05


 ………。


 ………。




「あ、あれ?」

 張り詰めた緊張感の中で、お互いに睨み合っていた二組の淑女とメイド。正式に『契約』が成立し、覚醒したマリーの能力が存分に発揮されて、これから本格的なバトルが始まる……と思っていた瑠衣は、いつまでたっても何も起こらないので、少し拍子抜けしてしまった。

「ちょ、ちょっと……マリーさん? 何も、起こらなくないですか? なんか不思議な能力が使えるようになったんじゃ……なかったでしたっけ?」

「……たわ」

「え……?」

「使ったわ」

 マリーは何でもない様子で、言う。

「能力はもう使った、って言ったのよ」

「え? で、でも……別に何も起こってないような……」

 周囲を見回してみても、マリーの姿をよく見てみても、特に何も起こっていない。対戦相手の小鳩とセーラたちにも、やっぱり何か特別なことが起きている様子はない。

「あ、あのー……マリーさん……? やっぱり、何も……」

「瑠衣。自分の右腕を、よく見てみなさい」

「え? 右腕………………ふ、ふわぁ⁉」

 それまで周囲ばかり見ていたせいで、気づかなかったようだ。瑠衣はそこで初めて自分の姿を見て、ようやく「それ」に気付いた。

 いつの間にか自分が着させられている、上等でクラシカルなメイド服。その右腕の長袖が、手元から肩にかけて引きちぎれてボロボロになっている。さらには、その結果露出してしまった自分の肌の周囲を、紫色のオーラのような光が包み込んでいたのだった。


「え、え、えぇぇぇー⁉」

 驚きで絶叫する瑠衣。マリーは、そんな彼女の姿に対してやはりなんでもない様子だ。

「それが、さっきの『契約』によって使えるようになった私の淑女レイディ能力らしいわ。つまり、貴女の右腕は今、私の能力によって強化されたのよ」

「こ、このオーラみたいなものが、マリーさんの、能力……? わ、私が、強化された……? そ、そ、そ、そんなこと言われたって……」

 すぐには信じられない瑠衣。特に深く考えもせずに、近くの壁に向かって、そのオーラに包まれた右腕を軽く突き出してみた。

 次の瞬間……。


 ガッシャーンッ!


 瑠衣の右腕が振れた瞬間に、アッサリとコンクリート造りの壁が砕けちり、ガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまったのだ。

「……へ?」

「うっわ、マジ……?」

「あ、あんなのまともに食らったら、痛いじゃすまないわよっ!」

 瑠衣と小鳩とセーラが、ほとんど同時に愕然とした声を漏らす。瑠衣たちより一足先に『契約』を済ませて淑女能力に目覚めていたその二人にとっても、その光景は想像の範疇を超えていたようだ。

 しかし、やはりその中でも一番驚いていたのは……他でもなく、瑠衣本人だった。

「にゃ、にゃ、にゃ、にゃにこれぇーっ⁉」

「……なるほどね。『自分のメイドに、相手を倒すために必要十分な力を与える』能力……。名前は、『極上の使用人メイド・イン・ヘブン』。ふ……。救いようがないくらいに壊滅的な名前のセンスに比べると、能力自体はなかなか悪くないわね。気に入ったわ」

 頭の中に浮かんでいる文字を読むかのように、そんなことをつぶやくマリー。淑女が淑女能力に目覚めると、その名前や使い方が自動的に分かるというルールなのだろう。

「は、はは……ははは……」

 瑠衣は、紫のオーラに包まれた自分の手を見て、思わず笑い声をこぼしている。校舎の固い壁を打ち砕いたのに、その手はまったく傷ついていない。それどころか、まるで大きな豆腐に拳を繰り出しただけかと思うほど、瑠衣は何の衝撃も感じなかったのだ。

「……す、すごい」

 運動神経が皆無で、格闘技の覚えもない自分がそんな凄まじい力を手に入れてしまったことに、驚きと感動、そして激しい興奮が入り混じった複雑な感情が湧き出していたのだった。

「すごい……すごいですよっ、この力! 普段はザコザコな私が、こんな力を手に入れることが出来るなんて……! こ、これが、マリーさんの能力なんですねっ⁉ 本当に、すごいですっ!」

「ええ、そうなの。私って、本当にすごいのよ。覚えておいてね?」

「こ、こんなすごい能力があれば、誰にも負けることなんてないですねっ⁉ よ、良かったですっ! 本当に、すごすぎですよっ!」

 感情が高まりすぎて、あまりにも傲慢で偉そうなマリーの言葉さえも、気にならない瑠衣。

「そ、それじゃあ、いつまでも私が持ってても意味ないし……この力はもう、お返ししますね? へ、へへ……あ、あとは、マリーさんがいい感じに使ってもらって、どうぞバトルでもなんでも……」

