08

 瑠衣たち四人は、全五階の施設の屋上……テニスコートやフットサルコートがある、スポーツエリアにやってきていた。


「あー、結局バトル……かー。あんまり、気乗りしないなー……」

 万千華はそう言いながら、コート同士を仕切るネットや、各コートに用意されているスコアボードなどを、『極上の使用人メイド・イン・ヘブン』によって強化された右腕で吹き飛ばして片付けていく。器用な彼女は、すでにその力を瑠衣と同じくらい上手に使いこなせるようになっていた。

 いや、それどころか……。


「ルイルイは知ってるか分かんないけどー。あーし、ちっちゃいころから空手習わせてもらってたんだよねー? だからさー、あんまり素人さんと戦うとかは、しちゃいけないことになってるんだけどさー……。でも、やるからには手加減とかしたくないじゃん? それはそれで、ルイルイに失礼じゃん? だからさー。もち、全力でバトらせてもらうしー? そのために試せることは、全部試してみよーと思うんだけどー……」

 オーラに包まれた右手を、グーパーグーパーと閉じたり開いたりする万千華。それから次に、彼女は何故かそれとは逆の左手も、同じようにグーパーと動かす。そして……。

「あーし……さっきマリー様にこの力を与えてもらったときから、実は気になってたんだよねー。これって、パワーアップするのは右手だけなのかなー、って。実は、その気になればもっと応用がきいたりするんじゃないかなーって、さー。だからー………………っ!」

 そう言って万千華が気合を入れた瞬間……彼女の左手が、右手と同じように紫色のオーラに包まれた。

「⁉」

「あー、やっぱそうだよねー? 別に片手だけじゃなく、両手でもイケるんだー? じゃあじゃあー……」

 更に万千華は、精神集中するように両手を腰の位置に置いて目をつむり、また気合の入った掛け声を出す。

「……ぁっ!」

 すると彼女の両足にまで、その紫色のオーラが現れた。


「え……?」

 これまで何回も『極上の使用人メイド・イン・ヘブン』を使って戦ってきたのに、右手以外にオーラをまとうことなんて、考えもしなかった瑠衣。それなのに、ついさっきその能力を与えられた万千華のほうが応用を効かせて、あっさりとそのオーラの領域を広げてしまった。

 しかも、オーラの箇所が四箇所に広がったので体積も四倍になっているわけだが、だからといってその力が薄まったようには見えない。そうではなく、瑠衣の右手に宿っているのと同じ濃さと量のオーラが、万千華の両手両足に展開されているのだ。そのオーラのそれぞれが同じだけ強化されているのだとすれば、単純に、今の瑠衣の四倍のエネルギーが万千華に集まっていることになる。右手だけでも学校や博物館の壁を難なく破壊出来るようなパワーなので、それが四倍になった凄まじさは、もはや想像も出来ない。

 慌てて、瑠衣も万千華をならって左手や足にオーラを出してみようとする。だが、やはりそううまくはいかない。不器用な彼女がどれだけ力を込めたり気合を入れたりしても、『極上の使用人メイド・イン・ヘブン』のオーラが右手以外に現れることはなかった。

「「あの子、本当にすごいわね……」」

 少し離れた位置に万千華が用意してくれた観覧席で、優雅に紅茶を飲んでいた二人のマリー。プライドの高い彼女らしくもなく万千華を褒めるような言葉を漏らす。

「そ、そんな……」

 その光景に、ショックを隠せない瑠衣だった。


「うんうん。やっぱ、右手だけよりもこのほうがバランスいいよねー」

 そんな瑠衣には気づいていない様子の万千華は、一人納得するようにそんな事を言う。

 今その両手には、さっきのゲームセンターから持ってきたらしい大きな二個のヌイグルミが握られている。彼女はそのヌイグルミごと、口を使って自分の拳をテーピングでグルグル巻きにした。

「とりあえず、これでグローブ代わりってことで。あ、ルイルイはそのままでもいいよー? これ、ハンデとかそーゆんじゃなくて、あーしが思いっきり戦えるようにやってることだからー」

