07

 『箱』の中。


 さっき散々言いたいことを言った瑠衣は、時間がたって少しだけ冷静になってきていた。

(い、言い過ぎた……かな? ……い、いやいや、そんなことない! 私はただ、当然のこと言っただけで……だ、だいたいこの人が、『傲慢』すぎるんだよ!)

 頭の中で、そんな言葉がぐるぐると回っている。

 その言葉は、何も間違っていない。自分は巻き込まれただけで、本当ならこんなことしなくても良かったはずだ。だから、いくら自分の主と言う立場だとはいえ、彼女にさっきみたいな横暴な態度を取られるなんておかしい。

 それは、とても正しいことのように思える。

(……でも)

 ただ、瑠衣がこんなふうに望まないトラブルに巻き込まれるのは、今に始まったことではなかった。今まで瑠衣は、学校の生徒たちから散々ひどい仕打ちを受けてきた。何の過失もないのに、筋の通らない横暴を受けてきた。

(……でも。…………でも)

 そんな横暴に対して、これまでの自分だったら、さっきみたいなことを言えただろうか……?

 瑠衣の頭に、今朝の出来事が蘇る。


 昨日までと同じように、ストレス発散のはけ口として下らないことをしてきたクラスメイトたちに、瑠衣は初めて反発をした。自分が、ただのやられっぱなしのサンドバッグではないと証明して、彼女たちに一矢報いてやることができた。

 そんな気持ちになれたのは、昨日のことがあったからだ。

 昨日、『傲慢お嬢様』のメイドになって、「こんな自分でも出来ることがある」と思うことができたからだ。

 今、一緒に『箱』の中に閉じ込められている、彼女のお陰だ。


「……」

 後ろを向いて、彼女の方を見る瑠衣。そこには、さっき口論していたときと同じように、苛立たしそうな様子のドレス姿の背中が見える。

 しかし……。

 瑠衣には同時に、その背中がどこか不安そうにも見えた。本気で、「常に最強、完璧の自分なら、相手のルールを無視しても簡単にこの『箱』から脱出できる」なんて考えている人間の『傲慢』な背中には、思えなかった。


(……多分、本当はどうしたらいいかわかんなくて、焦ってるんだ。余裕ぶった感じを出してるくせに……心の奥では、このまま出られなかったらどうしよう、とか考えてるんだ)

 これまで、彼女の行動にさんざん辟易させられてきた瑠衣だからこそ、そんな彼女の本心を感じとってしまう。

(そういえばさっきも、「なるべく早く出たいと思ってる」なんて言おうとしてたし……。自分は「全然焦ってない」のに……。超人的な『設定』なんてない私のために、この状況から一刻も早く出ようとして……でも、その方法が分からなくて……。ああ、もう……この人は……)


 瑠衣の脳内を再び、最初の戦いのときに感じた「彼女を守ってあげたい」という気持ちがよぎる。

「ふう……」

 瑠衣は深く息を吐く。それは、覚悟を決めるための準備動作だ。バンジージャンプに飛び込む決意をした人がするように、彼女は深呼吸をしたのだ。


「お嬢様は……この勝負、勝ちたいんですよね……?」

「……はあ?」

「こんなところで負けるわけには、いかないんですよね……?」

「ふん」

 彼女は、これまでのような『傲慢』な態度で返す。

「何を言っているの? そんなこと、当然でしょう? そもそもどんな相手にだって、この私が、負けていいわけが……」

「……じゃあ」

 何か思い詰めている表情の瑠衣。おもむろに、自分のメイド服の首元に、手をかける。

 ビィッ!

 『極上の使用人メイド・イン・ヘブン』で強化された右手を使ったからかメイド服は簡単に脱げて、瑠衣の肌があらわになる。

「……貴女、何をしているの?」

 その異常な行動に気づいた主の言葉にも応えず、瑠衣は、真剣な表情で彼女に近づいていく。

「どうせこんな私じゃあ……誰かとこんなこと・・・・・するのは、これが最初で最後になるだろうし……」

 近づきながら、自分の身につけているメイド服のエプロンや頭のヘッドドレスを、どんどん外していく。

「落ちこぼれで、ザコザコの私ですけど……。たまたまメイドになれただけで、結局、最後まで全然お役にたてなかったと思いますけど……。それでも、確かに一度はお嬢様のメイドになったっていう、責任があると思います……。そのおかげで勇気をもらえて……それにお返ししたいっていう、気持ちだってあるんです……。だから……だから……これが終わって、私がメイドをやめるとしても……。お嬢様がもっといいメイドをみつけて……私がクビになるとしても……」

「瑠衣、貴女……」

 彼女の目の前までやってきた瑠衣は、とうとうメイド服のスカートまで脱いでしまって、上下ともに下着姿になって……、

「どうせこれが、最後になるなら……。昨日お嬢様にしてもらったことを、お返しするために……私、覚悟決めました! 私たちのお互いのために、お嬢様と私がこの『箱』の外に出て、お互い別々の道に進むために……ど、どうぞ、最後に私と……『愛を確かめて』下さーい!」

