3 見つめ合う瞳と繋いだ手

 鳥のさえずりは新たに昇る太陽の訪れを告げる。水面に落とされた雨粒が波紋を作るように、その音は静かに目覚めを促した。

 身を包む暖かな感触と柔らかな布地。微睡んだ意識を泥沼から引き上げるように、優は重い瞼をゆっくりと開いた。

 ぼやりとゆがんだ視界に映るのは、いっぱいの白。朧気に見えていたそれは徐々に形をハッキリと変えていき、それはまだ見なれない真っ白な兎の穏やかな顔を映し出した。


 鮮やかな赤の瞳は長いまつ毛を下ろした瞼に隠され、整った鼻筋と薄く開いた唇から聞こえる穏やかな寝息。それがとても近い距離に居ると気が付くと同時に、しっかりと抱き込まれ身動きが出来ないという事も優は理解する。

 別に、嫌という訳ではない。不思議とそんな気持ちになったのは、見慣れない人間の顔でも、それは美しいと部類されるんだろうなとまだ覚醒しきらない頭で考えたからだろう。

 優がそんな事を思っている間にふるりと長いまつ毛が震え、ゆっくりと赤い瞳に光がさした。


「ん、……おはよう」


 雫の瞳が朧気に弧を描く。そして、抱き込まれていた身体から腕が離れ、それはそのまま優の頭をぽんと優しく撫でた。


 昨夜いつ眠りについたのかの記憶はない。だが、夢を見たのは覚えている。

 始まりは雫に助けられた直後――ここに運び込まれてすぐに悪夢の続きのようなものだった。

 足先にこびりつくような、絡みつくような、這い回るような。そんな気持ち悪いもの。

 それが、突然なにか暖かいものに包まれて、眩しくて、そこにあった良くない物を全てなくなっていく。

 そんな夢だった。


 おそらく雫のおかげなのだろう。根拠はなくとも、今、目の前で見ている笑顔は優にそう思わせるには十分過ぎるものだった。


「……おはよ」


 小さな声で返した言葉に、その笑顔はまたいっそう穏やかで優しい笑みを浮かべた。

 わしゃりと髪を撫ぜる感触に優はしばらく自分が惚けていた事を自覚すると、冷静に自分が起きられなかった原因である腕から解放されているという事実にもまた気がついたようで、その手から逃れるようにもぞりとうごめいた。

 身体を起こすべく膝を立て、そこから一気に立ち上がろうとしたところで昨夜のようによろりと身体が揺らめき、ぼふりと布団へ逆戻り。その様子の一部始終をまだ横たわったままの雫が見届けると、くすりと笑い声をもらした。


「~~っ!笑うな!」


 ぼふんと拳が布団を叩く。そんな産まれたての子鹿のような優を雫は暖かい目で見守ると、よいしょと一声添えながら布団から起き上がった。

 見下ろした視線の先には、布団の上で恨めしいような恥ずかしいようなとじっとりとした目線で見上げる優の姿。まだ笑みを絶やさぬままに、その布団で溺れた狼にそっと手を差し伸べた。


「大丈夫。そのうち慣れるよ」

「一人で……!」

「立てなかったでしょ?」


 間髪入れずに返された言葉に優の口元がへの字に歪む。

 そして、数秒間の沈黙の後に返事の代わりにぐきゅぅと可愛らしい腹の虫が鳴き声を上げた。


「~~~~!」

「っふふ、お腹すいたよね。ほら、ご飯食べよ?」


 優しく微笑む赤の瞳と、物言いたげにひそめられた黄金の瞳。反するようなふたつの視線が交わり、そして、パシリと手を掴む音がひとつ部屋に響いた。


 力強く引かれた手に導かれ、優の身体は浮かび上がるようにふらりと立ち上がる。まだなれない人の形の足が敷布団を踏み締めるも、膝がかくりと頼りない。


「背負ってあげようか?」

「いら、ない……!」


 繋がった手にこれでもかと力を込めながら、優は雫の顔を見る事もせずにはを食いしばりながらそう答える。

 ぎりりと握られた手は、旗目から見ても多少なりとも痛みを伴うだろうと理解出来るほどに強く握られていたが、雫は「そっか」と一言を返すと、その懸命な少年を静かに見守ることを選んだ。