 と、下っ端感を全開にして、紫色のオーラをまとう自分の右手をマリーに差し出す。しかしマリーはそんな瑠衣に、なんでもないことのように、こう言った。

「あら、何言ってるの? 貴女が戦うのよ?」

「へ?」

 その言葉の意味が分からず、キョトンとする瑠衣。

 一方のマリーには、全く迷いはない。セーラたちの方をビシィッと指さして、こう宣言した。

「さあ、瑠衣! 私が与えたその力で、あの子たちを打ちのめしなさいっ!」

「い、いやいやいやいやっ! 何でそうなるんですかっ⁉ い、意味が全然……全然、分かんないですよっ⁉」

「はあ?」

 物分かりの悪い瑠衣に、マリーはいらだたしそうだ。

「だから、私の淑女レイディ能力で貴女に力を与えてあげたから、それを使って敵を倒しなさいと言っているのよ? こんな簡単なことが、どうしてわからないの?」

「だ、だから、どうしてその能力の対象が、私になっちゃってるんですかって聞いてるんですよ! だ、だってこれは、マリーさんの戦いですよねっ⁉ マリーさんが、相手のお嬢様と戦うって話でしたよね⁉ だったら、マリーさんが自分で自分のことを強化すればいいでしょうっ⁉」

 まくしたてるような、瑠衣の当然の主張。それに対して、マリーも当然のことのように答えた。

「無理ね。あくまでも私の能力は、『自分のメイドに力を与える』能力らしいわ。だから、私自身を強化することは出来ないの。でも、それは別に何の問題もないわね。だって、考えてもみなさいな? そもそもこの私が、自ら汗を流して体を動かして相手と直接戦うなんて……そんな下らないことをするはずがないでしょう? 野蛮な戦いとか、肉体労働をするのは、貴女のような下々しもじもの者の務め。気高くて高貴な私としては、貴女たちが醜く争う姿を他人事として遠巻きに眺めながら、優雅に紅茶でも飲んでいる方が似合っているわ。……うふふ。そういう意味で、自分を強化するのではなく『自分のメイドに力を与える』というこの能力は、とても私にふさわしい物だったと言えるわね」

「そ、そんな……」

 説明を終えて気を取り直したマリーは、またさっきのようにセーラたちを指さして、瑠衣に指示する。

「分かったら瑠衣、さっさと行きなさい! 私たちをさんざん侮辱したあの子たちに、貴女の力を思い知らせてやるのよ!」

「だ、だから、ちょっと待って下さいってばっ⁉ いきなりそんなこと言われたって、こっちはまだ全然納得出来てないんですから……」

「グズグズしないのっ! いいから、さっさと行きなさいっ! 貴女は私のメイドなんだから、私が命令したら電光石火の速さでそれに従えばいいのよ!」

「だ、だから、急かさないでくださいってばっ! そんな、漫画やアニメの使い魔とか召喚モンスターじゃないんだから、戦いとかやったことのない私が、言われたからってはいそーですかって、すぐに動けるわけが……」

「瑠衣、十万ボルトよっ!」

「いや、出ませんよっ⁉ 私、どこぞの電気ネズミですかっ⁉」

 と、二人が妙な漫才をしていたところで、


 ケロケロ……。

 カサカサカサ……。

「ひ、ひぃっ⁉」

 また周囲のカエルや蜘蛛が騒ぎ出して、それまで文句を言っていた瑠衣も、悲鳴をあげて飛び上がる。彼女の周囲には既に、さっきマリーと『契約』という名のキスをしていた時に、セーラが能力でばらまいたカエルや蜘蛛がいる。大の苦手で、自分にとっては見るだけで体が委縮して震えが止まらくなるくらいに嫌いな物が、自分を取り囲んでいるのだ。

 それに気づいてしまったら、またさっきの恐怖がぶり返してくる。マリーにどれだけ強力な力を与えられていたとしても、関係ない。それは理屈や道理ではなく、瑠衣の深層心理に根付いた、もっと本能的なものなのだから。

「や、やっぱり、ダメですよぉぉ……。わ、私なんか、じゃあぁぁ……」

 泣きそうな顔で、大きく首を振る瑠衣。

「……」

 それに対して、マリーは少し考えるようなポーズをとってから。

「……見てしまうから、いけないのかもね。目を閉じていたらいいんじゃない?」

「え……」

 そして、包み込むように瑠衣の頭に両手をそえて、優しい口調でささやいた。

「目を閉じて、ご主人様の私の声だけを聞いて、私のことだけを考えてみなさい……? それ以外の余計なことは何も見なくていいし、何も考えなくていいわ……。貴女は私のメイドなんだから……出来るはずよ?」

 頭を傾け、自分のひたいを瑠衣の額に接触させる。恐ろしく美しい彼女の顔が至近距離にくると……どうしても、さっきのキスのことを思い出してしまう。何かを覚悟するように――あるいは、期待するように――瑠衣は自然と目をつむってしまう。

「め、目を閉じるって……で、でも、こんなことくらいで……」

 そして、瑠衣はまた気づく。

 額を合わせているマリーは、また震えている。自分と同じように、今も彼女は恐怖を感じている。さっき瑠衣の中に湧いてきた「奇妙な感情」が、また彼女の体の中でうごめき出す。抑えきれない感情の高ぶりとなって、瑠衣の体を付き動かそうとする。


 彼女を、守りたい……。


 自分は彼女の……マリーさんの、メイドになったんだ……。

 彼女が、自分をメイドに選んでくれたんだ……。

 だったら、そのメイドの自分が、彼女を守らなくちゃ……。私がマリーさんを、守らなくちゃ……!


