02
その日の放課後。
結局、朝のやり取り以外はほとんど説明らしい説明もないまま、マリーは瑠衣と一緒に学校生活を過ごしてしまった。いや、むしろ瑠衣の
しかも、学校の勉強も運動も苦手な瑠衣に比べたら、マリーはすべてにおいて勝っているような……いわば、瑠衣にとっての完全上位互換とも言える存在だった。だから、今日初めてそれらに取り組むはずのマリーの方が、瑠衣よりもはるかにその学校の生活を上手くやっていた、とさえ言えた。
例えば。
体育でおこなったサッカーでは、紫色のドレス姿のままのマリーがハットトリックを決めて、チームを勝利に導いていた。音楽の授業では、マリーが披露したピアノとバイオリンの演奏で、感動して涙を流す生徒もいた。朝、クラスメイトに渡してしまった数学の宿題にしてもそうだ。実は、瑠衣が先週何時間もかけてようやく作ったノートの回答は間違っていたのだが……そのあとでマリーが、あっという間にそれの正しい答えを出してしまっていた。
授業が終わったあと、部活に見学にこないかと誘う運動部や、カラオケに行こうと言う帰宅部たちを上品にかわしたマリーは、今は図書室にやってきている。当然、そんな彼女に聞きたいことが山ほどあった瑠衣も、彼女についてきていた。
「あ、あのー……マリー様? お、お隣の席に座っても、よろしいでしょうか……?」
図書室の席に座り、何かの文庫本を読んでいるマリーに、瑠衣は恐る恐る尋ねる。
朝の時点で、瑠衣は教室での自分の席をマリーに奪われてしまった。そのあとすぐに、空き教室から椅子を持ってきて座ろうとしたのだが……「何をしてるの? メイドというのは、常にご主人様の三歩後ろで立っているものなのよ?」と言われ、結局彼女はすべての授業を立ちっぱなしで受ける羽目になってしまったのだ。
すでに脚がパンパンで、限界に達している状態の瑠衣。「さすがに、放課後の図書室まで来て立ちっぱなしって、どうなんですかねー?」という気持ちを込めて、先程の質問をしたのだが……その
「ダメ。ダメに決まっているでしょう」
視線を手元の本に残したまま、冷酷にそう言うのだった。
「うう……」
うめき声をあげながらも疲労に耐え、瑠衣はひたすらマリーのそばに立ち続けている。読書中の彼女の邪魔をしたら、また何を言われるか分からないと思い、彼女に言いたいこと、聞きたかった色々なことは、とりあえず保留にしている。特にやることもなく手持ち無沙汰な瑠衣の視線は、自然と、本を読んでいるマリーの横顔へと向かうことになった。
サラサラのロングヘアー。輝く緑色の瞳。みずみずしい唇。
昨日、そして今日も何度も見ていたはずなのに、全然見飽きることがない。究極の美を追い求めた西洋彫刻や絵画のような、完成された美しさ。瑠衣が知っているどんな女性アイドルや女優でもかなわない、神々しさすら感じるような魅力を持っている。どう考えても、こんな普通の高校の図書室には似つかわしくない。
しかし、そんな彼女の存在を不思議がっている人間は、瑠衣の他には誰もいない。彼女は自分で言った通り「違和感のない当たり前のもの」であるかのように、完全にこの学校に馴染んでしまっている。
普通であればそんなことはあり得ないが……それが、『設定』という名のルールということらしい。それだけ彼女たち淑女は、瑠衣たち普通の人間とはまったく別の、超自然的な存在ということなのだろう。
それから、しばらくして。
「……ふう」
ようやく一区切りついたのか、マリーは読んでいた本をパタンと閉じる。すかさず瑠衣は、聞きたかったさまざまな質問の言葉――今、彼女がこの学校に馴染んでいるという『設定』のこと。そもそも、彼女たちが参加している『淑女とメイドの戦い』のこと。それに、それ以外の様々なことも――を、彼女に投げようとした。
しかしそれよりも先に、席に座ったまま首だけを動かしたマリーが、瑠衣に向かって言った。
「今日一日、この学校の人間たちを見ていて気づいたのだけど。瑠衣、貴女って……人間たちの中でも、相当能力が劣る方の部類みたいね?」
「え……? え、えっと……」
