『味のしないあめ玉』

味のしないあめ玉:1/4

 コロナウイルスに感染した。この国で初めて感染者が確認されてから一年を迎えようとしていたときだった。


 感染したことに気づいたのは、自室でインスタントコーヒーを啜っているときだった。一口含んでみても褐色の液体は粉っぽい苦味を舌の上に転がすのみで、あれ、もしかしてと私に思わせるには充分だった。


 * * * * *


 あめ玉をなめる。重たく降り続ける十二月の雨みたいなしつこさで、嫌な甘味が舌に絡みついている。必要な部分を摂取するためには、それを囲う無駄な部分まで一緒に取り込まなければならない。窓に貼り付く水滴を眺めながらそんなことを考えていると、唐突に、このあめ玉は私の人生そのものだと思った。


『あずちゃん、体調はどう?』、腹の上で震動したスマートフォンに、母からのメッセージが表示されている。この瞬間も私と母は同じ屋根の下で生活をしているのに、こうして無言のまま遠距離用のやりとりをしている状態は、私が感染していること以上の意味を持っているような気がしていた。窓に貼り付いていた視線が、傍らで山積みになった大学の教科書を経由し、足を覆っているせいで盛り上がった布団に着地する。数日前の検査で陽性と判明したあとも、保健所からの連絡があるまでは自室で待機しなくてはならなかった。


 雨が窓を滑る。引き寄せ合うように這っていったふたつの滴が、窓枠へ到着する直前にぴたりと結合した。その様子をぼうっと眺めてみても母への返信の内容は思い浮かばず、携帯を握り続けていることに飽きた私は、画面の上から下へ力いっぱい指を滑らせてみた。私と母のそれぞれ送信した吹きだしが、スマートフォンの画面を滑走していく。画面で唯一光を放っていない黒い文字たちのなかに、「自殺」の言葉を見たような気がした。


 熱、希死念慮で構成される体温が服のなかに籠もっていて、身体がそれを吐きだそうとしているみたいに額から汗が滲む。『何かあったら言ってね』、文末に添えられていた焦り顔の絵文字を見て、同じ表情の母が思い浮かんだ。画面に表示された「十二月七日」の文字が、憂鬱に浸りそうになった私の脳をぐっと引っ張り上げる。


 つい一週間前の、自殺に失敗した記憶がまだ高い鮮度で脳の表面を滑っていた。人生の最期を彩るはずだった十一月三十日が、つるりと転倒する。机の上で薄い埃を被っている卓上カレンダーが、十一月の顔のままこちらをじっと見つめている。


 下の階からドアの静かに閉まる音が聞こえてきた。それが合図だったみたいに、『熱は引きました』、画面の上下左右へ親指をスライドさせる。友人に送るものとは違って、母への文章には妙なぎこちなさが含まれていた。


 私にとって母というのは絶対であり、憂鬱の象徴でもあった。私が首を吊るという決断を下したのは、そういう憂鬱の連鎖を断ち切るためでしかなかった。


 母が態度を変えたのは、私が自殺に失敗してからのことだった。廃棄できない粗大ゴミは、取扱注意の精密機械に肩書きを変えただけだった。私が受けた暴力やら暴言やらに対して見て見ぬフリを決め込んでいた父も、出勤する際、憶えたての日本語を使うみたいに「いってくるね」を言うようになった。


 こんこん。木製の乾いた音が、部屋の空気を鋭く揺らす。続けて、「ごはん、置いとくね」母の、学校の先生に電話するみたいな高い声が聞こえた。「ありがとう」、耳を澄まし、母が階段を降りていったのを確認してから部屋の扉を開ける。新鮮な朝の冷たい空気が鼻を通り過ぎていく。湯気が立ち上るうどんをトレーごと右手に取り、反対の手でドアを閉めた。


 塩味だけで構成された熱と一緒に、胃から這い上がってくる吐き気を体内へ押し戻した。家族や知人に話すとき、私は自分の症状を「味がしない」と表現することにしている。味覚とは苦味や酸味、甘味などを指すものであり、ものを食べたときに感じる匂いは嗅覚に分類される。なくなったのは嗅覚のほうだったが、それでも多くの人が「味がしない」ことと嗅覚の消失を混同しているようだった。


