08
『箱』の外。カチューシャと涼珂は、まださっきの店にいた。
「パ……パ……パセ…………パレットかな」
「『ト』、ですわね? ……トロイカ、でどうでしょうか?」
「『カ』? かき……かみ……い、いや。…………カチューシャ、でいこう」
「あら……?」
カチューシャの口元に付いていたホイップは、今はもう完全になくなっている。きっと、涼珂がぬぐい取ったのだろう。スプーンや手拭き用ペーパーを使わずに、
「うふふ……嬉しいです。でも、人の名前でも良いルールなのですか?」
「いや、正直言うと微妙かな。同じ固有名詞でも地名とか歴史上の人物だったら問題ないんだけど。普通は、人名はNGのことが多いかな。……でも。カチューシャっていうのは僕の歴史にとって一番重要な人物の名前だから、問題ないね」
「まあ、スズカったら……」
今は、テーブルを挟んで他愛もない言葉遊びをしている彼女たち。ただそれだけなのに、その間には独特の空気が流れている。
「では……ヤクーツクで。地名です」
「『ク』か……靴」
「ツンドラ」
「『ラ』? ライオ……い、いや今のは無し。……ラッコ」
「うふふ。それはもう、前回出ましたよ?」
「え、そうだったかな? じゃあ……来年……じゃなくって、
「セイウチ」
「チーズ」
気だるげで、声に出す一つ一つの言葉が、湿気を帯びているような雰囲気。まるで一夜をともにした恋人同士が、枕の上で交わす会話のようだ。
「『ス』、でも良いのでしたよね? スプートニクです」
「また『ク』?
「ノルマ」
「『マ』……まる……まろ……マントヒヒ」
「ビーフストロガノフ」
「『フ』……フ……フ…………『ブ』にして、舞台」
「うふふ……イクラ」
「ま、また『ラ』……? うーん…………だめだ、降参するよ」
首を降って左右の手を宙に向け、オーバーなポーズをとる涼珂。言葉遊びのゲームには負けてしまったようだが、その顔は全く悔しそうではない。
「うふふふふ……」
「でも、すごいねカチューシャ? 前回やったときは僕の方が余裕があったくらいなのに、今回は逆に圧勝って感じだったよね? 本当に、さっき言ってた『秘策』ってやつを使ったってこと? 一体、どんな魔法を使ったんだい?」
「それは……秘密です」
含みのある笑みを浮かべるカチューシャ。涼珂はそんな彼女の表情もたまらなく好きだった。
「さあ、それでは負けてしまったスズカには、罰ゲームとして
「ああ、そういう約束だったね。……でも、僕はカチューシャのメイドなんだから、そんな罰ゲームなんてなくったって、初めからご主人様のキミが言ったことなら何だってやるけどね」
「でも、淑女とメイドという立場ではなく……もっと特別な関係として下す命令では、どうでしょう?」
「え……」
そこでまた「うふふ」と笑うカチューシャ。しかしやがて、その顔が寂しさを帯びた表情に変わっていく。
「立場なんて関係なく、沼戸涼珂という固有の人間を愛する
「カチューシャ……」
懇願するような表情のカチューシャが、涼珂の手を強く握る。その手から、主の身体の震えが涼珂に伝わってくる。彼女の気持ちがよく分かっていた涼珂は、もう迷わなかった。
「僕は、キミをこんなにも不安にさせていたんだね……ごめんよ……」
そう応えると、繋いでいる彼女の手を引いて身体を引き寄せる。そして、接触するスレスレになった彼女の顔に向けて、
「いいよ。僕の気持ちが完全にカチューシャに伝わるまで……何度だって、何時間だって……愛を、確かめ合おう……」
と言った。
「ああ、涼珂……」
至福の気持ちを顔いっぱいに表現するカチューシャ。
「カチューシャ……」
涼珂も、鏡写しのように同じ表情になる。
そのときの彼女たちはもう、淑女とメイドではなかった。
同じ気持ちを持った対等な存在。確かめる必要などないくらいに揺るぎない愛情を持った、カチューシャと涼珂という名前の、ただの恋人同士だった。
やがてその恋人たちは、邪魔者などいない彼女たちだけの世界で体を重ね、お互いの愛を確かめあった。
……というわけには、いかなかった。
「せっかく私が忠告してあげたのに。貴女たちまだ、そんな馬鹿みたいなことをしているのね?」
「ちょ、ちょっと、お嬢様⁉ ま、またそうやって、カチューシャちゃんを怒らせるようなことを……!」
ムードをぶち壊すような、邪魔者の声。
「……あら?」
「行為」を始める直前でそれをやめ、声のした方に同時に顔を向ける、カチューシャと涼珂。
「まあ……」
そこには、『箱』に閉じ込めていたはずの瑠衣たちがいた。
「えーっと、キミたちはー…………あっ、ああー」
「あなた様がたは、確か……」
既に、完全に瑠衣たちのことを忘れてしまっていたらしいカチューシャたちも、姿を見たことで、また彼女たちのことを思い出せたようだ。
『箱』の中から出てきた彼女たちは、力強く宣言する。
「よくもこの私を……いえ、この私とメイドを、あんな狭苦しい『箱』の中になんか閉じ込めてくれたわね? もう、容赦しないわ。二度とあんな事が出来ないように、私と貴女たちの力の差を、嫌というほど思い知らせてあげるわ!」
「わ、私たち……もう、あんな『箱』には閉じ込められませんからね⁉」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます