2 灰色の狼


 湖に放り投げだされたような、浮遊感と落下間とも違う感覚。ずるずると底に引きずり込まれる感覚に血の気が引いた。

 足元からなにかぬるりとしたものが絡み付く。指先から感じる生暖かい感触は少しずつ身体を這いずり、 背筋に寒気が走った。

 寒いのに、身体が焼けるように熱い。全身から汗が吹き出し、息苦しさにもがく度に呼吸はどんどん苦しくなる。


 目を開こうとも視界は何も変わらない。自分を取り囲む真っ暗な闇だけがどこまでも広がっている。


 悪い夢だ。意識が覚醒していなくとも理解出来るほどに、それはあまりにも現実離れした感覚だった。


「――――……ッ!」


 弾かれるように横たえた身体が跳ね起きた。横たえた身体にかけられていた掛布が勢いのままにばさりと音を立て、静寂の中にばさりとひとつだけ音を奏でる。


 ドクン。ドクン。


 暴れ狂ったような心臓の音がやけに大きく聞こえた。


「ここ、どこだ……?」


 開いた口からでた言葉。


 そう。言葉がでた。


 周囲を見渡すよりも先に己の身体を見下ろしてみると、視界が捉えたのはこれまで見た事のないような光景だった。

 狼特有の毛並みは見当たらず、それどころか身体の作りがまずおかしい。毛色に似た布地が見に纏われ、その下には――――


「ニンゲン……ッ?!」


 見たくもない人間に近い身体をしていた。

 猿ともいえない毛もろくに生えていないむき出しの手足。顔な手を伸ばすと、やはり毛の感触はない。ぺたりと肌を直接触れる感覚を手に感じ、同時に酷く汗ばんでいることを自覚した。


 ふと、周囲の状況を確認すべく近くを見渡すと、小屋とも取れる木造の壁が辺りを囲んでいる。肌に感じる寝具の感触は慣れ親しんだ木の葉や木々の類とは全く違い、柔らかでさらさらとした心地よい感触を与えてくる。

 身体の動かし方は本能的に理解したものの、足を地べたに付け、立ち上がろうと試みるが身体はぐらりとバランスを崩し、ぼふんとその居心地のよい寝具へと吸い込まれた。


「な、んだ、これ……!」


 状況が理解できないまま焦りは募る。そのせいか、発した己の声がひどくしゃがれて聞こえる。

 立ち上がろうともう一度足を立てた時、ぴしゃりと何かを横に擦る音と共に、記憶の片隅で聞き覚えのない声が耳に届いた。


「ああ、目が覚めたんだ」


 声の方へと振り向くと、そこには雪のように真っ白なものが居た。

 白い髪に白い衣服。おまけに肌も色が薄い。

 見た目はほとんどニンゲン。だが、頭の上に見た事のある長い耳がふたつ。

 それは、よく狩りをしていた兎ととても近い見た目をしていた。


【灰色の狼】


 薄暗い森の中に積もった真っ白な雪に出来上がっていた赤に濡れた灰色の山。滴る鮮血は純白の世界を刺激的に彩り、いてつく寒さが背筋をゾッと凍らせる。

 動物の毛皮はいつの世も人には高価な物らしく、人を裁く神の伝承が残るこの山でも密猟者が出ることは少なくはなかった。だが、昨夜の光景はこらまで比にならないほどの凄惨なものだった。

 大量の狼の亡骸と、白の神に裁かれた密猟者の成れの果て。


 月下のもとで起きた惨劇は再び日の目を浴びる頃には何事もなかったかのように美しい山林へと復元され、一夜の惨劇を知っているものは事態を収束させた神と、唯一の生き残り――狼の子のみだった。


 あの忌まわしい事態から時間にしておよそ数刻。神と呼ばれた男は自分の住居である祠へ生き残りの狼の子を運び込んだ。

 山中にある古い祠。何の変哲もないそこからつながる、動物も人も立ち入ることが出来ないその男だけの空間に。


 白の神がここで暮らし続けて数百年。

 この地に久しぶりに別の生き物が招かれた。


「ああ、目が覚めたんだ」


 引き戸を開けた先には、布団の上をふらりとよろけている狼の姿があった。

 狼といっても、少し前までの獣の姿ではない。姿形は人間と大差なく、強いて言うのであれば獣の時と同じく毛色の短めの頭髪に埋もれた、大きな獣の耳。


 声をかけると布団に埋もれかけた狼は、はっと気が付いたように顔を上げる。大袈裟なほどに高く立ち上がった耳は動物がよりよく物音を聞く時にする仕草と同じ。本能的な部分は何も変わらない、一匹の狼が兎を捉えた。


「声が聞こえたと思ったから様子を見に来たんだけど、結構元気そうだね」

「おまえ、さっきの……!」


 既に成人ほどの背丈をもつ兎とは違い、まだ幼かった狼は人間の姿を模してもやはりまだ未成熟。人にすると15前後くらいになるの子供の姿をしていた。

 身体を動かす事に慣れないのか、立ち上がろうとも上手くいかずに布団の上へと逆戻りを繰り返す小さな身体は警戒するように肩を強ばらせ、懸命に威嚇の姿勢を見せている。兎はそんな様子に構いもせずに布団のすぐ近くまで歩を進めると、何も言わずに狼の隣へと腰を下ろした。


「これなんだよ!それに、ここどこだ?!」


 威嚇するように食いしばった口元から荒らげた吐息をフーッと吐き出しながら、少年は声を荒らげるも、兎は顔色ひとつ変えずにゆるく小首を傾げてみせる。

 長めの前髪がゆるりと揺れる。その奥に見える真っ赤な瞳は物怖じる事無く少年を見つめ、怒りと脅えに揺れる黄金の瞳を真っ直ぐと見詰めると、ほんの少しの沈黙の後に静かに口を動かした。


「生きててよかった」


 穏やかで声色と共に、兎の手が少年の頭へと伸びる。激情に逆立つ毛並みの隙間へ差し込むように、ゆっくりと手を動かしながら髪の毛を優しく撫でた。

 突然の他者からの好意的な態度に少年の身体がびくりと震えたのははじめのほんの数秒だけ。大きく立ち上がった耳も、逆毛立っていた髪の毛も、兎の手が優しく行き来を繰り返すうちに次第に大人しく、なだらかになっていった。


「すこしは落ち着いたかな」

「…………」


 言葉の代わりに返ってきたのはこくりと小さな頷きがひとつ。

 少年を見つめる赤い瞳が、穏やかに目尻を下げて笑みを浮かべた。


「ここは私が住むところだよ。普通の動物達には来られない、山の社のずっと奥にあるところ。保護した君をここに連れてきたんだ」

「……山の奥?」

「んー、少し違うけどそんな感じかな」


 先程までの荒らげた声とは違う短い返答に兎は穏やかに微笑みながらそう応えると、頭に添えたままの手で髪の毛をわしゃりと撫でた。

 すると、少年ははっと目を見開き、自然に受け入れていたその行為を手を跳ねのけるようにしてぶんぶんと頭をふりながら拒んでみせる。


「あんたは?」


 じっとりとした視線を向け、物言いたそうに眉間に皺を寄せながら口をとがらせる少年に対し、兎はさして気にする素振りも見せずに人あたりの良さそうな笑みを浮かべながら口を動かした。


「俺は雫。君は?」

「……優」

「ユウちゃんか。いい名前だね」


 振り払われた手がまた再び灰色の髪をわしゃわしゃと撫でる。先程より少しだけ勢いを増して髪を掻き混ぜるように動かされた手を少年――優は、いいよいよ片手で払い除け、ぱしりと軽い音が部屋に響いた。


「子供扱いすんな!つーかなんなんだよこの姿!」

「ああ、ごめんごめん」


 払われた勢いのまま行き場を失った手をひらひらと振りながら、雫は謝罪には似つかわしくない笑顔を浮かべながらそう言った。

 言葉尻に高らかな笑いを混ぜた後に、雫は不信そうに己を見つめなおすと、どこから話したものかと口元に手を添えながら少しばかりの思案の姿勢を見せる。そして、ほんの僅かに声のトーンを落としてこう言った。


「ここはね、世界の中でも不思議な力が集う場所のひとつなんだ。この姿はその影響のひとつさ」

「不思議な力?」

「生き物にはみんなそれぞれ不思議な力がある。それはとても小さなものなんだけど、ごく稀に強い力の持ち主や場所が存在しているんだ」

「なんだよ、それ……。ってか、なんでよりによってニンゲンなんだよ……!」

「……ごめん。それは俺にもよく分からない」


 優の瞳がわかりやすく怒りに濁る。その心中を察すると、雫はこれ以上の説明もせずに一言の詫びの言葉で話を締め括った。


 雫は分からないと一言で返したが、人間の容姿に酷使する現象についてはいくつかのおとぎ話がつたわっている。

 一説によれば、進化と成長の証として『人』は利便性に特化している姿であり、子が親に似るように神に近づいたものだからと言われているが、また別の説では進化しすぎた『人』を欺くために、似通った容姿へと多種族が擬態した事が起源ともいわれていた。

 話したところで、おそらく今の優には人間に関わる話など耳にしたくもないだろう。そう思い、雫はあえてなんの情報も伝えず、ただ拳を強く握りしめる優を静かに見守ることを選択した。


「群れのみんなは……どうなった」


 ぎりりと、歯ぎしりの音がする。俯きながらそう言う優は表情こそ見えないものの、白くなるほど握り締められた拳が心境の全てを物語っていた。

 狼は誇り高く、敵対する者へも物怖じる事無く立ち向かう勇敢さに加え、群れで行動する動物の中でも特に仲間意識の強い生き物だ。雫は、子を守るように大人の狼が覆いかぶさっていた亡骸の山を実際に目にしている。

 そして、目の前の少年が自分は守られていたのだという事を自覚していることも同時に理解していた。守られているだけの不甲斐なさと、守れなかった己の弱さに悔いる姿が、雫にはとても痛々しく映った。


「……俺が助けられたのは君だけだ」

「――――ッ!」


 握られた拳が鈍い音をたてて床に叩き付けられた。

 声にならない、短い鳴き声のような高い音が俯いた優から堪えられずに溢れ出る。二度三度と叩きつけられる拳は薄い皮膚をうっすらと破り、白から赤へと血色が変わっていく。

 その様子を黙って見ていることが出来なかったのだろう。雫の色白の手が、もうやめろと言うように赤くなった拳を掴んだ。


 山の神とはいえ、弱肉強食という自然の摂理を否定する事は出来ない。弱い生き物が強い生き物によって糧とされるのは、いってしまうと仕方の無い事であり、それによってこの世界は成り立っている。

 しかし、全てを黙認する訳にはいかない。食物連鎖の域を崩すほどの規模であれば、このように神はその片寄った天秤を元の近郊に戻すべく強者を裁く。それがこの森の神に与えられた役割だった。


「ごめん。君の家族を、助けられなくて」


 それでも、もう少し早く駆け付けられていればこの子は一人にはならなかったかもしれない。

 そう考えたところで実際に起きた事態は変えられなかったとしても、雫は己の判断で一匹の狼に大きな孤独を背負わせた事実に拳を受け止めた掌が僅かに震えた。


 震えた理由はそれだけではない。人に殺された生き物は必ず人を憎むだろう。だが、その先にある復讐は新たな火種を産む原因にしかならない。

 神として、それを許す事も出来ない。雫は、優から復讐の機会さえも奪ったのだ。


「あんたが……!」


 再び手が振り払われる。子供とは思えない強さで跳ね除けたその手はそのまま雫の胸ぐらを掴み、涙を浮かべた歪んだ黄金の瞳が雫の真っ赤な瞳を真っ正面から捉えた。

 怒りと憎しみ。そして悲しさを全て綯い交ぜにしたようなその顔はくしゃくしゃに歪み、今にも零れそうな涙がゆらゆらと瞳を揺らす。


 己を責めることでこの子の気が紛れるのならと、雫はそう思い、罵倒も暴力も全て受け入れるつもりで瞼を下ろした。


 胸ぐらを掴む手にさらに力が込められる。

 だが、雫の予想に反し、視界を閉ざしたまま状況は変わらない。



「あんた、が……」



 そして、鼻をすすり、弱々しく震えた声が耳に届いた。



「助けてくれたんだろ……俺の、こと……。そんな顔、すんなよ……っ」



 殴られるよりも強い衝撃が雫を襲った。

 少し前までの命の危機に瀕していた子供が。家族を失ったばかりの子が。あったばかりの他者を労わっているのだ。

 本当ならば衝動のままに叫びたいだろう。何かに感情をぶつけたいだろう。

 だが、目の前の子供はそんな自分の感情よりも、不甲斐ない姿を見せた己を慰めようとしている。


 その事実はうっすらと開いた雫の瞳を潤ませた。


「ごめん……ごめんね……」


 胸ぐらを掴んだ手はわなわなと震え、必死に涙を堪えながらまっすぐと見つめる優を雫は何も言わずに抱き寄せた。胸元にうずめた小さな頭はしゃくりをあげながらふるふると震え、それを慰めるように何度も髪を撫で続ける。

 これからの事よりもまず考えてあげるべき事だった。


「もう、大丈夫だよ」


 この子は、怖かったんだ。

 家族に置いていかれた恐怖と、死ぬかもしれないという恐怖に押し潰されそうになっていた子供を、雫はできる限りの優しい声色で慰めた。

 縋るように回される手が、服をぎゅっと握りしめる。


「これからは、俺が君を守るから」

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