月影のふたり

@yumenosippo

第1話

川瀬 奈保子 25歳 アイドルスター 両親が河合奈保子のファン その名前を授かる

佐伯 徹 23歳 防衛医大5年

《出会い》 

徹にとっては、衝撃的な出会いだった。

この歳まで寮生活でまとまった時間がとれず、取得できなかった運転免許を、大学が本格的な実習に入る前のこの2週間で取得しようと思いやってきた教習所の教室だった。隣の席にあの本人がいることに、絶句した。

いくら変装をしようとすぐに本人と気づいた。だが騒ぎにならないよう、また自身も高ぶる気持ちを自制し二日間は話しかけずに過ごした。

三日目、朝一からの学科授業に奈保子は同じ席に座っていた。

徹ははじめて奈保子に顔を向けて「おはようございます」と声をかけた。俯いていた顔から視線が上げられ、小さな声で「おはようございます」奈保子は言った。

それをきっかけに二人は少しずつ話をするようなった。

徹は、自分の名前を告げ、自分はまだ学生だと奈保子に伝えていた。教習初日、一目で憧れていたアイドル川瀬奈保子とわかり、驚愕と共に歓喜したが、相手は忙しい合間に教習に来ているのだと、また騒がれたくもなく芸能人であることも知られたくないと察し、奈保子のことはほぼ聞く事はなかった。

徹は、周囲に人がいる場合は、必要に応じて出身地に因んで粉浜(こはま)さんと呼んだ。二人でいるときは徹は奈保子を本名でもある「奈保(なほ)さん」と呼んだ。

奈保子は徹さん、徹君など必要なときだけしか呼ばず、呼び方自体に戸惑っている風であった。奈保子はこの青年に素性が知られ初めはどうしようという焦りが生じたが自身をこの講習の一参加者として皆の前でも接し、平静を保った対応に安堵した。

16日間の短期免許取得講習の前半は、学科教習においては参加者が全員同じ時間割で教習していた。

数日もたたないうちに、休み時間は徹を中心に中高生のように皆無邪気にたわいもない話で盛り上がるようになった。時折その中には奈保子もいて、会話に参加し、

それこそ中高生時代の感覚を懐かしみ楽しんだ。

一方授業中は、徹も奈保子も二人で最前列で真剣に受講した。日によっては、6時間朝から暗くなるまで受講した。

講習も半ばを過ぎたある時、徹より「奈保さん、時間があれば一駅歩いて、標識みながら帰りませんか?」

奈保子はそれに応じた。標識についてあれこれ話をしたり、途中様々な話題を交え会話も弾んだ。

「奈保さん、これから予定がありますか? ラーメンでも食べませんか?割り勘になりますけど」

二人で通りすがりの道で看板が出ている店に入った。二人は、免許を取得したらどこに行くか、乗りたい車等の話をした。

会計時、二人はそれぞれの金額を支払った。駅前についたとき、「明日は奈保さん、教習があるんですか?」

言った後ろで自転車が次々と倒れる音がした。徹はカバンを置き、慌てる主婦に駆け寄り、一声かけ、倒れた自転車を一台一台起こしていった。

奈保子は自分もそうしようと思ったが、徹の行動が早かった。

ふっと徹の置いたカバンに目を向けた。自衛隊が被るような白い帽子が見えた。

奈保子は、教習所に通う初めての日に、教習所最寄り駅の改札前で、白い帽子を被った自衛官らしき白い服を着た青年が転倒した老婆に駆け寄り気遣う姿を見ていた。

カバンからのぞく帽子をみた瞬間、あの青年は徹だったと気付いた。良い人だと思ったが、しかしそれ以上のことは思わなかった。

「奈保さん、すみません。今日はこれから予定がありますので、ここで失礼します」カバンを持ち上げ片手をあげて歩き出す徹に奈保子は手を振り、そしてタクシーを探した。

数日後、教習所の廊下で奈保子と徹は会った。「おはようございます。これから学科ですか?」

「実車です」「奈保さん、全部ストレートに行ってますよね。頑張ってくださいね」改めて背が高いと歩いていく徹の背中をみて思った。

互いの進捗具合もあり、段々と徹と話す機会は減ってきた。予定の日数で免許も取得できた。奈保子は、短い間だったが楽しく過ごせたから良かったと思った。


数か月後

奈保子は武道館のステージで、自身が敬愛する河合奈保子の「ハーフムーンセレナーデ」を歌った。

白いドレスを纏い、全身全霊を込めた魂の歌声そして彼女の美貌に観客は魅了された。

休みと重なり、また伝手を駆使し、そのステージを舞台裾の関係者のみが出入りするところから観ていた徹は全身に鳥肌が立ち体が震えていた。

涙が止まらなかった。歌を聴いて、こんなに魂が揺さぶられた経験はなかった。

光り輝く美しさにも魅せられ身動きすらできなかった。

感動と一言では済ませらない。羽先が触れただけでも次の瞬間倒れこみ慟哭しそうで立っているのもやっとな状態であった。

演奏の終わりと共に奈保子は再び深々と頭を下げた。それは敬愛する河合奈保子を倣ったものであったが、今そこに居るのは、律儀なアイドルではなく、まさに圧倒的な歌唱力、才能、美貌も兼ね備えたプロフェッショナルのアーティスト川瀬奈保子であった。

奈保子が歩いてきた。歌い切ったという上気した表情だった。

「奈保さん・・・、感動がとまりません!」歌い終わった奈保子に花束を渡し、

少しでも話ができればと思っていた。泣き顔も憚らず、必死の一言だった。

「あ、徹君? 久しぶり。ありがとう」奈保子は徹の手から花束を受け取った。

「このステージが観れて幸せです。ありがとうございました」

汗に輝く奈保子は左手に花束を持ち、白い手袋のまま徹の頬に手をあて、その親指で流れた涙を拭った。

「ありがとう。またね」知らない間柄でもないため、何かの伝手でこの舞台袖にいる弟のような青年に一声掛けた。

一人になった時、歌い切った奈保子を包む体温と頬に添えた手の温もりが再び徹の全身を包んだ。短い時間の出来事であったが、この上ない幸福感が全身を満たした。



《イノセンス》

徹は大学を卒業し6週間の幹部候補生研修を受け海上自衛隊の医官として自衛隊病院等に勤務し、二年間の初任実務研修を終え、横須賀にある海上自衛隊の海上自衛隊潜水医学実験隊に配属された。週の半分は自衛隊病院に医師としても勤務していた。

階級は医官であり、一尉であった。27歳になっていた。

週二回の部外通修が認められるので、徹は休みを返上して市内の基幹病院の救命救急外来に勤務し医師としての研鑽を積んでいた。絶え間なく様々な状態の患者が搬送され、正に戦場というべく目まぐるしい状況の中、徹は既に現場では戦力として重用されていた。

休みなく働いていたが、来週の半ば珍しく東京に出る用事と、また翌日が休みということもあり、ふと久しぶりに都内代々木のマンションで過ごそうと思いついた。

そのため業者に部屋の掃除やリネン類の整理を事前に依頼した。普段は、都内に住む姉が時々喚気をしてくれていたこともあり、人が過ごす部屋としてある程度の状態は保てていた。

横須賀では愛車を運転する時間は殆ど取れない。しかし駐屯地から少し離れた民間のガレージを借り、時々エンジンはかけていた。濃紺のアウディR8だ。

その日は夜遅く駐屯地を出て、ガレージに向かった。東京の用事は朝8時に市ヶ谷の駐屯地へ行く用事であった。

シャッターを開け、運転席に乗り込み、エンジンを掛けた。下腹を揺るがすエンジンフローが響いた。

ハンドルを握り、東京に向かった。時間は深夜になっていた。

横須賀から東京へは主要幹線道路を走ればさほどの時間を要すことはないが、横浜の手前でトラックの横転事故の処理のためしばらく通行止めになっている情報を聞いていたので、横浜の手前で幹線道路を離れ山手の道を走っていた。

上り坂が終わり平坦な道が続いていた。対向車はなくハイビームで走行していた。

しばらく走るとライトが照らす先の道脇に座っている人の姿が目に入った。

徹は、深夜の山道で女性が現れたことに驚いた。更に驚いたことに、その女性はほぼ裸体だった。幸いスピードも出していなかったので、割と女性が佇む近くに徹は車を留めた。「大丈夫ですか?」応答はなかった。女性は声を出さず、しゃがんだまま徹を見ていた。怯えていた。

徹は女性の近くで立ち止まり、もう一度「大丈夫ですか?」と声を掛けた。

返答はなかった。アジア系の女性と思われ、徹はまず北京語で同じ問いかけをした。

やはり返答はなかった。英語の問いかけも同じだった。徹は、ジャケットを脱ぎながら近づき、胸や腹部を隠すように体を固くししゃがみ込む女性の肩にそのジャケットを掛けた。その女性はブラジャーを着けておらず、下着は下だけ身に着け、足は靴下だけの状態だった。徹はハっとした。強姦されたのではないかと咄嗟に思った。

言葉が通じないのであらゆる動作で尋ねたいことを聞いた。通じたのか、その女は日本語で「ダイジョウブ」と言った。

10代か20代かわからないくらい幼く見えた。胸元に引っ搔き傷があり少し出血しているようだった。水色の靴下は汚れていた。強姦未遂だったか。

徹は電話をする真似をし「ポリス?」と訊いた。女性は首を大きく横に振った。徹は車に戻り、ブランケットを渡した。その女性は胸を片方の腕で隠し、片手で受け取った。後ろを向き、それを巻きスカートのように腰に巻いた。徹のジャケットは腕を通し、袖を捲っていた。母国語がわからなかったが、日本語で「どこ行く?」と訊くと「ヨコハマ」と言った。「横浜、友達いる?」「スンデイル」「どこ?」

「タノウラエキチカク」田浦は徹は良く知っていた。海上自衛隊の施設がいくつかあり、実際徹は実験隊施設にて研修を受けていた。

「田浦駅で大丈夫?」頷く女性に車のドアを開け、乗るようジェスチャーで示した。女性は上目遣いで徹をみた。

戸惑いがあるようだったが助手席に乗り込んだ。

徹はまずは24時間営業のホームセンターに立ち寄り、小柄な女性の体に合わせ、

スポーツブラ、長袖Tシャツ、フード付きパーカー、アディダス風のジャージ生地のズボン、そしてあったので23cmのアディダスのスニーカーを購入し、レジでタグを切ってもらった。

それを持って車の中で待っていた女性に渡した。女性は笑って受け取った。徹は車から離れ、着替えるのを待った。女性はドアを開け、靴下を脱ぎ、アディダスの

スニーカーに裸足の足を入れた。徹は「ソックス、忘れた」というと

「ダイジョウブ。デモ、ブラジャー、チイサイネ」と言い、片手で黒のスポーツブラをヒラヒラさせた。

徹は「トイレ行く?」と訊くと彼女は頷いた。少し体には大き目のパーカーを着て、徹の後を飛ぶように歩く女性は子供のように見え、先程まで怖い目にあっていたのではないかという雰囲気は全く感じられなかった。

手洗いから出てきた女性に「おなかすいた?何か食べる?」と訊いたらボトルを飲む仕草をしたので自動販売機前に連れて行った。

女性はサイダーのボタンを押し、ボトルを開け、ゴクゴクと飲んで「アリガト」と徹に言った。「大丈夫?ポリス?」と先程の質問をしたが「ダイジョウブ」と同じ返答だった。徹はまた車に乗り、二人で田浦に向けて車を走らせた。

「オニイサン アリガトネ。オニイサン トテモカッコウイイネ。ヤサシイ モテモテネ」

しばらくするとその女性は、「キョウオキャクサントドライブ、オキャクサンセックス、ワタシノー、ニゲタ」と言い、徹も状況がわかった。

程なく、田浦駅周辺に着いた。車を留めるとその女性は自分でドアを開け、

「イノセントボーイ、アリガトネー」投げキスをして行ってしまった。

徹は一瞬呆気にとられたが、苦笑した。

シートをみると狭い後部座席には、ブランケットとジャケットが畳まれた状態で置いてあり、助手席の足元には脱いだ靴下があった。助手席のヘッドレストにはスポーツブラが被せてあった。それは危うく見過ごすところであった。

徹は以前付き合った女性から必要以上優しすぎると言われた。しかしそれが徹だった。気を取り直し、再び東京に向け、車を走らせた。


日中の用事は昼過ぎまでに済ませ、部屋に戻り、リビングのソファーに腰を落とした。正面の壁は粗く削った石のようなタイルが貼られ、テレビが掛けられていた。

またそれを囲むような形で木製の棚が組まれている。幾つかの盾と河合奈保子のアルバムが飾ってある。奈保子とは最後に会ってから3年以上経っていた。

時々テレビを通し、奈保子の活躍は目にはしていた。最近は数々のドラマにも出演し、活躍の場を広げていることも知っていた。曲は出していなかった。

ソファーに仰向けになり、奈保子のことを思った。

初めて会った日のこと、教習所での日々、その後一度コンサートで伝手を辿り、再び会ったこと。忙しくあまりテレビや雑誌を見ることはなかったが、たまに目にしたとき、奈保子は変わらず美しく、また話し方や笑顔も可愛らしく、それだけに喪失感が胸に募った。この月日が舞い上がっていた自分をまた元の距離に引き戻していた。

胸に様々な思いが去来したが、なかば強引に押し込んだ。一時の夢、今の状況が現実なのだと。

目覚めると部屋も外も暗かった。いつの間にか眠っていた。時計を見ると22時すぎであった。

徹は一人街に出た。一人が良かった。しばらく街を歩き、軽く食事がとれそうな店を探した。

雰囲気のよさそうな洋風居酒屋の看板が目に留まり、そこに入った。1人だと告げ、カウンター席に案内された。

背もたれの高いイスにジャケットを掛け、店員に「ちょっと先に手を洗ってきます」と声をかけた。

教えられた方向に歩いていくと、トイレの手前で二人の女性がいた。恐らく酔ったであろう片方の女をもう一方が支えているようだった。徹はその脇をすり抜ける前に、支えている女性に「大丈夫ですか?」と声をかけた。「あ、大丈夫です」という返答にその場を後にした。

カウンター席に戻り、ジントニックと適当に2,3品食べ物をオーダーした。

徹は店員に「シガーは大丈夫ですか?」と尋ねた。カウンター席には徹しかおらず、

大丈夫とのことだったので、黒い小型のポーチから愛用のシガー、鋏、ライターを取り出した。シガーの口元を挟みで切り、口に咥えて火をつけ、強く吸い込んだ。

ゆっくり煙を吐き出した。辺りに甘みを感じさせるバニラの香りが漂った。

「ちょっとやめてください!」女性の声が聞こえた。

先程トイレの前にいた、支えていた方の女性の声だとわかった。「大丈夫、大丈夫」砕けた口調の男の声も聞こえた。他にもまた男の声がした。男は二、三人いるような雰囲気であった。しばらくして「やめてください!キャー!」

「お客様、こちらのお客様ももちろんですが、他のお客様にもご迷惑になりますので!」店員らしき声も聞こえた。

男の中の一人が店員に何かを言い返し、傍らから先程の女性が「やめてください!」と先程よりも甲高い声で叫んだ。騒々しさが増した。振り返り様子を見ていたら、

2人の男が先程酔った様子の女の腕を両方から掴み店から出ようとしていた。

追いかける女性をもう一人の男が遮るようにし、何か声をかけ、止めに入ろうとした店員に「知り合いだよ!ギャーギャー騒ぐんじゃねーよ!」と怒鳴ったが、

「知らないです!違います!」

徹は立ち上がり、騒ぎの様子を呆然と見ていたカウンターの店員に「万が一の場合勘定はこれで」と1万円をカウンターに置き、女性の傍に歩み寄った。

「知り合いではないのですね?」「違います。全然知らない人達です!」

「わかりました」徹は、先ほど店を出ていった男達を追いかけた。

「おい、待てよ!」一人残った男も徹を追いかけ、その襟首を後ろから掴んだ。

徹は振り向きざまに勢いよく腕を振り、掴んでいた手を弾いた。

「痛てー!」右手を押さえ俯く男を見ずに、走って店を出た。左右首を振り、周囲を見た。それなりに人通りがあったが、左手3,40m先に真ん中に女性を抱えた3人組を視界に捉えた。

ちょうど先程の女性が慌てて店から出てきたところだった。

「助けます」徹は走り出した。一瞬目を離したことで男達を見失ったが、視界に捉えたとこまで人をかき分け懸命に走った。10m先に左に曲がる角があり、見ると3人がいた。向かって右側の男が女を抱えながら歩き一方の手で携帯を耳に当て通話をしているようだった。

「やめてください!」女の声が聞こえた。3人は駐車場に入っていった。

徹はその後を追った。一人が黒いワンボックスワゴンの横に立ち、リモコンスイッチで後部ドアを開けた。もう1人の男がしゃがみ込む女の胸に手を伸ばしていた。

「いや!」泣きそうな女の声がした。

「おい兄さん、イヤがっているんだから、やめなよ」「なんだお前?」答えた男の目が少し見開いた。

後ろに気配を感じ咄嗟に体を右によけた。店に残っていた男が追いつき気配を消したつもりで飛び蹴りを試みたが、徹は躱した。3人が徹と向き合った。女はしゃがみ込んだままだった。

本心では騒ぎを起こしたくはなかった。しかし目の前で起こっていることを見過ごすわけにはいかなかった。「イヤがっている女性を拉致して。それ犯罪だよ」

「誰だ、こいつ」「さっきの店にいた奴だよ」右手首をさすりながら遅れてきた男が仲間に答えた。

「おい、ナメた口きいてんじゃねーよ。殺すぞコラ!」

「お前には関係ないんだよ!こいつは知り合いなの。死にたくなかったら黙って失せろ!」

「この人と一緒にいた女性は知らない人達と言ってましたよ」「あー!」3人が詰め寄り、真ん中の一人が徹の胸倉を掴み上げた。

徹は左側の男に左足の横を蹴られた。胸倉を掴んでいた男が押し込んできた。

獲物を前にした餓狼には口で言っても無理だと思った。また左側の男が、今度は徹の顔に拳を叩きつけた。徹は動いた。胸倉を掴んでいた男の顔に勢いよく頭突きを入れ、左拳を左の男の脇腹に叩き込み、今度は右の男に拳を大きく振り上げると同時にそれを避けようと屈みこんだその顔に右ひざを入れた。

一瞬にして3人は地面に転がった。呻き声が聞こえたが、周囲の喧噪に紛れ辺りは何もなかったかのようだった。徹は女に歩み寄り、「さあ、帰りましょう。お友達も心配していますよ」女は「すみません・・」と小さな声で言ったが、立てないようなので徹が抱き上げた。徹は急いでその場を離れた。丁度その時タクシーが通りかかり、女を先に乗せ、先程の店まで走らせた。店の前では、先程の女性が辺りをキョロキョロしながら立っていた。

酔ったこの女の荷物も持っているようだった。徹はタクシーを止めさせ、自分だけ降り、立っている女性に「これに乗って、ここを離れて」と言い、女性を同乗させた。女性は慌てて「ありがとうございました」と言い、タクシーは町のどこかを目指し、走っていった。

タクシーが走り去るのを確認した後、徹は自分の荷物を取りに店に戻った。

徹を見た店員が「だ、大丈夫でしたか?」と聞いてきた。

「大丈夫です。二人は今タクシーでどこかに行きました」

「お客様も大丈夫ですか?」「?」「いや、ケガをしているようですが・・」唇の横を少し切ったようだったが、問題なかった。自分が座っていた席に目を向けた。

「すみません、私の荷物は?」と座っていたカウンター席に目を向けた。

「え?もう一人の女性が一緒に持っていかれましたけど」「え、そうなんですか。あ、会計の方は良かったですね」「いえ、何もお出ししていませんし、代金は受け取れません」ちょっとした押し問答があったが、店員の言葉を受け入れた。

さて、どうしようかと思ったその時、別の店員が「店長、先程のお客様から電話が入っております」と受話器を持ってきた。

一瞬店長は徹の顔をみて受話器を受け取った。対応しながらも時々徹の顔を見た。

一旦受話器を下げ通話口を手で覆い、「お客様、先程のお客様が荷物に気づいて連絡をしてくださいました」また通話に戻ると「はい、伺ってみます」と再び受話器を下げ、「今から赤坂2丁目の「マリシア」という店に来れますかと仰られるのですが

?」徹は家に帰ったのではないのかと思ったが、「わかりました。伺うと伝えてください」と言った。

先程の店の前でタクシーを拾い、赤坂の「マリシア」という店の前まで10分とかからないで着いた。BARだった。

店に入ると一人の女が立ち上がった。先程の女性だった。驚いたことに酔った女もいた。酔った女も立ち上ろうとしたが、うまく立てないようで立った女性が手を差し伸べて止めた。

「先程は、本当にありがとうございました。また荷物をうっかりしてお渡しせずにすみませんでした」と徹のジャケットと荷物を渡した。

「この店は、仕事関係でよく利用させて頂いている店で、我々にとっては気兼ねなく過ごせる店なんです。あとこの人が是非あなたに会ってお礼を言いたいと強く言うので連れてきています」

「いえ、お気遣いなく。それよりも早く休まれてください」

徹は立ち去ろうと踵を返した。

「徹君、待って!」徹はその声に一瞬体に雷が走った。「・・奈保さん?」

「徹君、本当にありがとう。助けてくれてありがとう。ごめんね、こんな状態で」

立ち尽くす徹に女性が「知り合いなんですって?弟のような人って言ってましたけど。気づいていなかったみたいでしたので」と言った。徹は奈保子を見つめた。

「あのー、私、明日早いんです。奈保子さんのことお願いしてもいいですか?」

「はぁ?」「彼女、色々悩んでいたんです。こんな状態になったのを見るのは初めてです。こんな状態でもあたなにお礼が言いたいと言うので連れてきましたけど。だから彼女のその思いを裏切ったり、変に利用しないで下さいよ」最後の方は釘を刺すかのように強めの口調になっていた。

