第五章 涙雨
それはボクにとっても衝撃的な出来事だった。
一瞬のことだった。雨でタイヤを滑らせたトラックが陽太くんを跳ね飛ばされた時、スローモーションのように時がゆっくりと動くのを感じた。
ボクはすぐに救急車を呼び、病院へ付き添った。
すぐに陽太くんのお母さんとお父さんが駆けつけてくれて「冷静位に対応してくれてありがとう」とお礼を言われた。もちろん心は冷静ではなかったが。
病室で眠っている陽太くんは、適切な処置をされて頭に包帯を巻いていた。
お医者さんは「頭を強く打ったようだけど、命に別状はない」との事でボクは心底安心した。
安心したのも束の間、陽太くんは目覚めるなりボクのことを「知らない人」と言ったのだ。
訳が分からなかった。ボクのことが分からないのと問い詰めても「思い出せない」と言うばかり。頭が真っ白になった。ボクは陽太くんの『彼女』ではなく『知らないクラスメイト』になったのだ。必死に涙を堪えて病室を後にした。
帰って部屋のドアを閉めた途端、涙がボロボロと溢れ出した。
下を向いてた為、頬を伝う間も無く涙は地面に音を立てて落ちてった。
彼は半年分の記憶を失っていたようで、季節が過ぎているのも忘れていた。
二人の日記とは別に、実は自分でも日記を書いていたボクは、鼻を啜りながらページを捲った。
『20×× 9月3日
今日は二人の記念日だ。初めて彼ができた。
実はずっと気になっていた。名前は時雨陽太くん。なんだか名前に親近感を抱いたのがきっかけだった。
あれからぼくは彼をたまに観察するようになった。
観察して気づいたことがある。どうやら彼は泳げないらしい。
どうして水泳部に入っているのか分からない程にカナズチだった… 』
そうだ、あの時から気になっていたんだ。
ボクが貧血で倒れた時に一早く駆けつけてくれたんだっけ。
そして勇気を出して話しかけて、遊びに誘ったんだっけ。
涙は止まらず日記帳に水滴がぽたぽたと濡れて文字が滲んでいく。
ドッグタグのことも、初めて体を重ねた日も、彼は全部忘れていた。
その日は涙が枯れるくらい泣いて、気づけば眠りについていた。
腫れた目を冷やして、気づかれないようにと目を冷やしたりしてなんとか目の腫れは収まった。
月曜日、ボクは彼の家にいつものように迎えに行った。「おはよう」とできるだけ自然に、笑顔で挨拶をした。
彼は驚いていた。忘れているんだ、無理もないだろう。
いつもは一緒に学校に行ってるんだよ、と伝えた。
「ありがとう、茉莉さん」
茉莉さん、か。事故に会う前、彼はボクのことを雫と呼んでくれていたのにな。
そのことを伝えると彼は「じゃぁ、これからそう呼ぶ」と少し照れながら承諾してくれた。
それから毎日行きと、帰り道に日記を内容を復習するように話した。
彼は楽しそうに聞いてくれた。でも私はどこか心ぽっかり穴が空いた虚しさを感じている。
多分、それは彼も同じだろう。そう思うようにした。
「今日はどんな話してくれるの? 」
「じゃぁ、今日はそこのページの話をしようか」
こうして日記を読みながら詳細を話した。
どんどん現在の日付まで迫ってきている。しかし私はあるページを分からないように破いている箇所がある。
それは『記憶を無くしてる陽太くん』には見せたくないページだった。
あの日の事。そう、私たちが初めてドッグタグを買った日や、雨の日には必ずお洒落にコラージュした日記を作成している事。
これは私だけの秘密に…心の中だけの思い出に残しておきたかった。
話さなければ彼は覚えていないのだから、見せたってどうにもならないのだ。
*
日記の振り返りをすること四日間。天気は快晴が続いている。
ボクはあれから考えていた。この一週間が終わる頃には、日記のもう現在に追いついてしまう。そうすればあの頃の陽太くんとの日々を更新できない。
今の彼が嫌いなんて、そんなことじゃない。でも、何かかが違うのだ。言葉にできない『何か』がボクの心を闇へと沈めていく。精神的に限界だったのだ。
元々メンタルは弱い方だった。
だから、もう、耐えられなかった。
作り笑いをすることも、楽しそうに、懐かしそうに話すことも。
もういっそ彼から離れてしまいたい。ボクも彼を忘れたい。
決断にそう時間はかからなかった。明日、彼に全部話そう。
そしてこの関係も終わりにしよう。家に着き、部屋着に着替えベッドに倒れ込む。
「大丈夫、元に戻るだけ。水泳に力入れよう」
気持ちを押し殺して別のことに専念しよう。そうするしかなかった。
寝る前になんて切り出そうか色々考えているうちに眠りについた。
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