第六章 雪解雨
金曜日。ボクは今日彼に別れを切り出そうと思う。
いつもより動作が遅いのを感じる。気持ちがズン、と重くのしかかる。
でも、もう決めたことなのだ。『こんな事で』なんて自分でも思う。
前の私ならそんなに心にダメージを負わなかっただろう。
彼に全てを変えられたのだ。もちろん、悪い意味じゃない。
彼のお陰で人を愛せるようになった。愛される事で満たされる心の温かさも知った。
この先それが前のように更新される事がないなら、もう。
制服を着て、親に「行ってきます」と挨拶をし、家を出た。
ボクの気分に相応しくないくらいの快晴だった。
彼の家に行くまで、深呼吸を何度も繰り返した。緊張しているんだ。
家に着く。もう一度玄関の前で深呼吸をする。
笑顔を作り、インターホンを押す。帰り道に切り出そうと決めていた。
今日で最後だ、と自分に言い聞かせた。
ドアがガチャリと音を立てて開き、彼が顔を出した。
「おはよう、雫」
「おはよう、陽太くん」
彼の親御さんが「雫ちゃんいつもありがとう」と言ってくれた。
心がツキンと軋んだ。これで最後なんですとは言えなかった。
いつものように「今日はどんな話をしてくれるの? 」と彼は楽しそうにボクの話を待っている。まだ日記は最後まで行ってない。最後の日記には届かないようにいつもよりゆっくりと話した。
*
「じゃぁ、また帰りに」
「うん、話そうね。授業頑張って」
「雫もね」
学校に着き、下駄箱で言葉を交わした。
帰りの事を考えると、今から気が重くなる。
ボクは授業にもイマイチ力が入らず、ノートが感情を表しているようだった。
塞ぎ込んだまま最後の授業のチャイムが鳴った。
よし、と気合を入れ教室を出て、下駄箱に向かう。
今日は部活が無い日なので、丁度彼と鉢合わせした。心拍数が上昇する。
今日、彼に別れを切り出すのだと。こんなドキドキは感じたくなかった。
「おつかれ、一緒に帰ろう。雫」
「う、うん。帰ろう、陽太くん」
返事がぎこちない。悟られれない様に慎重に言葉を選びながら校門を出た。
「 —それでさ、今日先生が— 」
彼は今日あった出来事を話してくれた。それにボクは少し緊張がほぐれ、普段通りに話す余裕ができた。
ボクの家と彼の家は公園を挟んだ反対側にあるので、そこでいつも別れて家に帰る。
もうすぐ公園が見えてくる。話すなら今しかない。
もう一度大きく深呼吸して「あの、話したい事があるんだけど」と言おうとして彼を見た。
すると彼は空を見ていた。ボクも言いかけた言葉を飲み込んで空を見た。
今にも雨が降り出しそうな曇り空だった。
「 …雨、降りそうだね。今日は快晴だったのに」
「そうだね、ここ最近ずっと晴れてたからなぁ」
言うや否や、ポツリ、と頬に雫が落ちた。雨だ。
最悪だ、これじゃ話を切り出す暇も無いじゃないか。
ボクの話を遮るように…いや、今思えば阻止するかのように雨はすぐに酷くなった。
「わ、降り出したね。これもう家に着く頃にはビショビショだね」
そこかで聞いたようなセリフだった。
そうだ、あの日、初めて身体を重ねた日も帰り道に雨が降っていたっけ。
思い出して泣きそうになる。今なら雨に紛れてバレないんじゃ無いかなとさえ思う。
「じゃぁここで… 」「ッ、雫待って! 」
いきなり彼は何かを思い出したかのように切羽詰まった声でボクの腕を掴んだ。
もう涙が止まらなくて前なんて見えなかったが、振り返って彼を見る。
「 —なぁ、ペトリコールって知ってるか? 」
「そ、それ— 」
ボクだけが知ってる言葉だった。
ペトリコールはボクの中で一番大事な思い出だったから、記憶を無くした彼には敢えて秘密にしておいたはずなのに、どうして…。
しかもその言葉はその日、彼は偶然テレビでニュースキャスターが言って初めて知った言葉なのに。
瞬きをして涙を落とす。視界が少しクリアになって彼の顔がさっきよりはっきり見えた。
彼も泣いていた。いや、雨なのかもしれない。でも、とても切なくて辛そうな顔をしていた。
「 —思い出した。全部、思い出した。あの日のことも、今までの事も」
「そんな、それじゃぁ— 」「ああ、今日、オレの家に雨宿りしに来ない? 」
今にも泣き叫びたいくらいに感情が大きく揺さぶられた。手で口を抑え声を抑えたが涙は止まらなかった。あふれて、こぼれて、彼がボクの頬に手を伸ばす。
大粒の涙は、雨の水滴よりも大きく、暖かかった。
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