「たぶん、いえ、あなたはそんなことをする人ではないと今確信したので、私は帰ります」「あ、え?」歩き去っていく女性を一瞬振り向いて見たが、また奈保子に目を向けた。

「奈保さん」「気づかなかったの?」「あ、いや、すみません」

数年前八重歯を抜いて、少し雰囲気が変わったせいもあるが、やはり見ると奈保子だった。

「立てない私を抱えてくれた時、一瞬見た横顔で知っている人と思ったの。でもすぐに思い出せなくて。しばらくしてタクシーの中で、徹君だ!って思い出したの」

「すみません」奈保子は薄く笑みを浮かべた。

「久しぶりね。逞(たくま)しくなったなって」

「奈保さんに会えるなんて、夢にも思っていませんでした」

「私も・・。でもよかった、徹君で」奈保子の声はよりか細くなった。

「奈保さん、帰りましょう。送っていきます」「もう、なんかなー」と呟き、

奈保子はゆっくりテーブルに額をつけ、眠りに落ちた。


気が付くと奈保子はベッドで寝ていた。着ていたジャケットは壁にハンガーで吊るされ、壁に寄せた小さなテーブルには奈保子のカバンが置いてあった。体にはタオルケットが掛かっていた。一瞬着衣を気にしたが、特に乱れているような感じはなく、

体の違和感もなかった。部屋には奈保子ひとりだけだった。

ここはどこ?と焦ったが、すぐ徹の部屋だと思った。奈保子はタオルケットをたたみ、ハンガーに吊るされたジャケットを手に取り羽織った。

そっとドアを開けるとリビングのソファーに徹が座っていた。

「もう起こそうかと思っていたところでした。大丈夫ですか?」

「うん、酔いは少し覚めたみたい。本当にごめんね」

「こちらこそすみません、連れてきてしまって。変な噂にならなければいいですけど。あ、でも何もなかったから堂々と何もないと言ってください!」

「大丈夫よ。徹君」「はい」

「あ、もう2時過ぎですけど、送っていきます」

「えー、大丈夫。タクシーで帰るから」

「いえ、送ります。行きましょう。僕は飲んでいませんし、車で来ていますから」

一瞬逡巡したが奈保子は「うん。じゃあ、家に着くまで少し話しましょ」と言った。徹の誠実な態度に安心感を持ったからだった。

二人は部屋を出て、駐車場に向かった。徹は奈保子を何度も振り向き歩いた。

「奈保さん、大丈夫ですか?」奈保子の足取りは割としっかりしていた。

「少し横になったら楽になった」

「それは良かったです。あ、あの黒っぽい車です。あれに乗ってください」

奈保子は歩きながら車をじっと見て「これ、徹君の車?すごいね」

「この車、わかります?」

「あまりよくわからない」徹はコケた。

「でもかっこいいね」奈保子は笑いながら言った。

二人を乗せた車はゆっくり道路に出て、先程聞いた奈保子の家のある渋谷方向に向かった。

「徹君、ありがとうね」

「大丈夫です。まさか奈保さんとは、夢にも思いませんでした」

「私が声を掛けなければ、あのまま帰って行ったでしょ」

「はい。そのつもりでした」奈保子は何度か頷いた。

「徹君、なんか大人になったね」「僕もやっと一応社会人になりましたから」

「徹君は今何をしているの?自衛隊だったっけ?」

「そうです。海上自衛隊で医官、いわゆる軍医をしています。普段は横須賀にいます。たまたま東京に出てきたら、奈保さんに会えて、本当にびっくりでした」

「え!徹君って、お医者さんなの?」

「そうです。奈保さんと出会ったときは、防衛医大の学生でした。今は自衛隊の施設と週2回横須賀の民間病院で救急救命センターにも勤務しています。まだ医者としては新米もいいところですから、休み返上でやってます」「頑張っているんだ」

「奈保さんもミュージカルやドラマで主演したりで、活躍されていますよね」

「うーん、色々させて頂いてるけど・・。あ、でも今久々だけどアルバムを出す準備をしているの」「作曲もされているんでしょ?」

「何曲か作ったんだけど、なかなかね・・」奈保子と一緒にいた女性が言っていた悩みは、恐らくこのことと関係いていると感じた。

「僕は奈保さんの曲、どれも好きです。素晴らしい才能だと本当に思います。出来上がりを楽しみにしています」「ありがとう」

「正直に言うと、僕はもう奈保さんに会えないと思っていたんです。憧れの奈保さんに出会ったことだけでも奇跡で、ただそれは一時の夢で。奈保さんが、僕の名前を呼んでくれた時、体に電撃が走りましたよ・・」

「お互い時間があるときにまた会いましょ。そこを曲がったら家だから」

あっという間の時間だった。「徹君、何か書くもの持ってない?」

「あ、ありますよ」ノートとペンを差し出すと、奈保子はノートの端にペンを走らせ、「時間あるときは、ここに電話して。私の携帯電話の番号だから」

慌てて徹はポーチから名刺を取り出し、「ここに書いているのが、僕の携帯番号ですから」

「じゃ私も何かあった時、ここに電話するね。今日は本当にありがとう」

「奈保さん、」次の言葉が出る前に「じゃあね。本当にありがとうね」奈保子は車を降り、手を振った。頷いた徹は片手をあげ、車をゆっくり走らせた。

あの店に入ったこと、諦めた奈保子と出会えたこと、奈保子が自分のことを覚えていて名前を呼んでくれたこと。再び奇跡が起きたと思った。徹は、もう奈保子と離れたくない、離さないと強く心に思った。


次の日、先に帰った女性が奈保子に話を向けていた。

「お疲れ様。もう大丈夫?」

「あ、昨日は本当にすみませんでした。もう大丈夫です」

「私の方こそ昨日はごめんなさいね。で、あの後どうなった?いや、あの人の行動と奈保子さんが知り合いだと言うから任せて大丈夫かなと思ったの」

「徹君の部屋で少し休ませてもらって、家まで送ってもらいました」

「何もなかった?送ってもらったはわかるけど、彼の部屋に行ったんでしょ?」

「本当に何もなかったです」真顔で言う奈保子の顔をみて嘘ではないと分かった。

奈保子は正直なので嘘をつくことはなく、だからその場合はすぐわかるのだった。

「へー、珍しいこともあるのね。以前からの知り合いでしょう?一瞬なんかあったかなと思ったけど、やっぱり正義感が強くて誠実な人なのね。彼、徹君?背も高くて初めに私に声をかけた時もかなりのイケメンって思ったもん。奈保子さんの彼氏にはちょうどお似合いかもって少し思ったし」

「そんなー、本当に久々に会ったんです」「これが切っ掛けで・・」

「な、ないです」

「それで、彼は何をしている人?この業界の人ではないわよね?もしかして格闘家?

口元が切れていたけど、力ずくで奈保子さんを奪い返してきたし」

昨日マリシアで徹が着くまで、連れ出され戻ってくるまでの経緯をおよそ聞いていたからの発想だった。

「自衛隊のお医者さんをしているって」「自衛隊?医者なの!?」慌てた様子でまた「え、え、それで、どこで知り合ったの?」と言った。

「私が運転免許を取った時、一緒で。その時徹君は防衛医大?の学生さんだったの」

「すごい!防衛医大出身、医者、背が高くて超イケメン、正義感が強く、しかも誠実、しかもしかも超奥手!奈保子さん、その徹君、絶対奈保子さんのこと好きよ。

奈保子さんの前で顔を赤くして硬直していたもの。弟なんて言っているとこのどエライ獲物、逃しちゃうわよ!」


徹は机に向かっていた。医学書と潜水医学に関する教本を広げ、双方を見比べながら調べものをしていた。

ふいに携帯電話からメールの着信音が鳴った。一瞥しただけで、またしばらくは調べものに集中した。一時間後、一息つきながら先程のメールを確認した。

奈保子からだった。来週の火曜日の夜、食事をしないかという内容だった。

徹は正直、嬉しかった。お互いの連絡先を交換していたが、奈保子から先に連絡をくれるとは思っていなかった。火曜日は自衛隊病院の勤務のみであった。横須賀からであれば、一時間半で都内に行けるだろう。

徹の勤務は18時に終わり、都内着が20時過ぎと見込んで、20時半で良ければと返信した。しばらくして奈保子から「お肉食べたい!恵比寿のビストロキタムラ 

21時でどうでしょうか?」徹は直ぐに了解と返信した。

この日、徹は電車で恵比寿に来た。寮に戻り着替えて、横須賀駅から1回乗り換えて一時間半で来た。

約束の時間の30分前だったので、久しぶりの恵比寿界隈を歩いた。街並みも漫ろに奈保子の事ばかり考えていた。一足先に店に入ったが、約束の時間を過ぎても奈保子は来なかった。スケジュールが押しているのか。連絡を入れようかと思ったときに

奈保子が店に来た。「ごめんね。事務所手配のタクシーできたけど渋滞で」

徹は「お疲れ様です」と一言だけで、メニュー表を奈保子の前に置いた。

「怒っている?」「まったく」笑顔で返した。「なーんだ!」

「今日は奈保さんの奢りで、たらふく食べますよ」

「え~! いいわよ」しょぼくれて奈保子は言った。

「うそです。僕は女性に奢ってもらうことはないです」

「良かった。徹君、凄く食べそうだから。このお店の料理はどれも美味しいの。特にお肉は良いのだけ仕入れているから、美味しいのよ。その分高いけど」

奈保子は先日の御礼として支払いは自分でするつもりでいた。

注文をした後、奈保子が「あ、この前はありがとうね。本当、徹君に会わなかったらどうなっていたかと、後で思い返したら怖くなって」

「僕も奈保さんだったって最後までわからなくて」「そのまま帰ろうとしたもんね」「すみません」

「その後のことも、徹君で良かったと思っているのよ」「夢のような再会でした」

頼んだ料理はどれも美味しかった。ジントニックも3杯目になった。

「さっきの話だけど、一緒にいた私の仕事仲間の人なんだけど、徹君は正義感が強くて、誠実な人って言っていたよ」「ああ、あの女性ですか」奈保子を置いて帰った

その仕事仲間を思い出した。奈保子は彼女が言った超イケメンと超奥手という言葉は控えた。「普通、男は酔った女性をどうかしようとは思いませんよ。ましてや奈保さんですもん」「どういう意味?」

「夢のような再会でしたよ。憧れのスーパーアイドルですから、奈保さんは」

奈保子はあまりよく理解できなかったが、少し照れて言う徹の表情が何故か気に入った。奈保子は徹がどういう男か暴くほどではないが、確かめるつもりだった。

ハンサムなのでモテただろう、本当はプレイボーイ?本当に奥手なの?

話をその方向に向けるつもりだったが、その表情を見てやめた。

「徹君は、仕事は忙しい?」奈保子は次々と徹の近況の他、今までのこと等を尋ねた。徹もひとつひとつ丁寧に話した。奈保子は何故か徹のことを聞きたかった。

確かにイケメンだよ でも恋人はいなさそう、つくらないの? 超奥手なの?、 

でもやはり誠実な人なのかも きちんと答えてくれる徹の話を聞きながら、別のところでまた色々考えた。

店員が来て、ラストオーダーになると告げた。23時前だった。奈保子は最後にデザートを頼んだ。

奈保子はカバンから何かを取り出そうとした。急に「あ、お財布がない!」

「え、どこかに落としました?」

「あー。事務所だ。お水を買った時、一旦お財布を持ったけど、小銭入れに代えた時にロッカーの脇に置いたんだった。どうしよう!」

「ここは大丈夫です。奈保さん、これから事務所に行きますか?」

「うーん、ロッカーは鍵をかけているから明日でいいけど。あー最低!」

何度も謝る奈保子に徹は笑って、「大丈夫ですよ」と返した。

店を出てそれぞれ帰宅することになった。徹はタクシー代を渡そうとしたが、

奈保子は家の人に払ってもらうと固辞した。

タクシーを待っているとき奈保子はカバンから紙袋を出し、「徹君、これ、この間の御礼です。気に入るかわからないけど・・」その時タクシーが来た。

「徹君、今度は本当に私が奢るからね。ありがとうね」

徹は笑って奈保子を見送った。



《プリズムムーン》

徹は、奈保子の予定を聞く前にこの日と決めていた。携帯電話の番号を交換した後、一度、短い時間であったが二人で食事をした。直接通話して話をしたのは奈保子からの一回だけ、財布は無事にあったことと、その時のお詫びと礼だった。徹も水色地に銀と紺のストライプが入ったネクタイの礼を言った。他は数回SNSで連絡したくらいだった。その間、はっきりと奈保子の予定を聞いていなかったが、この日がダメなら仕方ないとも思った。

夜7時半に電話をすると夕食を家族と共にした後で、幸いにもそれ以降予定はないという。連れていきたいところがある、日が変わる前までにはまた自宅に送るという約束の元、奈保子の自宅に車で迎えに行った。

奈保子は、過日のことからも徹を誠実な人と感じていた。今の徹には弟という感じは薄れ、一人の大人の男性という意識に変わっている。徹と会うことに全く躊躇いはない。しかしそれ以上は、自分でもはっきりした感情はわからなかった。二人でどこかに行くとしても気兼ねなく一緒に居られる男友達かもと思った。

午後8時半、奈保子は自宅の玄関前で待っていた。カメラ持参、ラフな格好でと電話で告げた通り、化粧は殆どしておらず、少し大きめの眼鏡をかけ、上下紺白のボーダーニットのアンサンブルを着ていた。ブラウン管ではほぼ観ることのない普段の奈保子なのだと思った。カメラを持って笑みを浮かべる奈保子は愛らしく、また美しかった。徹は奈保子の両親に挨拶をと思ったが、奈保子は直ぐにドアを開け乗り込んできた。

「こんばんは。ところでどこに行くの?」「ああ、どこかのお店とかではなく、遠くではない所で、見せたいもの、いや見たいものがあって」

「ふーん。あ、そう、この前はごめんね。私、どうかしていたの、お財布のこと。 それと、その前のことも。でもあそこに徹君がいてくれたから本当に良かった。怪我もさせてしまって、ごめんなさい」奈保子は助手席から身を少し向け、頭を下げて過日のことを再び詫びた。奈保子の淡い香りがした。

「全く大丈夫です、忘れましょう」と言い話題を変えた。

話の中で奈保子は現在新しいアルバムの曲づくりの仕上げに取り組んでいるという。既にいくつかの曲ができているが、奈保子自身の思いが受け入れられないこともあり、当初の自分の描いた曲のイメージと少々違う部分もあるという。奈保子から直接の明言はなかったが、過日のことは、表に出さない苦悩、ストレスがあったからと言葉の隅から推察できた。自分とは違う世界に身を置いている奈保子に賢しらにモノをいうより、自然に話題を変えた。

第3京浜を走り抜け、下道を更に20分ほど走り、二人を乗せたアウディは山道のような木々が鬱蒼と連なる小道に入り、そしてぽつんとある一軒屋の前で止まった。

徹が運転席からでて、緩やかなスロープの入り口に架かる鎖を外し、再び車に乗り込み、奈保子に「中継基地に着きましたよ」と告げた。

「え~、ここ?」奈保子は状況が呑み込めていなかった。 

ゆっくり下ったスロープの先は平坦なタイルが敷き詰められた駐車スペースになっており、その横から芝生の庭が広がり、倉庫らしき建物に連なった家があった。決して大きくはないが木造平屋で屋根付きのテラスがあり、その奥は大きなガラスサッシで外観からも推測が付く広めのリビングになっていた。建物、家の壁には数か所、船の装飾に使うような黄金色で網がかかった細長く丸いライトが灯っており、昼間より一層雰囲気を醸していた。

二人は車を降りた。「えー!」驚く奈保子に「僕の別荘です」と徹が答えた。

「えー!すごい、お洒落でかわいい!」と奈保子は辺りを見渡した。そして前を向くと小さな入り江に「えー!海に面した別荘なんだ。すごい!」とまた驚きの声を漏らした。「奈保さん、こっちですよ」と徹は奈保子の前を歩き、水辺に近づいた。

「一緒に見たいものは、これに乗っていくんです」「えー!」奈保子はまた驚きの声を漏らした。

砂浜から伸びた木製の桟橋の先には、クラシカルな小型のモーターボートが繋がれていた。船体の上表面はウッド張り、シートも赤の皮張りだった。「かわいい!」手を取り、先に奈保子をボートに乗せ、ライフジャケットを渡し、預かったカメラは

防水パックに入れた。

徹は舫を解き、軽やかに運転席に立ち降り、エンジンを掛けた。軽快なエンジン音が響き、ボートはゆっくりと入り江に進みだした。

「すご~い!」奈保子は海から見る岸辺の風景を子供のように左右見比べるようにしばらく見ていた。「寒くないですか?」

9月も半ばを過ぎ、夕方以降は気温も少し下がってきていた。「大丈夫」ボートはゆっくりと水面をかき分けて進んだ。

「もうすぐ着きますよ」視界が急に明るくなった。山に囲まれた入り江を抜けると右の空に月が輝いていた。むろん昼ではないが、月明りに照らされ、全ての物がはっきり見えるくらいの明るい夜だった。凪いだ海面にも満月の月光が揺れながら映っていた。「あ」奈保子の短い言葉が漏れた。

徹はボートの艫を真っすぐ月に向け、エンジンを切った。

視界には月とその光に輝く海面しかなかった。

しばらくその光景に見入っている奈保子の横顔は、満月が瞳に輝き色白の肌を光らせ、ただ美しいとしか形容のしようがなかった。徹は言葉もなくただ見惚れていた。急にこちらに目を向けた奈保子に、慌てて「奈保さんと一緒に見たくて」と呟いた。「きれい」徹もその光景を見た。

煌々と光輝く月だけでなく、その明りで蒼みがかった夜空も、照らされ白く光る雲も、真珠の周りで光を放つ宝石のようにキラキラ光り揺れる水面も、何もかもが眩い世界だった。

「今日は一年で一番月が地球に近くなる満月なんです。奈保さんと一緒に見たかったんです。きれいですね」

「うん。今日が満月だったって全然気づいていなかった」

「あ、奈保さん、写真、カメラ」徹は後部座席から防水パックに入れたカメラを取り出し、奈保子に手渡した。奈保子は早速撮影準備に取り掛かった。徹は後部座席に移り、箱からキャンプバーナーを取り出し、湯を沸かし始めた。奈保子は何枚も写真を撮っていた。

「何年か前、ハレー彗星が来たとき、奈保さんはバリ島で撮影したんですよね?」「えー、よく知っているね。そうなの、誰もハレー彗星を見たことがなくて、あれだろうって二日間も違う星を見てて。あとでわかったんだけど、それは火星だったの。おかしいでしょ?」

一度テレビの対談番組で観て内容を知っていたが、可笑しそうに話す奈保子の姿に徹も笑った。

湯が沸き、徹は二人分のお茶を淹れ、小さな皿に横浜のその町では有名な老舗和菓子店のだんごをよそった。

写真を何枚も撮り、落ち着いた奈保子の肩にヨット乗りが好きなブランドのジャンパーをかけた。奈保子が徹を見上げた。徹は一瞬微笑み、背中を向けた。

そして「月夜だから月見団子です」徹は皿と次に紙コップに注いだお茶を手渡した。「すごーい。月見団子だ」奈保子は団子を口にした。徹も団子をひとつ口にし、

月を見た。

しばらくするとシャッター音が聞こえた。また奈保子が月とこの景色を写真に収めていると思った。ふと目を向けると奈保子はこちらに体を向けていた。

膝に置いたカメラのレンズは徹に向けられていた。

「僕を撮ったんですか?フイルムの無駄ですよ。」「ううん」何かを否定するような曖昧な返答だった。

徹はシャツの胸から葉巻を取り出し、「ちょっと失礼」と言い、火をつけた。

初めの一吸いでバニラのような甘い香りが奈保子にも感じられた。

徹はなぜか昔から月夜が好きだった。奈保子の都合も訊かず、なかばギャンブルとでもいう形でこの状況をセットしたが、今、この美しい月夜に奈保子が隣にいること、この月を奈保子と一緒に見ていること、ステージで浴びるそれとは違い、柔らかな光の中で輝く美しい奈保子に魅せられたこと、全てが幻想的な絵画の中に佇んでいるかのような、この状況ひとつ一つに満ちた思いを月を見ながら深く感じていた。

奈保子が徹を見ていた。徹も奈保子をみて微笑んだ。

「徹君、 かっこいい・・」奈保子が静かに呟いた。「え!今頃気づいたんですか?」「えー、なによー」奈保子の呟きは冗談に消えた。

「奈保さん、もう少し月に近づきましょう。こっちに」

徹は操縦席に奈保子を座らせた。「濡れるかもしれないので、ライフジャケットの上からでもそのジャンパーを着てください」

「いやー、ちょっと無理。一旦ライフジャケットを脱いで、ジャンパーを着てからライフジャケットを着るから」

ライフジャケットを着た奈保子だったが、ジャケットのベルトが捻じれ、下にジャンパーを着たせいか窮屈になっていた。徹は手を伸ばし、一旦ベルトを外し、ジャンパーのチャックを上まで上げ、ベルトを緩め、万が一の時でも大丈夫なようライフジャケットを装着し直した。奈保子が徹を見ていた。

「徹君、 今私の胸触ったでしょ」

「え!と、とんでもないです!え、触りましたか?え、すみません!」慌てる徹が可笑しかった。「ごめん、気のせいだったかも」「あー、びっくりしましたよ」

ライフジャケットを着た奈保子に、簡単に操縦方法を説明し「よし、行きましょう。まっすぐ月に向かって進んでください」徹が言ったその瞬間、徹は後方に消えた。

奈保子がスロットレバーを一気に押し出したのだ。

「奈保さん、ゆっくり!死ぬかと思いましたよ」体勢を立て直しながら言う徹を見て、奈保子は吹き出した。しばらく笑いは収まらなかった。

「はい、今度はゆっくり押し出してくださいよ。船の上では、キャプテンの指示に従って頂きます!」「はーい」ボートはゆっくりと進みだした。

「奈保さん、少しずつスピードをあげて」「いやー、楽しい!」

月夜に軽快なエンジン音と共に奈保子の声が響いた。

しばらくは奈保子の操縦で入り江の外を回遊した。

「はーい、ゆっくり右に旋回してください、中継基地に帰還します」

奈保子は月夜の操縦を楽しんだ。

入り江の手前で奈保子と操縦を変わり、そして二人でもう一度月を振り返った。

海面には一直線に伸びる月明りの道が揺れながら光っていた。

ボートはトロトロと桟橋に着いた。徹は先に降り、奈保子に手を差し出し、桟橋に引き上げた。

「奈保さん、ちょっと片付けがあります。これから一気に東京に帰りますので、家に入って用を足しておいてください。オレンジのカバーが付いたキーです」といくつかの鍵が連なったキーホルダーを奈保子に投げた。奈保子は両手でキャッチした。

