第4話


二階が玄関だから、と雅美の指示通り、門を入り脇の黒い鉄の階段を上ると、黒いドアを開けて雅美が待っていた。


一階はお母さんの事務所だ、と言った。


雅美はパジャマ姿でもなく、グレーと黒のボーダーのロングTシャツにブラックジーンズ姿だった。


「なんか……蟻みたい」


「え?」


「黒くて細いから」


雅美は表情をうっすら曇らせて固まった。


ハイお見舞い、と言って花束を渡すと、雅美はパチパチと瞬きをしてから無言で受け取った。


風邪?、と靴を脱ぎながら聞く。


「別に風邪じゃない、元気」


「じゃ、ズル休み?」


「気分がすぐれないだけ。やりたいことあるし」


「何、その自由……」


大画面のテレビのある広いリビングに通され、立派な黒革のソファに、座ってて、と言われたけれど、鞄だけそこに置いて、雅美にくっついてキッチンに入った。


雅美は、お花ありがとう、と、綺麗なカットグラスに花束を活けたあと、デザインチックなヤカンに水を入れ火にかけた。


「一人?」


と聞くと、わたしの顔をびっくりしたように見て、


「一人だよ」


と言って笑った。


「紅茶でいい?」


「あ、うん」


コーヒー飲めないんだ……と言いながら、黒い缶を開け、紅茶葉を白くて丸いポットにザラリと入れた。


わたしは慣れた様子で紅茶を淹れる雅美の大人っぽい白い手を見つめた。


雅美の手はちょっと特徴的で、指も、手の平も長いので全体的に細長く大きく見え、先に細くなった指先が、一本一本繊細にまるく綺麗だった。


小学生の時、チェロの演奏が上手な音楽の先生がいて、よく生徒たちの前で演奏して聞かせてくれた。


雅美の手はその先生の手とよく似ていて、雅美の手を見るたび、先生のことを思い出した。


初めてその演奏を見たとき、普段はおしとやかなご令嬢みたいな先生の、大きな飴色の楽器を構える大股開きの姿勢に、とてもびっくりした。


チェロの穏やかで深い音色、その手の動き、先生の凛とした表情……何もかもが美しくて、何もかも忘れて聞き入った……



「ハチミツ入れるとおいしいんだよ」


濃くておいしそうな紅茶の入ったカップの上で、ハチミツのボトルを逆さに握った雅美の手が、勢いよくそのやわらかい腹を押し、ドボドボと金色のハチミツを落とした。


「そんなんじゃ紅茶の味しなくなっちゃうじゃん!」


びっくりして雅美の手を止めた。


「だって、好きだから……」


雅美は瞬きしながら小声で言い、指に着いたハチミツをなめた。



リビングで甘い甘いミルクティをいただきながら、部屋の中を見まわす。


広々として立派なリビングルームだったけれど、全体がうっすらと埃をかぶっていた。


「雅美、いつもこの部屋にいるの?」


「ううん、三階の自分の部屋。……何か見る?」


雅美がソファを立ち、サイドボードの前で細いからだを折りたたむようにしゃがんだ。


テレビの下の横長のサイドボードの中に、お母さんのコレクションだという古い映画のDVDがいっぱい詰まっていた。


わたしも雅美の隣にしゃがみ、見慣れない映画のタイトルに目を泳がせていると、隅にぼつんと置かれているシルバーの写真額が目に入った。


「これ、雅美のお父さんとお母さん?」


その写真額を手に取る。


「あぁ、そう」


少し色あせた結婚写真だった。


「お母さん超綺麗……」


キラキラと人を射るような大きな瞳のお母さんは、白百合のような細身のウエディングドレス姿、お父さんは繊細でやさしげな印象だった。


「でも、雅美はどちらかというとお父さん似なのかなー……」


写真に見入っていると、雅美が突然、


「わたしの部屋行く?」


と、立ち上がった。


「いいの? 遠慮してた!」


元気にわたしも立ち上がる。


「タマが遠慮?」


雅美が笑った。



「ひっろーいっ!ゴージャス!」


ぐるりとコンクリートの壁、その壁に、さっき雅美が首を出していた長四角形の黒枠の窓が不規則にいくつか穿たれて、高い天井には円形の天窓もあり、薄いオレンジ色の空が見えていた。