 食事を済まし、傍らに転がっていた小説を手に取る。うどんが原因で上がった体温を逃がすため、熱の籠もった脚を布団の外へ放りだした。間もなく脚の表面が冷気に馴染んだものの、芯の部分にはまだ熱がこもったままだった。


 文庫本に吸い込まれた意識が夕焼けチャイムに引き戻されたころ、腹の上に放置していた携帯が激しく震動した。「もしもし」、喉から絞りだした声が高くなっていることに気づき、気持ち悪くなる。電話の相手は『南部保健所です』と名乗ったあと、この番号が私のものかどうかを確認した。今度はできるだけ低い声で「はい、そうです」、返事をする。電話の内容は、療養施設に空きができたから移動しましょう、とのことだった。


『空きができたって。明日移動します』


 頬の脂が付いたままの携帯に、急いで文字を打ち込む。その薄い膜を見たとき、生物という感じがして情けなくなった。


『そう、よかったね』、母からの返信に付いている拍手の絵文字を見て、自分勝手だと思った。私の希死念慮の根底にはいつも母がいる。気に入っているマグカップの底に、乾いたコーヒーが固まっていた。ぎゅっと絞り上げられた身体から冷感が失われ、ガソリンを補充するみたいに熱が隙間を埋めていく。母の存在、それと希死念慮から芽が生えて熱を生んでいる。自殺が失敗に終わってからまだ一週間しか経っていないのに、自殺という言葉に懐かしさみたいなものを感じた。


 私は、苦味がこびりついたそれまでの人生を終わらせてしまいたかった。苦味の構成要素は母からの虐遇であり、見て見ぬフリをする父であり、それから普通に育てられた姉だった。大人になってからもあとを引く苦味が、私の希死念慮をスポットライトで照らしている。


 再婚した父の連れ子だった私は、まるでその家の子どもじゃないかのように育てられた。家族団欒の狭い食卓に、私の座る席は用意されていなかった。一人固いフローリングで食事を摂るのには小学生のころに慣れてしまっていた。


 当時、姉妹で使う約束の元、親にゲーム機を買ってもらった。家にやってきたそのゲーム機には、姉の手垢だけが蓄積されていった。姉も私自身も、その疑問を口にしなかった。姉が家を出たあと、私はだだっ広いかつての子ども部屋に押し込まれた。姉が小学生のときに使っていた絵の具セットや卒業証書など、いまでも彼女の残骸が至る所に置かれている。個として認められなかったその過去が、私の希死念慮を誘発しているのだと思う。


 空が薄暗くなってきたころ、手持ち無沙汰を埋めるため、電子ケトルのスイッチを押した。布団の周りに転がっている小説や漫画の縁で、ケトルの赤い光がくつろいでいる。充電コードを引っ張ったとき、積み上がっていた大学の教科書たちに引っかかり、タワーがひとつ、音を立てて崩壊した。「あのときのことは申し訳ないと思ってる」、それが自殺未遂という結果を得た私に投げかけられた母からの言葉だった。昔のことを恨んでいるわけではないが、そう言われたところで身体に籠もっている熱をうまく冷却できるわけではない。喉の奥に張り付いた苦味をうまく溜飲できるわけではなかった。


「夕飯、おいとくね。熱はどう?」


 扉の向こうから声がする。「大丈夫、だと思う」と答える。「よかった」と聞こえる。私の言葉が敬語と常語の狭間で揺られ、それから行き場をなくしたみたいに転がっている。


 * * * * *


 玄関の扉を開放した先、空は、昨夜の雨が嘘だったかのように晴れ渡っていた。着替えや暇つぶしの道具が詰め込まれたバッグが、重たく私の肩にめり込んでいる。目覚ましが鳴る前に死んだ雨雲の余韻が地面に転がっている。


 憂鬱な気持ちが生む熱にはたしかな質量があると思う。母と言葉を交すたびに熱が生まれ、そして身体に重さが加わる。加熱された身体がずんと重くなる。そういうときは何かを考えようとするたびに靄が掛ったようになって、味のしないあめ玉をずっと口のなかで転がしているみたいな気分になる。


「あの非常階段を使って二階に上がってください」


 ホテルに到着すると、職員らしき男性が淡々とした口調で言った。それになんとなく頷き、言われたとおり非常階段を上っていく。それから貼り紙の指示に従い、廊下の椅子に腰を下ろした。数分後に防護服のような装備を纏った職員がやってきて、いくらか注意事項を話したあと、私を部屋へ案内してくれた。


