下町の古着屋に並んでいそうなジャケットに染み込んだ、無機質な煙草の匂いが私は好きだった。特別な何かになりたかったのに、私に未成年で煙草を吸う度胸はなかった。


 寝返りを打つ。どこかから救急車のサイレンが聞こえる。脳裏で彼が笑っている。私は眠り方を忘れてしまったようだった。唐突に、何もかもすべて投げだしてやろうと思った。


 メンヘラ、と言われた。私は人並み以上に恋人を愛してしまったようだった。「別れよう」と言われたとき、世界がぐっと広がったような気がした。私は、彼がいないひどく広大な世界を知りたくはなかった。彼の好みが年上であることにはなんとなく気づいていた。


 分厚い布団を蹴り飛ばし、真っ暗な部屋のなかでひとり立ち上がる。サイズの合わない下着の肌に食い込んでいる感覚が嫌で、クローゼットからキャミソールを引っ張りだした。ハンガーに、古着屋に並んでいそうな彼のジャケットが情けなくぶら下がっていた。消臭スプレーを噴射しようとして、やめた。


 逃避行の準備にさほど時間は掛からなかった。この先のことなど何も考えていなかった。きっと私は、明日になれば誰もいないこの部屋の扉をまた開けることになるのだと思う。自分のために生きなければならない数日後を想像して、意識がぐっと沈み込んだようになる。外に出たあと、気づけば私は家の鍵を回してしまっていた。


 夜はやっぱり中途半端な空気をしていた。私は何かに寄りかかることでしか呼吸を続けることができない。優先順位の最初にいるのはいつも自分ではなかった。


 駅は乾いていた。人のいないホームで誰に知らせるでもなくしゃべり続けている無機質なアナウンスの、その一語一語が途切れるほんのわずかな隙間に葉の風に揺られて擦れ合う音が鳴り続けている。間もなくやってきた人気のない電車に乗り込み、座席の端っこに腰を下ろした。窓に映る自分を見て、せめて目元だけでもメイクをしてくればよかったと思った。


 このまま死んでやろうとは思えなかった。もしかしたら彼とよりを戻せるかもしれないというごくわずかな可能性に心のどこかで縋ってしまっているせいだと思う。もしくは、私はひとりで生きることを望んでいないだけで、死を切望するような思いは持ち合わせていなかったのかもしれない。


 なんとなく降りた人が多い駅の、五台並んだ切符売り場で夜行列車のチケットを探してみた。見覚えのある観光地の名前が並ぶなか、運よく席の残っていたチケットを購入し、急いでその電車へ乗り込んだ。いつの間にか、空気が冷たくなっていた。


 * * * * *


 彼の一体どこが好きだったのだろうと思う。これまで経験してきた恋愛のなかで特別彼を思っていたわけではないし、なにか心に残る初体験がそこにあったわけでもない。それでも、身体を密着させて体温を感じるというごく普通の営みのなかで充分な安心感を抱くことはできていた。心に残った愛情には賞味期限がある。期限を迎える前に私は彼に触れる必要があった。


 行為中の、彼の苦しそうに歪んだあの笑顔が私は好きだった。耳元で名前を呼ばれるたび、自分が一人で生きていないことを再認識させられる。いやに甘ったるく輝いたどこか不快な声が私のすべてだった。


 窓から差し込む柔らかい朝日により、彼の情けない寝顔に幻想的な光が乗っかっている。そっと握った手は温かかった。懐かしさを感じている自分に気づいて、あ、と思った。景色が、視界の端っこからほどけかけていた。「俺がいないと寂しい?」、彼が言った。「べつに」、急いで彼から視線を外す。反対側の風景はすでに崩壊しかけていた。身体が次第に輪郭を取り戻していくのを感じる。まだ寝ていたいのに、自然に意識が覚醒していく。休日の朝のような気分だった。目を開けるのが怖かった。何かの重たく揺れる音が聞こえて、身体が浮き上がるたび、意識が存在すべき場所へ引き戻されていく。