大きな本棚はつくりつけで、ぎっしりつまった本が宙に浮いているようで、部屋の真ん中には足ざわりのよい濃紺の絨毯、その上にガラスのローテーブルとソファ、まるでインテリア雑誌から抜け出たような部屋だった。


「やーん、これかわいいーっ!、超気持ちいいー!」


茶色の革のソファの上に三つ並んでいる黒くてまんまるい、やわやわなクッションの一つにとびついて抱きしめた。


雅美は笑いながら花束の入ったグラスを窓辺に置くと、黒いスチール製の机の前に行き、引き出しを開け、紙の束を取り出した。


「このベッドならひっつかなくても二人眠れるね」


クッションを抱きしめたまま広いベッドに寝転ぶ。


「今日泊まってけば」


雅美が机に向かったまま言った。


「えーいいよぉ……」


ベッドカバーの端からこの部屋にそぐわないピンク色がちょこんと顔を出していたので、つかんで引っぱった。


「なんだこりゃーっ! 雅美これ抱っこして寝てるの?」


ずるりと出てきたのは、やわらかいタオル地のヘンテコな形をした年季の入った抱き枕だった。


「勝手にいじんないでよっ」


雅美が真っ赤な顔であわててとんで来て、わたしからそれを取り上げ、ベッドカバーの下に隠した。


「何それアリクイ?」


「バクだよっ……悪い夢を食べてくれるの!」


超ウケル!超かわいいーっと、わたしは雅美が隠したバクの抱き枕をまたつかみ出し、抱きしめながらベッドの上で笑い転げた。


雅美はフンッと鼻を鳴らして、こんなわたしを放って机の前に戻った。


「雅美の匂いがするっ」


「変態」


雅美は机の前で、片手を尻ポケットにつっこんで、何やら考え込んでいた。


今日の雅美の、黒っぽいタイトな姿の、女の子っぽく見えない仕草が何だか新鮮で……見とれた。


「……雅美、さっきから何やってんの?」


「わたし、自分でも父に似ていると思う」


雅美は突然そう言い、クリップ止めされた紙の束を、ガラスのローテーブルの上にバサリと置いた。


「なぁに?」


バクを抱きしめたままソファに戻ると、雅美が、もうっと怒ってバクを奪いベッドに投げた。


「タマって小説とか読む?」


と、また突然聞いてきたので、あんまり……ていうか全然、と答えると、あーそっ……と不機嫌に、紙の束をつかんで机に戻ろうとしたので、何何何?と、その束を雅美の手から奪った。


