4 小さな意地と大きな抱擁
二人での暮らしが始まって数日を過ぎた日の事だった。
食卓に並ぶのは、シンプルに焼き上げられた魚の丸焼きと新鮮な生野菜。デザートには木の実や果実といった自然の恵みがずらりと顔を揃えていた。
肉食をメインとしている優の為に雫が代案として用意したのは、山頂から海へと繋がる川から調達する魚。まだ人の身体に慣れない優を家に一人残すのは気が気ではないと、近場で取れる食材として雫が毎日必要分を調達するようになっていた。
「いただきます」
「はい。召し上がれ」
一本の棒でぐにゃりと身を波打たせながら串刺しになる魚に、優の牙がガブリと突き立てられる。ほろりと崩れる白身は柔らかくほぐれ、白い湯気を口の隙間からはふりはふりともらしながら満足そうに頬張っていた。
雫が口にするのは青々とした生野菜。これらは雫が以前から自分用にと菜園で育てているものであり、現世とは少し違うこの空間では気候や時期に囚われずに様々な野菜を楽しむことが出来た。
「今日も魚取りに行くの?」
頬張っていた魚を嚥下し、先に口を開いたのは優だった。
「うん。食事が終わったらまた山におりるつもりだよ」
「でもさ。シズク、魚食べないじゃん」
向かい合わせに並んだ食卓はそれぞれの好みにあわせて皿の中身が異なっている。優が言うように、魚が山積みになっているのは自分の前だけ。雫の皿には小さな魚が添え物のようになった野菜がメイン。
初日の食事の事を考えれば、雫の労力が全て己の為だということを理解できないほど優は子供ではなかった。
「そんな事ないよ?」
「でも、そんな食ってないじゃん。自分の分は自分で狩ってくる」
優がこの言葉を口にするのは初めてではない。
だが、
「だめだよ。まだ体の動かし方にも慣れてないでしょ」
「もう平気だって」
「だーめ」
その度にこうして断られていた。
獣がこの空間で人の姿になりはしても、元の獣の姿に戻れない訳では無い。現に、雫が己の好きなタイミングで元の姿である兎の姿へと容姿を変えることが可能であった。
雫いわく、どの生き物にも元々備わっている力があるらしく、その力がこの空間にある神気に触れることによって刺激されているのだという。
だが、個々に備わっている力は違い、優や雫のように皆が皆、人の容姿に近付く訳ではないとも同時に話していた。
あくまで、この空間がもたらす神気はその力を呼び覚ますきっかけのようなもの。姿を変えられる者は、ある種の”素質”のある者だともとらえられると。
優は、人の身体の動かし方には慣れてきたものの、まだ獣の姿には一度も戻れずにいたのである。
「まずはその体の使い方をちゃんと覚えてからって、そう話したよね?」
寄せられた眉に尖らせた唇。不満を隠そうとしないながらにも、雫が言う身体の制御をまず最優先に身につけるべきという言葉に、優はいつも口を噤むしか出来ずにいた。
そこから会話は続くことも無く、二人の間には互いの咀嚼音だけが聞こえてくる。優が用意された最後の魚に乱暴にかじりつき、その身を食い千切ると、器をからにした雫が静かに席を立ち、そっぽを向いたような優の頭にぽんと手を乗せた。
「そんなに遅くならないうちに戻るから」
むくれたようにじとりと見つめる視線に苦い笑みを浮かべながら、ぽんぽんと二度ほど頭部が撫でられる。横に水平に形を崩す耳も髪と同様にくしゃりとひと撫すると、優の目の前にある綺麗に食べられた後の皿をひょいとつまみ上げ、自分の食べた後の皿へと重ねていく。
「じゃあ、これ片付けたら行ってくるね」
そして、結わえた髪を静かに靡かせながら背を向け今を後にする雫の背中を、優は口を噤んだまま見送った。
「ちゃんと慣れればいいんだろ、この体に」
ぴしゃりと閉じられた扉に向かって小石のように投げられた言葉。
この身体にだってなりたくてなっているわけじゃない。言い訳を頭に思い浮かべては、そんな弱音を吐く自分自身が優は嫌いだった。
雫に助けられて以来、必要最低限の感情だけを表に出していた優だったが、その内心は当然穏やかなものではなかった。
初めて見た人間。
一夜にして奪われた仲間。
優しい笑顔と引き換えに失った復讐。
四六時中見る羽目になった仇に似た容姿。
まだ未成熟な子供が受け止めるにはあまりにも重いものだった。
泣き喚いても、暴れ散らしても、事実は何も変わらない。
それどころか、それは共に過ごす雫へ負担をかける事にしかならない事も理解している。
自分が皆を守れなかった。
守れていたらこんな事にはならなかったのに。
頭の中をぐるぐると混ざり合う憎悪と自己嫌悪。
様々な感情が渦を巻き、その渦中で優は一人、戦っていた。
静まり返った室内を優の素足がペたりと跳ねる。
優の足取りは初めの頃の面影を残さないほどにここ数日で見違えるほど立派になり、普通に歩くどころか走る事まで出来るようになっていた。
優しく編まれた畳を踏みしめ、艶のある板の床を抜け、草木で覆われた大地を踏み締める。
人の柔らかな皮膚では何かと不都合があるだろうと雫が用意してくれた履き物にもだいぶ慣れ、ここ数日で優は住まいとしている建物周辺をよく出歩いていた。
これまで住んでいた森とは違い、ほんの僅かに白い霞のようなものがかかる世界。日の浮き沈みや風が吹き抜ける感覚はあっても、動物の鳴き声と言った他の生物の気配は一切感じない、なんとも不思議な場所だった。
今後狩りをするといっても、ここではお目当ての肉類にはありつけないのかもしれない。