徹は、倉庫のシャッターを上げ、倉庫のウインチのスイッチを入れ、ボートを引き上げた。

作業を終え、腕のダイバーウォッチを見た。「おっと、急がなきゃ」急いで家の扉を開けた。明かりがついたリビングに奈保子はいた。

「もう用は足しました?」「もー!」

「僕は、準備があるのでもう少し待っていてください」といい、隣の部屋に入った。しばらくして、奈保子が部屋に顔を出した。

徹はこれから着替えに入るところで、黒のビキニだけの姿であった。一瞬ドキっとしたが、鍛えられた肉体はいやらしさはなく、でもセクシーだと思った。奈保子は男性に対し、初めてそのような感じを抱いた。徹は気にせず、シャツを着ながら

「深夜になりますけど、今日はこれからお偉いさんに会うから」と言い、自衛隊の白い制服に着替えていった。

奈保子は、徹の制服姿を初めて見た感じがした。初めての出会いは運転免許取得の講習の初日で意識せずではあったが学生服姿として確かに見ていた。だが医官になった徹の制服姿は初めてであった。この白い制服は誰が着てもそれなりに格好良く見えるのだが、上背があり、鍛えられた体、確かにハンサムな徹には良く映えた。

「徹君、かっこいい」今度は心の中で呟いた。

「よし、急いで東京に戻りますよ」

東京に戻る車中では、初めはやはり今宵の月の話になった。そしてモーターボートの操縦、団子屋、次々に話が移り、やがて別荘の話になった。徹は仕方なく、最近紹介されて購入した旨を伝えた。「なかなかあそこで過ごす時間はないですけどね。でも手を入れて自分なりに気分よく過ごせるようにしたんです」

「お洒落でかわいかったし、中もすごいきれいだった」

「曲作りで使うとか、もしそういう時があったら、言ってください。いつでも使っていいですから。ただしピアノはないですけど」「本当に!」

「でも夜は少し寂しいですから、誰か一緒だといいですね」「んー」予定があるのかないのか少し奈保子は考えていた。

車は都内に入ったところだった。「徹君、そんなに急がなくてもいいよ」

第三京浜から環状8号に差し掛かったところで奈保子は言った。

徹は「わかりました」と横顔で微笑んだ。首都高は使わず、246号で渋谷に向かった。都内は割と空いていた。さほどスピードは落とさず走り、車は奈保子の家の近くまで来た。

「また連れて行ってね」「こちらこそ、是非!」

12時10分前、奈保子の自宅の前に車を止め、エンジンを切った。

「奈保さん、今日はありがとうございました。忘れられない日になりましたよ」

「私の方こそ、ありがとうございました。素敵な時間でした」

「良かったです。しばらく僕は忙しくなりますけど、また連絡させてください。奈保さんもアルバムづくり、お仕事、自信を持って頑張ってください」

「うん。じゃあね」二人は車を降りた。徹は奈保子が玄関入り口に歩くまで一緒に歩き、その手に紙袋を手渡した。

「今日の団子屋のです。皆さんで是非食べてください」「えー!そんな」徹は制服の帽子を被り、「これから任務に行ってきます!」と笑顔で奈保子に敬礼をした。

「はい、頑張ってください!」奈保子も同じ口調で敬礼をした。エンジンを掛け、

奈保子に手を振りゆっくりと車を動かした。

角を曲がったところで、車に残った奈保子の淡い香りを胸いっぱい吸い込んだ。


「月がすごくきれいだったんよ」奈保子は大阪名訛りで、まだ起きていた母に告げた。心では、「徹君もすごくかっこよかった」と呟いていた。

「奈保子が弟のようだけど頼りになると言っていた人が、今日会った方?」

「そう」「あの格好で最後に敬礼をしていたけど、自衛隊の方かなんかなの?」

車の音で気づいたのだろう。

「うん。自衛隊の軍医をしているって言っていた」

「あら、兵隊さんじゃなくて、軍医さんなの?」「そう」「かっこ良かったわね」

奈保子の胸は少し高鳴った。

しばらく間があり、「奈保子はその方のこと、好きなの?」奈保子の表情を見た母が尋ねた。色々なことを思ったが、間を開けた後「わからない」と奈保子は言った。

しかし胸にはじんわりと仄かな暖かさが込み上げていた。



《INVITATION》

徹と奈保子は久しぶり会い、食事をしていた。しかしもう一人いた。

過日、奈保子が酔った日に一緒にいた女性だった。彼女は、奈保子の曲に詞をつける作詞家、吉元という。奈保子は、月明りの中少し上を向く横顔の徹の写真を持ち歩いていた。整った横顔、月明りに照らされたその姿は崇高な美しさも感じられた。

その写真を眺めていた時、急に吉元が声をかけてきた。「誰の写真?」慌てる奈保子に詰め寄り、その写真を手にした。

「これ、あの時の人?奈保子さんが弟のような人って言っていた防衛医大出身の!」奈保子は仕方なく頷いた。

「やだー、奈保子さん、弟とかなんか言ってたくせにちゃっかり付き合ってんの?え、じゃああの日に実はデキちゃったの?それともあの日がきっかけでお付き合いするようになったの?もしかしてもう男女の関係に?」矢次早に質問を浴びせてきた。

「まだお付き合いとかしていないです」「でもこれ、最近の写真でしょ?」

「はい。二月位前の」「じゃ、順調に行っているってこと?男女の・・」

「そんなんじゃないです」「え、意味がわからない」どう説明していいかと思っていたら「二人でデートしているし、付き合ってると言うんじゃないの? 少なくとも写真を持ち歩き、それに見惚れて不覚になるくらいだから、奈保子さんはもう弟という感覚ではないわよね」

「うーん」奈保子にとって徹は2つ年下だが弟という感覚はもはやない。優しくて、信頼できる男友達、でもそれ以上のような・・曖昧な感じとでも言うべきか。

「徹君?だっけ、確か。今度3人で食事しない?私が二人の愛のキューピットになってあげるから」

「いや、いいです!」「大丈夫よ」「いや、本当に大丈夫です!」


そんなやり取りがあり、最終的には恋愛などの話は一切なしのただ3人で普通に食事をするという事で締結した。吉元は、徹にもう一度会ってみたいと密かに心の中で思っていた。下心といえばそうだが、私が付き合いたいという事ではなく、ハイスペックな彼をもう一度改めて見てみたいというミーハー根性からであった。

奈保子から連絡を受け、都合を合わせて、かくして3人はとある店で落ち合った。

吉元にとっては再会だった。

徹は、白いシャツにグレーのチェックのパンツ、紺のジャケット姿だった。背が高く、鍛えられた体がジャケット姿を一層引き立てていた。

徹は一瞬誰もがあっと思う程ハンサムであった。先に席についていた二人は、徹が遅れて店に入った時に、他の女性客が徹を見て、ずっと目で追っている姿を目の当たりにし、徹が二人のテーブルに着いた時、女性客の複数名と視線があった。

徹が店に入った瞬間、吉元も「来た!うーん奈保子さん、やっぱりどえらくかっこいいわ!」独り言のように呟いていた。

食事中は殆ど吉元がしゃべっていた。でもそのお陰で、奈保子には今まで知らなかった徹のことが聞けた。

実家が世田谷で、徹の両親は数年前に立て続けに他界したことは知っていたが、父親が貿易商をしていたこと、海外で過ごした時期があり、英語、中国語、フランス語が少ししゃべれること、兄姉、徹の3人兄弟であることも知ってはいたが、兄は歯科医師、姉は会社員に嫁いでいること、高校は有名都立高校、学生時代はサッカー部所属等。吉元はその中でしれっとお付き合いしている方はという質問までしていた。ドキっとしたが、徹は「いえ」と短い返答だった。

吉元は奈保子のことも含め、もっとツッコミたかったが自制した。食事の最後の方は、徹が三年ぶりに出した奈保子のアルバムに話を振り、制作時の話や二人の音楽に関する信条やこだわりを興味深げに聞いていた。

奈保子は「ちょっとすみません、お手洗いに」と席を立った。吉元も「ごめんなさい、私も」と後に続いた。

徹はその間に会計を済ませた。


「ちょっと奈保子さん、実際どうなの?あなた達は付き合っているんじゃないの?」「ちゃんとどちらかが交際を言い出したわけではないんです。お互い時間があるときに連絡したり、会ったりはしますけど」

「実際、奈保子さんは彼のことどう思っているの?」

「え?うーん誠実だし、とてもいい人だと思っています」

「いい人?それだけじゃないでしょ。奈保子さんは、毎日素敵な芸能人と一緒にお仕事されているから、彼のルックスの評価が麻痺しているのよ」

「私はルックスで、彼のことを判断していないです」

「ふー。まだ時間がかかりそうね。議論してもしょうがないわよね。でも奈保子さん、徹君は絶対あなたに好意を抱いているはず。何度も言うけど逃したらダメよ」

店を出る前、二人は徹に礼を言い、吉元はまた明日が早いという理由で帰宅すると言い、帰った。

手洗いから戻る前、奈保子はその旨を吉元から聞いていた。その時吉元は「時間短縮に貢献するわ」と言った。店の前で吉元と別れ、折角だからと奈保子と徹はマリシアに行くことにした。二人はカウンターに座った。


「私の両親がね、徹君に会いたがっているの。いやね、そんな堅苦しい感じではなくて・・」

「いいですよ」徹は二つ返事だった。二週間後の日曜日の昼前に奈保子の自宅にということになった。

「徹君、今日はどうするの?」言うべきか躊躇った言葉だった。

「実は任務の一環としてレポート課題がでているんです。眠くなるまでそれに掛かります」「そっか」奈保子は残念な気持ちと安心した気持ちの半分半分だった。

しかし奈保子自身もそんなつもり、覚悟はなかった。それから自分の家族について話をした。

別れ際、徹は「僕も男です。でももう少し奈保さんを見ていたいんです」と言った。

奈保子は「うん」と言った。


二週間後、徹は電車と徒歩で奈保子の自宅に来た。白いシャツに奈保子からプレゼントされたネクタイにジャケット、綿のスラックス姿だった。

両親は徹についてある程度のことは奈保子から聞いていた。時々連絡を取ったり、会ったり、また家に送り迎えに来たり、気になる存在であった。

しかし奈保子の様子や話からある程度きちんとした男であるような気もしていた。

玄関には、奈保子を含め、家族3人が出迎えていた。

「初めまして、ご挨拶が遅れ大変失礼いたしました、佐伯 徹と申します」

「徹さんね、奈保子がいつもお世話になっております。さあ、どうぞ」奈保子の母が言った。

家に入るとき奈保子は「徹君、ネクタイ着けてくれたんだ。ありがとうね。とても似合っているよ」と小さな声で言った。

簡単な挨拶を終え、4人は居間にいた。犬も2匹、徹に何回か吠えた後、様子を伺っていた。

「徹君、犬は大丈夫かね」「はい、大好きです」奈保子の父に答えた。

「奈保子から聞いたんだが、暴漢3人から奈保子を救ってくれたんだね。私からも礼を言うよ。ありがとう」

「いえ、とんでもないです」「聞けば、最後まで奈保子と気づかなかったそうだね」

「すみません。3年以上もお会いすることなく過ごしていたので、気付きませんでした」

「徹君はいつもそんな誰かわからない人に、そんなことをされるの?」

「いえ、そんな機会は殆どないです。でも困っている人が目の前にいたら、自分ができることはしたいと思います」徹はきっぱりと言った。

「さすが自衛官だね。聞けば自衛隊の医官をしていると?」

「はい、まだ新米ですが、日本国の繁栄と世界平和に貢献したく、その中でも国籍を問わず医療を必要としているどんな人にも貢献ができると考え、医官を目指しました」「そうか。医官になった時はご両親は存命だったんですか?」

「父は学生時代でしたが、母は私が医官になって数か月後に他界しました。でも認知症だったため私の状況はわからなかったのではないかと思います」

「徹君は、将来はどう考えてるのかね?」

「自衛隊の医官は、大学卒業後9年間は自衛隊の一員として職務に従事する義務があります。私の場合は33歳までになります。もちろん相応の金額を償還金という形で支払えば、途中で退役し民間の医師として働くことはできますが、私はそういう考えはありません」

「お話はそれくらいで、まずお茶を飲んでください。徹さん、お昼はまだでしょ?

お口に合うかどうか、奈保子と用意しましたので召し上がっていってください」

奈保子も父と徹の会話を傍らで聞いていたが、母と一緒にエプロン姿になった。

徹は犬を撫でていた。


「徹さん、お口に合うかしら?」「とても美味しいです」

実際どの料理も美味しかった。自分の正直な感想に対して奈保子と母の喜んだ顔が嬉しかった。

食事の間は、奈保子も含め4人で談笑した。

徹は話題を様々振り、自身の紹介も付け合わせ、会話を盛り上げた。

いつの間にか2匹の犬も徹に撫でられ懐いていた。

最後にコーヒーが出され、話も落ち着きそろそろという事になった。

短い時間ではあったが、奈保子の父も母も徹の人柄は申し分なく、話し方、振る舞いに関しても悪い印象はなく、職業もさることながら奈保子の話からも信頼できる人物であり、奈保子が一緒にどこかに行くと言っても徹なら大丈夫ではと思った。

「徹君、またいつでも遊びに来なさい」父の言葉に奈保子はほっとした。

もてなしに対し、徹は両親に深く感謝の意を伝えた。

「今日はありがとうね。また連絡するね」

奈保子の言葉に見送られ、徹は家を後にした。



《災害救助》

「川瀬さん、危険な状態ですが、どうかもう一度力を貸してください!」

徹は、奈保子の父に頭を下げた。「徹君、行こう!」二人の思いは一致していた。

いつ今にも途絶えようかとしている命を救いたい、ただその一念だけであった。


徹と川瀬家の3人は、休日に山歩きに来ていた。東京近郊の高尾山だった。

川瀬家の面々は山や川等自然の中にいることが好きなこと、またそろそろ紅葉の時期も終わる頃で見納めということで、都合が合えばどうかと徹は誘われたのだった。

徹は何度か奈保子の家に上がったことがあり、両親ともよく話をしていた。

奈保子は、今まで過ごした時間からも、徹は優しくて誠実な人、(確かにかっこよく)、一緒にいても無理をせず自分らしくいられるとも感じていた。

また両親が徹を気に入ったようで、こうして徹も自分の家族と気兼ねなく付き合ってくれるのは嬉しかった。最近は父親が自衛隊に興味を持ってあれこれ調べている姿もなんか微笑ましく感じていた。改めて「私たちは付き合っているの?」と思うこともよくあった。奈保子はそれなりに好意は持っている、また両親にも隠し立てなく徹と一緒に居られるが、本当に好きなのかは自身でもまだわからなかった。

当日は、麓の駐車場でそれぞれ落ち合い、まずは山頂を目指し、登山口から歩き出した。

奈保子は母親と昨日から今日の弁当を用意したという。徹もそれを楽しみにしていた。徹はその弁当が入った割と大きなトートバッグを持った。

しばらく歩いたところで「徹さん、重たくないですか?」

「大丈夫です。奈保さんのお母様も大丈夫ですか?荷物、私がお持ちしますよ」傍らで聞いていたそんな会話もまた奈保子は微笑ましく思った。

しかし山の中腹で、突然メキメキと生木が折れ裂ける音と共にドドドと地響きがなった。その後大きな石が飛んで道で跳ね、山裾に転がっていった。4人が歩く数十メートル先で地滑りが起こったのだった。徹は、自分達の先にまだ小さな子を背中に背負った外国人の親子と初老の夫婦らしき2組の人達がいたことを咄嗟に思い出した。

巻き込まれたのではないかと思った。徹は直ぐに走った。川瀬家の面々は呆然としていた。

「徹君!」「危ないから、まだそこで待ってて!」と奈保子に声をかけ、再び走った。すぐに一番手前を歩いていた外人の姿が見えた。しかし体半分は土に埋まっていた。背中の籠にいた子供は見当たらなった。

土の中かもしれない!「川瀬さん!来てください!」徹は叫んだ。

奈保子の父、遅れて奈保子と奈保子の母も来た。

「奈保さん、その方の土砂を取り除き、引っ張り出してください!」と奈保子に自分の手袋を渡した。

「川瀬さん、子供が埋まっています!大きな枝から取り除いて、この辺りの土をどかしてください!」と言い、自分の予備の手袋を奈保子の父に渡した。

4人は、懸命に土を掘り、取り除いた。外国人の親は意識があった。しきりに子供の名前を叫んでいた。徹は懸命に掘りながらも「必ず助ける!」と英語で叫んだ。

奈保子と母が外人の腕を土から引っ張り出した。

「徹君!子供の靴が見える!」「川瀬さん!」二人はそこに駆け寄り、夢中で掘った。子供が土の中から出された。

徹はバイタルを確認し、「奈保さん、その子の上に乗って両手で心臓マッサージをしてください!」ジェスチャーで示し、自分は人工呼吸をした。

子供であることから力がある男よりも女の奈保子が良いと判断したからだった。

徹は人工呼吸をしながら周りを見渡した。外人の親の方は苦しそうな表情を浮かべ、子供の様子を見ていた。足が骨折しているとすぐわかった。

「川瀬さん、その方をこの現場から遠ざけてください!元来た方に連れて行ってください!左足を骨折しています!」

「奈保さん、ストップ!」徹は子供のバイタルをみた。「徹君!」子供が目を開いた。「よし!」意識が戻ったことを確認した。

「奈保さん、その子を元居た場所へ連れて戻ってください!」

奈保子は子供を抱え、来た方へ走り出した。道の途中で奈保子の母が様子を見ていたらしく、途中で奈保子と代わって子供を抱いた。

徹は初老の夫婦らしき二人が歩いていたこの先の方へ足を向けた。突然、大きな岩が転がってきた。徹はまずは親子の安否、状態を確認するため引き上げることにした。

すぐに奈保子達に追いつき、道幅の広い山道で落ち着かせ、二人の様子を見た。

子供は父親に抱かれ泣いていた。父親はやはり左足を骨折していた。

徹は木の枝をナイフで切り、真直ぐになるよう枝の部分をそぎ落とし、即席の添え木を作って、その足を固定した。徹は携帯電話を取りだし、消防に連絡を入れた。

徹は様々状況を考えたが、目の前の命を救うために必要と考え、奈保子の父の前に立ったのだった。


「奈保さん、すまない」徹は奈保子に声をかけ、奈保子の父と共に再び現場に走り出した。命に代えても奈保子の父を守ると徹は心に思った。奈保子は咄嗟に立ち上がったが、声が出ず、ただ二人を見送った。

息を弾ませなから、最初にいた現場に着いた。この先、数十メーター先には、初老の夫婦らしき二人が土砂に埋もれていると思われた。足元もまた二次的に起こるかもしれない土砂崩れを気にしながら二人は足を取られながら向かった。奈保子の父には麓側を歩かせた。何か起こった時は、徹は自分が盾になろうと思っていた。

柔らかな土、倒れた木々の枝、根、一抱えもある石、山が削られ流れ押し出されたもの全てが歩みを困難にした。

徹は何度も振り返り、奈保子の父に声をかけ、絶えず山頂の様子を伺いながら歩いた。

丁度目星をつけていた地点に、初老の夫婦と思しき一人、いうなれば妻の頭が土砂の上に見えた。正確に言えば、右手と頭だけ露出し、他胸まで土砂に埋もれた状態だった。「川瀬さん!」奈保子の父も瞬時に状況を理解した。二人は足を取られながらも駆け寄り、急ぎその体を締め付ける土砂を取り除きにかかった。

無我夢中だった。「川瀬さん、腕を引っ張り上げてください!」叫びながらも徹はまだ体を覆う土砂を素手で掻き、掘り進めた。

「よし、抜けた!」奈保子の父は、土砂の上に妻と思しき女性の体を引き抜いた。

徹は胸に耳を当てその拍動を確認した。急にひゅーと音がし、荒い息に変わった。

女性は生存していた。

「大丈夫ですか?」女性は頷き、「お、お父さんが!」と叫んだ。徹は、女性の無事を確認した後、当初の記憶をたどり、山の麓側を歩いていた夫との位置を考え、目星をつけたところを再び掘り始めた。

素手の両手は土と血で覆われていた。

「川瀬さん、足があった!」思ったところより近い位置に夫婦はいた。二人はまた必死に土砂を取り除いていった。夫の方は全身土砂に埋もれていた状態にあり、一刻を争う状況であった。

「お父さん!お父さん・・」初老の妻は泣き叫んだ。徹は手先に痛みを感じていたが、今はどうでも良かった。ただひたすらに土砂を掻き取り除く事しか頭になかった。徹は現れた背中の脇の部分に手を入れ、引っ張り上げた。男のリュックが邪魔をし、一人では十分に力が注げなかった。「川瀬さん!手伝ってください!」

奈保子の父はその男性の脇に寄り、右手の土砂を掻き、徹とタイミングを合わせて両方から男性を土の中から引き上げた。背中のリュックを取り、土砂の上に男性を仰向けに寝かせた。徹は急いでバイタルを確認したが、生存の反応は感じられなかった。「川瀬さん、先程のように心臓マッサージをお願いします!」

徹はマウスピースを取り出し、人工呼吸をはじめた。

「お父さん!お父さん!」傍らから男性の妻の悲痛な叫びが聞こえた。何分続けたか、頃合いをみて、バイタル確認をしたが反応はなかった。男性の妻の声は泣き声に変わっていた。

