猫の行方
武州人也
どこへ行ったか……
「ミコー! どこ行ったー!」
鉛色の空の下、
ほんの少し、目を離しただけだった。その隙に、飼い猫のミコが姿を消してしまったのだ。
裕翔とミコは、物心ついたときから一緒だった。人と猫という違いはあっても、ミコは裕翔にとって家族だ。裕翔だけでなくその両親にも祖母にも可愛がられていたミコが、まさか脱走するなんて……この少年にとって全く信じがたいことであった。
「ミコ……どこ行っちまったんだよ……」
一人で家を飛び出し、町中を歩き回って探した。けれども見つからないまま、日も傾きかけてきた。とうとうこの少年は諦め、絶望顔で家路についたのであった。
「ミコ……どうしてだよ……」
その夜、裕翔はベッドの中でうずくまり、一人しくしく泣いていた。ミコがいないだけで、何だか家ががらんとしたように感じられた。母親には「明日警察に相談に行こう」と言われたけれど、心はちっとも晴れない。
今ならまだ、そう遠くには行っていないはずだ。けれども、時間が経てばどうか……もっと遠くに行ってしまって、元に戻るよすがを失ってしまうかもしれない。遠くでも生きていてくれればまだ救いはあるが、外で車に轢かれたり、厳しい生存競争に負けて野垂れ死んでしまうかも知れない……そうした悪い想像が次から次へと浮かんできて、裕翔の心はすっかりひび割れてしまった。ひび割れた隙間から水が漏れ出るように、彼の目からは涙があふれ出している。
結局、この少年は泣いて泣いて枕を濡らして、泣き疲れたところで眠りに落ちたのであった。
***
さて、裕翔が眠った少し後。草木も眠る丑三つ時……
緑地公園にある大きな池のほとりを、一匹のキジトラ猫が歩いていた。その首に巻かれた赤い首輪は、彼女が人間によって長らく飼育されていたことを意味している。
このキジトラ猫は、人間の家族に「ミコ」と呼ばれ可愛がられてきた。けれどもあるとき、縁側でくつろいでいると、目の前をひらひらと蝶が飛んだので、それを追いかけて外に出てしまった。
外を自由に歩き回ったことなどなかったから、新鮮な景色に刺激されて、つい遊び回ってしまった。気づけば日も暮れて、夜もすっかり深まっている。
――そろそろ帰ってやろうか。
外の世界は確かに刺激がいっぱいで、楽しかった。けれども人間との暮らしに不満があったわけではない。飲み食いに困ることはないし、危険な外敵に襲われることもない。やはりあの環境には、手放しがたい魅力がある。
街灯の明かりと匂いを頼りにしながら、ミコは家に向かって歩き出した。そのとき――
突然、池の水が山のように盛り上がった。池の中から、何か大きな、黒々としたものが現れる――
黒い体に、大きく裂けた口、まん丸な眼に、口元から伸びる四本のひげ……見たこともない巨大な魚が、池の中から岸に身を乗り出してきた。
ミコの尻が、巨大魚の大口にとらえられた。ミコは必死に土を蹴って、この巨大魚の口から逃れようとした。しかしこの魚はしっかりと尻を咥えて離さない。剣山のようにびっしり生えた細かい歯が、ミコの尻にがっちり食い込んでいる。
ドラ猫咥えた巨大魚は、ずるずると獲物を池に引きずり込もうとしている。この魚は完全に、ミコを獲物として食らおうとしているのだ。
水中に引きずり込まれたら終わりだ……ミコは四肢の踏ん張りをきかせた。が、パワーでは巨大魚に分があった。地面に引きずり跡を残しながら、ミコの体はどんどん池に近づいていく。
やがてミコの体は、水中に没した。ホームグラウンドに引きずり込まれてしまえば、あとはもうワンサイドゲームだ。ごぼごぼ泡を吐いてもがくミコを、巨大魚は左右に振り回しながら咥え直した。ミコの後ろ脚は完全に呑み込まれ、ぬるぬるとした口内に体の半分が収まった。
だんだんと、ミコの動きがにぶくなっていく。酸欠で衰弱しているのだ。自然界では強力なハンターである猫も、水中という不利な環境と体格の差で抑え込まれてしまえば無力である。ミコの体は、もう頭部以外すっぽりと呑まれてしまった。
結局全ての抵抗を放棄したミコは、巨大魚の糧となって、個体としての生命を終えたのであった。
***
ミコがいなくなって一週間後、緑地公園の池で二メートルをゆうに超えるヨーロッパオオナマズが発見された。特定外来生物法によって輸入が禁じられている種類であるから、おそらくかなり昔にゲームフィッシング目的で放流されたものが成長したのだと思われる。
ミコを失った悲しみに暮れる裕翔は、そんなニュースを聞き流して気にも留めなかった。
猫の行方 武州人也 @hagachi-hm
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