 ケロケロ。カサカサカサ。

 また、カエルや蜘蛛が動く音が聞こえてくる。しかし、さっきまではとても恐ろしく感じていたその音が、今は妙に嘘くさく、安っぽく思える。目を閉じて視界を封じたことでその分、聴覚が敏感になったこともあるだろう。それに、さっき音楽室でマリーがカエルのおもちゃを引き裂いて中身を見せてくれたことも、プラスに働いているのかもしれない。ただ、それ以上に……瑠衣の心に芽生えたメイドの責任感。そして、マリーに対していだき始めていた強い想いが、瑠衣に力を与えていたのだ。

 ケロケロ。カサカサカサ。

 聞けば聞くほど、ただのおもちゃが動いているようにしか思えない。さっきまで怯えきっていた自分が、信じられないくらいだ。急激に、瑠衣の恐怖心は薄まっていった。


「瑠衣……どうかしら?」

 代わりに、自分の名を呼ぶマリーの声は、これまでよりもずっとくっきりと聞こえる。静かな夜の湖に一滴の清水を垂らすように、瑠衣の体全体にしみ渡っていく。何よりも貴重で、大切なものに思えてくる。

「……貴女なら、きっと大丈夫でしょ?」

 目を開かなくても、彼女の微笑む表情が浮かぶ。一度見たら絶対に忘れないくらいに美しい姿を、頭の中に容易に再現することができる。

 いや……むしろ目を閉じていることによって、彼女の存在が脳内いっぱいに広がっていくような気がする。まるで、美しい彼女に、包み込まれているような気すらしてくる。


 それは、意気地なしで苦手なものが多い瑠衣が、恐怖を克服した瞬間だった。



「ふ、ふん、バッカじゃないの……。そんなふうに目をつぶったりしたら、隙だらけじゃないの……」

 自分の前方右寄りの位置で、セーラのつぶやき声が聞こえた。視界を封じていることで、普段よりもはっきりとその声が持っている情報を読み取れる。

「マ、マリーさん……わ、私……私……」

 瑠衣は目をつむったまま、その方向に体を向ける。そして、わずかに腰を落として身構えてから……、

「……い、いけるかも、しれません!」

 そう叫んで、声が聞こえた方向に向かって、右腕を突き出しながら飛び出していた。


「ね、ねえセーラちゃんっ⁉  瑠衣ちゃん、こっち来てないっ⁉」

「わ、分かってるわよっ! と、止まりなさーい! 『敵者生存』!」

 すぐさま、向かってくる瑠衣の目の前にカエルと蜘蛛を出現させるセーラ。しかし、

「うあああああぁぁーっ!」

 瑠衣は止まらない。カエルが顔にぶつかっても、首筋から蜘蛛がメイド服の中に入り込んでも、今の瑠衣は全く動じなかった。

 今の彼女は、既に「覚悟」を決めていたのだ。今までの、怖がって逃げてばかりの自分に決別し、恐怖に立ち向かう覚悟。そして、マリーのメイドとしての覚悟を。

「ちょ、ちょっとーっ⁉ 全然効いてないじゃーんっ⁉」

「そ、そんなバカな⁉ ワ、ワタシの無敵の能力が、破られるわけが……」

「そこだぁーっ!」

 二人の声を聞いて、その居場所の見当を付けた瑠衣が、拳を繰り出す。もちろん、マリーの能力によって強化された右手のパンチだ。


 ドガァァーンっ!


 すさまじい音とともに、学校校舎のコンクリートがえぐれる。

 残念ながら、ギリギリのところで小鳩もセーラもそれをかわすことが出来たらしく、瑠衣のパンチは廊下の壁に大きな穴を作っただけだった。

「ちょ、ちょっと! 痛いじゃすまないどころか……こんなの食らったら、確実に死ぬわよっ⁉」

「もおうっ! セーラちゃん何やってんのーっ⁉ ちゃんと瑠衣ちゃん仕留めてくれないから、今の私、めちゃくちゃ危なかったじゃーんっ⁉」

「だ、だから、なんでワタシだけのせいにするのよっ⁉ こんな状況、予測できるわけが…………うわぁっ⁉」

 本気を出した瑠衣のパンチの威力に慌てて、醜く口論を始めようとする小鳩とセーラ。しかし、その間も与えず、目を閉じたままの瑠衣はその声の方向に向かって、さらに第二撃を繰り出す。


「その調子よ、瑠衣! それでこそ、この私のメイドだわ!」

「は、はい!」

 覚悟を決めた瑠衣には、もはやカエルや蜘蛛は通用しなくなっていた。

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