 職員と別れて部屋に入った私は早速カーテンを閉め、荷物を放り、よそ行き用の服を全て脱ぎ捨てた。部屋着とは違って、人に見せるための服は重い。その重さを構成しているのは人の目とか人間としての尊厳とかそういうどうしようもないものだった。


 べッドに寝そべると、私の体重ぶん、マットレスが深く沈み込んだ。さすがに布を一枚も纏わずにいるのは場違いである気がして、背中のホックへ回した手を、結局枕として再利用することにした。


 小学生のころからずっと一人になりたいと考えていた。私は頭のなかでだけ自由だった。自殺することを考えている間だけ、私は熱の重さを忘れることができた。私にとって死というのは、私から熱の重さを奪うための冷却剤のような存在だった。


 天井を眺めるのに飽きてきたころ、携帯が誰かからのメッセージを通知した。身体を起こし、机に放置していたバッグへ視線を滑らせる。ベッドから這い出るのが面倒で無視しようかと考えたが、携帯の充電が残り僅かだったことを思いだし、重い肉体をベッドから剥がすようにして立ち上がった。


『体調はどう?』


 メッセージはアキからだった。「大丈夫だよ」、返信してやると、すぐに彼女から電話が掛かってきた。『もしもし』、応答ボタンに指を置いた矢先、歩幅の広い声が聞こえてくる。


『結局何だったの? 風邪?』

「ううん、コロナだった。いま患者用のホテルにいる」

『うえっ』


 情けない嗚咽のような声のあと、『へっ、まじで』や『え、やば』を経由し、それから彼女はようやく『言ってよー』と返事のしがいがありそうなことを口にした。下書き保存していた言葉が、一瞬で空気へ溶け込んでいく。


「ごめん、アキに報告するの、忘れてた」

『まあ、あずさらしいと言えばそうだけど』

「忙しかったから」


 カーテンに、薄く陽射しが滲んでいる。否定するようなことを口にしたものの、実際、アキの言うとおりだった。やらなければならないことが目の前でこちらを見ているのに、自分のなかで適当な言い訳を付けて後回しにしていた。いつの間にか、順番待ちのToDoリストが積み重なっている。いまこの瞬間も早くスマートフォンを充電しなければならないのに、それを完了するまでの手順が億劫すぎてなかなか実行に移すことができない。『うーん』アキの唸る声が聞こえる。「ごめんって」、怒っていないとわかっているから、私も半笑いで謝罪する。


「アキは体調、大丈夫なの? 一週間前に会ったけど」

『まあ、大丈夫でしょ。ねえ、コロナにかかると味がしなくなるってまじなの?』

「うん、まじ。味がしない。人によるとは思うけど」

『うわ、やっば。煙草の味、しないの?』

「罹ってから吸ってない」


 彼女は私に比べたら世間一般側に立っているので、「味がしない」という表現に納得してくれたみたいだった。それから他愛ないやりとりを続けたあと、彼氏との予定があるからと一方的に電話を切られた。


 身体に募った熱が下着の内側から逃げだしたころ、唐突に、荷物の整理をしようと思った。椅子から立ち上がり、ここに来る道中で買ったゼリーなどを冷蔵庫に収めていく。ビニール袋が空になったころ、突然、放送が入った。いまから廊下の配膳台に昼食を準備するので部屋を出ないでください。同じ内容が繰り返されたあと、放送はあっけなく終了した。


 昼食の配膳が終わるまでの間にトイレを済ませようと考え、便座に腰を下ろした。無様な音を立てて、尿が滴り落ちる。それと一緒に私の魂も抜け落ちた気がして、トイレットペーパーを手に取ったあと、身体のコントロールが効かなくなってしまった。配膳完了の放送が入り、がちゃり、次々と扉の開く音が聞こえてくる。その拍子に少しずつ意識が浮き上がっていき、開閉音が聞こえなくなったころ、熱を帯びたままの魂が本来あるべきだった場所へ戻ってきた。


