08
「小鳩……アンタはそこで大人しくしてなさい。コイツはもう、ワタシ一人で十分だから……」
「うっさい。早くガラス消せ、って言ってんじゃん!」
「なっ⁉ ア、アンタね……!」
主であるセーラに、小鳩は本性を隠さずに乱暴に言った。よくよく見ると、今の彼女が体を震わせているのは、自分の嫌いなガラスに対する恐怖心だけではないようだ。
今の彼女は、それにも負けないくらいの怒りに、震えていたのだ。
「私、このまま瑠衣ちゃんに降参されたり、指輪を抜き取っただけで終了とか……そんなの納得できないから。こんな目に合わされたんだから、そのぶん誰かにやり返さなきゃ、ストレスでおかしくなっちゃいそうなの」
小鳩は続けて、「それとも、瑠衣ちゃんの代わりにセーラちゃんのこと好き放題イジメていいっていうんなら、我慢してあげてもいいかもだけどー?」とつぶやいた。
「……ったく!」
相変わらず、メイドの自覚など微塵も感じさせないような横暴な態度の小鳩だが、セーラは既にそれをどうにかするのを諦めている。うんざりするような表情でパチンと指を鳴らす。すると、
「うぅっ⁉」
瑠衣の太ももに突き刺さっていた大きなガラス片が、一瞬にして消え去った。「おさえ」がなくなって、ようやく落ち着いてきたところだった出血がまた噴き出すように激しくなった。
小鳩は、セーラに対して「消した? ちゃんと消えてる? ほんとに?」と何度も確認してから、恐る恐る自分の目の前を覆っていた手をはずす。そして、周囲にガラスの破片がなくなっていることを確認すると、チラッとセーラの方に視線を向けて、
「……次おんなじことやったら、殺すからな?」
と睨んで、それからあとは瑠衣のほうに興味を移した。
「……」
セーラはそれに対して、もう何も言わなかった。
「あーあ、しくったなー」
すっかり元の様子を取り戻した小鳩が、ゆっくりと瑠衣の方へと近づいてくる。
「ガラスのこと、誰にも秘密にしてたのになー。まさか、よりによって瑠衣ちゃんに知られちゃうなんてなー。瑠衣ちゃん、多分私のこと嫌いだよねー? いつもイジメてあげてるから、仕返しのチャンス狙ってるよねー? うっわー、私の弱点知られちゃったから、今度は私がイジメられちゃうのかなあー? 怖いなー」
彼女はもう、何も怖がってはいない。それどころか、さっきの怒りの感情さえもどこかに行ってしまったかのように、薄ら笑いを浮かべているだけだ。
「でも、でもね私……別に、それを止めたりしないよー? 私に仕返ししないでー、とか。ガラスのこと他の誰かにバラさないでー、とか。そーゆーこと言ったりしないよー? だってそんなこと言ったって、意味ないもんねー?」
小鳩にとってそれは、いつもどおりのことだったのだ。
これまで何度も瑠衣にやってきた、いつもどおりのストレス解消法。いつもどおりの自己実現手段。いつもどおりの精神安定剤。だから彼女は、どんどん落ち着きを取り戻していく事ができたのだ。
「やれるもんなら、やってみなよー? どうせ、意気地なしの瑠衣ちゃんに、そんな事できるわけないもんねー? キャハハハハー! さぁーてとー。今日はどうやって、瑠衣ちゃんと遊んであげよっかなー?」
小鳩にとって、瑠衣を虐げるイジメ行為には、そんな意味があるのだった。
「うう……」
その一瞬で、体を丸めて震え始める瑠衣。痛みや太ももの傷も忘れてしまって、蛇ににらまれたカエルのように体を萎縮させる。やはりそれも、「いつもどおり」の瑠衣の姿だった。
そもそも、これまでのように勇気を振り絞って小鳩たちに立ち向かっていけた彼女のほうが、おかしかったのだ。古本瑠衣は臆病で貧弱で、宇佐宮小鳩たちに日常的にイジメられているときだけこの世界に存在を許されるような、絶対的な弱者。たとえコンクリート壁をえぐれるような力を持っていても、たとえ小鳩の弱点を知ることが出来ても、その本質は変わらない。だからそんな自分が小鳩に勝つなんて、最初から出来るはずがなかった……と、「いつもどおり」の瑠衣は考えはじめてしまっていた。
「……ねぇ? そういえば瑠衣ちゃんってー。もう、カエルも蜘蛛も怖くないんだっけー? 克服できちゃったんだっけー? んー、ホントかなー? ホントは……まだ怖いんじゃなーい?」