「川瀬さん、交代しましょう。顎を少しあげて、息を吹き込んでください」

奈保子の父は汗だくになり、髪も乱れていた。徹はリズムよく心臓マッサージを開始した。どれだけしたかわからない。徹も汗だくになりながら「帰ってこい!帰ってこい!」と言い続けた。男性の妻、奈保子の父ももはやダメではないかと感じていた。しかし徹は諦めなかった。さらに数分経った時、わずかに男性の呻き声がもれた。「よし!」徹は「川瀬さん、奥様をお願いします!急いで戻ります!」と叫んだ。

徹は、なんとその男性をひとりで担ぎ上げた。

「また土砂崩れになるかもしれません。急いで!」足を取られながら、元来た場所に向けて歩き出した。ここまできたが、戻る方がさらに歩きづらく大変だった。

疲労もあり、また二人の被災者を気遣いながらだったからだ。もう体力が限界かと思ったときに、ようやく土砂崩れになっていない山道に降りた。

「皆さん、もう少しです。救急車も到着しているかもしれません。頑張ってください!」徹は男性を担ぎ、なおかつ夫婦二人の荷物を持っていた。心臓マッサージの時間も徹の方が長かった。奈保子の父は、その状況をみて再び活力が湧いてきた。

初老の女性も立っているのも覚束ない状態であったが、「もうすぐですよ!頑張って!」奈保子の父も女性の腕の下に体を入れ、声をかけ、支えるように寄り添い歩いた。

緩やかに曲がった山道の半分に差し掛かったところで、奈保子達の姿が目に入った。まだ救急車は到着していないようだった。4人に気づいた奈保子と母が駆け寄ってきた。

「奈保さん!お父様の方の女性をお願いします!」「はい!」慌てて奈保子は父に駆け寄り、一方の女性の脇についた。奈保子の母が徹の荷物に手を掛け、持った。

被災した二人を先程の二人の傍まで連れて行き、徹は奈保子に自分のリュックからブランケットを取り出してもらい、平坦な場所に敷いてもらった。

徹はゆっくり男性を下し、寝かせた。すぐにまたバイタルの確認をした。

「なんとか大丈夫そうです」心配する妻と奈保子に伝えた。

「寒くないですか?良かったらこれを着ておいてください」徹は自分の上着を初老の妻に掛けた。奈保子は徹に顔を向けていた。

「救急車が来るまではまだ完全には安心できないよ」奈保子の顔に緊張の様子が伺えた。どうしたらいいか思いあぐねているそんな奈保子に「奈保さんがあの時、あの子の心臓マッサージをして生き返らせ、お母様と大事に運んでくれたから、助かったんですよ。とても重要な役割でしたよ。皆で助けたから皆気持ちは一緒です。僕も奈保さんと同じように全員無事でいてほしいと願っています」徹は微笑みながら奈保子に言った。汗と泥に覆われた表情に疲労が感じられた。

奈保子は徹の手を取った。一瞬顔を歪めた徹は「奈保さん、汚れるから。僕、泥だらけですよ」とそっと手を離した。奈保子は瞳を伏せ、ふと自分の手を見た。

驚き、徹の手を見た。「あ、ごめん」と言い、徹は着ているもので奈保子の手に着いた自分の血液を拭き取ろうとした。奈保子は胸が締め付けられた。

徹が差し伸べたその手から血がぽたぽたと落ちた。

「あなたの旦那さんは、傷だらけの手になっているのに、それでもお父さんを土の中から助けてくれたんだよ。あなたのお父さんが一生懸命心臓マッサージをしてくれて、もう駄目だと思ったけど、旦那さんが諦めず続けてくれたから、お父さんが助かったの」初老の女性が泣きながら奈保子に言った。

「あなたのお父さんも殆ど歩けない私を必死に支えてここまで運んでくれて・・」

泣き崩れた。奈保子はその傍らにしゃがみ「でも、よかったですね」と涙ながらに言って女性の背中に手をまわした。

徹は初老の男性の傍に寄り添い、再びバイタル確認をしていた。奈保子が心配そうに初老の女性と共に見ていた。

奈保子は、徹のことも気になっていた。手も相当痛みがあるはず、口には出さないが相当疲れているはず、そんな素振りを見せない徹は強いと思った。また落ち着いて冷静に振舞う姿に頼もしさも自然と感じていた。

「お父さんは、大丈夫ですか?」初老の女性が尋ねた。

「私はまだ新米の医者です。詳しく検査をしてみないと何とも言えませんが、小さな受け答えも割としっかりされ、体のどこを押しても痛みが特に強く出ているところもないので、今の時点では心配なところはみられません」

「良かった。本当にありがとうございました」涙ながらに徹に深々と頭を下げた。「救急車には私から詳しく状態を説明します。到着するまでご主人様の傍にいてください」と告げた。

徹は改めて奈保子に向き合い「奈保さん、お父様を危険な所にお連れして、すみませんでした」と詫びた。奈保子は黙って、首を横に振った。

「でも奈保さんのお父様はすごいですよ!お父様のお陰でみんなが助かったんです。最大の功労者です。僕も助けられました。奈保さんのお父様はあそこで疲れ切っています。さあ、傍に行って、労ってください」と言った。胸が詰まった。徹は泥だらけで、皆を助けたその手は血だらけで父と同じくらい疲れきっていて、それでも人を気遣い、その中でも今、微笑みを浮かべ自分を見るその眼差しは優しさに満ちていた。

「本当に優しい人」心で思った。自分の事を顧みず、人のためにこんなに一生懸命になる人は今まで出会ったことはなかった。誠実で 優しくて 強い人・・

どんなに泥だらけでも、血だらけでも、汚れなんかどうでもいい、ただ徹を抱きしめたかった。そして抱きしめられたかった。奈保子は徹に対する自分の想いを確信した。

「さあ、奈保さん、お父様が待っていますよ」と徹はそっと背中を押した。

徹は先に救出した外人の親子の元に向かった。奈保子の胸が再びキュっと詰まった。

徹は、初めに救出した親子の前にいた。父親は足を骨折しているが、意識はしっかりし、体を起こし子供を抱いたままでいた。徹はその横に膝を付き、状態を英語で尋ねた。少し動いた時に痛みが出るが、大丈夫だとのことだった。子供も大丈夫な様子なので安堵した。徹はしばらく外人の親子と会話した。

そして家族でいる奈保子の父の前に両膝をつき、「危険な所に連れ出し、申し訳ございませんでした」と詫びた。奈保子の父が座ったまま少し背を伸ばし

「年甲斐もなく、張り切り過ぎたから、へばっているよ」と言った。

その顔には明らかに疲労の色が濃いことが伺えたが、自分なりにやり切ったという充実感、救助できたという満足感も感じられた。

「川瀬さんのお陰で皆救出することができました。本当にありがとうございました」徹はまた頭を下げた。

奈保子の父は「それは違うな。皆、一生懸命だったんだよ」一同を代表するように言った。そして「我々は戦友だな」と笑った。「はい」徹も笑った。

お互い手をまわし抱き合った。奈保子の母は泣いていた。


救急車が到着してから、警察、消防等も駆けつけ、現場は騒然とした。徹は救急車、警察、消防と対応に追われ、奈保子の父も同様な状況だった。

ようやくひと段落した頃は、辺りは夕暮れに差し掛かっていた。

「川瀬さん、お疲れではないですか?」「いやー、さすがに疲れたね」

「今日は申し訳ございませんでした。でも本当にありがとうございました。私はまだ現場に残り、することがあります」「そうか、大変だな」

「今日は、お帰りになりますか?」

「奈保子が明日、仕事があるみたいだから何とか家に辿り着かないとな」

「どうか無事のご帰宅を願っています」徹は奈保子の父に敬礼をした。

「落ち着いた時は、飲もうや」奈保子の父も照れの混ざった敬礼をした。

徹は奈保子の母にも詫び、また感謝の言葉を述べた。「また家にいらっしゃい」何故か涙声だった。

徹は奈保子に「奈保さん、ありがとう。落ち着いたらまた連絡させてください」と言った。

「徹君は大丈夫?疲れているし、ケガもひどいでしょ。無理しないでよ」

「大丈夫です。奈保さん、人は状況によって役割があって、今は僕がその役割を担う番でもあるんです。無理はしていないですよ。それでは、行きます」

奈保子はこの日皆で食べるために作った弁当を徹のために小分けにしたが、それを手に持ったまま関係者の元に走っていく徹を見送った。


奈保子は窓の外に顔を向け、ずっと徹のことを考えていた。

懸命に救助を行い、泥にまみれケガもし、疲れ切ってボロボロになっても、それでも皆を気遣い、父や母も大事に気遣い、また父も母も徹を思ってくれたことも嬉しかった。その中で自分に向けた優しい眼差しを思い出していた。胸が締め付けられた。

自分ができること全てを徹にしてあげたいと思った。そしてそんな徹に何もしてあげられなかったことを悔やんだ。涙がこぼれた。「徹君・・」

それ以上言葉は出なかった。

「奈保子、 徹君はいいやつだな・・」父の安堵のような寂しさのような、思いの込もった言葉が車の中に漏れた。

奈保子は声が出せない代わりに何度も頷いた。流れる涙は悲しい時のものではなかった。その肩に額を付け涙にくれる奈保子の背中を母はそっと撫でた。

恋をしている娘が、愛しかった。


後日、奈保子の父の元には、家族共々感謝状が贈られかつ人命救助に貢献したことで表彰されることになったと連絡があった。周りの勧めもあったが、

奈保子の父は辞退した。正確に言えば、拒否した。

危険を顧みず、みんなを気遣い、懸命に救助活動をした徹が謹慎の後、戒告を受けたのを奈保子から聞いていた。一般人を危険を孕む現場に連れ出し、救助活動にあたらせたことが問題となった。常識的に考えれば当然なのだが自身は納得はしていなかった。自分に頭を下げ声をかけてくれた徹には感謝していた。

その徹を差し置いて表彰を受ける気持ちは奈保子の父には全くなかった。



《美・来》

奈保子の心には常に徹がいた。思いを馳せているときの心が躍るような高揚感はなく、会えないことの寂しさが募るばかりだった。強くて、誠実で優しい徹に会いたかった。月の光を浴び少し上を向いた横顔の徹の写真をいつも眺めた。その度、胸を掴まれる感覚に陥り、苦しくなった。そしていつも小さなため息が漏れた。

奈保子の父も母も徹のことについては何か言うことはなかった。自分の思いをはっきりと伝えた訳ではないが、親はわかっていると奈保子は思った。

最近は謹慎中はもちろん、それ以降も徹からの連絡はあまりこなかった。あっても

短い時間にお互いの近況を話す程度であった。

電話の徹の声のトーンは心なしか低くなっているように奈保子には感じられた。

徹にとっては、今回下された戒告処分は自衛隊員としての職務上重いものであった。信頼を取り戻すためには、それなりの姿勢を示す必要があった。

奈保子は以前のように気軽に徹の携帯に電話をかけられなくなっていた。徹の電話の声のトーンも気になっていた。自分の気持ちに正直なままに行動することに躊躇いがあった。

最近は、徹に会えないこともあり、寂しさ、不安感から、良い、当たると人に聞けばその占いに通い、大恋愛の相と言われれば赤い糸を信じ、そうでなければ落ち込み、結果に一喜一憂することもあった。

そんな中、徹からの電話で二人は久しぶりに会う約束をした。奈保子の胸は高まった。久しぶりに会えることもそうだが、恋心を抱いて会うことに以前とは違う喜びがあった。着ていく服もあれこれ考えながら、何を話そうか、うまく話ができるだろうか、約束した日まで期待と不安が交差する日々だった。

徹との約束は、南青山の寿司屋で20時に会うことになっていた。

当日は、奈保子も日中までの仕事であったので、一旦は家に帰って準備ができると考えていた。


日中の仕事を終え、急いで家に戻った。準備を整え、出際に携帯電話を見た時に徹からのメッセージが入っているのに気付いた。

奈保さん、すまない 今日は会えなくなりました

ごく短いメッセージだった。奈保子の落胆は大きかった。しかし自分の知る徹は理由もなく約束をたがえる人ではないと分かっていた。具合が悪くなったのか、何かあったのか心配になり、奈保子は徹の携帯電話にその場でかけ直した。留守番電話になっていた。何度か掛けたが同じだった。

奈保子は夕食は摂らずに、徹のことを考えていた。きっと理由があるにせよ、こんなに会いたいと思っていたのに、ひどい仕打ちだと思った。

日付も変わろうかという時、徹から連絡があった。

「大丈夫なの?」まずは一番気がかりだったことを訊いた。「僕は大丈夫です」

「じゃあ何で電話に出ないのよ!心配したんだからね!」

担当していた患者の容態の急変に伴い、転院先までの付き添いをしたとのことだった。守れない約束ならしないでとも思っていたが、理由が理由だけに今回のことは仕方がないと思った。

何度も謝る徹に「大変だったね。でも徹君に何もなくて良かった。また会おうね」

そう言って電話を切った。その時はそれ以上話す気にはなれなかった。

しかし電話を切った後に淋しさが溢れてきた。もっと話せばよかった、本当は今からでも会いたかった この日をどんなに待ち焦がれていたか知ってほしかった。

徹君、私の事好き? ずっと私の事好きだったでしょ! 

壁に掛けてある今日着ていく予定だった服を見ながら、心の中で叫んだ。


また写真をみて、心の内を呟く日々が続いた。徹に会いたい気持ちは募るばかりだが、やはり電話を掛けられずにいた。

そんな日々を過ごしていたある日、人気番組の「オーラの泉」の収録があった。

奈保子の幼少の話、芸能界デビューの話から始まった。三輪明宏、江原宏之は始終ニコニコと笑顔であった。

奈保子のオーラは、慈愛に満ちた色をしているという。また人を癒し、幸せにする光を持っており、成るべくして歌手になったという。

奈保子は「私はいざという時に一歩踏み出せないことがあります。そんな私は結婚できますか?もしできるとしたらそれはいつ頃ですか?」と尋ねた。

江原は「今日は、そのお話をするために奈保子さんは呼ばれたのですよ」と笑顔で言う。続けて「お相手の方は、もう既に出会っています」と言った。

奈保子は、咄嗟に徹を思った。その瞬間胸が潰れそうな感覚になった。

三輪が「奈保子ちゃんが今、心に思っている方はどんな方?」急に奈保子に尋ねた。奈保子は驚いた。二人は私のことを全てわかっているのだと思った。この番組、いや、この二人に導かれたかのようだった。瞳から涙が溢れそうになったが、それを止め、テレビを通し世間に自分の思いが晒されようと、ただ正直になろうと思った。

徹の笑顔が脳裏に浮かんだ。

「優しくて、誠実で、強くて・・。とても大切な人です」ひとつひとつ確かめるかように奈保子は言った。

「でも自分がどうしていいかわからなくて・・」「その方のこと、好きなのね」

「はい」涙はもう止められなかった。

「お相手の方は、今仰られたその方ですよ」と江原が言った。

「あなた達は、結ばれるためにこの世に生を受けたの」三輪が言った。

「2500年くらい前のインドかしら。砂漠が見えるわ」江原が「そうです」と答えた。

「あなた達は、2500年前に一緒の時代にいたの。お相手の方はさる国の王子、

あなたは宮廷に仕え宴等の時に舞をする芸能を担当する者の一人だったの」

奈保子は黙って聞いた。

「その時王子は、年の離れたあなたに対して強く思いを寄せていたの。あなたも少なからず、王子には好意は持っていたのよ」

「多くの民からも慕われていたんですよ」江原が言った。

「そんな時、隣の国と戦争が起こったの。兵士だけでなく罪もない民が次々と犠牲になっていったの。王子はとても優しい心の持ち主で、これ以上の犠牲者を増やさないという気持ちと、民を守るため、愛するあなたを守るため、王子自ら戦場に出向いたの。決して戦士と呼べるほど強くはなかったから、当然戦いの中で戦死してしまったの。あなたを思いながら。その反動からか、今、奈保子ちゃんが心に思っている方は体を鍛えているでしょ?」三輪があたかも見たかのように言った。

「今世でもまた年が離れた状態で巡り合うはずだったけど、彼を慕う民や彼の周りいた人達の二人を一緒にさせてやりたいという思いで、その年の差が縮まったの。彼とは幾つ年が違うの?」「二つ、私の方が上です」

「もはや二人には年は関係ないですね」江原が言った。

「奈保子ちゃん、その王子は「月の王子」と呼ばれていたの」奈保子は驚いた。

徹に心が傾き、ずっと眺めていたのは、あの満月の夜の徹の写真だった。徹は真に月の王子だった。涙が溢れた。

「奈保子さん、あなたの曲に月に因んだものが多くあるのは決して偶然ではないのですよ」奈保子は不思議な感じがしたが、でも素直に納得できた。

しかし今後については、想像ができなかった。むしろ不安の方が強かった。

「もしト、いえ彼と結婚できなかったら、どうなりますか?」三輪、江原は一瞬黙った。

「奈保子さん、結婚まではやはり乗り越えないといけないことがいくつかあります。流れが変わる可能性も実はあります。まずはお互い信じて、心を一つにして助け合うことが大事です。それができれば二人は結ばれると思います」江原が言った。

「もし、二人が結婚しなかったら、お相手の彼はあなたの前から姿を消し、一生結婚せずに今世を過ごすでしょう。でも根が優しい人だから、困った女を助けようとして自分も不幸になってしまう そういう姿も見えるわ」

奈保子にとって、その状況はどれも受け入れがたく、拒絶したいものだった。

もし自分と結ばれなくても、徹は幸せになってほしいと思った。

「奈保子ちゃん、彼は今、とても悩んでいるの。もちろん二人の将来のことよ。

答えは出かかっているけど、きっかけがいるの」

「きっかけですか?」「あとでそっと教えてあげる」三輪が微笑んだ。

「奈保子さん、王子だったことが、もう一つ今世で出ていることがあるんですよ」

奈保子は江原が言っていることが理解できなかった。「それは、財力です」

「彼は、お金に困ることはないのよ」どういうことかよくわからなかったが、考えてみれば、徹は良い車に乗り、海に面した別荘を持ち、都内に部屋を持っていた。

「一緒になれば必然的に分かることよ」三輪が微笑んだ。

「あと、金輪際、占いには行かないこと。今日話したこと以上の話は、聞けないわよ」奈保子は驚いたが、素直に頷いた。

「お幸せになってくださいね」江原が微笑んだ。


収録後、三輪と奈保子は二人で話をしていた。


オンエアは先だが、この収録の内容は関係者を通じて広まり、後日ワイドショーでも取り上げられた。芸能レポーターが奈保子のところに押し寄せたが、

「お付き合いをさせて頂いている訳ではないので」と言い続けた。

丁度その時、ゲストで呼ばれたトーク番組でも付き合っている方がいるのかと質問を受けた。今までの奈保子であればうまくはぐらかしていたが、「心に思っている方は、います」とはっきり答えた。



《ふたりの夜》

徹は自衛隊の任務、週二回の民間病院の救命救急外来を継続していた。担当していた患者の容態の急変に伴い転院先までの付き添いをし、奈保子との久々の食事の約束が流れたが、その患者の容態が落ち着いたことを知らされ、また目まぐるしく次の仕事、診療に取り掛かっていた。

そんな徹の元にこの横須賀の病院宛で手紙が届いていた。差出人を見たが、はっきりわからなかった。しかし徹と関りを持つ外国人は一人しか思い浮かばなかった。

自衛隊員として外国人との接触は極力控えていた。近づく外国人はいなかったが、

警戒心は常に持っていた。送り主とみられる名前をもう一度見た。アレクサンドル・シモン・ド・ルクシード、名前の感じから貴族出身かと思わせた。高尾山での地滑り災害の際、最初に救助した外国人がいた。フランスの方かと話す英語から察し、途中からフランス語で会話をした。その男は徹が発音が自然なフランス語で話すことより、自分がよくフランス人とわかったなということに驚いていた。

徹は一時期フランス語を勉強していた。高校時代に帰国子女としてフランスから転校してきた女の子がいた。徹は一年間位であったが付き合っていた。徹も海外で幼少を過ごしており、彼女にはある種のシンパシーを感じ徹から声をかけたのだった。

彼女は親の仕事の都合で海外生活が長かった。フランスには小学校の途中から家族で住むようになり、高校の途中まで過ごしていた。あまり日本語は得意ではなく、徹とは専ら英語、フランス語で会話をしていた。このため徹はフランス語を必死に勉強し、その会話相手は彼女だった。難しい表現や端的に伝えたいときはお互い英語だった。彼女が話す英語のニュアンスに似ていたため、その男がフランス人ではないかと思ったのだった。

手紙は英文だった。救助の礼と現在の自身と子供の状況を綴っていた。最後にフランス大使館の職員であることが記してあった。親子共々元気であることに安堵し、手紙を封筒に戻した。そしてまた激務の中に身を窶(やつ)した。


徹の状況は、本業の自衛隊の任務、そして週二、三回のこの救命救急外来の掛け持ちで、激務といえた。また戒告処分後の服務に関しても今だ上官からの厳しい目もあった。しかしその中でも奈保子のことを考える時間はあった。徹は悩んでいた。

奈保子のことは間違いなく好きだ。生涯を共にするのは奈保子以外いない、この思いは微塵も揺るぎはない。徹は来年の二月で29歳を迎える。奈保子はその七月に31歳になる。お互いもう結婚しても良い年齢であった。徹の中では、大学を卒業して9年は自衛隊に服務することは決めていることだったが、その先は、奈保子のことを考えると複雑になり、まだ整理ができていなかった。想う相手は世間に知られた元アイドルであり、アーチストでもあり女優でもあった。奈保子は以前からずっと音楽に携わっていきたいと言っていた。自衛隊は辞令にて全国どこへでも赴任することになる。どこに行こうと全力で奈保子を幸せにしたいと思っている。しかしその中で奈保子の思い、夢を断つ状況が出てしまうのではとも思っていた。

奈保子の大事にしているものを徹も大事にしたいと思っていた。思いは巡るばかりであった。


徹は、冷たい風が吹く横浜の街を歩いていた。昼時も少しすぎ、目についたラーメン屋の暖簾をくぐった。

店内は外の寒さと対照的に熱気がこもっていた。店先に立つ男の威勢のいい声が響いた。「いらっしゃいませ!」空いているテーブルに座り、注文をその場でした。

しばらくすると店先に立つ男の怒鳴り声が聞こえた。

「遅いんだよ。いつまで同じこと言わせるの!」「はい!」女の声がした。

「違うだろ!いい加減にしろよ、やめちまえ!」「すみません!!」やり取りの方に目を向けた。その女に目が留まった。「富山だ」心の中で呟いた。発していない声に気づいたのか、一瞬その女はこちらを見たが、すぐ仕事に戻って行った。

富山、下の名前は覚えていない。小・中学校と同じ学校だった。何がきっかけだったか、小学校の3年の半ばぐらいから、富山は所謂(いわゆる)いじめにあっていた。

同じクラスだったので、自分が見ている範囲ではそれを止めた。学年もクラスも変わっても富山の状況は変わらなかった。

中学校では他の小学校の生徒も一緒となるのだが、その時もいじめの対象だった。

陰湿な感じが増した印象があった。富山に何かを言ったり、何かをする者がいたら、やはり止めた。一部からは「あいつはブス贔屓だ」とも言われたが、正しいことではないと思ったし、いじめにあい悲痛な表情を浮かべる様子は見たくはなく、誰もそんな扱いを受けるべきではないとも思っていた。なので止めることで、誰に何を言われても気にならなかった。中学校では一度も同じクラスにはならなかった。

話をする機会も殆どなかったし、その記憶もない。卒業後も全く思い出すことはなかった。遅めの食事を終え、店を出た。富山は大きな青いポリバケツを抱えていた。

赤ら顔でタオルを首に巻き、エプロン、白長靴姿の彼女は怒鳴られながらもこの店で一生懸命働いていた。

徹は歩き出した。

以前の自分であればまた泣いているように見えたか、以前の自分であれば何か一言かけていただろうか? 