 * * * * *


 自殺に失敗して以来、人生における味みたいなものを見失っている。人が生きていくためには自分の人生に味を感じ続ける必要があって、それは甘味でも酸味でも辛味でもなんでもいい。私の場合、それは苦味だった。母の支配的な態度を受けるたび、私は、これが自分の生き方なんだと安心させられることがあった。普通は幼少期に経験してきた家族や友人との楽しい思い出を軸に人生の味を見つけるのだろうけど、私の場合、そういった楽しい記憶は脳のどこを探しても見当たらなかった。優しさとか刺激とか、それを元に構成される味を感じることができなかった。これまで私の人生を彩っていた苦味を捨ててしまったのは、すでに生きることを諦めてしまったせいだった。

 母のことを考えていると、舌が乾き、体温が上昇する。頭のなかを母から上手く愛されなかった記憶がぐるぐると走り回り、舌の上に苦味みたいな成分を置き去りにする。そしてその苦味が、希死念慮を誘発する。喉の奥に、死にたい気持ちの残り香みたいなものが痰のように絡みついている。


 自殺に失敗した私に対して、母はそれまでの重い態度を一変させた。あずちゃん、ご飯は何がいい。あずちゃん、きょうは布団干しといたからふかふかだよ。あめ玉みたいに甘っ苦しい言葉に、私はこの一週間苦しめられてきた。苦味成分だけを摂取して生きることができれば逆に楽だったのかもしれない。母から与えられたそれを、愛情として受け取っていいのかわからなかった。


『味覚異常って、半年戻らない人もいるらしいね』

「え、うそ」


 電話の奥で少しの沈黙があってから、『本当』とアキが言った。大学のレポートを作成しているらしかった。窓を隔ててこちらを睨んでくる太陽がひどく眩しかった。近くを滑る巨大な雲は、当面、日光を遮ってくれそうになかった。


「はあ、もうやだ、死にたい」

『あずさがそれ言うと冗談じゃないみたいだからやめてよ』


 パジャマのボタンを外し、また留めるを繰り返している。「やめて」はこっちの台詞だ、と思った。死に損なって病院のベッドで呆然としていたとき、アキは「もう勝手に死のうとしたりすんな、バカ」と私の頬を両端から引っ張った。普段は弾むように話す彼女の声が、工事現場の騒音みたいに震えているのが印象的だった。生まれそうになっている嗚咽が喪失感を凌駕し、それから少し安心している情けなさでごちゃごちゃしている脳から「ごめんなさい」を絞りだすと、彼女は私の目を見て、「ほんと、無事でよかった」と声を震わせたまま笑った。彼女の震えに引きずられて泣きそうになったけど、そうすると目から希死念慮の熱が逃げてしまいそうで、私は涙腺へ昇ってくる震えを、喉の辺りで必死に留めることしかできなかった。


 やめてほしかった。私のことで泣かないで欲しかった。生を強要されているみたいで苦しかった。「死んでおけばよかったのに」、そう言われたほうがまだよかった。私には生きづらい世の中だと思うことがある。いや私だけではなく、世界というのは、熱、みたいなものを背負った人が苦しむようにできている。生きることの息苦しさが持つ熱にはやっぱり、たしかな重さがある。


 マスクをしてもアルコールで消毒しても溢れてくる死にたい気持ちはもう、私の手に負えないほどの成長を遂げていた。迷いなく「生きたい」と言えるようになることは、何億年後に太陽が活動を終えると聞かされたみたいに、途方もないことのようだった。手頃なロープが目につく癖を終わらせることのほうがまだ現実的だった。


『レポート、終わんないなあ』


「大変そう」、放送開始を知らせるチャイムが、私の返事にすっぽりと覆い被さってしまった。『昼の検温を始めてください』、部屋に掛けられたアナログ時計が、一を過ぎたあたりで二本の針を重ねている。文字盤を覆う薄いアクリルがちょうどこちらのほうへ照明の光を反射していた。


『検温だって。早めにやりなよ』

「まだ一時間あるし」

『いいからやっちゃいなよ。あんたはどうせ時間過ぎるんだから』


 そういうやりとりのあと、彼女の吐息でざざっと雑音が混ざるのを聞き胃が収縮するような気分を味わった。スマートフォンを手に取り、わざとマイクの前で「はいはい」と大声で答える。『うるさい、近い』と返ってくる。


 体温計が電子音を鳴らしたあと、専用のフォームを開き、「三十五・一」という数字を入力する。身体のどこかに苛立ちや希死念慮の熱が隠れているから、私の体温はもっと高いはずだった。ベッドの麓に、ペットボトルの蓋が転がっていた。

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