06
舞台は再び、『箱』の中に戻る。
『天井に書いてある条件を実行しないでこの箱から抜け出してみせる』という宣言のあと、瑠衣の主の『傲慢お嬢様』は、また静かに本を読み始めてしまった。おそらく、今の彼女がその具体的な方法を何か思いついているわけではないのだろう。
仕方ないので瑠衣は、――既に、それほど意味がないとは思っていたが――自分たちを囲む『箱』をまた調べてみた。
その『箱』は、元は図書室の床だったものが折れ曲がって壁や天井になって出来上がっている。しかし、垂直になった床の上にもともとあった本棚や机などは下に落ちることはなく、『箱』の壁を地面として、水平方向に向かって立ち続けている。『箱』の底にあたる面に立っている瑠衣たちからすると、側面の壁から本棚や机が生えているように見えるわけだ。
ただ、そんなシュールな見た目を無視すれば、他には特に変わったことはない。自分でも分かっていたように、瑠衣は壁やこの『箱』の構造から、脱出のヒントを得ることは出来なかった。
それでも他に何かいいアイデアが思いつかない以上、形だけは調査を続けている瑠衣。そんな彼女を突き放すように、パートナーのお嬢様が言った。
「その壁は、相手の子が使った『箱の中に閉じ込める』という力の効果……もはや私たち『
懸命に壁を調べていた瑠衣に対して、その苦労を否定された形だ。しかも、その言葉を言った当の張本人は、瑠衣のことなんて見てさえいない。図書室の本に視線を向けたまま、その片手間で言ったのだ。
「む……」
彼女のその態度に、露骨にイラッとした瑠衣。少し嫌味っぽい口調で返す。
「で、でもぉー? いつまでもこんな『箱』の中にいるわけにも、いかないじゃないですかぁー? い、今はまだ大丈夫ですけど、時間がたってくればそのうちお腹が空くとかぁー? トイレに行きたくなっちゃうとかぁー? そういう、抜き差しならない事態になっちゃうかもしれませんしぃー? そうなる前にぃー、早く外に出ようとするのはぁー、全然意味なくないっていうかぁー……」
しかし、言われたほうは全然気にしていない様子。
むしろ、そんなことは考えるまでもない、とでもいうような態度で答えた。
「ああ、それは大丈夫。貴女に言ったかどうか忘れてしまったのだけれど……実は私たち淑女って、貴女たちみたいな普通の人間と違って、『ご飯を食べなくてもお腹が空かない』し、『ずっと起きていても眠くならない』という『設定』なのよ。だから、この『箱』の中にどれだけ閉じ込められていても別に問題ないわ。もちろん排泄行為だって必要ないから、トイレにも行かなくていいし」
「は、はぁっ⁉」
そんなトンデモ『設定』で自分の言葉を否定されるとは思っていなかった瑠衣は、彼女らしくもなく喧嘩腰の声をあげてしまう。そんな瑠衣をさらに逆上させるように、
「ああ、でも……貴女がトイレに行きたくなったら、流石に困るわね? こんな狭い密閉空間では、どうやっても、臭いとかいろいろ隠しきれないだろうし」
瑠衣の主はそう言って、ようやく彼女のほうを向きなおってから、
「だから、瑠衣。悪いのだけど……もしもトイレに行きたくなってしまったなら、我慢できなくなる前に、潔く自害してちょうだいね?」
と言って、意地悪い表情で微笑んだ。
「っ⁉」
カチューシャの『箱』は、中に入ったものの特性を変化させない。だから実は、トンデモ『設定』の淑女だけでなく、普通の人間の瑠衣も空腹や睡眠、それに排泄の心配は無かったのだが……。しかし、個人の気持ちの変化については、その対象外だ。
どこまでも『傲慢』な彼女に、とうとう瑠衣は感情を爆発させてしまったのだった。
「……なんですか、それっ⁉」
「な、何よ? ちょっと、冗談を言っただけでしょう?」
「私が今、こんなに必死に頑張ってるのに! お嬢様のために、どうにかしてここから出る方法を探してるっていうのに……なんで、そんなひどいこと言われなくちゃいけないんですかっ⁉」
声を荒げる瑠衣。言われたほうは、その思わぬ反応に戸惑いを隠せない。
「だ、だから、言ってるでしょう? 淑女の私は『食事や睡眠が必要ない』という『設定』だから、別に焦ってないのよ。ま、まあ、人間の貴女にはそんな『設定』はないのでしょうけど……」
