07

「……え?」


 次の瞬間、突っ込んでいた瑠衣の足が止まった。

 進みたくても、進めなくなってしまった。


(え? 足が、動かない? ……違う)

 動かそうとすると、右の太ももを中心に電撃のようなしびれる感覚が走って、脳が体を動かすことを拒絶するのだ。しかも、その太ももには激しいかゆみと、体の内部から燃えているかのような熱さを感じる。目をつむっている瑠衣には、自分に訪れたそんな体の変化の原因が分からない。

「な、何で……?」


(……痒い? いや、それも違う。この感覚は……もっと普通で、もっと直感的な……それでいて緊急性を要するような…………い、痛み……?)

 とうとう我慢できずに、瑠衣は目を開けてしまう。そして、自分の右脚に目を落として、自分の体に起こっている緊急事態・・・・を把握した。

「あ、あ……ぁぁ、ぁ……」

 自分がいつの間にか着ていた、メイド服の真っ白なエプロン。その太もも部分が、今は真っ赤に染まっている。そしてその中央には、鋭利な角度の三角定規のような形に割れた、大きなガラス片が刺さっていたのだ。


「う、うあぁぁぁぁぁーっ!」

 殴りかかっていたときの気合の叫び声よりも、はるかに大きな音量で痛みの絶叫を上げる瑠衣。力なく、その場に崩れ落ちる。

 見てしまったことで、その感覚が現実味をおびてきた。深くガラスの刺さった太ももから、耐えがたい痛みが襲ってくる。あふれ出す血液は熱いのに、体全体は寒さに震えるように痙攣けいれんが止まらない。

(ど、どうして……? まさか、デタラメに周囲を殴っていたときに、ガラスを割ってしまった? でも、そうだとしたらタイミングと刺さった場所が、あまりにも出来すぎている。じゃ、じゃあ、まさか……)



「それが、本気を出したワタシの力よ」

 これまでの「かませ犬」全開だった彼女とはまるで違う、ドスの効いた雰囲気のセーラ。だらだらと血を流して廊下に血だまりを作っている瑠衣の姿を、醜いものを見るように、目を細めて見下している。

 瑠衣は少しでも痛みを誤魔化すように、首を振ってセーラの言葉を否定する。

「ち、違う! そんなわけない! だ、だってあなたの力は、『相手の嫌いなものを出す』ことのはず……。だ、だけど今の私のこれは、それじゃ説明できない。だ、だって『ガラスの破片』は、カエルや蜘蛛みたいな、『私の嫌いなもの』じゃないから……」

「……ふん」

 セーラは、これまでのように勝ち誇った高笑いをしたりせず、ただつまらなそうに鼻を鳴らすだけだ。そんな彼女の隣には、さっきまでと同様に、彼女のメイドという立場の小鳩がいる。ただしその姿は、これまでとは少し違っていた。目の端でそれを確認した瑠衣は、そこで、すべてを理解した。今の状況が、確かにセーラの能力で引き起こされているのだということを。

「う、うう……。ふ……ざけんなよぉ……。こ、こういうこと、するなよなぁ……」

 今の小鳩は廊下にしゃがみ込み、小さくなっていた。これまでのふざけた憎たらしさはなく、ただただ弱々しく震えていた。まるで、音楽室での瑠衣のように。


「ワタシの淑女能力『敵者生存』は、相手の嫌いなものを作り出す能力……。でも実はそれは、少し正確さに欠ける言い方だったかもしれないわ」

 セーラは、説明を加える。

「もう少し具体的に言うなら……実は、その場にいる誰か・・の嫌いなものを、ワタシの目が届く範囲に作り出す能力なの。だからワタシさっき、その能力を使って作り出したのよ。アンタじゃなくて小鳩・・が嫌いな『割れたガラス』を、アンタの脚の前にね」

「ち、ちくちょう……。私の前でガラスを、使うなよぉ……」

「こ、小鳩、ちゃん……」

 ガラスの痛みに苦しんでいる今の瑠衣には、セーラの言葉はほとんど届いていなかった。だが、今まで一度も見たことのない弱気な小鳩の姿は、瑠衣にとってどんな言葉よりも明白な状況説明になっていた。

「小鳩は子供のころに不注意で窓ガラスを割ってしまって、死の危険を感じるほどの大怪我を負ったことがあるらしいわ。だからその経験がトラウマとなって、今でもガラスの破片を見るのが怖いみたいなのよ。もちろん、ワタシはそれを直接彼女から聞いたわけじゃないけど……でも、分かっちゃうのよね。それもワタシの能力の一部だから」