 テーピングを巻いた両手は大きな球のようになり、『極上の使用人メイド・イン・ヘブン』の紫のオーラも、そのヌイグルミグローブを覆うように球形に展開される。その両手をパン! パン! とぶつけ合って、強度が問題ないことを確かめる万千華。それから、軽くその場でジャンプしたり、肩や腰のストレッチしたりして充分に準備運動したあと……、

「……ふぅ」

 それまでの笑顔をスッと消して真顔になり、中腰の戦闘姿勢で、

「オッケ、ろっか……いつでもいいよ」

 と言った。




――戦闘――


 体の左側を前、右側を後ろにした構えで、瞬き一つせずに瑠衣に鋭い眼光を向けている万千華。瑠衣があと数歩前に出れば、それでもう彼女の左手の射程範囲内だ。ジャブのような高速の突きによって、態勢を崩される。奇跡的にそれを防げたとしても、次に右手による全力の正拳突きか、スラリと長い右脚による蹴り技の二択を迫られる。しかも、その全ての攻撃が紫のオーラをまとって強化されているのだ。

 隙がない。勝てる気がしない。挑むだけ無駄。

 瑠衣には、まるで目の前に鉄の壁が立ちはだかっているような感覚がした。


 しかし、瑠衣は向かっていった。

「……う、うぁぁぁぁーっ!」

 それは、この「負けられない戦い」のために、彼女なりの勇気を振り絞ったから……というわけではなかった。瑠衣は心の中で、すでにこの戦いを放棄していたのだ。

ぁっ!」

 姿勢を低くし、向かってくる瑠衣の懐に万千華が潜り込む。オーラをまとった両足で踏み込んだことでその動きは目にも止まらない速さとなり、瑠衣の右手の攻撃はあっさりと空振りする。

 そこから、万千華はガラ空きとなった瑠衣の腹に向けて右手を突き出し、演舞のように美しい姿勢の突きをクリーンヒットさせた。

「ぐっ……」

 声にならない鈍いうめき。

 万千華の右手が触れた部分を折り目のようにして、瑠衣の体が「く」の字に曲がって、後ろに吹き飛ぶ。


 瑠衣にとって幸運だったのは、事前に万千華がヌイグルミグローブで手を覆ってくれていたことで、その衝撃がだいぶ弱まっていたこと。そして、万千華が習っていた空手がいわゆるフルコンタクト直接打撃ありの空手ではなく、学生の部活などで一般的な、寸止め形式の空手だったということだ。そのため、万千華は瑠衣の腹部に当たった瞬間に素早く手を引いていて、瑠衣がその正拳突きの拳に触れたのは一瞬だけ。それもかなり浅い。だからその攻撃は、壁を壊すほどの破壊力ではなくなっていたのだ。

 とは言え、人一人が吹っ飛ぶほどの勢いがあったことは確かであり、それだけでも充分大ダメージであることは、間違いなかった。

「う、うう……」

 飛ばされた先で床に叩きつけられ、苦痛にうめく瑠衣。

 すべてにおいて瑠衣よりハイスペックな対戦相手の万千華は、当然のように戦闘の面でも強敵だった。


 それでも、そこに自分が戦う「理由」があったならば、瑠衣はこの戦いを諦めなかっただろう。貧弱な彼女でもなんとかして万千華に勝つ方法を、注意深く、用心深く、執念深く、探り続けただろう。この「負けられない戦い」のために、死力を尽くして頑張り続けただろう。

 しかし、今の彼女にはそんな気持ちはなくなっていた。


 さっき、マリーと万千華が笑い合いながらプリクラから出てきたときの姿が、フラッシュバックする。マリーの隣に自分の代わりに万千華がいる「もしも」の世界を、想像してしまう。

