第12話 時坂杏奈と週末デート

 時坂杏奈は、部屋の片隅に置いてある姿見すがたみを見た。

 

 鏡の中には、紺のスーツスカートを着た、ちょっと小柄な、メガネを掛けた女性がいる。 

 杏奈は鏡に向かって、ニコっと微笑んだ。


 うん、今日も元気。

 と、杏奈の視線が掛け時計を捉える。

 いっけない、そろそろ出なくっちゃ。 


 杏奈は通勤カバンを持って、勢いよくドアを開いた。

 日の光が眩しい。 

 空が真っ青。 

 朝から晴れて、いい気分だ。

 杏奈はアパートの駐輪場で自転車にまたがり、駅に向かった。


 時坂杏奈が今のところに勤めて、もう、二年になる。

 以前は都心の会社に勤めていたが、今は隣町の信用金庫で働いている。

 

 前の会社だと、一時間も満員電車に揺られなくてはならなかったが、今はたったの、十分だ。


 給料は多少減ったが、同僚も優しい人が多く、心の負担が減った。

 時間に余裕も出来た。

 総合的に見て、悪くない転職だったと言えるだろう。


「おはようございまーーす」


 杏奈の挨拶に、みんなが笑顔で返してくれる。

 杏奈は何気ないフリをして、ベンディングコーナーをチラ見した。 

 

 そこには、始業前の時間を、コーヒーを飲みながら過ごしているスーツ姿の男性がいた。

 

 男性が杏奈の視線に気付いて、笑顔で軽く手を振る。

 杏奈は慌てて視線を逸らし、自分のデスクのPCのスイッチを入れた。

 先輩、今日も素敵。


 キーンコーンカーンコーーン。


 おっと、始業時間だ。

 さ、気持ちを入れ替えて、今日もお仕事、頑張りましょ。



「ねね、杏奈ちゃんさ、ひょっとして、緋村ひむらさんのこと……」 

「え? なになに? 恋バナ?」


 杏奈の顔が真赤に染まる。

 お昼だ。

 杏奈は休憩所で同僚たちと一緒に、自作のお弁当で食事をとっていた。


 隣の席の花咲はなさきマドカがニヤニヤしながら杏奈をからかう。

 他の同僚が食いつく。


「え? 二人、付き合ってんの?」

「まだでしょ。でも、杏奈ちゃんの恋する視線、きっと緋村さんに届いてるわよーー」

「わ、わたしは別に、そんなんじゃ……」

「そんなんじゃ……なに?」

「マドカの意地悪!」

「え? まだなの? 他の人にかっさらわれる前に、アプローチしちゃいなよ」

堀田ほったさんまで、もう!」


 同僚と談笑しながら食事をとる。

 長らく忘れていた平和な時間だ。

 前の会社では人間関係で苦労したが、今は笑っていられる。

 それが何より嬉しい。

 杏奈は同僚たちの話に相槌を打ちながら、今日も平和に、お昼休憩を過ごした。

 


「時坂さん、ちょっと待ってよ」


 終業時間となり、勤め先の信用金庫を出た杏奈は、後ろから掛けられた声に振り返った。

 そこには、杏奈と同じ紺のスーツを着た高身長のイケメンが立っていた。


「緋村さん……」


 緋村がニッコリ微笑んで、近寄ってくる。


「時坂さん、いつも帰り早いからさ。仕事終わったあと、何かやってるの?」


 杏奈は駅に向かって、緋村と並んで歩く。

 まずい。胸がドキドキする。

 顔も熱い。

 きっとわたし、顔、真っ赤にしてる。


「特に何もしてません。あの、一人暮らしなので、家ですることがいっぱいあって」

「そうなんだ。夕飯とかも自分で作ってるの?」

「はい、まぁ……」

「じゃ、たまには外食と、しゃれこもう。今日は金曜で、明日は仕事も無いし、たまにはいいだろ? あまり遅くならないようにするから。もちろん、ここは、誘ったオレのオゴリ。どう?」

「は、はい……」


 杏奈はそっとうなずく。

 ダメだ。恥ずかしくって、緋村さんの顔が見れない。

 杏奈は饒舌じょうぜつにしゃべる緋村の後を、黙ってついていった。

 


 緋村に連れて行かれたのは、イタリアンのお店だった。

 店内の装飾は南欧風にまとめられており、オシャレなことこの上ない。

 夜限定なのか、店内ではドレス姿の女性がピアノの生演奏をしている。

 テーブルに置かれたランプの火を灯りに、食事をした。

 