 セーラは冷めた目つきで、血だまりの中で苦しんでいる瑠衣に近づいていく。

「小鳩がメイドとしてワタシの近くにいる限り、ワタシは目の届く範囲にガラスの破片を自由に出現させることができる。つまり、アンタが目をつぶってカエルを克服してしまおうが、そんなの関係ないの。だって、尖ったガラスで体を切り刻んであげれば、どんなヤツだって簡単に倒せるんだものね」

 そして、静かに彼女の右手を掴んだ。

「もう、アンタに勝ち目はないことは分かったでしょ? ワタシも、必要以上に他人を痛めつけるのは趣味じゃないし……さっさと勝負を決めちゃいましょ」

 そう言いながらセーラは、瑠衣の右手の薬指から指輪を抜き取ろうとする。それは、瑠衣がマリーに出会った時にもらった指輪だ。痛みでだんだん朦朧としていた瑠衣だったが、本能的にそれに抵抗して自分の手を引き離した。

 セーラは、呆れたように小さく首を振る。

「さっき、小鳩が言ってたでしょ? ワタシたちの勝負は、『相手チームの指輪を奪う』ことが勝利条件なの。だから、ワタシがアンタの指輪を奪えば、それでこの戦いは終わるのよ。アンタ、これ以上痛い思いをしたくないでしょ? 楽になりたいでしょう? だったら、さっさとその指輪を渡しなさい!」

 セーラのその言葉を聞いて、瑠衣はなおさら指輪を守るように、自分の右手を体全体で抱え込むようなポーズになる。さらに、激痛でうまく動かない脚を引きずるようにして、セーラから逃げようとした。しかし、自分の作った血だまりで手や足が滑ってしまい、その行動はなかなかうまくいかなかった。

「はあ……」

 小さくため息をつくセーラ。

「アンタ……こんな状況になってまで、まだ抵抗するつもり? 自分のせいで負けてしまったら、さっき逃げていったアンタの主に、あとで怒られるとか思ってるのかしら? でも、これは仕方ないわよ。アンタが悪いんじゃなくて、ワタシが強すぎただけ。もともとアンタじゃあ、ワタシの最強の能力に勝てるはずなんてなかったのよ。だからいい加減、諦めなさいよ」

「い、いや……だ……!」

 激痛に耐え、血まみれになりながら……それでも、瑠衣はなんとかその場から逃げようとしている。


 既に今の彼女からは、さっき感じていた「勝てるかもしれない」という気持ちなんて、完全に消え去っていた。無効化したと思っていたセーラの力に反撃され、身動きもままならないほどのダメージを受けた。しかも、今現在もガラスで切り裂かれた太ももには激痛があり、激しい出血も続いている。このままなら出血多量で意識を失うか、さらにはもっと「最悪な状況」になることだってあり得る。文字通りの、致命的な傷を負わされてしまったのだ。

 それでも、瑠衣は痛さから逃げるために負けを認めたり、指輪を奪われたりするのは絶対に出来なかった。


 マリーが、自分を信じてくれたから。

 何も持たず、今までずっと小鳩や他のクラスメイトたちにバカにされて、自己肯定感なんて皆無に等しかった自分を、彼女はメイドとして選んでくれた。帰ってくるまで小鳩たちを引き付けて欲しいと言って、自分にこの場を任せてくれた。自分のことを、一人の人間として扱ってくれた。

 そんな彼女に報いるために、絶対にこの戦いに負けたくなかった。どこかに行ってしまったマリーが返ってくるまで、自分はどんなつらい思いをしても、持ちこたえなくてはいけない。この勝負を、終わらせるわけにはいかなかった。

 それは、セーラが言ったような「彼女に怒られるのが嫌だ」というような浅い気持ちとは、真逆の気持ちだった。



 しかし、そんな瑠衣の抵抗も虚しく、さらに彼女を追い詰めるように、事態は悪化する。

「アンタも分からず屋ね。いいから、ワタシがガラスの破片の雨を降らせてアンタを八つ裂きにする前に、さっさと降参して……」

 セーラがそう言ってまた、自分の血だまりの中でバタついている瑠衣の手を取ろうとしたとき、

「……セーラちゃん、ガラス消して。そいつのトドメは、私がやるから」

 自分の目を手で覆って震えていた小鳩が、静かにそうつぶやいた。

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