「当然ですよ! 私は、普通の人間なんですっ! 貴女たちみたいな、人間離れしたそんな訳わかんない『設定』なんか、あるわけないでしょうがっ!」
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ、瑠衣? 私だって、これでもいろいろとさっきから考えてはいるのよ? 当然、こんな『箱』からも、なるべく早く出たいとは思っているの。ただ、この『箱』の『設定』がまだ完全には読みきれないところもあるから、今は慎重に……」
たじろいでいる主の反論の言葉を、瑠衣は乱暴に遮る。
「あー、設定、設定、設定……また設定って! 異世界から来たお嬢様は、お腹がすかなくて眠くならないような超人で、そのくせ、私の学校にも私に比べてよっぽど普通に馴染んじゃえるっていう、『設定』! そのお嬢様のメイドになっちゃった私は、変な戦いに巻き込まれなくちゃいけない『設定』! 今、私たちがこんな変な『箱』から出られなくなっちゃってるのも、全部『設定』! だから仕方ない⁉ ああ、じゃああなたがそんなに無神経で偉そうなのも、『設定』だからしょうがないですねっ!」
「なっ⁉」
しかし、自分のメイドにそこまで言われては、負けず嫌いの主もさすがに引き下がるわけにはいかない。
「あ、貴女、何よ! その、口のきき方はっ⁉ 貴女なんて、私のメイドに過ぎないのだから、もっと立場をわきまえなさい!」
「別に私、好きでメイドになったわけじゃないんですけどっ⁉ 昨日は強引に戦いに巻き込まれちゃったから、仕方なくそんな感じになっちゃっただけで……ホントはこんなこと、したくないんです! 私、こういうの向いてないんですからっ! だ、だいたい、その昨日だって私が一生懸命頑張って、ひどい目にもたくさんあったのに……。お嬢様って、そういうの全然分かってくれてないですよね⁉ どうせ、昨日の戦いに勝てたのだって、自分だけの功績とか思ってるんでしょう⁉」
「そ、そんなことないわよ! 私だって、状況を公平に判断できるくらいの謙虚さは、持ち合わせているわよっ! だ、だから、これでも多少は、昨日の貴女の働きを評価してるし……そ、それで、さっきだって、貴女に『言うべき言葉』を言おうと……」
彼女の性格的に言いづらかったのか、最後のほうの声が小さくなる。それを、自分の言葉が図星なせいだからと思った瑠衣は、更に畳み掛ける。
「はいはい! お嬢様って、これまでずっとそんな感じですよね⁉ いつも、私がー、私がー、って……自分がどれだけすごくて偉いか言うだけで、他の人のことなんか全然見てないんですよ! 『言うべき言葉』⁉ どうせまた、自分自慢を始めようとしてたんでしょうっ⁉ うわー、もう最悪! あーあ! 私、どうせメイドやるならこんな『傲慢お嬢様』じゃなくって、さっきのカチューシャちゃんみたいなおしとやかで優しそうな人がご主人様だったら良かったのに!」
「な、なんですって⁉ そんなこと言うなら、こっちだって別に、メイドなんて誰でも良かったのよっ! た、ただ、この世界に来たときにすぐ近くに貴女がいて、それでそのときの様子を見て、ちょうどいい、って思って……」
「ああ、そうでしょうねっ⁉ どうせ私なんて、誰にも必要とされてないザコザコのイジメられっ子ですもんねっ⁉ 『傲慢お嬢様』が奴隷みたいにこき使って、飽きたらボロ雑巾みたいにポイ捨てするのに、ちょうどよかったですよねっ⁉」
「……っ⁉」
彼女たちはほとんど同時に、苛立たしそうに顔をそむける。
『箱』の中は険悪な状態で、とても「愛を確かめ合う」どころではなさそうだった。
再び、『箱』の外。
商業ビルのアパレルショップで簡易ファッションショーを楽しんだカチューシャと涼珂。今は、その近くにあったスイーツショップの、テラス席にいた。
最近人気のインフルエンサーに紹介されたらしく、いつもは行列が絶えないその店も、淑女同士の戦闘が行われている今は、閑散としている。おかげで彼女たちは、何のストレスもなく目的のスイーツを食べることが出来ていた。
「まあ。スズカの食べているイチゴのケーキ、美味しそうですわね? 一体、どんな味がするの?