しばらくして歩みを止め、振り返った。

離れて小さくなった富山は自分を見ていた。また歩き出した。奈保子のことを考えていた。


奈保子は、心に決めていた。心は更に徹への思いで溢れていた。

先日の収録で、徹は悩んでおり、そこから抜け出すには「きっかけ」が必要と言われた。収録が終わり、奈保子は三輪に呼ばれた。

今までは一歩引いてしまい受け身や待つ身になることが多かったが、三輪の一言で奈保子は女として腹を括った。

週末に奈保子は都内の有名なホテルを予約した。そして徹に、何時になってもいいので来てほしいとメールで綴った。

徹は午前0時までの救命救急外来の仕事を終えた後、奈保子のいるホテルに向かった。部屋の照明は消されていた。

しかし月明りが差し込み、バスローブを着て立っている奈保子の姿がはっきり見えた。濡れた髪は月の光で輝いていた。美しさに息が止まった。

「徹君」 徹は歩み寄り、震える声の奈保子を抱きしめた。奈保子も徹を強く抱きしめた。

目覚めると、そこに奈保子はいなかった。徹の体にはまだ奈保子の柔らかな温もりが残っていた。

テーブルには、一枚の紙があった。


ずっと待っています  奈保子


奈保子は自身の全てを持って、自分を抱いてくれたと悟った。ただ全力で奈保子を幸せにすること、徹は思いを固めた。



《愛はふたりの腕の中で》

徹は、週2回の救命救急外来をやめることにした。欠員補充のための準備期間が二か月必要という。実際、本業の医官の服務もすべきことが多くなっていた。

眠くまた体がキツイと思うこともあったが、奈保子の笑顔を思い浮かべ、ひとつひとつ乗り切っていった。

奈保子はドラマの収録で、数日長野に滞在し、5年ぶりのライブを東京、名古屋と大阪で行うことになっており、多忙を極めた。月明りの中少し上を向く横顔の徹の写真に「徹君、私も頑張るからね」と心で呟いた。奈保子はあの日以来、徹との夜の事を思い出すことが度々あった。抱き合ったことより、互いの心がひとつになったことに満たされた思いを感じていた。それが多忙な日々の原動力にもなっていた。でも会いたかった。心の中ではそれが欠けていた。

長野では夜間の収録もあった。高原にある誰かの別荘が撮影場所で、古めかしくもあるが立派な洋風建築の建物だった。収録の合間に空いている洋室で徹に手紙を書こうと思った。思いははっきりしている。でも書きたいことは多かった。ひとつひとつを思い起こしていくといつの間にか時間だけが過ぎていた。残ったのは、会えない切なさだけだった。庭先に出た。敷地の端には木の柵が巡らされ、その先はススキの草原になっていた。冷たい空気は、澄み切っていた。

柵まで歩き、柔らかな風を受け見上げた夜空には真珠色の三日月が浮かんでいた。

満たされない心と一緒だと思った。


同じ月を見ていた。

徹は海辺の別荘に来ていた。車から降り、部屋には入らず倉庫の中からデッキチェアーを取り出した。埃を払い、海が見える位置に置き、コートを着たまま座った。

数か月前に奈保子と来た日のことを思い出していた。空を見上げたまま伏せた瞼の奥には蒼い空に大きな満月が輝いていた。月明りに浮かび上がる奈保子は、息を飲むほど美しかった。迷いの中の自分であれば、その姿は遥か遠い存在と諦めていたか。

しかしもう諦めることはしない。奈保子の決意を悟った徹の心もまた既に決まっていた。あの日とは違う月だったが、徹の心は奈保子の面影に満たされていた。


徹は久しぶりに奈保子に電話をした。お互い元気だという事を確認できた。聞けばドラマの収録は続き、テレビ出演、ライブの準備、奈保子の方が忙しかった。

近況を話し合い、互いを労ったが、心にある「好きだ」という言葉は発しなかった。「奈保さん、迎えに行きます。待っていてください」徹はその言葉も胸に仕舞った。


徹は仕事を終えた。救命救急外来の方は、予定より早く欠員補充がなされためその分早く退職できた。

医長や主任看護師のみならずスタッフ全員から惜しまれての退職であった。

「佐伯先生、お疲れ様でした。」

多くのスタッフがその日徹を見送った。徹は一介の自衛隊の医官になり、その週の仕事を終えたのだった。

寮には戻らず、そのまま制服のまま車を走らせ、東京に向かった。

向かった先は、奈保子の家であった。急な訪いだったが、奈保子の両親は徹を迎え入れた。

徹は居間に通された。「元気だったか?」奈保子の父が言った。

「はい。お陰様でなんとか過ごしておりました」

「それが医官の制服か?」「はい、先程仕事を終え、その足でここに伺わせて頂きました」

「ほう。何か急用でも?」奈保子の母がお茶を運んできた。そのお茶を徹の前に差出し、制服姿の徹を眺めた。

「今日は、お二人にお話があって、参りました」奈保子の父と母は徹を見た。

「奈保子さんに、私の思いを伝えます。プロポーズをします」

「それを言いに来たと?」「はい。これまで私に温かく接してくださり、心から感謝しております。大事な娘さんのこと、結果はどうであれ、事後でお耳に入るのは礼儀を欠くかと思いました」

「奈保子の気持ちの中で決めていることがあるかもしれないが、我々でも奈保子の

胸の内は正確には把握していないんだよ。もし奈保子が徹君の思いを受け入れなかった場合はどうするの?」

「一生、奈保子さんの前から姿を消します」二人はしばらく徹をみて黙っていた。

長い沈黙の後、ふいに奈保子の父は席を立った。奈保子のマネジャーに連絡を取ったのだった。

「徹君は本当に軍人だな。今日は、これからテレビ朝日で収録があるそうだ。今から急げば間に合うよ」と奈保子の父は言った。

徹の覚悟を感じたからの言動だった。

「ありがとうございます!」居住まいを正し頭を下げ、額づいた。

「失礼いたします!」徹は家を出て行った。

奈保子の母は近々このような日がくると思っていた。


徹はテレビ朝日の近くのコインパーキングに車を止め、走ってエントランスに向かった。一般人が入館できるのはホールのゲートまでで、その先は許可証がなければ通ることができなかった。

白い制服を着た男が走ってきたことでホールにいた何人かは、何事かという目で見た。息切れしながらゲートの前に立ち、訝し気にみる守衛の視線を感じつつ、その奥の様子を伺った。

いた!奈保子の姿が見えた。「奈保さん!」聞こえなかったか、「奈保さん!」続けて叫んだ。

奈保子の耳に徹の声が届いた。

「徹君!」奈保子は声のする方に振り向いた。白い制服を着た徹が立っていた。

「奈保さん!奈保さんは今までは僕の憧れでした。でも時間を重ねて、変わったんです。僕が人生の全てを賭けて、幸せにしたい人が奈保さんなんです!奈保さんが好きです! 僕と結婚してください!」徹の必死の訴えだった。

奈保子は胸を掴まれた。全身が震え、両手で顔を覆いその場に座り込んでしまった。

その時、ゲートの扉が開いた。徹は守衛を見た。守衛は黙っていた。ゲートの外の人のみならず、ゲート内のこれから収録スタジオに向かう他の芸能人、関係者等

多くの人々が、ホール全体が、沈黙して二人の成り行きを見ていた。徹は守衛に黙礼をし、奈保子に走った。「奈保さん!」徹は奈保子の前に片膝をついた。

「何?」「あの白い服を着た男が川瀬奈保子にプロポーズしているぞ!」「誰?」

周りは静寂からざわつきに変わった。しかしまた二人の動向に目が向けられ静寂に戻った。

徹は泣き崩れる奈保子の肩に手を添え、顔を近づけた。

「奈保さん、僕の人生のすべてを賭け、幸せにします。僕と結婚してください」もう一度言った。

奈保子は泣き顔をあげ頷き、「私と結婚してください・・」と言い、徹の胸に飛び込んだ。徹は片膝のまま奈保子をしっかりと抱きしめた。

奈保子は胸の中で泣き続けた。二人の様子を固唾を飲んで見ていた中から、自然と拍手が沸いた。

何人かは涙を流していた。しばらくして徹は奈保子の手を取り、立ち上がらせた。

その時、いつの間にか落ちていた帽子を拾い徹に渡した女性が「奈保子ちゃん、おめでとう。素敵な場面を見せてもらったわ」と言い、二人に拍手をした。

今日の奈保子のスタジオ収録の司会を務める加賀まり子だった。

「素敵な方ね。お幸せに」と言い、歩いて過ぎて行った。

奈保子は歩けなかった。徹は帽子を被り奈保子を抱き上げた。そしてそのまま歩いた。拍手が鳴り渡る中、収録スタジオの前で奈保子を下し、ポケットから小さな箱を取り出し、開いて指輪を取った。

「奈保さん、これからも思い出を積み重ね二人で歩いていきましょう」手をとり奈保子の左手の薬指にそっと指輪を差し込んだ。右手で口を覆い泣き顔の奈保子が何度か頷いた。徹は白い手袋をはめた右手を奈保子の頬にあて、そっと親指で涙を拭った。見つめあった二人は自然と唇を重ねていた。拍手が一層鳴り響いた。

「心はずっと一緒だから。頑張って」奈保子を送り出した。

徹は、奈保子がスタジオに入るまで見送り、まだ続く拍手の中、ゲートに引き返した。

守衛の前に立った。徹は守衛を真っすぐに見た。そして直立の姿勢で最敬礼を行った。

「おめでとうございます」守衛が言った。

「ありがとうございます。心から感謝しています」守衛が笑顔で頷いた。徹の顔にも屈託のない、はにかみの笑顔が漏れた。ゲートを出てからも徹には拍手と居合わせた人々から祝意が述べられた。


徹は奈保子の家に電話を入れた。すぐに電話がとられ、奈保子の父が「おめでとう!」と言った。徹は訝った。

「どうして、おめでとうなんですか?」

「テレビで中継されていたからね、一部始終。徹君がゲートから奈保子を探すシーンから全部見ていたよ」

徹は奈保子の父が何を言っているかわからなかった。

「奈保子と徹君のプロポーズはテレビ中継されていたんだよ」驚いた。どういう事だろうかと思った。

「奈保子のマネジャーに電話した時に、川瀬奈保子がプロポーズされると言ったんだよ。それでなんだろうな」「川瀬さんが中継をと言ったんですか?」

「いや、直接は言っていない。ところでもう川瀬さんはやめよう。でも決死の軍人の出撃を見送ったんだ。その戦いぶりも正直見てみたいという気持ちはあったよ」

「奈保子さんが私の思いを受け入れてくれました」徹は感慨一入(ひとしお)に言った。

「あの時、奈保子の胸の内はわからないと言ったが、奈保子とはずっと一緒に生活をしているんだ、わかっていたよ。今までの事からも二人は結ばれると疑わなかったよ。おめでとう、奈保子を頼むぞ、月の王子!」

「?」

奇しくも今日が約二か月前に奈保子がゲスト出演した「オーラの泉」の放送日だった。またその後にこのプロポーズが緊急に放送され、大きな反響を呼んだのだった。プロポーズの放送はテレビだけでなく、繁華街の巨大ビジョンでも流された。川瀬奈保子のアイドル時代を知らない若い世代でも話題となり、またその世代が川瀬奈保子を知るきっかけにもなった。実際、若者の間では、奈保子の曲が再注目され、カラオケでも数々の奈保子の曲が歌われ、往年のファンも復活し、過去のアルバムも売り上げを伸ばしていった。

連日テレビではこのプロポーズが放送され、幾つかの番組で川瀬奈保子特集が組まれた。奈保子はアジア各国でも有名なだけに、幾つかの国のメディアもこのプロポーズ劇を取り上げ、そこでも放送された。

その中で相手の徹のことも多くのマスコミが取り上げた。視聴者からも二人のプロポーズに対して多くの感動のコメントが寄せられる中、徹に対しても、「お相手の白い制服の方は芸能人?」、「見たことがない位の超イケメン」「お似合いの二人」「今世紀最強、最美のカップル」「リアル愛と青春の旅立ち」「あの男なら許す」等

多くのコメントが寄せられた。別の番組では、守衛の粋な計らいと徹の最敬礼がクローズアップされていた。

奈保子も大変だった。あの日の収録では、マイクを持つ左手に指輪をはめ、しっかりと歌い上げたが、司会者の加賀まりこから収録中に「奈保子さんは素敵な方と結婚することになりました!」と紹介され、出演者、スタッフ全員から冷やかしのような祝意を浴びた。プロポーズのことを知らなかった出演者からは驚きの声が上がったが同じように祝福の声がかかった。収録後も多くのレポーターが押し寄せ、祝意と共に様々な質問攻めにあっていた。


「ただいま。まだ起きていたの?」両親は奈保子の帰りを待っていた。

「お疲れさん。奈保子、良かったな」

「幸せになるのよ」「徹君なら、奈保子を幸せにするさ」奈保子は帰宅前に電話で両親に徹からプロポーズを受けたことを伝えた。その時点で両親は既に知っており、

テレビ中継されたこと、徹が月の王子であることも聞いた。正直奈保子も驚いた。

先日収録された「オーラの泉」の放送日が今日だったことも忘れており、

また月の王子と世間の人が既に徹をそう呼んでいる事実にも驚いた。

奈保子の父は「奈保子、これから徹君と力をあわせ二人でやっていきなさい。幸せにな」と奈保子の肩に手を掛けた。母も改めて「徹さんと一緒なら絶対幸せになれるから。良かったわね。お母さんも幸せな気持ちよ」と言った。

奈保子の目から一粒の涙が落ちた。「うん」母は奈保子を抱きしめた。父はその二人の肩に両手を添えた。

両親は「良かった、良かった」「おめでたいわね。これからが色々忙しくなりそうね」と言い合っていた。

奈保子は叫びたいほどの気持ちを抑え、改めてこの幸せに満ちた思いを嚙み締めた。


「奈保子さん、おめでとう!私、今まで生きていた中で一番感動しちゃったー、本当に。テレビで何度も観て、毎回号泣しちゃったもん。あー、奈保子さんの顔を見た今も泣きそう。私の知り合いも私が奈保子さんと一緒に仕事をしているせいか、二人が付き合っていたの知っていたでしょ?とかあのプロポーズのこと知っていた?とか

お相手の徹さんは知っていたの?とか、バンバン連絡が入ったわよ!もう、皆羨ましがって」

「あ、ありがとうございます」

「幸せね、奈保子さん」「はい」

「あー、本当に羨ましい!私だけじゃなく、皆、徹さんみたいな素敵な男性に「好きだ!」と叫ばれて、お姫様抱っこされて、結婚指輪をはめてもらい、熱いキスでトロけたい!!って言っているわよ。あー、言っている私もトロけそう」

奈保子はテレビで放送されてしまった自身と徹のプロポーズの映像を二日遅れで観た。徹中心の映像で、自身は泣き顔ばかりで少し不満であった。しかし映像の徹は本物と引けを取らない程俳優然としており、また懸命に叫ぶ姿、自分を抱きしめた時の表情、抱き上げた時の自分に向けた微笑みや指輪をはめる時の表情は、当事者の奈保子でさえ、改めて心を奪われる程だった。「私が結婚する人・・」と心で呟いたのを思い出していた。

「ちょっと奈保子さん、聞いている?」「あ、はい」「で、結婚式はいつなの?」「えー!まだ全然そんな話をしてなくて。でもお互い、ある程度仕事が落ち着いてからになるかな」

「そうね。その時は絶対呼んでよ。私、この吉元が友人代表でスピーチするわ」

「はい、その時はお願いします」

「ついでに奈保子さんの秘密も一緒に話ちゃおーっと」

「えー!やめてよ!」



《奈保子の危機》

プロポーズから半月後、二人の婚約会見が行われた。当初、徹は自身も一緒に会見に立ち会うことに躊躇ったが、相手が川瀬奈保子であるため致仕方がないと思った。奈保子とマネジャーと三人で当日の打ち合わせを2回行った。奈保子が更に脚光を浴びて多忙となった中、2回ともかなり遅い時間から始まった。

徹にとっては奈保子と会える貴重な時間でもあった。この時、まだ二人は一緒には住んでおらず、徹は横須賀、奈保子は実家のままだった。

打ち合わせは奈保子の事務所やホテルのロビーだった。帰りは徹が送った。あまりにも遅い時間であったため奈保子の両親への挨拶は遠慮した。

プロポーズの後、奈保子の両親には正式な挨拶、報告をするために伺い、またその後、徹の兄姉も交え食事もした。

徹の兄姉は、まさか末弟が川瀬奈保子と婚約をするとは思ってもみなかった。

姉はワイドショーで繰り返し放送されたプロポーズシーンで初めて奈保子の相手は

自分の弟であると知った。

兄は診察の合間に歯科衛生士に「先生と同じ名前の人が川瀬奈保子にプロポーズしましたけど、まさか関係がある方ではないですよね?」

「んー?え!これ俺の弟!」観る気もなかった画面に目を向けされて、同じく驚きと共に初めて事実を知った。


奈保子は見るからに活き活きしていた。仕事も多忙だが充実し、より輝き美しく華やかな雰囲気を醸すようになっていた。実際、テレビ関係者からもスタジオに入った瞬間、その場がパっと明るくなる、「幸せオーラ」を纏っている等と言われた。


婚約会見では、制服姿の徹に注目が集まった。奈保子も隣からずっと徹を見ており、それを芸能記者から指摘された。様々な質問を徹は無難に答えたが、奈保子は始終恥じらったり、照れたり、であった。徹はそんな奈保子が可愛く、微笑ましく隣で見ていた。

「奈保子さんたら、もう見ていられないわ。急になんか乙女になったって感じで。もう三十路過ぎたんだよ。・・でもあんな素敵な旦那さんゲットしたら、しょうがないかもね・・」吉元は婚約会見をテレビでみながら独り言ちていた。


婚約会見が終わったが、今度は雑誌のインタビューでまた二人一緒だった。

打ち合わせ、事前の写真撮影の他、休憩を挟んでの長いインタビューだった。

休憩中、「奈保さん、芸能人は大変ですね。奈保さんがいかに大変な世界にいるのかと思うし、この過酷な日々を長く過ごしてきたかと思うと本当に尊敬しますよ」

奈保子は笑った。その中でも奈保子は、一線をキープしてきたし、素直で仕事に対しても真摯な姿勢、謙虚な所に対し徹は改めて尊敬の念を持った。

「徹君、私この後、ラジオの収録があるのよ」徹は仰け反った。

インタビューが終わり、ホテルのレストランで早めの夕食を摂った。レストラン側がケーキと花束を用意してくれ、従業員、他の客を交え、ここでも祝福された。

写真も何枚か撮られた。しばらくは徹もこのような生活が続くかと苦笑した。

レストランを出たところで、徹が階段を降りようとしていた子供を抱えた妊婦のもとに駆け寄り、その荷物を持って降りた。奈保子も抱えた子供を受け取り、妊婦の傍に寄り添い、階段を降りるのを見守った。妊婦は、話題の二人の介助を直に受けたことに礼と共に感激し、子供と一緒に写真を願った。二人は笑顔で応じた。


この日は、ホテル前で別れた。奈保子は向き合って徹の両手を掴み上目遣いで見た。徹は抱きしめ、額にキスをした。奈保子は笑顔でタクシーに乗り込んだ。

まだ二人は新居は構えてなく、それぞれ今までのままだった。徹は上官からも退寮の件で話があったが、落ち着いたらまた奈保子と話をする予定にしていた。

奈保子と別れた後、ホテル前で何人かの記者に話を聞かれた。答えている途中に視線を感じ、目を向けた。顔見知りだった。

以前、高尾山で地滑りが起こった時、最初に救助した外国人だった。彼の名は、アレクサンドル・シモン・ド・ルクシード、フランス大使館員、名前の感じから出自は貴族か。アレルサンドルは、36歳、息子は確か3歳だったか。適度に記者の話を終わらせ、佇む男の前に向かった。

「もう足は大丈夫か?」フランス語で話しかけた。「退院したばかりだが、応急処置が良かったからもうこの通りだ」男は笑って左足を上げた。「ドクターサエキ、

いやムッシュサエキ、改めて礼を言う。また結婚おめでとう」

「ありがとう。ムッシュルクシード」徹は男が貴族出身と思ったので家名で呼んだ。

「アレクサンドル、アレックでいい」しばらく徹を見た後「今日は軍服だな」徹は

少し警戒したが、「これが私の正装だからね」と応じた。

「もう一度、会って礼を言いたかった」男は片手を上げて踵を返した。

「アレック、息子さんも大丈夫か?」

「心配したトラウマもないようだ。元気だよ。君の妻にも礼を言ってくれ」男は歩いて去って行った。


夜中の2時過ぎに徹の携帯の着信音がなった。徹は先程電話した奈保子かと思い、

携帯を手にした。

寝ていたこともあり着信の表示は見ていなかった。

「あ、徹君、私だが、夜分に申し訳ない。奈保子とは一緒かね?」徹は、ベッドから身を起こした。

「いえ、ラジオの収録が終わって11時過ぎに電話をしました。これから家に帰ると言っていましたが」

「うーん、遅いから徹君と一緒かと思ったが、奈保子も徹君も必ず連絡はするはずと・・。奈保子の携帯に何度か掛けたが電源が切ってあるようで、つい徹君に掛けたところだ」徹は焦った。

「お父様、奈保さんのマネジャーには掛けましたか?」

「真っ先に掛けたが、ラジオ局の前でやはり11時過ぎに別れたと言うんだよ」動悸が激しくなった。

「私は今、都内、代々木のマンションにいます。ラジオ局界隈と渋谷のご自宅辺りを探します。また連絡します!」徹は携帯を置き、急いで着替えた。奈保子に何か異変が起こったか。どうか無事でいてくれ!そう願った。

その時、ドアがノックされた。「奈保さん?」

慌ててドアに駆け寄り、開けた。誰もいなかった。玄関から出て、エレベーターまで走った。エレベーターは徹の部屋の2階下の5階で止まったままだった。

たった今、ノック音が聞こえた気がしたが、空耳か?