 雫が一歩布団の外へと踏み出し、繋がったままの手をゆっくりと己の方へと引き寄せると、ふるふると震える足がゆっくりと前へと踏み出され、ぺたりと床を踏みしめる。

 また一歩と雫が離れては、少しの間を置いてまたもう片方の足が時間をかけながら一歩、また一歩と踏み出していった。


「うん。上手」

「……あんたは普通にしてるじゃん」

「そりゃ、君よりもこの体には慣れてるからね」


 少しずつ歩く感覚を短くしながらようやく部屋を出ると、その建物はそれなりの広さがあるのか、左右に廊下が広がっている。


「こっちだよ」

「ん、」


 くいくいと手を引かれるままに、ぺたぺたと木造の廊下を歩いていくと、案内されたのは布団のあった部屋から少し離れた畳の間。

 広すぎることもなく、それなりの大きさのコンパクトな部屋に、布団のような厚手の布が掛かったテーブルがあった。

 その部屋はどうやら日常的に過ごすところらしい。動物の住処にもいくつもの用途に別れた空間が存在するが、雫の住むこの建物もさして変わりはないらしい。


「ユウちゃんの好きそうなものはあんまり蓄えがなくてね。探してくるから、ちょっとまっててね」

「わかった」


 部屋の中央にある布掛けテーブルの前まで手を引かれると、まだ少し頼りない足を膝から折り畳み、そのまま掛け布の中に両足を潜り込ませてみる。

 もふりとした柔らか布を潜ると、その先はほのかに暖かい。冬場の寒さを感じさせないそれに心做しか優の表情が穏やかに和らいだ。


「ふふ、気に入ったみたいでよかった」

「……うっさい」


 ぽふんと雫の手が優の頭をひと撫すると、ご丁寧にそれをぺしんと払い除け、そのまま手をひらりと振りながら雫は部屋を後にした。

 ぽつんと部屋へ残された優は、特に何をする訳でもなく手持ち無沙汰。きょろりと部屋を見渡したところで、特に何かめぼしい物も無い。

 己が入るそのテーブルの布地をめくり、その下を覗くように身を屈めてもぞりと動いた。ぼんやりと眩しい明かりから感じる焚き火のような温かさ。おそらく、それに触れるのは良くないだろうと優はすぐに理解した。


 ふと目に入ったのは自分のものと思われる人間の足。五本の短い指がついたそれは、自分の意思の通りにぴくりと動く。


「本当に、ニンゲンの体なんだな……」


 自分の家族の仇と同じ見た目。狼の名残はほとんど見当たらない。唯一の名残は頭の上にあるふたつの大きな耳。そこまで考えて、優はハッとした。


 ふるり。確かに感触がある。


 意識して自分の後方を振り返ると、そこにはかつての自分の毛色と同じ、長い毛で覆われた尻尾が生えていた。

 手で掴んでみると、もふりと柔らかい感触と同時にぞわりと背筋が擽ったい。思わず手を払い除けるように尻尾がぶるんと大きく揺れた。


「自分の尻尾なんて、はじめて触った」


 確かに、これは元々の自分の身体らしい。

 昨夜から起こり続けていた現実味のないものは、紛れもなく事実なのだと、そう感じさせた。



「お待たせユウちゃん……って、どうしたの?」

「――!」


 雫が部屋に戻ってきたことに気が付かず、優は頭上からかけられた声にピンと耳を高く持ち上げた。視線を向けると、不思議そうに赤い目を丸くしながら小首を傾げる雫の姿。


「な、なんでもない」

「……?」


 ふいと顔を逸らすと、雫も深くは追求をせずに手にしていた木製の器をコトリとテーブルの上へと置き、優の隣へと腰をかけて同じように掛け布の中へと足を潜り込ませた。


「ユウちゃんでも食べられそうなの探してみたんだけど……これくらいしかなくてね。今後のご飯はちゃんと考えるから、とりあえず今はこれでお腹の虫と相談してもらえるかな」


 雫が持ってきた木の器の中には、真っ赤な果実や新鮮な葉野菜。そして、ころころと艶のある木の実がいっぱいに盛られていた。


 優は狼。食事といえば生の肉。肉食獣なら当然である。

 それに対し、雫は兎。そう、主食が違うのだ。

 家屋に蓄えがあると言っても、それは肉食獣用では無い。


 優がその中身とにらめっこをすることおよそ数秒。五本の指をくっつけたままの掬うような動きで中に入っていた果実を手に取り、顔の前まで運んでくる。

 すんすんと鼻を動かし、その果実をじっと見つめると、言葉も発さぬまま大きく口を開けてその身を頬張った。


 ぷちゅり。薄い皮に牙を立てると中で水玉が弾けるように果実が口の中へと溢れ出す。そして、甘酸っぱい香り一気に鼻をぬけ、舌の上をとろりと甘い液体が広がっていく。


「ん…………」

「どうかな」


 ぷくりとした頬がもにゅもにゅと動く。その様子を雫はじっと見つめながら、自身の問いかけに対する返答を待つと、続いてこくんと喉が上下に動いた。


「…………うまい、かも」


 ぽつりと呟くような声。そういった優の瞳はきらりと艶めき、黄金の瞳をらんらんと輝かせながら、釘付けになるように器の中の同じよう果実を真っ直ぐに見つめている。

 それは、その言葉が嘘ではないと証明するにはじゅうぶん過ぎるもので、ざわついた心境の雫はほっと胸を撫で下ろした。


「そっか。よかった」


 雫の手が優の頭へと添えられる。柔らかな毛に紛れた耳もへたりと大人しく、わしゃりと撫でる手の動きに逆らうこと無く、その行為を受けいれた。

 またひと掬い優が果実を頬張ると、僅かに耳の先がぷるりと震え、先端をぴこぴこと動かしては幸せそうに咀嚼する。ふと、後方に聞こえる物音に気が付き、雫が後ろを振り向くと、髪と同じ色をした尻尾が左右に忙しなくゆらゆらと揺れていた。


「いっぱい食べていいからね」


 つられるようにわしゃりと髪を撫ぜ回す。くにゅんと柔らかな耳の感触が少し心地よい。

 少なからず心を開いてくれた少年に雫の目尻が角を落として丸くなった頃、これまで食べる事に夢中だった優が雫へと向き直った。


「……シズク」

「ん、どうしたの?」

「しつこい」


 ぺしん。


 こうして例外なく、頭部の手は優によって振り払われた。

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