 その想像のイメージには、違和感は微塵もなかった。むしろ、これまでの自分とマリーのコンビよりも、ずっと自然に思えた。

 最強で完璧な淑女のマリーにふさわしいのは、最強で完璧なメイドだ。そしてそれは、自分ではない。そんなことを考えていた瑠衣は、もうこの勝負に勝つことを諦めていた。どうせ勝つことなんて出来ないこの戦いをさっさと決着させて、万千華にマリーのメイドになってもらったほうがいい。そのほうが、マリーのためだ。きっと彼女だって、それを望んで…………そんなことを、考えてしまっていたのだった。


「く、うう…………う、うああぁぁーっ!」

 力なく立ち上がった瑠衣がまた、唯一強化されている右手を突き出して、万千華に向かって行く。そこに戦略なんて何もない。さっきの腹部へのダメージも残っているので、ほとんど歩いているのと同じようなスピードで、ヘロヘロのパンチを繰り出しているだけ。わざわざ倒されに行っているだけだ。

 そんな瑠衣に対しても、万千華は自分でも言っていたように、手加減をしたりはしなかった。

っ!」

 向かってくる瑠衣の右手を、自分の左手ではじく。そしてそのカウンターとして、チャイナメイド服のスリットから繰り出した中段回し蹴りを――やはり浅く一瞬だけ――、瑠衣の体にヒットさせた。

「ゔうっ⁉」

 体を横から揺さぶられ、瑠衣はその場に崩れ落ちる。

 万千華はフワリと小ジャンプして、倒れた瑠衣に間髪入れずに下段突きをしかける。

「はいっ!」

 しかし……。


「っとー。試合だと多分これで一本! ……なんだけどー」

 追い打ちの下段突きは本当に瑠衣に当てずに、途中で止める。手を戻して、仕切り直すように瑠衣から距離をとり、こんな事を言った。

「えっとー、まだやる……よね? やるなら、あーしはトコトン付き合うよー?」

 その言葉は、けっして瑠衣を煽ったり、からかっているわけではないだろう。その証拠に、彼女は今でも瑠衣に対して警戒心を解いていない。彼女が向かってくるなら、それに対して手を抜かずに本気で反撃をするつもりなのだ。

 それは、これだけ圧倒的な実力差のある瑠衣に対しても、対戦相手としてのリスペクトを忘れず、正々堂々全力を尽くすという意思を現していた。


 どこまでも高いスポーツマンシップ。実力だけでなく、性格までも完璧。

 やっぱり、マリー様にふさわしいのは自分じゃなく彼女だ……。

 瑠衣はまた、そんなことを考えてしまう。

 二度も攻撃を食らった痛みで、体はもう動かせない。倒れたまま起き上がる事もできないし、無敵の万千華に立ち向かっていくことなんて絶対に不可能だ。……だが、それでいい。


(もう、充分だよね……? 私はもう、充分にやりきったよね……? 不器用で、弱くて、意気地なしで、優柔不断な自分が……ここまでこれただけでも奇跡だったんだ。どうせ、最強のマリー様がそばにいてくれたから、なんとかやってこれただけ。もともとこんな戦い、自分の身の丈に合ってなかったんだ。これ以上は、自分なんかがいたって、マリー様の迷惑になるだけ。マリー様のためを考えたら、自分は潔く身を引いたほうがいい。私はここで負けを認めて……マリー様には、もっといいメイドと一緒にこの先を勝ち進んでもらったほうがいいんだ……)

 右手薬指にはめられた指輪に、視線を落とす。

(マリー様、短い間でしたけど……今まで一緒に戦ってこれて、楽しかったです。大丈夫です。私、ちゃんと自分のこと、分かってますから。マリー様のために……。マリー様が、自分の目的を果たすために……ダメダメな私はここで、ちゃんと身を引いて……)


 そんな「覚悟」とともに、倒れたままの瑠衣がついに指輪に手をかけ、『降参の言葉』とともにそれを外そうとした……そのときだった。


「瑠衣、何しているの! グズグズしてないで、そんな相手さっさと倒してしまいなさい!」

 観覧席の二人のマリーのうちの片方が、そう叫んだ。

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