月の囚人 【KAC2022】-⑩
久浩香
月の囚人
宇宙に目をやれば、黄金の月が、そこだけぽっかりと
クマザサの繁る藪を抜け、彼の
彼は、地中深くに潜り込んでいる大樹から伸びた一本の太い根の真上を歩んで、ここまでやって来たので、その根が地表から浮き出ているのが目視でき、もう草も生えていない場所まで近づくと、根を踏むのを避け、土を踏んだ。
鎖骨が露わになるほど着乱れた
「戻りました」
と、大樹に向かって呼びかけると、木陰から白いシャツにテラテラの上着を着て、ボサボサ頭のこけた頬の青年が、幹の後ろから伝い歩きをしながら姿を見せた。
「お帰り」
青年は目を細め、柔らかく微笑む。
彼にとって青年のその微笑みは、どんな仏の慈愛の微笑よりも尊い。
長い長い旅路から戻った彼の、蓄積された疲労の全てが浄化したように感じた。しかし、だからこそ、その笑みの眩しさが、ずんと肩に圧し掛かり、体を重くした。
暗く陰った彼の表情に、青年の笑みに憂いが混じった。
「鍵は無かったのだね」
「……」
彼は、俯くしかなかった。土の上には幾つもの太い根が地表に浮き出ている。
「気にする事はない。そもそも、私が鍵を落としてしまったのが原因だからね」
青年は、枝葉の隙間から月を見上げた。
彼は、いたたまれなさに両膝をつき、額を地面に摺りつけた。
「申し訳ありません。劇中外での私は、主人公と二人きりの逢瀬どころか、姿を垣間見る機会すらなく、主人公との幸せな結末を迎え、ようやくという時には、既に鍵を提げた主人公はスクリーンの間を抜け、次元を去った後で…」
「…うん。顔は上げてよ。解ってるから。彼女の役は、入内を目前に控えた姫君だったからね。女優の彼女が演じる主人公が、主人公の恋焦がれる下級貴族の君と、描かれていないエピソードで逢っていたとなれば、ハッピーエンドにはならなかった。…なのに、それを恥じて、終演後は結局、彼女と別離れ、出家してしまったのだろう。浮世の春を謳歌すればよかったのに…」
彼の人生 ── それは、平安時代を舞台としたとあるフィクション映画の役であった。映画の中で描かれる物語の間は、配役された役者の領分で、彼は彼の思うままには動けなかったが、描かれないエピソードとエピソードの間やその前後の人生を歩んだのは彼だ。
「そういうわけには…」
青年は、地面から額は外したものの、相変わらず下を向いたままの彼に嘆息する。
「まぁ、仕方ないね。自分の信念は曲げられない。徴兵に納得できず、思想犯 ── アカと呼ばれた私と君は同じだから…」
「…」
「特高から逃げていた私を、まだ少女だった彼女が納屋の中に匿ってくれたんだ。まさか、彼女が私に恋愛感情を持つなんて思ってもみなかった。もし、私が鍵を落とさなければ、こうなる程、私に執着する事もなかったんだと思うよ。私の落とした鍵は、彼女にとってのロザリオとなって、彼女は私との再会を祈り、女優となった後も、もう現世にはいない私を想い探し続けた…」
青年の居るこの世界は、女優の無意識の思念でできた世界だ。生前の女優が生きる世界を此岸というのに対し、死後に彼女が訪れる彼岸がここである。
大樹は、彼女の女優としての功績であった。枝葉は彼女に与えられた賞賛と喝采である。対して、根は彼女が出演した作品の数々であり、太い根は、彼女が主演を務めた映画の作品の物語である。
青年との再会を願い祈り続けた彼女の想いは朧雲となって、特高の拷問の末に亡くなり、浮遊する青年の魂を捕らえた。それが“月”であったのは、現世で二人が出会い、僅かばかりの時を過ごしたのが満月の夜であった事が影響しているのだろうが、“牢”であるのは、青年の今際の際に刻まれた心象風景に寄るとことろかもしれない。
女優としての人生と青年が、生前の彼女の全てだった。
さて、思念の世界と現実世界が重なる刻があった。その刻は、現実世界に生きる者には、明確に何時という事は解らないが、彼岸の側には“出船入船の刻”があった。つまり、人が現世に入船に乗って誕生した瞬間から、出船に乗って死亡する刻は決まっており、毎日、その刻になると二つの世界は重なる。それは、思念の世界が、その世界の創造主の魂を迎え入れるまで周り続ける。
もちろん、青年にも自信の思念の世界があり、青年の魂の本体は、そこに在る。女優の思念の世界に囚われている青年は、青年の魂の欠片だ。
女優の思念の世界では、“出船入船の刻”になると、月が黄金に煌めき、それまで青年を監視している朧雲は、女優の魂の為に、月から離れる。
青年の希みは、本体の魂の元へ還る事であったが、死後の時間は永い。彼女が死ぬのを待つ、人の世のたかだか5、60年など、あっという間の筈だった。女優の魂が大樹の下に現れ、月へ昇ってくれば、鍵を返してもらい、還れると思っていたのだ。
「笑い種だ。こうして縛っておきながら、彼女は、今際の際に解脱した」
女優は既に死んでいる。
しかし、彼女の魂は、この自分の作りだした此岸に来る事なく、どこか遠くの場所へと飛んで行ってしまった為、彼女の思念の世界は、永久に不安定なまま“出船入船の刻”に現実世界と重なり続ける事となった。
青年は絶望した。
しかし、絶望の中、黄金の月の間なら、自分が月の牢から出て、大樹の下へ降りる事ができる事を発見した。
青年は、自身の分身を作り出し、大樹の根の中に放った。現実の人間を作り出す事は不可能だが、作り物の世界を現実世界に置き換えて、そこに登場する“役”であれば可能だったのだ。
黄金だった月が白く変わり、朧雲が吸い寄せられるようにゆっくりと集まっていた。
「月へ帰らねば、な…。朧雲がまたぞろ集まってきている。あれらが囚人の私がいない事に気づけば面倒な事になる。それに、鍵の無い私には、この真夜中の世界のどこをどう逃げようとも、牢の壁に描かれた出口の扉を開ける術はない。…まぁ、いいさ。彼女の作品はまだ多数ある。いつか、彼女から鍵を返して貰える日も来るだろう」
青年は、彼に向かって手を出した。
彼は、彼の長い長い一瞬の人生を終えるのに、その掌を両手で包み込むように握り、青年の中に消えた。
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