突然思ってもいなかった言葉を言われて、意表をつかれる。次に、その内容を頭が理解すると、今度は気まずい気持ちになる。
「そ、それは、その……そうかも、です」
説教されている子供のように、うつむいて、目を泳がせる瑠衣。
マリーは、そんな彼女に呆れるような表情を向けている。
「……昨日も言ったと思うけれど。私の目的は、この『淑女とメイドの戦い』に私を巻き込んだ『主催者』を暴いて、私を見くびったことを後悔させ、ひざまずかせること。そのためには、今の私には何よりも、知識が必要だわ。だって、そうでしょう? 相手は、私たち淑女をこの世界に呼び出して強制的に『設定』というルールを課して戦わせることが出来るような、ある意味では創造主のような存在なのよ? そんなやつに私たちが歯向かうには、そいつを上回るような……最低でも、そいつと並ぶくらいの知識を身につけなければいけない。だからこそ、私は昨日の戦いが終わったあともずっとこの図書室に残って、ここの本を読んで知識を集めていたわけなのだけど、」
そこでいったん言葉を切って、瑠衣を上から下まで品定めするように見るマリー。
やがて彼女は小さくため息をついてから、続ける。
「どうやら人より劣る貴女では、その知識の助けには、なってくれなそうね?」
「う……」
「まあ、それは別にいいんだけどね」
言葉とは裏腹に、「別にいい」なんて思っていなそうな冷たい声色。その証拠か、彼女は更にこんなことを付け足す。
「とりあえず、身体だけでももう少し鍛えたほうがいいと思うわ。そんな貧弱な身体じゃあ、これからの戦いが厳しくなるわよ?」
「う、うう……」
瑠衣は昨日の戦いを思い出す。
考えてみれば、あの戦いで苦戦していたのは全部自分の弱さのせいだ。
もしも自分が、もっと強かったら……。カエルや蜘蛛なんて恐れたりせず、マリーからもらった力を存分に発揮して相手に立ち向かうことが出来るような人間だったなら……。相手から指輪を取られそうになることなんてなく、それどころか、マリーが図書室からゴキブリの図鑑を持ってくるまでもなく。速攻で、勝負を決めてしまうことだって出来たのかもしれない。
そういう意味では、今マリーに言われたことは図星以外の何ものでもなかったのだ。
――――――――――――――――――――
それから、少しの沈黙があった。周囲の空気が、少し緊張感を帯びたような気がする。
「は、はい……。承知、しました……」
気まずい間に耐えられなかった瑠衣が、絞るような声でそう答えた。
「……」
そんな瑠衣の姿に、彼女の主は何故か徐々に、エメラルド色の瞳を曇らせる。そして、何か複雑な思いを含んだ表情で、歯切れ悪くつぶやいた。
「ま、まあ……それでもそんな貧弱な貴女にしたら、昨日はまあまあ、いい働きをしたと言えると思うわよ? 結果として、戦いには勝てたわけだし? 貧弱で、他人に劣る貴女としては、及第点をあげてもいいかもしれないわね。もちろんそれは、あくまでも赤点スレスレの及第点、という意味ではあるのだけれど……」
そのときの彼女の言葉には、どこか違和感があった。いつもの、体の中から自然と湧いて出てくる傲慢で自信過剰な言葉ではない。どこか、直接的ではないような。いわゆる「奥歯にものが挟まった」という感じの、モヤっとした言葉づかい。「本当に言いたいこと」を言おうとして、勇気が出せずにいるような。そんな不自然さすらあった。
「と、とにかく。昨日の貴女は、お粗末な貴女にしては、まあ、よくやってくれたわよね? 私だって、こういうときに
しかし、言われた言葉に強い引け目を感じてしまっていた瑠衣は、その不自然さに気づくことが出来ずにいた。
「ごめんなさい。こんな私が、メイドで……」
言われるまでもなく、彼女には分かっていた。自分がどれだけ、他の人間と比べて劣っているか。完璧で自信に満ちあふれた主に対して、自分がどれだけ、ふさわしくない存在なのか。
これまで生きてきた彼女の人生に立ち戻る……までもなく。昨日や今日の自分の不甲斐なさを思い返すだけで、それは充分に痛感出来たのだ。
「私、全然ダメダメですよね……。お嬢様の期待に、応えられてないですよね……。ほんとに……そう、ですよね……」
