猫は結ぶ

砂鳥はと子

猫は結ぶ

 彼女と喧嘩した。


 あまりにすれ違うことが多くて、多分私は不安になっていたんだと思う。


 ついうっかり「どうせ他に好きな女ができたんでしょ」なんて言ってはいけないことを口走ってしまった。


 同じ会社に勤めてるし、上司の彼女が忙しいのも知っていた。二人きりで会えない日が続いて、デートもお泊りもなくて、寂しくて、何かもう心がぐちゃぐちゃになって、私は捨てられるんだと思ってしまって。


 あれ以来、彼女のあいさんは私と目も合わせてくれないし、口もきいてくれない。


 仕事の連絡事項とかはさすがに無視したりしないけど、仕事で必要なことしか話してくれなくなった。


 私が声をかけても「今忙しいから後にして」ってそれっきり。


 電話でも仕事以外の話をしようとすると避けられるし、ラインの返事もなし。


 私は愛さんを怒らせてしまった。


 どうしたら、また以前みたいに仲のいい私たちに戻れるのだろう。それとももう私たちの仲は修復できないくらいに、ずたずたになってしまったのか。


 毎晩ベッドの中で優しかった愛さんを思い出して泣いている。また愛さんにぎゅって抱きしめられたい。愛さんが楽しそうに話す声を聞きたい。


 私は毛布を被って、抱きまくらをきつく抱きしめながら寂しさに耐えていた。


「にゃー、にゃー」


 毛玉の塊になった私の横で、飼い猫のレモンが鳴いている。手でさりさりと毛布を撫でている感触。


 私は起き上がり、真っ黒なレモンを抱き寄せた。


「ごめんね、レモンのことも全然かまってあげられてないね」


 丸っこいレモンの背中を撫でる。あたたかな毛並みがほっとさせてくれた。


「あのね、レモン。愛さんともうお別れかもしれないんだ。前みたいに一緒に遊べなくなっちゃったんだ。私が悪いんだけど⋯⋯」


 過去の愛さんとの楽しい時間が蘇って涙があふれる。


「にゃあ⋯」


「レモンも愛さんに懐いてたもんね。寂しいよね」


 私は小さなレモンの頭をただ撫でる。


 時間は何も帰って来ないし、私の過ちもなかったことにはならない。全て忘れるしかないのだ、きっと。でも私はすぐには忘れられない。


「こんな毎日めそめそしてる飼い主嫌だよね⋯」 


「にゃぁ〜」


「かっこ悪いよね。情けないよね。もっと愛さんといたかったよ。レモンもそうでしょ?」


「にゃあ、にゃあ」


「明日も愛さんにそっけなくされるのかと思うと、私本当に取り返しのつかないことしちゃったよ」


「にゃあ!!」


 レモンまで私に愛想を尽かしたのか、腕の中からひょいっと抜け出る。


「ねぇ、こんな私だけどレモンは傍にいてね」


「にゃう、にゃう」


 私の独り言を分かってるのか分かってないのか、興味もないのか、レモンはしなやかな身のこなしでベッドの際まで歩いていく。


 そして放って置いた私のスマホをいじりはじめた。小さな手でぺしぺしとはたいたり、鼻先でつついたりしている。


「こらこらレモン、それはおもちゃじゃないよ」


 レモンはバカなかまってくれない飼い主のせいで、退屈してるに違いない。


 私はレモンがいつも遊んでいるボールを取りに行くために毛布を脱いで、ベッドから降りた。


 部屋の隅に置かれたおもちゃ入れから鈴の入ったボールを探す。レモンはあれがお気に入りで、愛さんもよくレモンと取って来い遊びをしてくれたっけ。


 愛さんがボールを投げるとレモンが取りに行く。まるで犬みたいだけれど、レモンはこの遊びが好きだったし、愛さんはそんなレモンを慈しんでくれた。


「あれ、ボールがない」


 もしかしたらリビングにあるかもしれない。


「レモン、ボール取ってくるからちょっと待っててね」


 私はリビングに行って、いつもレモンが寝転がってる猫用のベッドを覗く。ふかふかのそこには青いボールが転がっていて、私はそれを手に寝室の方へ戻った。


 ドアの所まで来ると何か声のようなものがして、何だろうかと思いつつ部屋に入る。


「レモン〜お待たせ⋯⋯」


『もしもし、菜月なつき? 返事をして、菜月』


 香箱座りをしてこちらをじっと見つめるレモンの手元にはスマホがあり、そこからは何故か愛さんの声がしている。


『菜月? ねぇ、菜月!?』


 私は何回も聞いたその呼び声にびっくりして、慌てて電話を切った。


 どうやらスマホで遊んでいたレモンの手が反応して、愛さんに電話がかかってしまっていたらしい。よりにもよって、今一番会いたくて会えない人に。


「ちょっとレモン!! 何してるのっ!!」


 怒ったところで意味など分からないレモンは、涼しい顔。


「これはおもちゃじゃないって言ってるでしょ」


 私の小言など素知らぬ様子で、立ち上がったレモンは私の右手をぺしっと叩く。私は手に持っていたボールをレモンに渡した。私はそのままベッドに座り込む。


 さっきの電話、愛さんはどう思ったのだろう。いきなり電話をかけて、鬱陶しいと思われてないか心配だ。これ以上、愛さんに嫌われたくない。