「……あ」


 ゆっくり開いた瞼の先、列車は知らない街を走っていた。遠くの山から、太陽がこちらを覗いている。西側の空には雲が架かっていた。この街は昨夜、雨が降っていたようだった。自分がどこへ向かっているのかもわからなかった。心に、寂しさと温かさみたいなものがちょうど同じ質量ぶん残っている。太股の裏に、スカートの生地が貼り付いていた。


『間もなく――』


 しゃがれた声のアナウンスが終わるころ、身体が完全に現実感を取り戻していた。切符に目を落として、いま読み上げられた駅が目的地だったと気づく。自分の勘の良さ、みたいなものについ溜息を零してしまった。


 電車を降りたあと、駅前のパン屋でひとり朝食を摂ることにした。あんパンとクリームパン。甘ったるい空気が舌に絡みついている。紅茶のあとを引く渋味がいつまでも喉の奥にくっついていた。


 ひとりで知らない土地にいることが新鮮で、唐突に、生きてるってなんだっけと思った。心の重さに引っ張られて上手く生きられなかった私が悪い。駅前の居酒屋街を通り抜けるとき、ふと、紅茶のような匂いがした。マンホールのふちを、いやに明るい日光が這っていた。何か忘れ物の気配がしているみたいに、自分のためだけに行動している罪悪感みたいなものが脚に絡みついていた。


 地面をぼやけた影が滑走していく。三つ目が足元を抜けていったとき、鳥が横切ったのだと気づいた。旅の道具が詰め込まれたバッグが、重く私の肩にめり込んでいる。目覚ましが鳴る前に死んだ雨雲の余韻が地面に転がっている。


 カフェで大好きな紅茶を飲んだり人の多い観光スポットに行ったり、そういう心の重たくなるようなことはできそうになかった。駅前から延びる商店街の一角で、ちいさな煙草屋を見つけた。彼が愛用していた橙色のパッケージが目に留まった。


 コットンのさらさらとした感触が背中に貼り付いている。陽射しに引きずられて、数字で見るよりも気温が高くなっているような気がした。彼と同じ種類の煙草を購入したあと、人が少なそうな道をひたすら進んでいった。不思議と疲れは感じなかった。


 生きる意味は必要なかった。何かに寄りかかることで私は生きていけた。なんとなく足を進めた入り組んだ脇道の、その先に大きな道路が通っていた。引き返すのも違う気がして、また先へと足を進めていく。私は、生きる責任みたいなものを他人に丸投げしていたようだった。こうすることでしか生きていけない身体になってしまっている。縋ることでしか生きていけなかった。向き合う必要があった。身体を重くする根本的な原因ではなくて、現状の、鬱を抱えている私を見つめ直さなければならなかった。


 彼の吸う煙草はいつも紅茶のような匂いがする。自宅で淹れても成し得ない、輝かしい芳香だった。それを吸い込む以外に、酸素を取り込む方法を探さなければならなかった。大通りを挟む歩道をまた挟むみたいに、桜の木が連なっていた。花びらの雨が降っていた。遠くに城のような建物の陰が見えた。


 人の少ない脇道の端っこで、煙草のパッケージを開封した。ビニールの包装の中身、春に相応しい爽やかな紅茶の匂いがする。ライターを買い忘れたことに気づき、結局、煙草をバッグにしまい込んだ。


 * * * * *


 どうしようもなくなったら、お空に向かっておねがいすればいいよ。きっと、のんちゃんのおねがいも叶えてくれるから。優しかったころのお母さんがそう言っていたことを唐突に思いだした。部屋はお日様のにおいがする。カーテンの端っこ、午前十一時の太陽が滲んでいる。


 旅に出てから一日が経てばやっぱり私は家の扉を開けるしかなかった。アルバイトを無断欠勤する度胸はないし、欠席したぶん、授業の課題を片付けなければならない。未成年から成人に肩書きが変わったところで、私は何者にもなれなかった。


 リストカットやアイコンが真っ黒に染まったいわゆる病みアカウントなるものを作ることでこの喪失感をうまく溜飲できる気はしなかった。私の上手く生きられなかった残骸はまだそこら中に転がっている。枕元のティッシュペーパー、ストレートティーの紙パック、断線した充電コード、ナプキンの包装。彼が置いていった空箱の上に、開封されたきりの煙草が乗っかっている。埃の被ったテレビ台に、ライターが転がっていた。とにかく私は、アルバイトに向かう準備をしなければならなかった。