「これ……」


ソファに座り、縦書きの文章が印字されている紙の束をパラパラとめくっていると、


「物語書いてるの……」


と、やっと小声で言った。


「すっごーい……、いつから?」


「子どもの頃から……、九歳、十歳くらいだったかな……」


「あ、そっか!雅美のお父さん文章書く人、脚本家だっけ?」


雅美はコクリとうなずいた。


「誰にも見せたことないんだけど……。タマには読んでもらいたいなって、ずっと思ってて……」


「読む読む読む!すぐ読む!全部読む!」


「全部は……長いから……、長い物語の一部分だからわかりづらいと思うけど、短いのがなくて……」


雅美はごにょごにょ言いながら黒いクッションを抱きしめて隣に座った。



集中し始めると、いつものように雅美が私の肩にあごをのせてきたりしてジャレてきた。


「ちょおっと……」


「眠い」


「いいよ、寝てて」


「ここで寝る」


雅美は原稿を持ち上げ、わたしの腿の上にコテンと頭を載せた。


しばらくすると、指先でわたしの膝をなぞり、くすぐったい?、と聞いた。


「もうっ、集中できない!」


怒ってもまだふざけて、タマの鼻の穴が見える、などとクスクス笑っているので、わたしは原稿で顔を隠した。


原稿をずらし、雅美の顔をのぞくと、雅美がうれしそうに微笑んだ。


わたしも笑ってしまい、雅美のやわらかい前髪をかき上げ額を撫でると、気持ち良さそうに目を閉じ、クッションを抱きしめたまま細いからだをまるめた。


「スカートによだれたらさないでね」


と言うと、わたしの膝をたたいた。



うれしかった!……


雅美の秘密の宝物をわたしに、わたしだけに見せてくれた……と、それだけでもう読む前から大感動だった。


そして同時に、これは困った……と思った。


普段、読むのは雑誌やマンガばかり……


必死で文字を追うけれど、意味がすぐにはやってこない……


原稿の下に、目を閉じ、じっと耳をすましている、綺麗な頭があった。


背筋をのばし、息を吐き、集中する……



不思議な物語だった。


名前のない、「若く、幼い者」が主人公――


その主人公が、「黒く重い椅子」を背負って、「白く乾いた粉っぽい土地」を旅している。


なんで名前がないの?とか、なんで椅子なんか持ち歩いてるの?、なんで旅してるの?、この子は男の子なの女の子なの?……などと聞きたいところをぐっと我慢……


主人公のセリフの感じから、少年、と見なして読み進めた。


その椅子を背負った少年が、人々の冷ややかな視線の中を通り過ぎたり、人々のやさしさを拒否したり、たまに、受け入れたりする。


少年の思いや感情は書かれていないのでわからない。


読みながら、緊張と安心が交互にやって来る。


少年は、まわりで何が起きても、どんな目に遭っても、椅子を背負い、淡々と旅をつづける――


ある街で、「すみれの花のような少女」と出会い、自然に結ばれる。


けれど、甘く穏やかな時間はつづかない。


「異なる人」である主人公は、古いしきたりに囚われている街の人々に受け入れられず、そして、結果的に「すみれの花のような少女」の裏切りに遭い、主人公を排除しようとする勢力から襲われる。


逃走中、少女と少女の婚約者に出くわし、主人公は背負っていた椅子で二人を殺す。


「若く、幼い者」は、血で汚れた椅子を背負ったまま、危険な高い壁を乗り越え、そして、再び、旅をつづける……



……原稿を読み終えた。


腿の上の雅美の頭が重たかった……


机の上に、開いた黒いノートパソコン……


そのパソコンのキイをたたく小さな手が、机に向かうおかっぱ頭の小さな女の子のうしろ姿が見える気がした。


意味ありげな灰色のグラデーションの染みのある、目の前のコンクリートの壁を見つめ、紡いでいる物語のつづきを思う女の子のうしろ姿を見た気がした。


雅美はずっと、小さな子どもの頃から、この灰色の塔に一人こもって、この終わりのない物語の中に生きてきたんだ……



雅美があくびをしながら手前に腕を伸ばし、わたしの顔を見上げると驚いて抱いていた黒クッションを床に落とした。


「なんで泣いてるの?」


わたしは起き上った雅美を抱きしめた。


「感動した」


「嘘だよ!涙腺緩ませるような話じゃないもんっ」


「すごい勇気と才能だと思った」


「……ありがとう。タマに褒めてもらえるとうれしい……」


雅美がわたしの腕の中で素直に言った。


「ちゃんと、ハッピーエンドにしてね」


と言ったら、またどうしようもなく泣けてきて、えーっもうなんで……と雅美がわたしの腕をほどき、ティッシュボックスを持ってきて、慣れない手つきで涙を拭いてくれた。


「雅美はぜったい作家になれるよ」


「うん……がんばって、なりたいと思ってる」


まっすぐわたしを見て答えた。


「あのさぁ……」


「何?」


「ラブシーンて経験?」


雅美は、そこ?と呆れたように笑った。


普段、恋愛系の話は徹底的に嫌う雅美が、濃厚なラブシーンを描いていて、びっくりしたのだ。


「それ言ったら、殺人も経験になっちゃうでしょ」


「あ、そっか」


うまくかわされる。


「……タマは?」


「え?」


「つきあったこととかあるの?」


雅美にしては、めずらしい振りだ。


「ないよぉ……でも」


記憶がよみがえった。


「キスしたことはあるよ」


「飼ってた犬とか猫にでしょ」


「違うよ、同級生だよ」


私は笑いをこらえながら言った。


「え?いつ?中学の時?」


食いついてきた雅美に、ゲラゲラ笑って、雅美がうちに初めて泊まった日の朝、眠っている雅美にしちゃった!、と白状したら、信じらんないっ!と真っ赤になってクッションでボコボコ殴ってきた。


クッション破れちゃうよ!……と言いながらわたしもそばにあったクッションで応戦していると、雅美が突然、


「あ……」


と、クッションを手放し、窓のところへ行き、わたしが来たときのように窓から首を出し、下をのぞいた。


そして、首を引っこめて聞いた。


「せっかくだから女優見ていく?」



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黒髪微風 森さわ @morisawa

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