 と言って、自分の主の淑女に抱きついた。


 が。

「はあ。馬鹿なことを言わないで、って……何回言えば分かるのかしら?」

 彼女はため息とともにそう言った。

 よく見ると、抱きつこうとした瑠衣の腕はその直前で硬直してしまっていて、主の彼女までは届いていない。彼女は、いつの間にか『箱』の中にあった本棚から瑠衣の嫌いな「Gから始まる虫」の図鑑をとっていて、下着姿で抱きつこうとした瑠衣にそれを見せていたのだった。

「ぎ、ぎにゃーっ⁉ は、はわわわ……」

 正気に戻って、叫び声をあげる瑠衣。その図鑑に載った「黒く光る甲虫」の写真から、四つんばいで必死に逃げる。

 そんな彼女を、軽蔑するように見下している主。

「私、貴女に言ったわよね? 私は、この『箱』に書かれている条件に従うことはない。『脱出条件』に従わずに、この『箱』から出てみせるって。だから、貴女がどんな覚悟を決めようが関係ないの。…………というか」

 瑠衣の下着姿を上から下まで見て、

「そもそも、その貧相な身体を見せられて、どうしてそれで私と『愛を確かめる』ことになると思ったの? むしろ、気分が悪いだけなんだけど?」

 と言った。


「しょ、しょんなぁ……」

 自分の覚悟が無駄になったことと、自分の身体を貧相と言われたこと。ダブルのショックで、小さくなって落ち込んでいる瑠衣。

「まったく……」

 そんな瑠衣に、主の淑女は、完全に呆れてしまっているようだ。

「『脱出条件』の『愛を確かめる』って、別に肉体関係って意味だけじゃないでしょう? すぐにそういう方向に結びつけるなんて、本当にイヤらしいメイドね。しかも私に突然襲いかかってくるなんて……理由わけが分からないわよ。完全に、どうかしてるとしか思えないわ。貴女、何をそんなに焦っているのよ?」

「そ、それは……」

 少し言いにくそうに口ごもる瑠衣。

「お、お嬢様がさっき、『メイドなんて飽きたらいつでも変えてしまえばいい』って言ってたから……。だから私、これが終わったらきっとメイドクビなんだろうなって思って……。それで、せめて最後に昨日のお礼に、自分が何か出来ることを、って考えてたら……今私が出来るのって、これくらいしかないと思って……」

「っ…………はあぁ」

 また、これで何度目かというような、大きなため息をつく瑠衣の主。

 しかし今回は、その直前に彼女が一瞬だけ微笑んだように見えた。瞬きをして見返したときには既にさっきの見下す表情に戻っていたので、瑠衣は自分が見間違えただけと思った。

「瑠衣、貴女って本当に馬鹿なのね。あんなの、冗談に決まっているでしょう? に受けるんじゃないわよ」

「へ?」

「あれを言ったのは……対戦相手のカチューシャって名乗った子が、私たちを侮辱するようなことを言ったからよ。だから、私もそれに返しただけ。あの子、自分のメイドと相当仲良さそうだったでしょう? そんな彼女に『メイドなんてただの物と同じで、飽きたら変えるもの』とでも言えば、きっといい嫌がらせになると思ったの。だから、ああ言ったのよ。そもそもこの戦いで一度メイドと淑女の『契約』を終えてしまったペアは、もうメイドの変更なんて出来ない『設定』だしね」

「そ、そうだったん、ですか……」

 それを聞いて、気が抜けたように、その場にペタンと座ってしまう瑠衣。

 同時に、さっきまでの「よくわからない覚悟」も「主の横暴さへの反発」も、風船から空気が抜けるようにどこかへ消えてしまった。

「わ、私……自慢じゃないですけど、人に比べて優れてるところなんて全然なくって……。だから、そんな私がお嬢様のメイドなんて、つとまるわけないって思ってたから……。だから、お嬢様もきっと同じこと思ったんだろうなって…………あ、あーっ⁉ さ、さっきのことは、忘れて下さい! ほんとに、焦っちゃってどうかしてただけなんでっ! あ、『愛を確かめる』っていうのも、他に方法が思いつかなくったからあんなことをしただけで……!」

「別に……たとえメイドを変えられるとしても、今さら貴女を変えようだなんて思わないけどね」

「……え?」

 そこでまた、瑠衣の主は小さく微笑んだ。今度はちゃんとそれを見ることが出来たので、瑠衣も見間違えだとは思わなかった。

「だって私、昨日貴女が頑張ってくれたことは分かっているし。だからさっきだってちゃんと貴女に、ねぎらいの意味で『感謝の言葉』を言ってあげようと……」

「あ、あれ……? お嬢……様……?」

 優しい笑顔を浮かべて、メイドを思いやるような言葉を言っている彼女。

 『傲慢お嬢様』という『設定』の自分の主の、その『設定』をはみ出した素の部分を見たような気がして、瑠衣は少し戸惑ってしまった。


 しかし、主のほうはそんな自分を見られたくなかったのか、またすぐにその表情をいつものような強気に戻す。そして、恥ずかしさを誤魔化すように早口で言った。

「……と、というか、そんなことはどうでもいいのよ! 今の貴女には、もっと私に対して言わなければいけないことが……謝らなければいけないことが、あるでしょう⁉ 瑠衣、貴女……いい加減にしなさいっ!」