 成人したことで何かが変わることはなかった。私はただ私として生きていくしかなかった。クローゼットの一番手前にあった服を引っ張りだし、袖を通す。彼のジャケットからはもう煙草の匂いはしなくなっていた。


 * * * * *


 ハンバーガーショップのテラス席で、年配の女性二人組が甲高い笑い声を上げている。どうでもいいことに心を躍らせるためには、人との間に築き上げた壁みたいなものを自由に出し入れする能力が必要だと思う。


 店の自動ドアをくぐると、コーヒーの乾いた匂いがした。客に店員であると思われたくなくて、カウンター越しに目が合った先輩に軽く会釈をしている。その正面の席で、子どもがコーヒーポーションを放り投げた。ふわり、雫になって宙を舞った透明な液体が音もなく幾何学模様の床に転がる。親は気づいていないようだった。コーヒーポーションから目を逸らし、その横を通り抜ける。


「おはよう」


 更衣室から出たとき、ちょうど出勤してきたらしい川奈さんに声を掛けられた。彼女に恋人を取られたことを腹立たしく思ったりもしたけど、それが見当違いであることに気づけるほど私はここ数日冷静だった。


「おはようございます」

「あれ? 煙草吸い始めたの?」

「まあ」


 傍らにあった書類で顔を仰ぎながら、意気揚々、というように川奈さんが言った。彼女の視線が、全開のまま放置された私のバッグに乗せられていた。


「のんちゃんが煙草吸うなんて、意外」

「そうですか?」

「うん。しかも、私と同じ銘柄」


 川奈さんが笑顔で言う。模範解答のような二重の瞼に、ふわり、黄色い光が乗っかっている。知っていた。私が紅茶を好んでいたからではなかった。彼が川奈さんに憧れて同じ銘柄を吸い始めたことにずいぶん前から気づいてしまっていた。


 名札を制服の胸ポケットに刺し、ちいさな流し台で手を洗う。手洗いは三〇秒と書かれたラミネートの端っこが剥がれていた。跳ねた水がエプロンを濡らし、それから地面にちいさな水たまりを作っている。ごみ箱は、丸まったペーパータオルでいっぱいだった。憂鬱という感情はこのいっぱいになったごみ箱のことを言うのだと思う。替えても替えても誰かの意思で中身は満たされ、気づけばまた替えなくてはならないところまできている。蓋のせいで中身を見ることはできないから、いっぱいになるまで、替えなければならないことに気づくことができない。


 事務所のパソコンで出勤登録を行い、カウンターにいた早番のスタッフとレジを交代した。アイスコーヒー、カフェラテ、アイスコーヒー。川奈さんの取った注文に合わせてレジを打っている。「コーヒー、二杯頼んだんだけど」、正面から重たい声がして、咄嗟に顔を上げる。次に川奈さんのほうを見ると、ごめん、というように手を合わせていた。


 さきほどのコーヒーポーションの抜け殻はまだ地面に転がっていた。私はかかとにくっついた靴底を剥がすようにして右足を浮かせている。子どもが今度はグラスに手を入れて氷を弄んでいた。向かいのドーナツ屋に行列ができていた。いつの間にかレジの列はなくなっていた。


 心を削る危険性があるから恋愛に花を咲かせるなんてことをしたくなかった。ごみ箱をいっぱいにしないためには、そもそも捨てるごみの数を減らさなければならなかった。断片的な意味でも、繋いでいけば生き延びるための言い訳くらいにはなる。まずは、自分を前に進めるためのきっかけを見つける必要があった。


 夕日が、気まずい角度で店に入り込んでいた。コーヒーポーションの抜け殻はいつの間にかなくなっていた。バイト終わりに吸った煙草は、やっぱり紅茶のような匂いがした。あと数日は、煙草を吸い始めたという新鮮味で呼吸を続けることができそうだった。

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