第5話

物音ひとつない静寂の中、一正はやってきた道場の修練場の中心に正座で座りこむと目を閉じると瞑想を始める。


何をするのにもまず精神を落ち着けて集中をする。『明鏡止水』それがこの道場で一正が教えられてきた最たる教えである。


一正がこの道場に通うようになったのはまだ彼の両親か生きていた頃。一正が物心ついてすぐの事だ。両親の意向によりこの道場に通い始めてから十数年がたつがここでの修練だけは欠かさずに続けていた。古武術に通ずるこの道場では徒手空拳から剣、槍、薙刀とあらゆる武術を教えている。まさに実戦を念頭に置いた武術をである。


「あーくそう。ダメだ全然集中できない。これもあの化物爺のせいだな…」


一正の父もまたこの門下生の一人であり、ここに通うように勧めたのは源三郎その人だ。源三郎の使う古武術もまたこの道場で教えているものと繋がりがあるとのことだ。親子の縁を切るまでに至った一正の父、誠心と祖父、源三郎であったが、この道場の教えを息子にも伝えたいという父の想いから、一正をこの道場へと通わせたようである。


「誰もいないかと思えば君が来ていたのか。道理で静かだったわけだよ」


突然に後ろから声をかけられる。声をかけられるまで全く気配を感じる事が出来なかった。驚きで少し心臓が早鐘を打つ。

しかしそれも仕方がない事だろう。この声の主を相手にしては一正に勝目などない。祖父、源三郎と共に一正が今もこれから先も絶対に敵うわけが無いと感じているもう一人。


「お邪魔してます、師匠」


「ああ、いらっしゃい一正」


この道場の主にして第27代心影流正統継承者、久我八雲。一正の師匠であった。


「随分と荒れているようだね。君の気に当てられて他の門下生は逃げ出したってところかな」


「何かすみません…」


ため息をつく八雲につい一正は謝ってしまう。言われてみれば来た当初はかなりの人数がいたはずの他の門下生の姿が消えていた。実は一正にとってはよくある事だったりする。


「まあ、今更だからね。気にしなくて良いよ」


八雲という人物はまさに温和を形にしたような人物であるがその身に秘めた力は絶大であり、門下生で彼に逆らえる者は一正を含めて誰もいない。特に一正にとっては両親を亡くしたあともずっと世話になっていた相手であり。一正の人格形成に最も影響を与えた人物と言っても過言ではない。故に頭が上がらないのだ。


先の響女史と八雲、この二人が一正にとって両親代わりであったと言えるかもしれない。


「君がそんなに荒れているってことはもしかしなくても源さん関係かな」


「…はい」


八雲が源さんと呼ぶ相手は他ならぬ源三郎のことである。親子程の歳の差がある二人であったが馬が会うのか仲が良く。たまに会ってお茶を飲んだりいるようなのだ。茶飲み仲間みたいなものらしい。稀に手合わせもしているようだが恐くて一正はその話は聴かずにいたりする。


「ふむ。相談に乗ってあげても良いのだけど…それよりは気晴らしになる事の方が良いのかな。」


一正は八雲の言葉に頷く。八雲に相談するというのは魅力的な提案であったが暫く悩み続けていたこともあり忘れたいという気持ちの方が強い。機微を的確に読み取る八雲には本当に頭が上がらない。


「それなら久々に直々に稽古をつけてあげようか。さあかかってきなさい」


「よろしくお願いします!」



対峙すること数分、一正は未だに動き出せずにいる。端からみれば目の前にいる八雲はとくに何の構えもせずただ立っているようにしか見えない。今飛び込めばだれでも一撃くらいは入れることが出来そうですらある。だがそれは外野からの視点でしかなく、実際に対峙する一正に余裕はない。

募るイラつきを解消するためにも突っ込んで行きたい衝動に駆られるが、頭で数々のシュミレートをしてもその先の予想は全てが己が地に伏せるものしかない。実際に仕掛けようとしてもその初動に八雲は即座に反応を示しているのだ。


「ふむ、今の君の状態では考えるだけ無駄じゃないかな。とにかく何か行動を起こす事をオススメするよ」


「…いきます!」


八雲の言葉に一正は考えを改める。確かに普段ですら敵わない相手なのだ。今の一正の精神状態では尚更だろう。今回の目的は勝ち負けでなく気晴らしだ。考える事を止めて一正は真っ直ぐに突っ込んだ。


「せい!はあっ!そりゃあ」


掛け声とともに掌打、膝蹴り、肘打、裏拳などを繋げていく一正。その一撃一撃は速く鋭く、一つでも当たれば相手を昏倒させることが出来るだろう。駆け引きも何もなくただ無心になるためにひたすらに繰り出されているその攻撃に合間はなく逆に受ける相手の脅威になり得そうであった。


「ほっと、はい、てい。うんうん、その調子その調子」


だが相手にしているのは人を超越せし化け物。その全てを受け止め、払い、流す。しかもまだまだ余裕があるとばかりに言葉を挟みながらそれをやってのけていた。


従ってその現状は、止まることのない組み合いひたすらに続いてゆく。


人外とも言えるスタミナを持つ二人故に、それは一時間を経過しても止まらない。やがて三時間に届こうかというときになり変調を見せたのはやはり一正だった。


「くっ!」


「さて、そろそろ潮時だね。ーーーてい!」


ガツッという音が響く。精彩を欠き始めた一正の拳を八雲が掴み止めて動きが止まる。そして次の瞬間、一正は円を画くように宙を舞い地面へと投げ飛ばされた。


「がはっ」


「今日はこの当たりで辞めておこうか」


一正に見えるのは道場の天井、八雲の言葉が響き今日の稽古は終わりを向かえる。


「ありがとうございました!」


背を見せ道場から出ようとした八雲へと一正深々と頭を下げる。心の中のモヤモヤはようやく落ち着きを見せていた。


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