 私は恐る恐るスマホの画面を覗く。もしかして愛さんからラインか何か来てないかと少し期待したが、何もなかった。


「やっぱり、私たち終わるのかなぁ」


 チェストの上に飾られた愛さんとの写真。テーマパークで二人並んでピースしている。幸せの象徴のような写真。でもこの写真の中の私たちは、もう戻っては来ないのだ。


 何だか私はそれを見ているのが辛くなって、写真立てを伏せた。


 レモンは手先でボールを転がしながら、遊んでいる。私たちのことなんて何も知らないし、分かる時は来ない。猫だからそれでいいのだけど。


「お風呂でも入ろうかな」


 考えるのに疲れてしまった。考えてもどうしても、愛さんとの仲がいつの間にか元通り、なんて都合のいいことは起こらない。


 私は部屋着と下着を用意してお風呂に入ろうとした。


 したのだが、突然玄関でガチャリと音がして扉が開く。


 一瞬何事かと身を構えたのだが、そこには愛さんが立っていた。


「菜月!!」


 愛さんは靴を脱ぎ捨てると廊下を走って来て、私を抱きしめた。勢いが付きすぎて、私たちは廊下になだれ込む。


「愛さん、どうして⋯⋯」


「ああ、よかった。私、菜月が病気か何かで動けなくて倒れてるのかと」


 私の頬をしっかり両手で包み、愛さんは涙目で私を見ていた。それは私を大事にしていてくれた時の、優しい愛さんで。


 よく見ると愛さんは息を切らしていて、急いでここまで来たのだと分かる。


「私が病気で? どういうことですか?」


「どうもこうも、菜月がさっき電話して来たんじゃない。出てみればうんともすんとも言わないし無言だし。レモンが鳴いてるし。かと思えば急に電話切れるし。私てっきり菜月が急病で倒れて助けを呼んだのかと⋯⋯。それで慌ててここまで来たのに、どうして菜月はけろっとしてるのかしらね。でもよかった、菜月が何ともないみたいで。全く、意味ありげないたずら電話なんてしないでほしいものね。心臓に悪いから」


 そこまで一気に喋ると愛さんは落ち着いたのか、へなへなと私によりかかった。


 愛さんの説明を聞いて状況を理解した。


 私はレモンが触れたことで誤って愛さんへ電話をかけてしまっただけなのだが、彼女からしたら私から無言電話が来たことになる。


 こんな状況なら喧嘩中でも心配になるのは道理だ。


「愛さん、ごめんなさい。さっきの電話はレモンがいたずらして、たまたまかかってしまっただけなんです。愛さんの声がした時にちゃんと出て説明すればよかったんですけど、怖くなって切ってしまったんです」


「私と話すの怖かった? ⋯⋯ってまぁそうか。最近、私避けてたものね」


「やっぱり、避けられてましたか。でも仕方ないですよね。私、愛さんにひどいこと言いました。ごめんなさい。愛さんが浮気したり他の女性に気が向いたなんて、本気で思ったわけじゃないんです。ただ寂しくて、愛さんとの時間が少なくなってて、それが不安で」 


 私は気づけば思っていたことを吐露していた。愛さんはそんな私を優しく抱きしめてくれる。


「そっか。菜月のこと不安にさせたね。確かに『他に好きな女ができたんでしょ』って言われてショックだったけどね。でもあの時の菜月は冷静じゃないなと感じてたから、本心とは思わなかったよ」


「でも避けるくらいには嫌になりましたよね、私のこと」


「避けてたのはそれが原因じゃないの。仕事が思うように進まなくて。それで部長に呼び出されて毎日文句言われて。ストレスたまってて、菜月と顔を合わせたら八つ当たりしそうだったから。そしたら本当に終わっちゃうって思ったから。せめて今の仕事が片付くまでは距離を置こうと思ったのよ。けど、却って不安にさせてしまったみたいね」


 やはり私たちはすれ違っていた。


 だからこそもっと早くにきちんと話し合うべきだったのだ。


 私も不安を変な形でぶつけたりせずにいれば、苦しい思いは今より減っていたはず。


「私まだまだ愛さんのことが大好きですよ。もっと思い出だって増やしたいし、愛さんと一緒の時間を過ごしたいです」


「それは私も菜月と同じ気持ち。何だかしばらく拗れちゃってたけど、もう一度きちんと菜月とやり直したい」


 愛さんの顔が近づいて、私は目を閉じた。愛さんの唇が触れて、どれだけ私たちは触れ合ってなかったのかと、この感触に懐かしくなる。


「愛さん、これ仲直りのキスってことでいいんですよね?」


「もちろん、菜月がその気持ちでいてくれるならね」


 こうして私たちは思わぬ偶然で突如仲直りすることができた。レモンのおかけで。


 この出来事はその後何度も話の種になった。


 何せ猫が私たちを取り持ってくれたのだから。


「レモンは、猫は案外言葉や、その時の状況を人が思う以上に分かってるのかもね。だからあの時のレモンは私たちを仲直りさせるために電話してくれたのよ」


 とは後の愛さんの言葉である。  

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