徹は急いで部屋に戻った。玄関に戻った時、足元に二つ折りの紙が落ちているのに気付いた。

大田区の住所が書いてあり、下にAのイニシャルが添えられていた。

徹は一瞬驚愕した。戦慄が走ったと言うべきか。しかし部屋に入り、携帯、財布、護身用の道具袋と愛車の鍵を握り、再びエレベーターまで走った。

早く上がってこい! 開いたエレベーターに乗り、何回もボタンを押した。普段にはない言動だった。

奈保さん、どうか僕と無事に出会ってくれ!

1階に着いてからまた駐車場まで走り、車に乗り込みエンジンを掛けた。キュルキュルとタイヤが鳴り、アウディがマンションから飛び出していった。

徹は環状7号に入り、深夜の空いている道路を可能な限り飛ばし南下した。

アレックはただの大使館員ではない、警戒心が湧いたが、Aのイニシャルの入ったこの紙 それに賭けた。なによりも奈保子が心配だった。

更にアクセルを踏み込んだ。アウディは唸りを上げ加速した。


紙に書かれた住所は、町工場が密集した地域にある一軒家だった。徹はその家を通り過ぎ、少し先の空き地に車を留めた。これ以上音を立てないよう慎重に家に近づいた。

辺りは静寂に包まれていた。敷地に入り建物全体を見た。築3,40年経過したような古い二階建ての一軒屋だった。庭先には雑草に隠れて錆びて壊れた自転車が放置され、ジュースの缶、色あせたバケツ、植木鉢、ゴミ等が散乱していた。道に面したガラス窓は土埃で汚れ、また雨戸やカーテンで家の中は見ることはできなかった。

建物の傍まで来た。静寂は続いていた。人が生活している気配は感じられなかった。

本当にここか? 違っていたら大きな時間のロスになると思った。しかしここまで来た以上は確かめるしかなかった。

徹はLEDの懐中電灯と護身用袋から万一のためアーミーナイフと細い2mのロープを取り出し、ポケットに忍ばせていた。

玄関のノブをできる限りゆっくり回した。止まるところまで回し、ゆっくり引いた。鍵は掛かっていなかった。

本当にここか?再び同じ思いになった。ゆっくりと家に入って行った。玄関の正面右に階段があったが、抵抗する奈保子を2階に連れて行くか?

まずは1階から調べることにした。一番奥の部屋を目指し、足を忍ばせた。

玄関と同じように、そっとノブを握り、ゆっくり回した。


「思いのほか、早かったな。ムッシュサエキ」暗闇からの突然の呼びかけに、徹は飛び上がらんばかりに驚いた。声の方に懐中電灯を向けた。

「ムッシュ、明かりをつけてくれ」

徹は壁を照らし、電灯のスイッチを付けた。アレックはイスに腰掛けていた。

「妻は、奈保子は!」徹の頭の中には、奈保子の事しかなかった。

「口をテープで塞がれ、目隠しを着けられ、手足に結束バンドも付けられていたが、君の新妻は穢れもなく無事だよ。今は私の車の中にいる」徹は一気に力が抜けた思いだったが、それを止どめ、アレックに向き直した。

「私の都内の部屋をよく知っていたな」

「はじめは純粋に礼を言いたかっただけが、少し君に興味を持ってしまい、色々調べたよ」

「私の妻もその対象なのか?」「いや、そうではない」

「私の妻がこんな目に合わなければならないのはなぜだ」

「隣の部屋を見てくれ」引き戸の合わせを開くと、部屋の隅には三人の男が倒れていた。「生きているのか?」声に出さなかったが、アレックが「死んではいない。私ではない者が対処した」と言った。

明らかに鼻が折れた者、前歯が折れた者、仰向けで顔が見えない者がいたが、確かに皮ふの血色は良かった。

「あのプロポーズ映像が放映されて君も有名になったが、それ以降この男がずっと君に張り付いていたことを知らなかったようだな。もちろん昨日も会見が行われたホテルに顔を出していたよ」アレックの視線を辿った。

鼻が折れている少し太った男だった。徹は全く気付かなかった。またその時は既に自分は監視されている最中だったのだ。

両方気づかなかった自分にも腹が立った。もちろん目の前の男にもだ。

徹は引き戸に手を掛け一旦閉めた。

「君の妻がタクシーに乗った後、あの男が別のタクシーでそのタクシーを追いかけたので、そっちも気になってね。先程話をした私ではない者に対応させたよ。もちろん報告はもらいながら」

「どういうことだ?」状況はわかりかけてきたが、あえて言葉を発した。

「君の妻も息子の命の恩人だったからな」

「私は情報提供者になるつもりはない」「フっ。残念だが、君は目立ちすぎる。ところであいつ等をどうする?」

「三人で妻を拉致したのか?」

「状況としてはそうだが、他の二人はネットか何かで募集したアルバイトさ、所謂闇バイトだろう。ラジオ局の前で落ち合っていたようだ」

「主犯者はあの太った男か?」「君と同じ川瀬奈保子ファンだよ」

「任せてもいいか?早く妻の無事を確認したい」

「もう既に愛車のアウディの中にいるよ」

「ロックはどうした?」徹はポケットの上からしまった鍵を手で確かめた。

「私でない者には、あれはロックとは言わないみたいだ」徹は苦笑した。

「ひとつ教えてほしい。どうしたらノックをした後、瞬時に姿が消せる?」

「君のIQならすぐ思いつくだろう」「一体、どこまで調べたんだ?」

「今日の下着の色まで」

「おい、アレック!」

「冗談だよ。そんな趣味はない。約束する、これ以上の君の詮索はない」

「当然だ!」

「これで借りは返せたか?」

「ありがとう。相当なお釣りがくるよ」

「それは良かった、ムッシュサエキ」

「トオルでいい」

アレックは一瞬微笑み「後の処理はこちらでする。君とはまたどこかで会うだろう」と言い、部屋を出て行った。

徹は隣の部屋に行き、倒れている三人を見降ろした。そして屈みこみ、一人一人状態を確認した。

命には別条はないが、十分すぎるくらいの雪辱を施してくれたと感じた。そして車へ走った。

「奈保さん!」まだ奈保子には口にテープが貼られ、目隠しを着けられ、手足の結束バンドも付けられたままだった。テープを剥がし、目隠しを取った。「徹君!」泣き顔だった。思わず抱きしめた。手で奈保子の涙を拭い、ナイフを取り出し、手足を拘束していた結束バンドを切った。奈保子がわっと泣き出し、徹に抱きついた。再び徹も抱きしめ、奈保子の無事に安堵した。奈保子は泣き続けていた。

「ケガはしてない?」奈保子は頷いた。徹は拘束されていた手首をさすった。

「奈保さん、ご両親が心配しているから、連絡します」と言い、奈保子の体から離れた。この状況をなんと説明したら良いか、嘘は付きたくないが、どこまで話をするか一瞬思案した。

しかし、まずは無事であることは、一刻も早く知らせなければならないと思い、携帯電話を取り出した。

奈保子の父は直ぐに電話に出た。開口一番「徹君、奈保子は無事だね」「はい、私の隣におります」

奈保子の父の言葉には切羽詰まった感じはなかった。

「状況はフランス大使館員のアレックさんから聞いたよ。徹君との電話を切ってから、割とすぐに電話があってな」意外に思った。

「アレックさんも徹君に惚れたようだぞ」


アレックは徹が部屋を出て、車で走り出したと報告を受けてから奈保子の父に連絡を入れた。奈保子の父は深夜の突然の電話に混乱した。唐突にフランス大使館の者で、高尾山の災害で救助された親子であると名乗り、徹に救助の礼と祝意を伝えようと

ホテルに行った事、奈保子がトラブルに巻き込まれたが、たまたま居合わせた他の大使館員が無傷で無事保護した事、そして徹が迎えに来ていることを告げた。

本人か真実か訝ったが、その時にいた人間ではないと知り得ない、あの災害救助の状況、徹の手の事、自分と徹が抱き合ったことを如実に語り出し、最後に「そんな徹という人間を好きになった」と聞いた時に、初めてこの人物、この話を信用した。

同時に心から安堵した。

「お父様、奈保さんに代わります」徹は自分の携帯電話を奈保子の耳に当てた。奈保子は携帯を自分の手に持ち、「お父さん」と一言言い、声を詰まらせた。

「奈保子、大丈夫か?」「うん」かろうじて出た言葉だった。

「凡その話は、お父さんもお母さんも聞いている。高尾山で助けた親子の方が助けてくれたそうだね」

奈保子は自分の身に降りかかった状況をまだ理解していなかった。それを察してか、「奈保子、今日は徹君の所で休ませてもらいなさい」と言った。

徹は電話を代わり、「お父様、誠に申し訳ございませんでした」と詫びた。

「マネジャーには私から連絡をしておく。仕事はキャンセルさせるから今日は二人でゆっくりしなさい」と言い、通話を切った。

「奈保さん、怖かったよね。でももう大丈夫です。これかちゃんと僕が守ります。

ごめんなさい」

「徹君が謝らなくていい」そう言った奈保子を三度抱きしめ、頭を優しく撫でた。「帰りましょう。お父様が今日は僕の部屋でゆっくりするようにと話されたんです。仕事はキャンセルするそうです」徹は奈保子の富士額に口づけた。頷いた奈保子を見て、ゆっくり車を走らせた。極度の緊張と疲労感と安心感からか、

奈保子は直ぐに眠った。マンションに着いても奈保子は起きなかった。徹は奈保子をベッドまで運び、奈保子の横に体を横たえた。奈保子の寝息は続いていた。

徹は奈保子の横で1時間位眠った。早朝、徹は近くの24時間営業のスーパーに

行き、朝食の食材を買い、急いで戻った。

奈保子は昼前に起きた。

「おはよう。大丈夫?」「うん」奈保子はまだ怯えているようだった。徹はベッドに腰かけ、奈保子を抱きしめた。そして、昨日の経緯を語った。

一通り、話を終えると、奈保子は落ち着いたようだった。

「本当に怖かった。タクシーを持っていたら急に車が前に止まって、男の人に腕を引っ張られて。本当にもう徹君、家族、皆に会えないかもと思った。そこからどうなったかあまり覚えてないけど、しばらくしたら違う男の人の声で、もう大丈夫、今から徹さんが迎えに来ますと言われたの。しばらく待っていたら、抱えあげられて別の車に乗せられたの。車に乗った瞬間、徹君の車だって思ったから助かったと思った」

「うん?乗り心地でわかったの?」「ううん。匂いでわかった。少し甘いバニラの香りで」

「奈保さん、何か食べます?」「うん、あまり食べたくないなって・・」

「じゃあ、コーヒーでも淹れます」

徹はキッチンに向かった。少し身なりを整えた奈保子がベッドルームから出てきた。テーブルを見て、「え!徹君、朝ごはん作ったの?」「もう昼近くですけど」

「えー!すごい。食べる、食べる!」


奈保子は、着替えがないから家に帰りたいとのことで、昼過ぎに奈保子の家に向かった。事前に連絡をしていたので、奈保子の家に着いた時は既に風呂の準備ができていた。奈保子が玄関に着くと母親がすぐに抱きついた。奈保子の父も二人の傍にいた。「お父様、この度は奈保子さんを危険な目に合わせてしまい、申し訳ございません」「思うこともあるが、こうして無事帰ってきたから」と頭を下げる徹の腕を取り、直らせた。

奈保子が風呂に入っている間、徹と両親は今後のことについて話し合った。

ひとまずは、今まで通り奈保子は自宅で生活をしながら二人で新居を探す、

遅くなる時は徹が都合が付く限り奈保子を自宅まで送るという事になった。奈保子の父は、それでは徹に負担がかかり過ぎると言ったが、徹は譲らなかった。

この決心は固く、実際、奈保子がパジェロで仕事に行くまたは特別な時以外、遅くなった時はしばらくは徹は奈保子を迎えに行った。

奈保子が風呂から出てからは、結婚式の日取りの話になった。しかし事務所、仕事の兼ね合いもあり、今年中にできたらという事で落ち着いた。

春、夏、秋、そして冬、今年はまだ二か月しか経っていなかった。

徹は29歳になろうとしていた。


拉致事件は公表されなかった。奈保子の両親も事務所も事件の経緯はアレックが話をした内容だと認識し、騒ぎになることを嫌った。事務所は、極力遅くなる仕事は控え、収録や公演等で地方に行く時もガードを固めた。

しかし、仕事によっては長引くこともあり、遅くなった時は徹が迎えに行った。

そんな日々が続き、奈保子が当初抱いていた恐怖心は和らいできていた。

また奈保子を送る時間も利用して話し合い、二人の新居は都内と横須賀の中間の横浜で探すこととなった。



《ランドマークタワー近くのタワーマンション》

週末は奈保子と徹は、海辺の別荘で過ごすことがしばしばあった。テラスで夕陽を眺めながら食事をしたり、月が出ている日はそれを眺めたりした。

砂浜で焚火をしたり、船を出すこともあった。

また奈保子の作曲作業にと、リビングにピアノを置いたのだった。

ある日「月の王子」の話になった。奈保子の出演した「オーラの泉」の放送以来、

徹は職場や仲間内、患者からもそう呼ばれることがあった。

徹は、奈保子が出演したその放送を観てはいなく、また自分が王子と言われるのも少なからず抵抗があった。なのでその都度、リアクションに困るのだった。

「困るのは知っているけど、私にとって徹君は本当に月の王子様だよ。あの写真は

ほら、今でも持っているもん」「あー、やめてくれー」

「いいじゃん、本当にかっこいいんだからさ」

「信じてくれるかわからないけど、三輪さんと江原さんは、何故か会ったことがある気がするんです。本当に見た訳ではないけど、もしかしたら夢かもわからないけど、砂漠の砦みたいなところに自分がいて、何気なく向こう側の丘を見ると二人が立ってこちらを見ている、なんかそんな曖昧な記憶というか、でも鮮明に脳裏に浮かぶんですよね」

「だから本当に月の王子なのよ。遠い記憶なのよ」

「うーん、そうなのかな?まあ今度時間があったら、奈保さんが出演したその回を観てみます」

「観なくていい!」「なんで?」「ダメ!」「だから、なんで?」


二人は鎌倉に来ていた。海辺の別荘からは、さほど時間はかからない。奈保子の仕事が夕方に入るので、それまでの間のデートだった。

海辺の別荘で過ごすときは、お互い車で来るが、今日は奈保子の車、奈保子の運転で鶴岡八幡宮に来ていた。徹は帰りは、江ノ電かタクシーを考えていた。

二人でどこかへ出向く時は、徹は元より奈保子も特にマスクをしたり、サングラス、帽子等顔をわからないようにするような装いはしなかった。

以前は、奈保子はやはり買い物やどこかに行くときは人目を憚るような装いをしていたが、世間が二人を認めたような状態になった最近はそのままだった。

そのため気付いた人が度々声を掛けた。この参道を歩いただけでも、何人かに

「おめでとうございます!」「お幸せに!」等と声を掛けられた。

「なんか僕まで芸能人になった気分ですよ」「そうだね。プロポーズの放映とこの前の婚約会見で徹君も有名人になっちゃったもんね」

「お相手が大物、川瀬奈保子ですからね。悪いことはできないよな」

「え!徹君、何か悪いことしているの?」

「それは言えないです」わざと深刻な表情で言った。「えー‼」

「噓です。何も悪いことなんかしていないですよ」「ちゃんと私の目を見て、言って!」「はい、何も悪いことはしていません。奈保さんオンリーです」

「隠し事はないですね?」「はい、ありません!」「わかりました。信用します。

これからも隠し事はダメだからね!」そんな会話をしながら参拝した。

二人して参拝を終えた後、奈保子は徹に訊いた。「徹君、何をお願いしたの?」

「きっと奈保さんと同じことじゃないかな」奈保子は顔を赤くした。

「え!奈保さん、一体、何をお願いしたんですか?」「えー。聞かないでよ!」「え⁉」

昼はしばらく歩いて、割と有名な蕎麦屋に二人して入った。基本的に奈保子は和食派で、徹はどちらかといえば洋食派だったが、徹は蕎麦好きでもあった。

今朝の二人の食事は、徹が用意した野菜スープ、サラダ、目玉焼き、ソーセージ、

パンの洋食のようなメニューだった。交互に和食と洋食にしていた。

徹は海に近いところでの仕事であるため、和食の時は魚や干物を前もって用意することもあった。

「奈保さんはこれから仕事だから、パワーが付くような食事が良かったんじゃない?」「ううん、長い時間の仕事じゃないし、大丈夫」

二人はそれぞれに注文した。「初めて、あれはデートとは言わないけど、ラーメン屋さんに行った事があったよね?」

「教習所の時ですね。懐かしいですね。まさか今、こうして奈保さんと居られるなんて、夢にも思いませんでしたよ」

「世の中不思議ね。私もこうして徹君と一緒になろうかとは夢にも思わなかった」

そんな話をしているときに、店員が注文した品を持ってテーブルに来た。

「おめでとうございます。これは店主からのサービスです」注文したものとは別に籠に盛られた4本のエビの天ぷらがテーブルに置かれた。

店内の客の殆どがその様子を見ており、所々から「おめでとうございます」の声が掛かり、何人かは拍手もした。二人は立ち上がり、皆に頭を下げた。店中に拍手が響いた。


「あー、おなかがいっぱいで苦しい」「僕も奈保さんのエビも食べたから一緒です」「でもなんか嬉しいね」「やっぱり世の中の人は見ているんですよ、奈保さんの

人柄を。奈保さんは、明るく、裏表がなく、律儀で、一生懸命で、多才なのに謙虚でそしてきれいで可愛いから皆に愛されているんです。だからこうして皆が祝福してくれるんです。僕もそれに肖(あやか)っているんだなと思いますよ」

「そんなこと・・」「あります!僕はそんな奈保さんが好きだし、尊敬しています。一緒になれて幸せです!」「ちょっと、声が大きいって」

二人は手を繋ぎ、海辺を歩いてから奈保子の車まで戻った。奈保子とは鎌倉駅で別れた。


海辺の別荘に来たときは、完全に二人だけの時間となった。重ねた時間の中で、徹は奈保子がピアノを弾きながら歌う傍で、夕陽や月や星を見るのがこの上なく好きだった。テラスに腰かけ、好きなウイスキーを片手に、空や風景を眺めたり、風を感じる中、時折奈保子の歌う姿を見て、またそれに微笑み返す奈保子を見て、曲にそして奈保子の美しい声に聞き入る時間は、たとえありふれた風景を見ながらであっても幸せに満ちた思いを感じるのだった。

徹は奈保子に曲のリクエストはしなかった。どんな曲でも奈保子が傍で微笑みを浮かべ歌ってくれるだけで幸せだった。

奈保子はいつだったか、「私の曲で何が好き?」と徹に訊いた時があった。

「全部好きだよ」という返答に満足していない表情を浮かべた。

もちろん季節や気分によって、数ある曲の中でその時々でコレと思うものはあるが、でも徹にとっては、そうだったのだ。

徹の腕の中で黄昏を見ていた時、奈保子は同じ質問をした。徹は同じ返答をし、

その唇をそっと塞いだ。さざ波は途切れることなく続いていた。

二週間後の週末もタイル貼りの駐車場には、パジェロとアウディが並んで留められることになった。


春も過ぎ、互いの忙しさも落ち着いた。会わない日が一週間続くときもあったが、

徹と奈保子は特別変わりはなかった。新居は徹が様々な情報を集めた。戸建て、マンションと徹は拘りはなかったが、利便性とやはり防音のための措置は欠かせなく、特に防音が施せない物件は二人の考えから外れた。その中で大手不動産会社が売り出した横浜のみなとみらいランドマークタワーに隣接する物件に奈保子は興味を示した。

首都高速出口に近く、最寄り駅もすぐ傍のJR桜木町駅で、けやき通り沿いにある36階建てのマンションだった。

二人で内覧をすることになった。川瀬奈保子の新居になるかもと営業部長はもとより開発部長までも直々に出向いて様々説明を受けた。どの階も床は防音措置が施されているが、壁も含め更に強化することは可能とのことだった。物件は27階のメインのリビングが東南に面した部屋だった。東京湾を超えて太平洋その地平線まで見えた。2つ上のフロアーにも物件があった。南西に向いたリビングからは富士山が見え魅力的だったが価格も上がった。しかし西陽が強そうで、朝陽の方を二人は選択した。

その後、数回二人で担当者との説明等を受けた。

立地的にも価格もやはりそれなりだった。奈保子は、私が気に入った物件だから価格は気にしないでと徹に言った。担当者も契約者は芸能人の川瀬奈保子として話を進めているような雰囲気だった。確かに徹は医師ではあるが、まだ若くまた自衛官であるため当然契約及び支払いは奈保子がすると考えるのが普通であろう。