「まったく……」
そんな自分のメイドの様子に、主の淑女はまた呆れてしまう。自分が「言うべき言葉」も忘れてしまって、ため息とともにこう言った。
「貴女……いつまでそんなことを言っているの? いい加減、『私のメイド』という自覚を持ってほしいわね。貴女がお粗末なのは事実なのだから仕方ないとして……それを
「そ、そんな! 私は、そんなことしませんよ⁉」
「はあ……仕方ないわね。この私が、そんな貴女でもやる気を出せるようなことを、提案してあげるわ」
「え?」
瑠衣は、意味が分からず首を傾げる。それに対して、すでに昨日のような傲慢で余裕ある表情に戻っていた彼女は、こう言った。
「瑠衣、貴女が欲しいものを、何でも一つ言ってみなさい? 私たちが次の戦いに勝てたら、私がそれを用意してあげるわ。貴女の願いを、この私が何でも一つ叶えてあげるわよ」
「ね、願いって……。と、突然、なんの話ですか……?」
「だって、仕方ないじゃない? 貴女がそうやって、いつまでもウジウジと自信がない顔をしていたら、そばにいる主の私まで品格を疑われかねないんだもの。だから、貴女が私のメイドをやるモチベーションをあげるために、眼の前にニンジンをぶら下げてあげようというわけ」
「で、でも、私がまだまだ未熟でダメダメなのは、事実だから……」
また勝手に落ち込もうとする瑠衣。しかし、相手は話を続けてしまう。
「もちろん。この私のメイドでいられるという立場は、それだけでなにものにも代えることの出来ないくらいに光栄な名誉だから、本来ならそれさえあれば、他には何もいらないのが普通よ? でも、
「だ、だいたい、そんなこと急に言われても……私、別に願いなんて…………」
その瞬間、瑠衣の頭の中を、あるイメージが駆け抜けた。
「はっ⁉」
それは、昨日彼女が主とかわした『契約』のときの記憶。彼女と、顔と顔を近づけておこなった
瑠衣……貴女って、意外と……。
そのイメージは、すでに昨日の実際の光景から変質して、瑠衣にとって、もっと都合のいい形に加工されている。魅惑的で、とても
ごくん……。
通常の倍以上の大きな音で、ツバを飲む瑠衣。
「どんなに高価な物でもいいわよ? だってこの私にかかれば、卑しい庶民の貴女ごときの欲しい物なんて、余裕で用意することが出来るのだから…………ん?」
ようやく、そんな彼女の異変に気づき、説明を続けていた主が言葉を止める。
「……瑠衣?」
「わ、私の、願いを……な、何でも…………へ、へへ」
「……はあ」
それから彼女は、心底気持ち悪いものを見るような表情で瑠衣のことを見下しながら、
「……瑠衣。貴女はどうやら『
と言った。
「ち、違っ⁉ 違いますよっ⁉」
慌てて否定するが、もう遅い。
「まさかこの私が選んだメイドが、こんなイヤらしい子だったなんて……。ああ……今ほど、自分の運のなさを呪ったときはないわ」
「だ、だから、違うんですってばっ! い、今のは、エロいことを考えてたとか、そういうのではなくって……」
「近寄らないでちょうだい。……汚らわしいっ」
「だ、だから、違うんですってばっ! もおーうっ! 私の話を、聞いてくださいよーっ!」
大声で叫ぶ瑠衣。しかし、その言葉は図書室の中を虚しく駆け抜けていくだけだった。
……そう。
その瑠衣の言葉は、誰の耳にも届かなかった。
放課後の図書室で、大声を出していたというのに。そんな非常識な行為を注意する図書委員や他の誰かは、いなかったのだ。
それは、すでにそこには彼女たち以外の人間がいなくなっていたから。彼女たちが、別の世界にやってきていたからだった。二組の『淑女とメイドペア』だけがいる、異空間の
瑠衣たちの言い争いに、突然、聞き慣れない声が割って入る。
「あら? そちらのお
「あはは。僕たちと比べるのは、少し可哀想じゃないかな?」
声をしたほうに顔を向けると、そこには…………瑠衣たちにとって新たな対戦相手となる『淑女とメイドペア』がいたのだった。
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