「な、なんですか、突然⁉」

「なんですか、じゃないわっ! この私が、気づいていないとでも思ったのっ⁉ さっきから貴女がこの私に、どれだけ失礼なことをしているか!」

「え、えーっ⁉ わ、私がお嬢様に失礼なことなんて、そんな、滅相もないですよっ! だ、だって私、お嬢様のことは本当にすごく感謝しているし……。むしろ、憧れてるくらいで……」

「ほら! また!」

 彼女は眼前で瑠衣を指差しながら、声を荒げて言う。

「貴女さっきからずっと、この私のことを『お嬢様』なんて呼んでいるわよねっ⁉ 私、昨日瑠衣に言ったでしょう⁉ 私のことは、名前に様をつけて呼べって! そんな……『お嬢様』とかいう、どこにでもいるような有象無象うぞうむぞうな呼び方ではなく、この私には唯一無二の、この世で最も尊くて美しくてエレガントな名前があるのよっ! それを、『お嬢様』、『お嬢様』って……全く、最低の侮辱だわっ! 『設定』だから仕方ないとは言ったけれど、もしもメイドが変えられるなら今すぐ変えているくらいの無礼者よ、貴女っ⁉」

「そ、それは……」

 そこで、何故か目を泳がせて、落ち着きがなくなる瑠衣。その態度に、主の「お嬢様」はすぐに何かを感じ取ってしまったようだ。

「あ、貴女まさか……」

「あ、あの……」

 今にも激怒に変わるような表情で、更に瑠衣に迫る。

「まさか、この私のことを……この、誰にも増して気高くて高貴な私の名前を……忘れた、なんていうんじゃないでしょうね⁉」

「ドキッ!」

 完全に、痛いところを突かれてしまった瑠衣。縦横無尽に泳いでいた目が、ついには溺れて痙攣してしまったように震え始めている。その反応に、「お嬢様」は確信する。

「ああ、そういうこと⁉ 忘れちゃったのね、私の名前! まったく、ひどいわね! 私のことなんて、忘れちゃうくらいにどうでもいいってことなのかしら⁉ 貴女が本当に私のメイドとしてふさわしい人間だったなら、そんなこと、絶対になかったと思うのだけど……でも、仕方ないわね!」

「ち、違うんですっ! た、たしかに私、今はお嬢様……の名前をド忘れしちゃってて……そ、それで仕方なく、ずっと『お嬢様』っていう呼び方をしちゃってましたけど……。そ、それは別に、私がお嬢様のことを、軽く思っているとかそういうことではなくって……」

「ああ、もういいわよ!」瑠衣の言葉を遮って、ため息とともに首を降る彼女。「別に私、構わないわ。貴女が私をどう思っていようとも……。貴女、私の名前を忘れてしまっているのだとしても……」

「だ、だから! 私はちゃんと、お嬢様のことを大事に思ってますよっ⁉ 名前のことは、本当にただのド忘れで、私の脳細胞が死んじゃってるだけで……あー、もう! 私のバカバカバカっ! こんな大事なお嬢様の名前を、私も忘れちゃうなんて…………え? ……私……も?」

 そこで違和感を感じた瑠衣は、自分のお嬢様の方を見る。


 自分の名前をメイドに忘れられてしまった彼女は、肩を震わせて激怒していると思った。『傲慢お嬢様』にふさわしく、これから上から目線な説教が始まると思った。しかし、そうではなかった。


「ふ、ふ、ふ……。だから、構わないってば。だってそのおかげで、私は目的を果たすことができるんだから……ね」

 彼女は、笑っていた。

 我慢できないという様子で、肩を震わせて笑っていた。

「も、目的、って……?」

 予想外の彼女の様子に、混乱する瑠衣。しかし、彼女のそんな疑問を解消することなく、お嬢様はただ宣言する。

「瑠衣、そろそろ行くわよ? いつまでそんな、はしたない格好しているの。さっさと準備なさい」

「え? ……あっ⁉」

 下着姿だったのを思い出し、慌てて脱いだメイド服を拾い集める瑠衣。それらを着ながら、尋ねる。

「い、行く、って……どこに?」

「決まっているでしょう? 私たちをこんな『箱』に閉じ込めた、あの子たちのところ……『箱』の外よ」

「……へ? で、でも、『脱出条件』は、まだ……」

「『脱出条件』なんて関係ないわ。そんなの実行しなくても、私たちは外に出られる。出られなくちゃ、おかしいわよ。……だって、この『箱』の閉じ込める力は、不完全だったのだから。あの子、自分で自分の・・・・・・力の『設定』を・・・・・・・破ってしまっ・・・・・・ている・・・のだからね」


 瑠衣には、彼女が何を言っているのかまるで分からなかった。

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