第90話 教皇庁の密偵
とにかく忙しい事この上なかった。
通常の書類仕事に加え、さらに様々な開拓用の物資を注文する商人たちが、どこからともなく殺到してきたのだ。
大規模な開拓が行われれば、それだけ必要とされる物資も大きくなり、経済規模も膨れ上がる。
つまり、一種の大規模な公共事業のような物だ。そこで何か希少金属の鉱脈などが見つかれば、さらにゴールドラッシュのバブルが生まれる事も考えられる。
未だ前人未踏の地が文字通り山ほどある大辺境ならば、そんな夢物語もありうる。
それを狙った商人たちや山のような書類仕事の中、リュフトヒェンは精神的に疲れきっていた。
そして、精神的に癒されるのに頼る物とは。
『ほれ、にゃんこおいでー。ほれほれ。』
そう、それは”悪魔”バエルの化身である黒猫だった。
何せ竜に近づいて懐いてくる猫などそうそういるはずもない。
流石に”悪魔”の化身に癒しを求めるのはどうなのか、と当の本人であるバエルの化身からも突っ込みが飛んでくる。
『いや、余が言うのも何だけど悪魔に癒しを求めるのはどうかと思うにゃ。』
そうは言っても体は素直……もとい、猫の姿をしている以上、その本能には逆らえないのか、左右に揺れる尻尾をまるで猫じゃらしのように追ってしまうのは、猫の悲しい本能だった。
黒猫とじゃれあいながら、リュフトヒェンは彼に対して聞きたかった事をふと尋ねる。
『所でにゃんこや。そのエイ何とか……とりあえずサマエル派の目的って何なの?』
『それはもちろん、
―――魔神竜サマエル。
『神の毒』『神の悪意』との意味を持つその存在は、死を司る天使とも、ルシファーと同じ熾天使とも、楽園の園に住んでいた蛇とも呼ばれ、謎に包まれた存在である。
十二の翼を持った赤い蛇であり、黙示録の赤い竜とも、またはサタンに匹敵するほどの強大な力を持つ魔王、またはサタンと同一視されたりもする。
現実世界に存在していたヨハネの黙示録。そこに現れる黙示録の赤い竜。
世界は違えど似たような黙示録はあるんだなぁ、と現実逃避的に考えるリュフトヒェンだが、いつまでも現実逃避している訳にはいかない。そんな黙示録な状態になったら、それこそママンにご出陣願うしかない。
そして、どれだけ被害が出るか解らないそんな戦いは、絶対に阻止したい所だった。ふむ、とリュフトヒェンは自らの顎に指を当てて考え込む。
『……ともあれ、にゃんこ、もといバエルとしてはサマエルが降臨するのは避けたい訳ね?』
『あったり前にゃ。サマエル派大勝利であいつらにこの地上を好き勝手されるのは絶対阻止にゃ。そのためならそちらに協力を惜しまないにゃ。』
爪を立てないようにして、指でバエルの喉を撫でてやるリュフトヒェン。
いかに悪魔と言えど、やはり肉体の性質には囚われるらしい。ゴロゴロと機嫌よさそうに喉を鳴らすバエルに対して、リュフトヒェンは彼に頼み込む。
『で、サマエル派は神聖帝国に潜んでいるんだよね?今どんな状況になってるかバエルに偵察を頼んでいい?またどうせ何かやらかすんだろうし。』
『まあ、仕方ないにゃ……。そこは利害が一致してるしにゃ。了解にゃ。』
そして、そんなじゃれている二人を柱に隠れながら遠目でじっと見ている一人の人物が存在した。それは、ミディアムヘアーの18歳ほどの少女、
普段の快活さとは対極に位置する冷徹な瞳で、リュフトヒェンとバエルを鋭く見つめる彼女の姿は、それまでの彼女とはまるで別人だった。
「……まさか”竜”と”悪魔”が手を結ぶとは……。これは至急連絡する必要あり、か……。」
そんな風にこっそりと遠目で鋭い目で彼らを見ているデリラに対して、急に誰もいなかったはずのデリラの背後から、おっとりとした声が響き渡る。
「あらあら~。随分とあの二人も仲良さそうですね~。こんな所で遠目ではなくもっと近くに行って見た方がいいのでは~?」
「!!?」
その声に、デリラは驚いて背後を振り向く。誰もいなかったはずのその場所には、にこやかに微笑む長身の女性が存在していた。
それは、辺境伯であるルクレツィアであった。
先ほどまで誰もいなかったはずの場所にいきなり現れた彼女に対して、何らかの魔術か?という視線をデリラは送るが、それを肯定するようにルクレツィアはにっこりとほほ笑む。
「セレスティーナ様がバエルの術式を解析した姿隠しの魔術ですわ~。相手の魔術探知もある程度ならすり抜ける光学迷彩魔術なんて、諜報員からすれば喉から手が出るほどほしいものですわね?教皇庁の密偵さん?」
にこやかに微笑んではいるが、まるで切りつけるほど鋭い視線でルクレツィアはデリラを射抜く。歴戦の戦士である彼女のその殺気を秘めた視線に、流石の諜報員の訓練を受けたデリラも身動きが取れなかった。
そう、彼女が
それは当初からセレスティーナとルクレツィアたちには気づかれていたが、あえて泳がされていたのである。
「まあまあ、別にここで貴女を始末する気はありませんわ~。そういえば、最近教皇庁への献金を行っていませんでしたわね~。よろしければどうぞ~。」
そう言いながら、ルクレツィアは彼女に対して布袋にどっさりと入った多くの宝石を手渡す。それは、リュフトヒェンがセレスティーナに対して神殿の建設や運営費、人件費などのために手渡した財宝の一部である。
それに対して、デリラは怪訝そうな表情でルクレツィアを見つめる。
「……何のつもり?私を買収するつもり?そんな事は無駄ですよ?」
「いえいえ~。こちらの宝石はそのまま教皇庁へと献金していただいて結構です~。
その上で「私たちは別にそちらに敵対するつもりはない」とそう伝えていただければ~。ああ、当然悪魔の事は内緒でお願いしますね~。」
教皇庁からすれば、教皇の権威に全く従わない新しい権威、まつろわぬ民の集合体である竜皇国の存在は極めて強大な脅威である。
そのまま周囲の国を併合し、教皇庁へと牙を向いて、こちらを滅ぼすのではないか、と考えるのは至極当然だ。
だが、逆に竜皇国としては、教皇がこちらを脅威を見なして”聖戦”を発動されるほうが遥かに厄介である。
”聖戦”が発動して、周囲の国家全てが敵になって襲い掛かってくれば、いかに竜皇国といえど滅ぼされてしまうだろう。
「それよりも~。神聖帝国が”悪魔”に乗っ取られつつあるという方がそちらにとって脅威なのでは~。もちろん、こちらで得た情報をそちらに流す準備はありますよ~。そちらが敵対行動を行わなければ、ですが~。」
現状、デリラは諜報員ではあるが、教皇庁との貴重なパイブである。
彼女、つまり教皇庁との連絡手段は確保しておきたい、という思惑で、デリラは今まで見逃されていたことは、彼女自身にも理解できた。
デリラは、ルクレツィアの言葉にしばらく考えた後、こくりと頷いた。
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