実際、説明を受けに来る時は、担当者も不動産会社の従業員も二人が乗るアウディを玄関先で迎えてくれるが、奈保子が徹に買い与えた車という認識だった。


いよいよ契約という時に「ご提示のこの億から下の1200万円を差し引いて頂けたら、一両日中に私の口座から一括でお振込み致しますが、いかがでしょうか?」

奈保子も耳を疑うようなことを徹は口にした。

担当者は、唖然としていた。「ちょっと、徹君!」奈保子も慌てた。

「ご検討いただけませんでしょうか」徹は話を進めた。担当者も慌てた様子で「奥様ではなく、いや失礼、ご主人様が契約されるという事ですか?」

「何かおかしいですか?」「あ、いえ、しかし結構な金額ですし・・」

「はい、存じ上げております」

「大変失礼ですが、ご主人様はお医者様でいらっしゃいますが、年収はやはり奥様の方が上まわっておりますし、こちらと致しましてもご契約は・・」万一二人が離婚した場合のローンの事を気にしているのか。

「私が一括でお支払いすると申しましたが?」再度一括払いということを伝えた。

「いや、しかし・・。すみません少々お待ちいただけますか?」と担当者は席を離れた。

「徹君、何言っているの?2億よ!一括は無理だけど、私が契約すれば済むことだから」「奈保さん、僕は月の王子ですよ」徹は微笑んだ。

奈保子は混乱した。まず徹は「オーラの泉」を観たのだと思った。確かに徹は裕福な家で育ち、今も数千万円もする車を所有し、都内にマンション、また海辺に別荘を持っている。自衛官であるが医師でもあったし、それなりの収入はあると、あまりお金に頓着しない奈保子だったので今までそこまで深く考えることはなかった。そういえば収録では江原、三輪はお金には困らない風な意味のことは言っていたことも頭を掠めた。しかし今回の事は金額の桁が違う上、それを一括で支払うと言う。

奈保子は頭の整理がつかなかった。「徹君、大丈夫、契約は私がするから、ね。そうしよう」徹が無理をしていると思った。

「名義は奈保さんでいいです。支払いは僕がします」奈保子は徹は自分の意見を曲げないと思った。

しばらくすると担当者が戻ってきた。

「佐伯様、先程は大変失礼いたしました。実は、本来はそのようなことはしないのですが、金額が金額だけに、こちらでも信用調査をさせて頂きました。失礼な対応を猛省しております。誠に申し訳ございませんでした。また上司に佐伯様のご提案を伝えたところ了承されました」

奈保子は驚いた。しばらく言葉が出なかった。


「徹君、こんなこと聞いてもいいかなって思うし、金額がすごいから少し怖くなって・・」「今回の支払いのこと?」

「うん、それもあるけど、徹君は良い車に乗って、都内にマンションがあって、海辺の別荘もあって・・。どうしてそんなにお金があるのかな?と。ご両親の遺産かなにかなの?」

「両親の遺産なんかなかったです。世田谷の土地があったけど、認知症になった母がもはや維持管理できないからと早々に兄名義になったし、母の2年間の施設入所費でも多くの金額を要したし、僕は何も相続しなかったです。生前、僕ら兄弟に施してくれたこと全てが遺産だと思っています」徹らしい返答だと思った。

「奈保さん、確かに僕の銀行口座にそれなりの金額があります。めぐり合わせと好意が重なって生まれた金額なんです。今僕は必要以上のものを持っているかもしれないけど、お金があることで自分の考えを変えることは違うと思って、今まで過ごしてきました。それはこれからも変わることはないですよ。欲しかったものは手に入れたけど、今後は僕らが必要な時に遣おうと思っています」

奈保子は今までの徹を見ていたから、財に溺れ自分を見失うような人間ではないと思った。

自衛官としても医師としてもまた人としてもしっかりとした意志を持っており、派手な散財もなく、なによりも誠実な人であると分かっていた。

徹とお金に関する話はしたことはなかったが、今まで徹からお金に関する奔放な印象を受けることもなかった。ただ漠然と結婚後も自身の蓄えも合わせ二人でそれなりの生活はできるのではないかとは思っていた。

「奈保さん、僕は女性から奢ってもらうことはないです。でも自分でできる範囲の事しかしません。これからもね」

「夫婦なのにそんなことを言うの?あとついでに私に対しての敬語はもうやめよう!」奈保子の不安は消えたようだった。

本人達も奈保子の両親、世間ももはや二人は夫婦という認識であったが、まだ籍は入れていなかった。遅くて結婚式前後、特別な日と考えれば、7月24日奈保子の誕生日でもと徹は考えていた。

数日後、二人はあの横浜ランドマークタワーに隣接する物件の契約を行った。

新居に二人して住むのは風が夏色を帯びてきだすゴールデンウイーク後となった。

「奈保さん、観覧車に乗ろうか」その後二人は中華街で遅めの飲茶を食べた。



《TWILIGHT DREAM》

冷えたシャンパンをグラスに注ぎ、洋ナシのケーキを半分食べた後、奈保子は再び曲創りをしていた。ピアノを前にメロディーが浮かぶと楽譜に書き綴り、続けて浮かんだメロディーに音階を合わせ繋ぎ、それをピアノでなぞり曲全体の雰囲気を頭の中で描いていた。スローバラード調でサビの部分は情熱を込めて歌うイメージが浮かんでいる。黄昏どきの海辺、季節の変わり目、告げられなかった想い 情景を思い浮かべるが何かが足りない。グラスのシャンパンを飲み干し、一旦この曲から離れた。

通常アルバムの曲は10曲位だが、書き溜めた曲の中からアルバムのコンセプトに合う曲を選定することもあり、時間がある時は奈保子は作曲をしていた。

もちろん移動中や休憩中等ふと頭にメロディーが浮かぶこともあり、それも含めると奈保子はずっと曲創りをしているとも云えた。

奈保子は海辺の別荘に一人で来ていた。三日前に徹から鍵を預かっており、仕事を終え昨日の夕方に到着した。リビングには夕陽が差し込んでおり、テーブルに飾られた一輪挿しのポピーのガラス花瓶がその光に照らされていた。それを重しに徹の置手紙が添えてあった。

奈保子へのメッセージの後、白ワインとシャンパンのハーフボトル、魚の干物、

果物、デザート、お菓子が冷蔵庫に入っていると書いてあった。

昨晩か今朝か徹がここに持って来てくれたのだろう そう思った。

奈保子は冷蔵庫からデザートの箱を取り出し、開けた。徹のメッセージがそこにもあった。 いちごタルトはお・す・き? 「ばか」奈保子は心で呟いた。

ここで何度かふたりで過ごしており、保存が利く食材や飲み物、料理に関するものはある程度揃えてあり、自身も途中で買い物をしてきてはいた。

昨晩は、自分で作って持参した三色おにぎりと即席でサラダを作り、それで済ました。

奈保子は、風呂にお湯を溜めながら、朝食の準備をした。今日から二日間のオフだった。朝焼けの空が紫と淡いピンクに染まっており、芝生越しに見える海はその色に輝いていた。ガラス扉を開けたテラスからは心地よい朝の海風が入った。

奈保子もこの海辺の別荘が気に入っていた。

平日だったので徹は仕事だった。また今回のオフは曲創りに充てるため、徹は来るのを遠慮するとのことだった。

ゆっくりと朝風呂に入り、朝食を摂り、ライオネル・リッチーのアルバムを聴きながら、徹とお揃いのアルミのマグに入れたコーヒーと小さなキーボード、五線譜を手元に置き、テラスのウッドチェアーに座り、しばらく海を眺めた。

昨晩一旦離れた曲の構想を頭で描いたが、メロディーは浮かばなかった。

奈保子は、また新しい曲の創作に移った。

平日ということもあり、さざ波の音、鳥の鳴き声以外の音は耳に入って来ず、創作に没頭することができ、午前中だけで2曲が創れ、そのうちの1曲はコードも付けることできた。初日にしては上出来だった。


夕方近くなった時、庭先に訪問者がいた。比較的若い女性だった。奈保子は自分と同じくらいの年齢では?と思った。

女性は手に野菜を入れたビニール袋を持っていた。

「あ、川瀬奈保子さんですよね!」「はい」「あ、すみません。てっきり佐伯さんが来られているかと思ったもので」

「彼は今、仕事中です」「そうですよね」「何か?」

「あ、私が作った野菜があったので持ってきたところでした」「そうですか」

「これ全部無農薬です。葉っぱの所を少し虫が食べた跡がありますが、実の方はどれも大丈夫です。ご迷惑でなければ」

「無農薬なんですか?」「はい、母が耕していた小さな畑を今私が暇つぶしで受け継いでいるのですが、作り方も無農薬で育てていた母の教えを受け継いでるので」

「野菜の良い匂いがします。頂いて良いんですか?」「こんなもので良かったら」

「ありがとうございます!嬉しい!」「佐伯さんも同じように喜んでくださいました」

「あ、良かったら一緒にお茶しませんか?丁度準備していたところなので」

「え!良いんですか!あの川瀬奈保子さんと一緒にお茶ができるなんて光栄です!」

二人はテラスで徹の差し入れのデザートと紅茶を飲んでいた。昨日の洋ナシのケーキの残りは、朝食の後に食べていた。徹はいつも多めにデザート等を買うので,彼女にはその中から好きなケーキを選んでもらった。

「徹君、いや徹さんとはご近所付き合いが長いのですか?」

「いえ、佐伯さんが2年位前にここに来られた時に私の家にご挨拶に来られて、それ以来です。尤も私自身佐伯さんと会ってお話をしたのは数えるくらいです」

「そうなんですね」「その時に東京の、テレビでも紹介されたことがあったお菓子を持ってきていただいて。母は私にお礼に野菜を持っていきなさいと。その時に初めて佐伯さんとお話をしました。それからここの前の砂浜にいる佐伯さんの横顔や背中を見たことはありましたが、恐らく直接話をしたのは玄関先と目の前の砂浜での二、三回、そんな程度です」「そうなんですね」

「あ、お二人で砂浜を歩いているのをお見かけしたことがありますよ」一旦女性は下を向いた。

「私、佐伯さんと奈保子さんのプロポーズを観ました。あの佐伯さんがあの川瀬奈保子さんにって本当にびっくりしました。でも都会的な感じの佐伯さんと綺麗でかわいい川瀬奈保子さんはお似合いだと思いました。テレビでもそう思いましたし、お二人でこの砂浜を歩いている姿を見て、素敵なカップルだなって思いました」「いえ」「あ、おめでとうございます!」奈保子はその女性の笑顔に寂しさのようなものを感じた。

「今日は佐伯さんはこちらに寄られるのですか?」「いえ」

「そうですか・・。佐伯さんといつかお話しした時も今日みたいに心地が良い風が吹いていました」女性は目の前の砂浜を見つめ、独り言のように言った。

まるでそこに徹が居るかのような感じであった。それからしばらく他愛もない話をし、女性は帰宅した。

入り江沿いの道を歩く夕暮れに照らされた後ろ姿、時折海を見つめる横顔は、やはり寂しそうな印象を受けた。

徹を想っているのではないかと奈保子は思った。

この落ち着いた場所では、徹君は都会の雰囲気を纏っていたように見えたのだろう そんな徹君に憧れを抱いた

あの女性は徹君をずっと見つめている  横顔も背中も そして砂浜に佇む幻も

あの女性は徹君に魅かれている あの目は 

同じ女である奈保子はそれがわかった。


奈保子は黄昏どきの海辺、季節または恋の終わり、告げられなかった想い、憧れている男性を想う女性 昨晩一旦離れた曲のイメージができた気がした。

奈保子はこの二日間、海辺の別荘で4曲を創り上げた。一旦離れた曲も完成させた。



《7月24日 Harbour Light Memories》

徹の元には飲み会の誘いが多く来るようになった。プロポーズ映像が流れ川瀬奈保子と婚約してからは、大学の同期、先輩、後輩は基より、地元の古くからの友人、高校時代の友人等様々な所から声がかかった。

都合が付く時は行くこともあったが、その殆どは予定が合わず断らざるを得なかった。

そんな中、高校の担任教師を交えての同窓会を7月24日に催すのでと参加を促す内容のハガキが届いた。

参加を促すハガキには、担任教師は身体の都合上、今回の参加が最後になる可能性もあるためと記してある。

高校3年時の担任だった。高校卒業と同時に先生も退職をされたのだった。年齢はさほど高い訳ではない。

がんだろうか。この先生に特別な思いというエピソードはなかった。ただその当時に友人との関りで先生から言われたことがあった。

高校時代、徹はサッカー部に所属しており、友人の浦岡祐一はバスケットボール部のエースだった。二人は高校2年と3年で同じクラスだった。学校中の女子の人気も二分していた。二人の学業の成績は常に学年のトップクラスだったが、浦岡は徹に高校を通して学業で勝つことはできなかった。試験の結果が出るたびに、浦岡は徹に異常なライバル心を燃やし、「今回は風邪で失敗したが、次はお前を負かす」

「今回は塾の模試対策で時間が取れなかったが、次はお前に勝つ」等毎回のように言っていた。何故こんなにも対抗心を燃やすのか、考えられるとしたら一つしかなかった。徹が付き合った彼女を浦岡も好きだったことか。そんな噂を聞いたことがあった。いずれにしろ徹はあまり気に留めることはなかった。

浦岡は3年の最後の大会の直前、練習中に右足のヒザ靭帯断裂の重傷を負ってしまった。

失意に陥った姿は容易に想像できた。浦岡は学校に来なくなったのだった。

入院はしていないという。一月位経過しただろうか。徹も気にはなっていた。

そんな時に担任に呼ばれ、浦岡の様子を見に行ってくれないか、お前でないとダメだと言われた。

徹は放課後、浦岡の家に電話した。母親が出た。名前を告げると「あ、佐伯君?」

自分を知っているようだった。

「いつも息子が、佐伯になんか負けない と言うからお名前を知っていたんです」

これから彼に会って話がしたい旨を伝えると、是非来てほしいということだった。

またもう歩行もなんとか大丈夫とのことだった。

最寄り駅からの道順を聞いて電話を切った。

大きな家だった。呼び鈴を押すと、玄関から先程話をした浦岡の母が顔を出した。

家にいるのに色の濃いサングラスを掛けている。徹は殴られた痣だとわかった。

2階の浦岡の部屋の前に立った。

「おい!浦岡、佐伯だよ。開けろよ」「あー!佐伯?何しに来たんだよ!ふざけんなよ、家に来てんじゃねぇよ。帰れよ!」

「お前、いつまでいじけてんだ?おまけに母親に暴力か?」「・・・・」

「最後の大会に賭けていた気持ちもわかるけど、もう切り替えろよ。親に当たってどうすんだよ」

「バスケはもういいんだよ」「? じゃあ、なんで学校に来ないんだよ?」

「うるせー。お前がいるから俺の立ち位置がいつも狂うんだよ!お前がいつも邪魔するんだよ!」

「何の話だ?お前のケガとどう関係があるんだよ」

「お前は、平然と良い成績を取り、皆からチヤホヤされて、目障りなんだよ。どんなに俺が一生懸命やってもどうせお前には勝てねぇーよ。自信があったものが全てなくなっちまったんだよ。もう何もかもイヤになったんだよ。笑えよ。哀れだろ?好きなだけ嘲笑しろよ!」

「なあ、お互いそれぞれでいいだろう?それと簡単に大事なものを投げ出すなよ」

「でた、いつもの言い方だよ。冷静な振りして、腹の中じゃ人を見下してんだろ!」

「いつまでそんなこと言うつもりだ?お前も男だろ!自分で立ち上がれ!」

ほんの数分だった。ドア越しの話はそれで終わった。

一学期の期末テスト前日に浦岡は登校して来た。徹は浦岡が来たことはわかったが、自分から目を合わすことはしなかった。期末テストが終わった午後とその次の日は続いて全国模試だった。結局この数日間、二人は言葉を交わすことも、目を合わせることもなかった。

徹は校舎前の花壇の淵に腰かけ、先程受けた模試の自己採点をしていた。用紙を見る視界に誰かの足が入った。

「どうだった? あ、いや、もう聞かないことにしたんだった」浦岡だった。

「自己採点中だよ」

「佐伯、お前は大学はどこ狙っているんだ?」「医者になりたいと思っている」

「そうか、俺もだよ」「お前の実家は医者だったよな」

「お互いそれぞれ頑張ろうな」「ああ」

「あと、ありがとうな。お前の言葉で、目が覚めたよ。母親にも土下座して謝ったよ。 ・・行く時間はないだろうけど7月24日、川瀬奈保子のバースデーコンサートのチケットだよ。お前、好きなんだろ?」徹は爆笑した。

「バカか、お前。マジ行く時間なんてねぇーよ」

浦岡は少し困惑した表情を浮かべた。

「でもありがとうな」徹は浦岡なりの礼(?)を受け取った。

浦岡は一浪して、関東近郊の国立大学の医学部に入学した。大学時代に数回会ったことがあった。最近聞いた話では大学病院に籍を置き、ボストン大学に留学に

行ったということだった。

7月24日の同窓会は参加できなかった。奈保子との予定を考えていたためだった。

担任の先生には、かもめーるで体調への気遣いと共に不参加を詫びた。


「徹君、ピアノの音どう?」

「すごいよ、全然聞こえないよ。今度は奈保さんが確かめて」徹は奈保子と入れ替わり、新居の防音室に入った。

徹は腹に力を込めて叫んだ。「奈保さんが好きだー!」とその瞬間奈保子が扉を開けた。

「ちょっと、何言ってるの!リビングの窓全開にしてるのよ!」

「え、なんで扉を開けるの?防音効果を検証するんでしょ?」

「ピアノには触らないでと言うつもりだったのよ」

「横浜の街に、僕の愛の雄叫びが轟いたわけだ」

「何言ってるのよ。上の階や隣の部屋の人に聞かれたら、恥ずかしいでしょ」

「僕は既に全国放送されているから、今更感はあるんだけど」徹は笑った。

一週間前にこのマンションに引っ越し、少しずつ生活の準備が整ってきた今日、

ピアノの搬入の後調律が先程終わったところだった。小さめのピアノはリビングに

据えてあるので徹の楽しみは確保されていた。

新居で迎えた二回目の日曜日は、奈保子は完全オフだった。

「奈保さん、昼は僕が作るから、ピアノを弾いていていいよ」

「うん、ありがとう。夜は私が作るね」

徹は早速、料理に取り掛かった。この一週間、徹は何回か料理を作った。奈保子を

迎えに行った日は2日あったが外食をしたのは1回だけであった。

「奈保さん、結婚式はどうする?」少し遅めの昼食を食べながら尋ねた。

「うん、事務所の人とも話をしたんだけど、年末はこのままでいくとスケジュール的に忙しくなるだろうと言われているの。徹君との婚約が切っ掛けで色々仕事の依頼が増えているって。だから11月か、遅くて来年のはじめかも」

「そうか」「徹君は、早い方がいいの?」「いや、もうこうして二人で一緒に過ごしているし、結婚式は奈保さんの都合で全く構わないと思っているよ」

「うん。なんかごめんね。今晩また実家にも電話してみるね」

二人は既に結納を済ませていた。奈保子の両親も既に二人の同居を認めていたのだった。

午後は奈保子は新しいピアノで作曲作業に、徹は街に出た。


徹は、どこにどんな店があるのか街を散策していた。時に「佐伯さんですか?」と見知らぬ人から声を掛けられることもあった。その時もまたいつものことかと曖昧な会釈で過ごそうと思ったとき、男が「私はこういう者です」と名刺を差し出してきた。休日であったが、黒っぽいスーツに茶系のネクタイをし、仕事中と思わせる格好だった。目が行くような太い黒縁眼鏡を掛け、髪はきっちり分け、やや地味目で年は40歳ぐらいか。

名刺は受け取らず、手で制して、断りを入れてまた歩き出した。

過日、奈保子が拉致されたことがあった。この拉致事件はごく一部の者しか知られておらず、世間には公表されなかった。その過程でしばらく自分が監視されていたことがあったので、徹は常にある程度警戒心は持っていた。また尾行に関する書籍も2冊、目を通していた。

そんな中、今の男は、なぜか関りを避けたい気分になったのだった。

ふとその書籍に書かれていたことを思い出した。

徹はある店先で足を止めた。中を見る様子でガラスに写った景色を見た。またしばらく歩き、違う店で同じ行動をした。3回目で気づいた。

同じ人物がいた。しかし全く確証はない。たまたま向かう方向が一緒という事もある。徹は人が多く集まるモールに入った。

せっかくなので奈保子と食べるケーキを購入することにした。

幾つかの店を通り過ぎ、ケース奥の壁が一面ガラス張りだった店に入った。何気なく鏡を見た。

いる! 柱に背をつけ横を向いているが同じ男だった。

一瞬動揺が走った。また奈保子が被害にあってはならない。絶対あってはならない。それを食い止めるのが自分の使命とも感じた。しかしまだ確証はなかった。

次に徹はコーヒー豆を買うためにまたモールの中を移動した。

後ろは振り向かず、コーヒーショップで豆を購入し、入った時と違う出口に向かい、前が開いていたので走った。出口横のトイレに入り、すぐに踵を返し、出た。

同じ男が走ってきた。一瞬、男と目が合い、徹は睨んだが、その男はすぐ目を逸らしトイレに入って行った。その後ろ姿を徹はずっと追った。

実はもう一人気になる人物がいた。トイレに入った男と一定の距離を置いてもう一人ガラスに写っていた人物がいた。しかし見渡したがその人物はいなかった。

徹は念のため十分歩いて帰れる距離であったが、タクシーに乗り遠回りをして帰宅した。疑心暗鬼、独り相撲かとも思ったが、奈保子を守る行動だと自分で納得した。


奈保子は仕事の帰り、買い物をしていた。今晩の食事と明日の朝食の食材をスーパーで選んでいた。今日はまだ夕方も早い時間だったので、煮物を考えていた。

徹は奈保子の作る煮物が好きだった。必要な食材を手にした時、ふと見ると見慣れた制服姿の徹がいた。一瞬声を掛けようとしたがやめた。

徹は女性と話をしていた。

女性は俯き、泣いているようだった。何をしているの? 二人の姿を目で追った。

徹は女性とレジに並んだ。二人は黙ったままだった。見ていると徹が清算を済ませて自分のカゴから幾つかの商品を袋に入れて女性に渡した。

女性は、徹に頭を下げていた。

徹は女性に何か一言掛け、女性は何度も頭を下げ、その場を立ち去った。

徹が店に目を向けたその時、奈保子と目がった。

徹は笑顔で奈保子に歩み寄った。

地元のスーパーということもあるが、徹と奈保子は随所で出会ったり一緒になることがあった。

少し前のこと、徹が呉の基地への出張の帰り、自衛隊の車両で広島駅に向かう途中、信号待ちで停まった時、何気なく見ると横のタクシーから手を振る人がいた。

広島で仕事があった奈保子だった。お互い広島に来ていることは知っていたが、

帰り時間はそれぞれで、徹自身も呉駅から自身だけでの帰京を考えていたところ

たまたま広島に行く車両があったので便乗させてもらったという次第だった。

広島駅で落ち合い、奇遇を笑い合い、奈保子とマネジャーと三人で新幹線で帰ったということがあった。

ふたりの出会い、再会もそうだが、小さな偶然が度々あり、時々このように 何故か出会うね と言い、笑うということがあった。

「奈保さんと一緒の時間だったね」徹は一緒に帰ることができる、守ることができると心の中で偶然の出会いに感謝した。

「徹君はどうしてここにいるの?」「僕も今日は早かったから、夕食を作ってみようかと思って」

「一緒にいた女性は?」「ああ、商品をカバンに入れるのを偶然見てしまって。事情を聞いたらシングルマザーで仕事が入ってこず、お金もなく、子供に食べさせたかったというので、ちょっとね」「そうだったの・・」