「やれやれ……そんなに食べたいなら、店の中からもう一つ持ってくるよ?」
「いいえ、その必要はございませんわ。涼珂が食べている、そのケーキが食べたいのです。だから一口だけ、いいでしょう?
「うーん……」
涼珂が食べていたのは、瓶詰めされたチーズケーキにイチゴのソースがかかったものだ。最初は渋っている様子だった彼女だったが――もちろん、本心ではなくポーズだが――、カチューシャが執拗にねだるのに根負けする形で、「まったく、カチューシャには逆らえないな」と笑いながら――こちらはただの本心で――、ケーキを自分のスプーンですくって、主に差し出した。
上品に耳にかかる髪を押さえながら、差し出したケーキを口にいれたカチューシャ。何か含みのある表情で、涼珂に微笑む。
「うふふ……」
「ん?」
「スズカが口にしたスプーンを、
「なっ……⁉」
突然の不意打ちで、顔を染めて言葉を失ってしまう涼珂。
だが、すぐに正気に戻って応えた。
「ま、まったく……何を言っているんだい、カチューシャ? 友達同士だって、食べているスイーツを分け合うことだって普通にあるし。だ、だいたい、今のこの世界には僕たちしかいないのだから……」
言っていることはもっともだったが、少し慌ててしまったせいか、どこか言い訳じみている。そんな彼女に、カチューシャはさらに追い打ちをかける。
「じゃあ……」
おもむろに、自分の食べていたフルーツが入ったロールケーキに、自分の人差し指を差し込む。そして、その指でロールケーキの中のホイップを絡めとる。
「カチュー……シャ?」
「スプーンさえ使わずに、こうやって分け合ったなら……どうでしょうか?」
戸惑っている涼珂を置いて、カチューシャはそのホイップのついた指を自分の口まで運ぶ。そして、ホイップを押し付けた唇を……涼珂に向けて突き出した。
「ちょ、ちょっと……」
カチューシャの望んでいることは、涼珂にはすぐ分かった。自分の唇についたそのホイップを、涼珂が食べて欲しいと言っているのだ。スプーンなどを使わずに、自分の口を使って。
世間知らずで、周囲に大事に育てられてきたという『設定』の彼女が、自分からそんな行動をとるのは意外にも思えるが……。きっと、この世界の漫画か何かを見た影響なのだろう。涼珂としても、せっかく今は自分たちしかいないのだから、愛する人とそんな大胆でハレンチな行動をとることも、決して嫌ではない。
だが……。
そんな涼珂の本能を、意思の力が押しとどまらせる。
自分は、主のカチューシャのことが好きだ。他の誰にも増して、彼女のことを愛している。……でも、そんなに好きだからこそ、自分は彼女にとってふさわしい存在でなければならないとも思っている。自分は、目の前の完全完璧な可愛らしい
だから……今の自分にとっての正解の行動は、口ではなく手拭きペーパーか何かで、彼女についたホイップを拭き取ってあげることなのだろう。「あなたは淑女なのだから、そんなはしたない行為はやめなさい」と言ってあげるべきなのだろう。それこそが、カチューシャのようなお嬢様にふさわしいメイドの行動だ。
そう考えた涼珂は、テーブルの上のペーパーに、そっと手を伸ばした。
しかし、そこで気づいてしまった。
「カチューシャ……」
涼珂に差し出されている彼女の唇が、小さく震えている。
よく見れば、頬はピンクに染まっていて、目元には微かに涙のしずくが浮かんでいる。
それは明らかに、恐怖や後悔ではない。むしろ、それらとは全く逆。自分の望むものを手に入れようと、勇気を出したことの証左だ。
当然だ。今までずっとおしとやかに、大事に大事に育てられてきた彼女にとって、そんな「はしたない行動」を、平気で出来るはずがない。そんな「はしたない行動」をしてでも自分の気持ちを涼珂に見せたい、自分の気持ちを涼珂に知ってほしいと思っている。だからこそ彼女は今、なけなしの勇気を出して、そんな「はしたない行動」をしているのだ。
それに気づいてしまったら、もう止まることは出来なかった。本能にも勝るほどの強い意思で、彼女の想いに応えて上げたいと思った。
「やれやれ……。本当に、いけないお嬢様だ……」
そうつぶやくと、涼珂は伸ばしていた手を引いて、差し出されているカチューシャの唇に向けて自分の口を近づけていった。
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