小鳩はそう言いながら、右手の人差し指で床に倒れている瑠衣を指差す。そして、独り言のように「カエル」とつぶやいた。しかし、あまりにもぶっきらぼう過ぎて、その言葉の意図が言った相手に伝わらなかったらしい。今度は少し苛立つように強い口調で「セーラちゃん、カエル出して」と言いなおした。
「だ、だからメイドのアンタが、ワタシに指図するんじゃないって……」
反論しようとしたセーラだが、途中でそれをやめる。そして、結局大人しく無数のカエルのおもちゃを、瑠衣の身体の上に出現させた。
「ふふふ」
現れたカエルのうちの一匹を小鳩がツンと指でつつくと、それによって何かのセンサーが反応して、「ケロケロ」という電子音が流れる。さらに、他のカエルたちもそれに合わせて、「ケロケロケロ……」と鳴きだして、カエルの合唱が始まってしまった。
「……ひ、ひぃ!」
カエルの姿を見なくていいように、強く目を閉じる瑠衣。しかしいくら目をつぶっていても、脳がカエルの大群に取り囲まれていることを感じとってしまって、身体を硬直させる。さっきまでは平気だったはずなのに、今はまたそれに対する恐怖心がぶり返してきている。
カエルの鳴き声や質感がリアルに感じられる。自分の嫌いな部分が最大限に強調されて、ヌメヌメと湿った生き物が、自分の一番入ってほしくない部分に入り込んでくるような気がしてくる。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
呼吸が荒くなる瑠衣。
「キャッハハハハー! やっぱ、克服したとか嘘じゃーんっ⁉ 瑠衣ちゃん、全然ビビリのままじゃーんっ! ダッサーいっ!」
大怪我を負い、マリーから与えられた力も活躍のチャンスを奪われて、心がひどく弱ってしまっていた瑠衣。その心の隙をつかれた彼女は、再び恐怖心に取り憑かれてしまったのだった。
カエルの合唱が響く、夏の田舎の田んぼのような光景に対して、「カエルちゃん……こんなにかわいいのに嫌いだなんて、変なのー」と、小鳩はしばらく笑っていたが……。
「えいっ!」
と可愛らしい声をあげて、廊下にうずくまっている瑠衣を、その背中に乗る数匹のカエルごと踏みつけた。
グシャ。
カエルのおもちゃが破壊され、中から飛び出たネジやパーツが、瑠衣の体に突き刺さる。彼女の着ている黒いメイド服の背中に、血が滲んで色が濃くなった部分が出来る。さらに、太もものガラスの傷も再び刺激されて、瑠衣の表情が激痛で歪んだ。
「うーん……イマイチだなー。これだけじゃあ、消化不良だなー」
一方の小鳩は、不満そうに首をかしげている。
「やっぱこういうのは、本物でやったほうがおもしろいよねー? オモチャだと、つぶれても内蔵破裂したり血が飛び散ったりしないから、カエルちゃんのそーゆー
「……うっ」
小鳩の言葉が意味することを、瑠衣は容易に想像出来てしまう。小鳩なら……今まで自分をイジメていた彼女なら、「それくらいのこと」は平気でやるだろうから。
「あ、そっかー! そーゆーことは、『生き物がいる元の世界』に戻ってからやればいいのかー? 元の世界でたくさんカエルを集めて、瑠衣ちゃんと一緒にグチャグチャにしちゃうのっ! そしたら、もう二度と私に逆らおうなんて思わないもんねー? 瑠衣ちゃんも自分の立場を思い出して、さっきみたいにちょーしこいたり出来なくなるもんねー? キャハハハー」
瑠衣の想像した光景と同じか、あるいはそれよりも更に恐ろしい想像を思い浮かべて、嗜虐的な笑顔を浮かべている小鳩。瑠衣は、小鳩のそんな「いつもどおり」の姿に、どこまでも深い絶望に突き落とされる。出血多量で自分の意識が失われようとしていることが、一種の救いのようにすら思えてくる。
「なーんだー! じゃあ、こんな勝負いつまで長引かせても仕方ないじゃん! うん! むしろ、もとの世界に戻ってからが本番だよっ! そうと決まったら瑠衣ちゃん、さっさと降参して指輪渡しなよ! これまでのストレス解消は、そこでやるんだからっ!」