 食事中、緋村のウィットに富んだ会話が、杏奈を笑顔にする。

 年齢は、杏奈より少し上と言っていた。

 でも、なんでわたしを誘ってくれたんだろ。

 地味だよ? わたし。

 他にキレイな子なんて、いっぱいいるでしょうに。


 杏奈は思い切って聞いてみた。

 緋村はちょっと頭をいて答えた。


美醜びしゅうなんて人それぞれじゃないかな。それに、時坂さんは地味じゃないし、とってもキレイだと思う。オレは好きだな」


 言って、緋村も顔を赤くする。


「このワイン、美味おいしすぎて、ちょっと飲み過ぎちゃっみたいだ。ごめんね、変なこと言って」


 緋村が笑って誤魔化ごまかす。

 そういう照れる顔も、カッコいいな。

 杏奈は真っ直ぐ、緋村の顔を見た。



 食事の後、緋村は杏奈を駅まで送ってくれた。

 もう、夜、九時だ。

 すっかり話し込んでしまった。


「じゃ、オレはここで。今日は楽しかったよ。また月曜……」

「……?」


 緋村が、別れの挨拶をしようとして口ごもる。

 と、緋村はいきなり杏奈の手を取った。

 杏奈はビックリして固まる。


「あの、いきなりこんなことを言って、困惑させてしまうと申し訳ないんだが……その、つまり、オレと付き合ってくれないか」

「え? え? あの、わたし……」

「あぁ、ごめんごめん。考える時間は必要だよな、うん、分かってる。返事はいつでもいい。いつまでも待ってるから。じゃ、おやすみ!」


 緋村は走って街なかに消えていった。

 緋村さん、電車通勤だったはずなのに、そっち行ってどうすんのよ。

 杏奈はクスっと笑って、改札をくぐった。

 

 

 帰宅して風呂に入り、着替えた杏奈は、布団に潜り込んだ。

 愛用の、バナナの抱きまくらを抱きしめる。

 その場で返事を聞いてくれたら、今頃もう、付き合ってたのにね。

 意外と純情なのね、緋村さんったら。 

 

 さーーて、月曜日、なんて返事しよっか。 

 杏奈は抱きまくらのバナナの顔を見た。

 バナナが笑っている。

 杏奈は抱きまくらをギュっと抱きしめ、眠りについた。

 


【登場人物】

時坂杏奈ときさかあんな……二十三歳。無職。温泉ソムリエ。



「グランバート島の温泉は、どれもハズレはないけど、洞窟風呂がオススメかな。洞窟の壁に発光する石がはめ込まれていて、とても幻想的なの。もちろん一番のオススメは、一日そこで過ごして、全部のお湯に浸かることだけどね」



 ぶふっ!

 なに? なに? 今の!


 杏奈は、慌てて周りを見回した。

 宿だ。

 窓から外を眺める。

 激しい雨が降っている。


「なんだ夢か……。はぁーーーー、ダッるーーーーーー」


 ここはフリッカ。

 港町だ。

 グランバート島からの船が着く中央大陸の入り口となっている町だ。 


 この中央大陸に着いてから、既に二日が経過している。

 ちょうど着いたあたりから雨が降り始め、あっという間に豪雨になった。


 雨の中進むことも考えないでは無かったが、途中で道が塞がれて野宿にでもなったら目も当てられない。

 ここは一つ、雨がやむまで待つべきか。


 そう思ってこの宿に逗留を決めて以来、杏奈は宿から一歩も出られないでいる。

 

 一階が食堂なので、お腹が減れば降りていって食べればいい。

 幸い、お金はある。 

 籠もっていても、何も不便は感じない。

 ただただ、退屈なだけだ。


 どうやら、食っちゃ寝している間に、地球の夢を見たようだ。

 でも、設定は未来だったぞ?

 これから起きる出来事だったりして……。

 うん、無いな。

 多分、ただの妄想だ。


 でも、待てよ……。

 大神ガリヤードは、この魔王討伐の旅に、報酬を払うと言っていた。

 もし、さっきの夢を現実に、と望めば、幸せな未来を入手出来る?

 ただの妄想が、現実として確定するとしたら?

 ……悪くない。

 杏奈はニヤっと笑った。


 杏奈は階下に降りた。

 賑わっている。

 というより、杏奈同様、暇を持て余した旅人たちが、ここで適当に食事を摂りながら、時間潰しをしているのだろう。

 杏奈もカウンターに座って、飲み物を頼んだ。

 その時だ。


「あれ? あんた、フリルギアの冒険者ギルドで会ったお姉ちゃんかい」

「ん?」

 

 杏奈が振り返ると、そこに、筋骨隆々とした高身長マッチョが立っていた。

 巨大なバスターソード。

 両肩にある星形のアザ。


「あぁ、あのときの……」


 マッチョが自分のジョッキを持って、杏奈の横に立つ。


「水路が通れるようになったってことは、あんたが無事あの依頼をこなしたってことだな? やはり、オレの見立ては正しかったわけだ。ほぅ。水晶級クォーツになったか。順調、順調。その調子で、頑張って腕を磨けよ?」


 マッチョは笑いながら自分の席に戻っていった。

 ふぅん。

 奇遇なこともあるものね。

 

 杏奈は自分の前に置かれた酒を、一気にあおった。

 明日は晴れるといいな。

 杏奈は窓の外の景色を眺めながら、おかわりを頼んだ。



 翌朝。

 杏奈は自室の窓から入り込む日の光で目覚めた。

 飛び起きて、窓まで行く。

 晴れだ。

 青空が広がっている。


 昨日までの雨がどこへやら、思いっきり晴れている。

 地面は、ぬかるんでいるが、すぐ乾くだろう。

 これなら行ける。


 よし、そうと決まったら、即刻宿を出よう。

 随分と時間を無駄にしてしまった。 


 杏奈は、いそいそと着替え、宿を出た。

 そのまま、馬車の停留所に向かう。

 宿で入手した地図を片手に、立て看板を読む。

 イヴリン行き。

 うん、これにしよう。

 杏奈は馬車に飛び乗った。


 向かうは西。

 イヴリンの村。

 何が待っているのだろう。

 二日間も宿に逗留とうりゅうしていた為、すっかり体が固くなってしまった。

 ちょっとは体が動かせるといいけど。


 杏奈は馬車に揺られながら、まだ見ぬ次の町に、思いを馳せた。

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