第2話 通り魔だと!?

 俺が疲労のあまり眠りに入ってから、恐らく15分ほど過ぎた頃。

 何故か周囲の音が耳障りで、目を覚ましてしまった。

 何だ? 子供がション便でも漏らしたのか?

 それとも変な爺さんが歌でも歌って迷惑かけてるのか?

 重い瞼を上げ、周囲の状況を見てみると……。


 俺の目の前には、必死で何かから逃げる人々の姿が真っ先に目に入った。


 疲れのあまり思考停止状態の俺でも、明らかに異常だと気が付いた。

 逃げている人たちの顔を見てみると、冷や汗を流しながら必死で運転手のいる車両の方へと走っている。

 火事でも起きたのか? いや煙が充満している訳でもない。何かが焦げたような臭いもしない。

 一体何だ? 何が起きている?

 状況が全く読めていない俺だったが、必死で逃げているサラリーマンの口から発せられた言葉で、ようやく状況が理解できた。


 


 は……? 通り魔?

 衝撃の事実に動揺したせいか、夢の中にいるんじゃないかっと疑ってしまった。

 試しに頬をつねってみるが、普通に痛い。何度もつねるが、そのたびに痛みを感じる。

 え……。ってことはこれは夢じゃないのか?

 意識をはっきりと感じるこの世界が、夢でないと認識した瞬間。

 俺は席から立ち上がり、人の流れに沿って運転手がいる車両の方へと走り出した。

 濁流に抗えず流されていく枯葉のように、俺は何も考えずただひたすら前へと走った。

 その途中で振り返ると、俺の後ろにもまだ何人か逃げている人がいる。

 だがその一番奥に。


 30


 刃物の先端には血が少しばかり付着しているのが、何となくだが見える。きっと何人かは切られたんだろう。

 男の容姿は、ぼさぼさの頭にやせ細った見た目をしている。この場にいる者の目には死神に見えてもおかしくない。

 体を不自然に左右に揺れながら、一歩ずつ近づいてくる。

 それにあの男……。

 笑ってやがる。嬉しそうに笑ってるがる。

 まずいなこれ。どうすればいいんだ。きっと誰かが通報して、次に到着する駅には警察や駅員の人が待機している可能性は高い。


 だがそれまでの間どうすればいいんだ?


 しかもよりによって、その次の駅が俺の家の最寄りだ。つまり、俺は次の駅で降りないといけない。何で俺が降りる前に、こんなことをするんだよ。

 クッソ! 受験を終えた日に死ぬなんて不幸過ぎる!

 まだやってみたいこと、体験してみたことが山ほどあるんだ!

 死ぬのだけはごめんだ。

 そう思っていた時。


「キャッ!」


 と、俺の前方から女性の悲鳴が聞こえた。俺は声がした方へ目線を逸らすと、向かいの席に座っていたあの美少女が床に手をついて倒れていた。

 どうやら逃げている最中に、足がつまづいて転んでしまったらしい。濁流のように人が一斉に逃げている中、不注意で転んでしまったため、中々起き上がれることができない。

 無理もない。立ち上がろうとするたびに、逃げている人の膝や足が当たっているからな。

 その状況を横目で見ていた俺だが。

 

 正直、何もできなかった。

 

 手を伸ばせば届く位置にいる訳じゃない。仮にあの子と俺の距離が近くだったとしても、人の流れに逆らって手を差し伸べるなんて、できるはずがない。

 俺は声をかけることなく、そのまま通り魔がいない車両の方へと一気に加速した。

 いや、俺は見て見ぬふりをしてそのまま走った。

 今の俺は、きっとクズ呼ばわりされても、おかしくないな。

 そんなことを思っていると、


「い、いや……。来ないで……。や、やめてくださ……い」


 恐怖のあまり震えているあの子の声が、俺の心をグッと苦しめた。反射的に後ろを見てみると、通り魔の男が、あの子の目の前に不気味な笑みを浮かべながら立っていた。キラリと光る刃物が、俺の目には死神が持つ鎌にしか見えない。いや、俺だけじゃなく、あの子の目にもそう見えているはずだ。