そう思いながら優がキョロキョロと周囲を見渡しながら散策をしていると、ぴちょん、と聞こえる音に大きな耳がぴくんと立ち上がる。足を止め、左右の耳を別々の方向に傾けながら音の出処を探していると、少し遠くの方から再びぴちょんと音が聞こえた。
「……こっちか?」
等間隔にならぶ木々を抜けると、ふわりと鼻をくすぐる甘い香り。すんすんとその匂いを辿りながら森をぬけていくと、そこには大きな湖があった。
様々な木々が取り囲むように輪を作り、その中央にある大きな水溜り。森と変わらずにもやがかかり、向こう岸までは確認が出来ないが、それだけでもその大きさが理解できる。
ぴちょん。水面が揺れると共に水の音が今度ははっきりと聞こえた。
ゆらゆらと揺れる水面下には小さな影がいくつも泳いでおり、どうやら優の耳に届いた音の発生源はこれららしい。
「こんなところあったんだ」
方角からして家の裏手にあたるところだろうか。立ち並ぶ木々になる木の実も見た事が無いものも多く、全く別な種類なのだろう。
まだ泳ぐ魚を捕まえられるほどにこの身体を動かせる自身もない。ならば、と優は一本の木の幹をぺしぺしと叩くと、決意したように眉根を寄せてこくりとひとつ頷いた。
視線の先には丸くぽってりとした桃のような果実。すん、と鼻を動かせば感じる甘い香りはおそらくこれから漂ってきている。
「これくらいなら今の俺だって」
狼は基本的に木登りをする生き物ではない。血を駆け巡る俊敏な身体を駆使する狩りにおいて、その必要が無いからだ。
だが、獣に戻れないのならこの身体でできることを探せばいい。優はそう思い、目の前の気に手を伸ばした。
獣とは違う長い手足を伸ばし、別れている枝に手を引っ掛けるような形で少しずつ身体を持ち上げる。目指すは高所に見えるあの果実。
一本、また一本とよじ登っていくと、もう少しで手が届くところまで何とか登ることが出来た。
細い木の枝に跨りながら懸命に果実へと手を伸ばす。
指先が振れるまであともう少し。優はさらに前のめりに身体を傾けると、薄皮で覆われた果実に指が掠る。
これ以上前へと進むのは枝が折れてしまう可能性もある。だが、あと一息なのだ。歯を食いしばりながらぐっと腕を伸ばす。
「あと、もう少し……っ」
がさりと木の葉を揺らしながらもどかしい距離を埋めるように手を伸ばす。
息を飲むような数秒の後、指先を添えるように薄皮の果実を掌で覆うように包み込み、五本の指で握り込んだ。
「よし……!」
その時だった。樹木がかわいた音を立てると共にガクリと身体が大きく揺れる。
枝が折れたのだと理解した時には優の身体は前のめりの姿勢のまま、地面へ吸い込まれるように落ちはじめていた。
「やば……、っ!」
ぐらりと揺れる景色はまるでスローモーション。地面までの距離はそう遠くないはずなのに、体感としてはあまりにもゆっくりと世界は回る。
バキバキと乾いた音を立てた枝は重力に従って真っ逆さまに落ち始め、優は手に握る果実を落とさぬようにと腹部に抱きかかえるように身を丸くし、衝撃に備えるべく強く瞼を閉じた。
ひゅるり。一筋の風が優の髪を揺らし、そして木々が風に踊らされるようにがさがさとけたたましい音を奏でた。
「ユウちゃん!」
いつもの柔らかな声色に似合わない、張りのある声が耳に届いた。
閉じたばかりの目を開くと、そこには少し前に家を出たはずの雫の姿。日頃穏やかにしている彼の笑顔とは全く違う、切羽詰まった緊迫に強ばっている表情をした彼がそこに居た。
突如起こった突風は木々だけでなく、水面下の魚によって穏やかにたゆたうだけだった泉に大きな波紋を広げていく。
飛沫は空高く舞い上がり、木の葉とともに日差しを浴びてきらりと美しく輝いた。
そんな一瞬の出来事のうちに、地面に打ち付けられるはずの身体は雫によってしっかりと受け止められ、両腕にしっかりと収められていた。
「シ、ズク……?」
飛び込むような勢いで優を受け止めた為か、そのままの勢いで地を転がるような状態で静止し、優はこの数秒間に起こった事実をまだ受け止めきれないまま縮み上がっていた。
ゆっくりと抱きこむ腕がゆるんでいく。横たえたままの状態で、少しだけ身体が離れた。
「あいたたた……。ユウちゃん、怪我はない?」
そこにはいつもの表情をした雫が居た。土に頬を汚しながらも、普段優に話し掛けるのと同じ声色で目の前の男は言葉を紡ぐ。
先程とっさに見せた顔の名残も何も無かったが、それは優を酷く安心させた。
「う、ん……」
「そっか。よかった。間に合って」
慣れた手つきで雫の手が優の頭をぽふんと撫でた。そして、確かめるように引き寄せられ、ぎゅうと強く抱き締められる。
「ごめんね。ユウちゃんの気持ちも考えないで」
「いや、俺の方こそ、ごめん……結局こうやって迷惑かけて……」
「んーん。迷惑なんかじゃないよ。大丈夫」
連れ出さなかったのは来たばかりの環境や身体に慣れるためという雫なりの気遣い。
そして、自分のものを出会ったばかりのものに頼りきるのはと考えたのは優なりの優しさと、小さな意地。
「明日は一緒に食べ物取りに行こうか」
「いいの?」
「うん。運動しながらの方が体に慣れるのも早くなるかもしれないし」
互いの遠慮や気遣いが生み出していた小さな溝は、この日から少しずつ埋まり始めた。
白と灰の優しい獣 Ru @Rururara69
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