心も視界も暗闇の中にいた瑠衣の耳に、小鳩のそんな声が聞こえてくる。いよいよ小鳩が、すべてを終わらせようとしている。自分をまた、「いつもどおり」の地獄のような日常へと連れ戻そうとしてくる……。瑠衣はもう、余計な事を考えるのをやめて、今の状況を受け入れようとしていた。そうすることが、一番いいことだから。「いつもどおり」の自分には、それしか出来ないから……。
「ってゆーか、私が瑠衣ちゃんの指輪とっちゃえばいいんだよねー? はーい、じゃあこれで試合しゅーりょー! キャハハハハー……」
やがて、そんな憎たらしい笑い声がだんだん大きくなってきて、小鳩が指輪を奪い取ろうと近づいてきた事がわかった。
次の瞬間、
「そ、そこだぁぁぁーっ!」
瑠衣はその声のする方に向かって、『極上の使用人』で強化された右手を繰り出していた。
実は彼女は、ずっとこのチャンスを狙っていたのだ。
さっきこの勝負の勝利条件を聞いたときから、「自分の指輪を取ろうと小鳩かセーラが近づいてきたときに、隙を突いてその相手を逆に倒す」ことを。
いつものように、小鳩のイジメに耐えながら。大嫌いなカエルに取り囲まれ、鳥肌をたてて震えながら。それでも、必ずやってくるはずのその千載一遇の反撃のチャンスだけを、ずっと狙っていたのだ。
それが、自分に出来る唯一のことだから。自分を信じてこの場を任せてくれたマリーに対して、「いつもどおり」ではない今の自分が出来るのは、それくらいなのだから。
しかし……。
ガチャッ。
手応えは、あった。確かに、何かを思い切り殴った感触はあった。
それ、なのに……。
もちろん、今まで一回も人を殴ったことなんてなかった瑠衣には、はっきりしたことまでは分からない。だが、その感触は明らかに人のものではなかった。状況を把握しようとして瑠衣は、また目を開けてしまう。そして、自分の拳が殴った先を確認して、絶望に打ちひしがれた。
そこにあったのは、小鳩ではない。それは、瑠衣のパンチで粉々に砕けている、携帯用の音楽プレイヤーだった。
「ぷぷ。瑠衣ちゃん……何やってんのー?」
反対の方向から、
「アンタ、この小鳩のことが相当苦手みたいね? ……同情するわ。でもそのおかげで、何かを狙っているっぽかったアンタを警戒したワタシが、『小鳩の声がする音楽プレイヤー』を作っておくことが出来たんだけどね」
「あ、ああ……あああ……」
絶望で、まともな言葉が出てこない。
「そ、そんな……そんな……」
「瑠衣ちゃんってば、まーだそういうことしちゃうわけー? 自分のこと、分かってないのー? 瑠衣ちゃんが私に勝てるわけないってこと、そろそろ理解してくれたと思ってたんだけどなー?」
(こんな自分でも、何かが出来ると思ったのに……。こんな自分を信じて自信を与えてくれたマリーさんの気持ちに、報いる事ができると思ったのに……。彼女のメイドに……彼女にとっての特別な存在に、なれると思ったのに……)
「それとももしかして、あの偉そうなおじょーさまに何か言われて、勘違いしちゃったのかなー? イジメられっ子の瑠衣ちゃんでも、頑張れば私に勝てる、とか思っちゃったのかなー? ぷぷ。肝心のそのおじょーさまはさっきどっかに逃げちゃって、明らかに瑠衣ちゃん、見捨てられちゃったってゆーのにさー」
「う、うう……」
もう、瑠衣には何も出来なかった。
自分の非力さを思い知らされ、不甲斐なさが止まらなくなって、涙を拭うことさえできなかった。今は本当に近づいてきている小鳩にも、もう何の抵抗も出来なかった。
「えー、瑠衣ちゃん泣いてるのー? やったー! 私、ブサイクでキモチワルい瑠衣ちゃんの泣き顔って、だぁーいすきなんだー! じゃ、元の世界に戻ったら、もっともぉーっといっぱい泣き顔見せてねー?」
そうして小鳩は、瑠衣の指輪に手を伸ばしてきた。
そのとき、だった。
「そこまでよ」
指輪を奪おうとする小鳩の手を払い落とし、彼女の前に立ちはだかる人影があった。
「よくも、私のメイドをこんなにかわいがってくれたわね? 覚悟なさい。これから貴女たちに、たっぷりお返しをしてあげるわ」
それは瑠衣の主の、マリーだった。
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