 通り魔を前にして、あの子の目からは大量の涙が流れ出る。


「あは、あははは。こんなカワイ子ちゃんがいるなんてビックリだ。仕事も家族も失った俺と、一緒に地獄巡りしてくれないかな? 俺と一緒にあの世でデートしようよ?」


「い、いや……。まだ死にたくない……」


震える声で最後の力を振り絞り、あの子はこう言った。


「……だ、!」


 助けを求める声を聞いたと同時に、俺の体がピタリと止まった。

 どうにも俺の耳からあの子の声が離れない。離れないんだ。

 ちくしょう……ちくしょう! ちくしょうが‼

 何で受験を終えた日に、こんな最悪な場面に出くわすんだよ⁉

 本当なら逃げてぇ。誰よりも真っ先に逃げたい‼

 俺が助けに行ったとしても、無傷で助かる可能性は低いに決まってる!

 わざわざ死にに行っているようなもんだ!

 でも……。でも。


 もし今ここで逃げたら、俺は後悔しか残らない人生を歩むことになる。


 あの子にだって、大切な家族や友達がいるだろうし、夢だってきっとあるはずだ。 

 やりたい事も一杯あるはず。 

 きっとそうだよ……。絶対そうだ。

 やめよう。逃げるのは辞めにしよう。助けに行こう。

 俺が行くんだ!


 次の瞬間。


 俺は逃げ惑う人混みに背を向けて、今まで最速なんじゃないかと思ってしまう程、猛ダッシュであの子の方へと駆け付けた。

 きっと周囲の人から見れば、わざわざ死にに行くようなもんだろうと、思われるに違いない。

 自分でも勿論自覚している。

 俺は別に正義のヒーローに憧れている訳じゃない。皆から認められるヒーローなんてこれっぽちも興味がない。

 だけど、罪なき人が抗えずに死んでしまう場面を、黙って見てられるかよ。

 俺は死ぬ覚悟を強く決め、そしてあの子の前に立った。

 

「え? あなたは……?」


 まさか本当に助けが来るとは思ってもいなかったんだろう。予想外の俺の登場に、あの子の流れ出る涙が一瞬止まった。


「あ? 誰だお前? カワイ子ちゃんの彼氏か?」


 俺の登場に通り魔は少し困惑した様子を見せつつ、すぐにまた不気味に笑いだした。

 無差別に人を殺す奴の笑み何て見たくねぇーんだよ。ちくしょう。


「まあいいや。誰でもいいんだ。1人で死ぬのは嫌だから、お前がカワイ子ちゃんの代わりに死んでくれぇぇよぉぉぉぉ!」


 男は奇声を発しながら、右手に持っている刃物を真上に上げた。どうやら、これから俺の体をそれで一刀両断するつもりらしい。

 こんな状況を前にして、緊張や恐怖を感じない、なんてことは全くない。

 ぶっちゃけ内心めっちゃ怖い。

 でも、俺がいまここで逃げれば、間違いなく後ろにいるあの子が死ぬ。背を向けて逃げたとしても、後悔だけが心を支配するのは確実だ。

 ぜってぇ逃げねぇ。

 男が刃物を振りかざす前に一瞬だけ視線を後ろに向け、俺はあの子に声をかけた。


「今のうちに逃げるんだ。俺が何とかする。だから大丈夫だよ」


 この台詞を聞いた直後。あの子は涙を流しながら立ち上がり、安全な車両の方へと逃げて行った。

 足音が遠くなるにつれ、俺は少しだけ安心した。ホッとした。

 だが、こんなことをしたところで、通り魔が惨殺を辞めるはずがない。むしろ息を荒くしどこか興奮しているように見える。

 そう考えていると、通り魔は腹の底から声を出した。


「ひゃはははは! 死ねぇ! クソガキィィィィィ!」


 振り上げた右手を勢いよく降ろそうとした。成人男性の腕力にこの刃物なら、十分致命傷を与えることができる。もし攻撃を食らえば、俺の体なんて、失血多量で死ぬだろうな。

 一見すれば、俺の方が圧倒的に不利。勝ち目はほぼ無いと言っても過言ではない。

 だが、あくまでこれは一般人だったらの話だ。

 俺なら生存率0%を、僅かに上げることができるかもしれない。

 何故なら……。

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