「まあ色んな境遇の人がいるんだよね」

「ところで徹君は買い物は済んだの?」「いや、何も買ってないよ」

「徹君、今晩は私が作る。何が食べたい?」

「奈保さんが作る煮物」

奈保子は笑って、徹の腕を取った。


数日後、奈保子が夕食の準備をしながら、帰宅した徹に「仕事関係の人から、汐溜に今度新しいホテルができるのだけど、私たちの結婚式はそこでしたらどうかと言われたの?」と声を掛けた。 「そうなんだ。なんてホテル?」

「グランドコーストリゾート汐留だって」

「グランドコーストリゾートって聞いたことはあるな」

「私も良く知らないけど、なんか世界に幾つかあるみたいよ。私が好きなオーストラリアにもあるって言ってた」

「もうオープンしているの?」

「まだみたいだけど、近々オープンするから私達が結婚式を挙げたら、むこうはすごく宣伝になるって、その仕事関係の人が言っていたよ。」

「実は、僕の姉がそんな感じの結婚式を挙げたんだ。お相手の方のお父様がインターコンチネンタルの会長さんで、新しくオープンした芝浦方面のホテルの杮落とし的にやったんだよ。お相手の方は、皇族にゆかりのある方だったから天皇家のおひとりが乾杯の音頭を取ってくれて、他の皇族の方や色んな有名人や政治家も参列されて、

うちの家柄とはかけ離れた世界の結婚式だったよ」

「すごいね! 徹君、まだ私に話していないことが色々あるんじゃないの?隠し事はダメって言ったでしょ!」「え、ないよ!」「うそ!」

「このマンションの購入費のこと?」「あ!それも少し気になっていたの。でも言いたくなかったらいいよ」

「いや、奈保さん。僕らはこれから生涯共にするから、いつかはとずっと思っていたんだ。良い機会だから話すよ」「え!」

「僕の母の叔母からのものなんだ。ちょっと長くなるけど聞いてくれる?」「うん」

「僕の母方の先祖は西国のとある殿様だったんだ。江戸時代に九州地方は長崎が南蛮貿易の出先として公に幕府に認められていたけど、琉球、薩摩、福岡、他の藩も実は幕府に内密で外国との交易を行って、藩政を賄っていたんだ。その中で密かに富を築いてきた藩もあり、うちの先祖もそのひとつだったんだ。

明治に移行して諸大名は廃藩置県で華族となり、うちの先祖も東京に移り住んだのだけど、地元で事業を起こし、また富を築いたんだ。先祖が南蛮貿易で築いて受け継がれた分と事業の成功の分で驚くほどの富を得たんだ。母の叔母はその直系で、

僕の祖父は分家だったけど、そこまではその恩恵にあずかっていたんだ。

母の叔母にとっては晩年、僕が自衛官になるとき、正確に言うと防衛医大に入学が決まった時に、母方の先祖のお墓参りに行ったとき偶然墓前で会ったんだ。

数日間叔母の所にお世話になったんだ。母の叔母は子供が一人、息子がいたんだけど、21歳で亡くなって、母の叔父も他界していて独りだったんだ。

その時に先祖の事を教えてもらったんだよ。後日僕宛の荷物が4つ届いたんだ。

手紙が添えてあり、あなたが自由に使いなさい、いざ必要な時は惜しまないこと、

最後に日本を良くしてと書いてあったんだ。僕が自衛官になるからそう記したのかな・・。すぐ連絡しただけど、不通で。その時は病院で死期を迎えていたとあとで聞いたよ。それが口座の金額の原資だったんだ」

「そうだったの。何かを徹君に託したのかな?なぜ自衛官になるのとか聞かれなかった?」「話した気がする。今も変わらないけど、日本を良くしたいと話したよ」

「まあそれもあるだろうけど、でもやっぱり徹君の人柄を見込んだのだと思う」

「どうなんだろうか?」

「でも箱の中の驚く金額を銀行に入れるのが大変でね。証券会社の友人に手伝ってもらったんだよ。 アレ?なんの話をしてたんだっけ?」

「あ、ホテル、結婚式場」「そうだった。僕も情報を仕入れてみるよ」

「明日またその人に仕事で会うから、私も詳しく聞いてみるね」


「グランドコーストホテル?確か国内では北海道にあったな。そこは割と良いホテルだって雑誌かなんかで見たことがあるなぁ」

「今度、都内の汐留にできるんですって」

「そうなの? あ、奈保子ちゃん、そこであのイケメン旦那と結婚式するつもりなの?」

「いえ、まだ全く決めていなくて、つい先日、西島公一さんにそのホテルのこと聞いたので、何かご存じではないかなと思って」

「いや、知らないな。パンフレットかなんか取り寄せたら。電話すれば、飛んで持って来てくれるんじゃない?」

「そうですね。聞いてみます」「お幸せに!」知り合いの番組ディレクターの田辺は歩いて行った。

「ニセコのグランドコーストに行ったことあるわよ。去年の10月だったけど、寒かったよー。ホテルは良かったけど、従業員の一部はきっとだけど中国人よ。

今度できる汐留のは違うとは思うけど」スタイリストの梅田は言った。

「奈保子さん、事務所に都内の有名ホテルから、いっぱいパンフレットがきています。この前もブライダル担当の方が事務所に来ましたよ」マネジャーは言った。


「奈保子ちゃん、あのホテルの人、紹介しようか?絶対良くしてくれるから」西島は言った。

「はい。でも事務所の方にも色々なホテル、式場からうちでどうかという問い合わせも多いみたいで、正直どうしようかと更に悩んでいます」

「でもさ、向こうとしては今、世間で最も有名な二人が新規オープンの自分の所で式を挙げてくれるのなら、お金を払ってもいいとまで思っていると思うよ。

まずは奈保子ちゃんに紹介するから、それから色々考えたらいいんじゃない?」

「あ、はい」「よし!早速、連絡するからさ」


「徹君、このあいだ話をした仕事の人、つい最近まで一緒にドラマで共演していた

俳優の西島公一さんなんだけど、グランドコーストリゾートの担当者を紹介するって言うの。どう思う?」

「えー、あの俳優さんか。僕もグランドコーストリゾートについて調べたよ。正直、あまり良い印象はないんだよね」 「どうして?」

「うーん。ちょっとね。あそこは中国資本のホテルなんだ。今、北海道にあるけど、日本人の仲介を挟んであの辺りの土地をかなり買い占めて、地元民にはあまり評判が芳しくないというし、購入した土地で何かしようとしている感じがするんだよね。

中国の農地は正直土壌汚染がひどくて、安全な農作物ができるか本国の人さえ疑問視しているんだよ。だから日本の土地を買い占めて、例えば、向こうの富裕層向けに日本の農場や牧場で採取されたものを本国に送る、またそこの従業員は全員中国人となったり、そういう展開、構想をもっているんじゃないかと思うんだ。東京のホテルはそれとは関係ないかもしれないけど、イメージ戦略の片棒を担ぐような感じがして、ちょっとなって思うところだよ」

「なんか難しいね。どうしようか?」「いつグランドコーストの人と会うの?」

「具体的には聞いていないの」

「紹介してくれる西島公一さんには、二人でその方と会うと言ってみてくれないかな」「わかった」


「え、二人で会ってくれるの?そりゃ良かった。いいよ、いいよ。僕もさ、この話が進んでくれたら嬉しいのよ」

「西島さんは、そのホテルの方と親しいのですか?」「え!ああ、まあ知り合いでね」

「主人の都合もあり、お知り合いの担当の方に、週末の夕方以降でお願いできないか伺っていただけませんでしょうか?」


6月のはじめの週末、徹と奈保子は汐留近くのグランドコーストリゾートの事務所に来ていた。

「色々ご丁寧に説明頂きまして、誠にありがとうございました。事前にお伝えした通り、様々な所から話がきており、現段階では何も決ったことはなく、今回の件はあくまでも今後の参考にさせて頂きたいと思います」

「どうか宜しくご検討の程、お願い申し上げます」


「すごく丁寧な方だったね。プランもオプションも色々あって、決める方が大変と思った」

「そうだね。はっきり断りを入れた方が良かったかもと思うけど、確かに参考にはなったね。また連絡が来たときは僕が対応するように、担当者には僕の携帯番号を教えたから、その時に断るよ」

「また考えないとね」「なんか、ごめんね」

「ううん、大丈夫。色々オファーも来ているし」

「ところで奈保さん、ちょっと先だけど誕生日、7月24日は、仕事が入っている?」「ううん、今年は入れていないの」

「そうなんだ。金曜日で僕は夕方まで仕事があるけど、翌日は休みなんだ。24日の夜はお祝をしようと思っているよ。奈保さんが良かったらご両親も一緒にどうかなと思っているんだ」「え、うちの両親と?」

「本当は、親子水入らずということも考えたけど、僕も奈保さんの独身最後の誕生日に同席させてください」

「大袈裟よ。でもありがとう。電話して、聞いてみる」

徹は、約二か月先の奈保子の誕生日の内容について、漠然とだが考えた。


「え、奈保子ちゃん、断るつもりなの?どういう事よ!」

「あ、いえ、二人で考えて他のホテルのプランも見てみようと・・」

「なに、僕の顔を潰すつもり?」

「いえ、そんなつもりではないです。すみません!」

「なんか奈保子ちゃん、浮かれて調子に乗ってんじゃないの?」

「いえ、すみません」西島は歩き去って行った。

奈保子は仕方がないと思ったが、折角気分よく共演した相手を怒らせてしまったことで心はかなり沈んでしまった。


「そうだったんだ。なんかごめんね。」

「グランドコーストリゾートにしたら、具体的に徹君は何かまずいことでもあるの?」

「直接的なことはあまりないと思うけど、自衛官としては、繋がりや関連を持ちたくないんだ」

「わからない。式のことは私に合わせてくれるようなことを言っていたのに。西島さんも怒っているし、はっきりした理由がなければ、進めていても良かったんじゃない?」「ごめん」 奈保子は口には出さなかったが、2日ばかり機嫌が良いとはいえなかった。


3日後、突然奈保子の元にマネジャーから連絡があった。

「奈保子さん、今度のドラマ、ポシャっちゃったよ」

「え!どうして?再来週からそろそろ台本読みがはじまろうかとしていたでしょ?」

「それが理由がよくわかんないんだよ。監督がキャストを代えたから、もう代役を立てている。奈保子さんだけではないから と言うだけではっきりした理由を言わないんだよ」「え、私以外にも代役が立てられた人がいるの?」

「奈保子さん、口実だよ。もう一人降板させられたのは、脇役の脇役、新人の俳優だよ。奈保子さんとは格が違うよ」奈保子はショックだった。自分なりに女優としてもしっかりした仕事を心掛け、役の準備やセリフにも心を配って臨んできただけに、

理由がはっきりしなく、自分の落ち度を見出せないことと自分の仕事が簡単に降板させられるぐらいしか評価されなかったことに同時に強く不安も覚えた。

「え、その後の時代劇の方は?」

「ああ、あれは北大路さん直々のオファーだから大丈夫だよ」

「よかった けど・・」

「まあ、なんか大人の事情があったんでしょう。奈保子さん、あまり気にしないで。たまにあることだから」

奈保子は一日中今回の降板について考えていた。自分ではどうもならない、それこそ大人の事情というのであれば良いのだが、しかし不安は拭い切れなかった。

また西島を怒らせたことも気になっていた。確かにグランドコーストリゾートにするとは一言も言ってはいなかったが、予想外に怒ったのは事実だった。

「奈保さん、大丈夫?なんか考え事?」「別に。何でもないよ」奈保子は平静を装ったが自分が少し不安定な感じになっていることは自覚していた。


徹は横浜の街を歩いていた。山下町まで足を延ばし、公園沿いを歩きながらマリンタワーを横目に右に折れ、中華街に入った。

ここ数日、奈保子は少し元気がなかった。徹は仕事のことではと予想はしていたが、原因は奈保子が口に出さない分、はっきりとはわからなかった。

ただ少しでも気分が晴れるよう中華街で美味しいものを購入し食べてもらおうと思ったのだった。

休日もあり、かなりの人出だった。行き交う人と肩が触れ合わんばかりで、ゆっくりとしか歩けない状況だった。

何気なく、ビルとビルの間に目を向けた。数人の男が歩いて通りに出てきた。中国語を話すのが聞こえた。徹は、その中の一人の男に目が留まった。

いつかみなとみらいで自分を尾行した男だった。男達は徹のすぐ前を通り過ぎて行った。あの男は徹には気付いていなかった。

ふとその中の男の一人の腰から何かが落ちるのが目に入った。財布のように見えた。その男はそのまま人を掻き分け歩いて行った。

徹が財布を拾おうとした時、大学生風の男が先にそれを拾った。男は直ぐに自分の脇に挟み、落とし主とは違う方向に歩き出した。

男は近くのビルに入り、辺りを見渡し、その財布から現金だけを抜こうとした。

「それは君の財布ではないよね」男は突然の徹の声に驚いた。

「いえ、俺の財布です」「じゃ、何で現金だけ抜いているの?しかも相当な金額だよね」男は返答に窮した様子だった。

「その財布を落としたのはあまり柄の良くない中国人だよ。ネコババから厄介なことになるかもしれないよ」

「もしかして、あなたは川瀬奈保子の旦那?」まだ籍は入れていなかったが、世間ではそう思われているのは徹も知っていた。「そうだよ」

男も予想以上の現金に少しためらいを感じているようだった。

「財布の持ち主を知っているんですか?」「一緒にいたその仲間の一人は知っている」

「あなたが横取りをしてネコババをするんじゃないだろうな?」

「結婚前にそんなセコいスキャンダルは起こしたくないね。おまけに中国マフィアみたいな連中とも揉めたくないな」

「わかったよ。ちょっとヤバい金じゃないかと一瞬思ったんだ。俺の兄貴が川瀬奈保子の大ファンだったんだ。あんたに託すよ」

「ありがとう」徹は財布を受け取った。「ちょっと一緒に写メ撮ってくれない?」

徹は応じた。

徹は元の場所に戻った。辺りを見渡すと知っている男がいた。男を追いかけた。

人を掻き分け、見失わないよう注意を払った。

男はビルの扉の前にいた。商業ビルではなく、エントランスがない正面に扉が一つしかない細長いビルだった。徹はその男に近づき声を掛けた。

「你好。这是你的朋友的钱包吗?(これはあなたの友人の財布ではないですか?)」

徹は北京語で話しかけた。

男は振り向いて、驚きの表情を浮かべた。知っている男、自分が尾行し、失敗して顔を晒してしまった相手の男が、探していた兄貴分の財布を持っていたのだ。

「おい、財布はあったのか?」扉から出てきた別の男が言った。知っている男が

「この男が持っている!」「誰だ?こいつは」

「我知道他」徹は同じく中国語で私は彼を知っていると告げた。「誰だ?」

「誰でもいい。あんたの知り合いが財布を落としたんだ」

「ちょっと入れ!」「いや、時間がない」「いいから入れ!」徹は仕方なく、扉から入った。数人の男が中にいた。

「誰だ?こいつは」財布を落とした男が言った。

「趙の知り合いだそうです。兄貴の財布を持って来ています」「渡せ!」徹は男に財布を渡した。

男は中身を確かめた。「この財布をどうした?」徹は経緯を掻い摘んで話した。

財布を落とした男と数人の男が笑った。

「何故、わざわざ持ってきた?」「落とした者が困るからだ」男たちがまた笑った。

「お前は日本人だな。なぜ中国語を話す?」趙の兄貴分は目の前の男が以前自分達が請け負った仕事の相手だということをしばらく後で思い出した。

「子供の頃の友達が北京語を話していたんだ」「趙、良い友達だな」兄貴分の男が尾行(失敗)男に言った。「何か欲しいものがあるか?」

「何もいらない。ただ小籠包が美味い店を教えてほしい」男たちはまた笑った。

ビルから出る時に尾行(失敗)男が徹に礼を述べた。徹は教えられた店で小籠包を買い、ついでに教えてもらった男たちが絶品だというゴマだんごも買った。


「奈保さん、中華街で小籠包とゴマだんごを買ってきたよ」「ありがとう。でも今は食べる気がしないの」「大丈夫?テーブルの上に置いておくから」


数日が過ぎ、奈保子も少しずつ元の奈保子に戻りつつあった。「ごめんね。徹君、最近少し気になることがあって色々考えていたの」

「仕事の事?」「うん。まずグランドコーストリゾートのことで、西島さんが怒っちゃったの。それと決まっていたドラマも突然降板になって。ドラマの方も一生懸命やってきたつもりだったけど、簡単に否定された感じがして。理由がわかれば、納得することもあるけど・・」

「奈保さんのいる世界のことはわからないけど、奈保さんは何でも一生懸命やって結果を残してきているのは僕だけでなく世間もよく知っているよ。次も時代劇に出演するでしょ。評価されてなかったら仕事の依頼もないはず。音楽の才能も多くの人が評価している。西島さんがそんなに怒ったのは正直どうかと思うけど、奈保さんは、もっと自信を持っていいよ」「ありがとう、徹君」徹は奈保子を抱きしめた。

奈保子の香り、温もりを感じるのは久しぶりのような気がした。

奈保子はシャワーを終え、リビングの窓から外を眺めた。徹は後ろから腕を回し奈保子をそっと抱いた。顔を向けた奈保子に口づけた。

奈保子は正面に向き直り、その続きをした。「もう一度、髪をほどいてあげる」


奈保子は次の仕事、北大路欣也主演の時代劇の準備に入った。北大路との共演は2回目だった。決まっていたドラマが急遽降板になってしまったが、その間もテレビ出演が毎日のように入っており、またこの時代劇の後にもドラマの仕事が入り、落ち込んでいた気分も少しは失せたようだった。

奈保子の誕生日の予定も決まりつつあった。奈保子の実家で、奈保子の妹夫婦も交えて行う事になっっていた。徹は奈保子との結納の時に妹夫婦と対面していた。


徹は中華街に来ていた。今日も小籠包とゴマだんごを買いに来た。3度目だった。

知っている男がいた。尾行(失敗)男だった。「你好」徹は北京語で話し掛けた。

「我的朋友吗」「また来たのか?」「ああ、ここの小籠包は最高だよ」

「兄貴もお前が気に入ってくれて嬉しがっているよ」「趙さん?だっけ。名前は」「そうだよ」先日男の仲間がそう呼んでいたのを覚えていた。

「俺はあんたを知っているぞ。川瀬奈保子の旦那だろう」

「はじめから知っていただろう」「ああ。日本でもそうだが、中国でも川瀬奈保子は有名だよ。プロポーズのシーンもテレビで観ていたしな。テレビと一緒であんたは

きれいな男だよ。北京語が喋れるとは知らなかったけどな」

「なぜ俺を尾行したんだ?」徹は横浜のモール街で目の前の男に尾行された。

徹はガラスや鏡の写りを見てそれを見破り、この男が誘い出され顔を晒したのだった。

「ああ、あれは失敗したな。よくわかったな。俺は尾行には自信があったんだけどな」徹は思わず苦笑した。

「俺は何かやったか?」

「いや、あれは東京の仲間に頼まれたんだ。今度、東京の汐留に新しいホテルができるのだが、そこであんた達が結婚式を挙げてもらうよう段取りをつけるような仕事だったな。あんた達がこの横浜に住んでいるからと俺のボスに協力の依頼があったんだ。脅しをかけるとかではなく、ちゃんと話をする手はずだったよ。実際、何も危害を加えてないだろう?」「それで、趙さんは何で俺を尾行したんだ?」

「あんたは名刺を受け取らなかった。その後のお前を見失わないためだよ」

「え、それだけ?」徹は拍子抜けした気分であった。何かしらでも奈保子に危害が及ばないようにしないとと考えていたからだ。

「まだ結婚式場は決めてはいないから、お前の尾行は続くのか?」

「いいや。今回の仕事はもう終わったよ」

「俺達のことは諦めたのか?」

「そうではない。何か財界人の子息が盛大に式をそこで挙げることが決まり、もうあんた達でなくてよくなったんだ」

徹は自分達にグランドコーストリゾートを紹介した西島の事を思い出した。

西島はこの目の前の中国人達と関係があるのだろうか。

「俺達は別でそのホテルを紹介されたけど、そちらと何か関係があるか?」

「俺達以外であんたに近づいた奴がいたのか?」知らないようだった。

「いや、そうではない。親切な人が担当者を紹介してくれただけだ」

「そうか。まあこれからもよろしくな。横浜で何か困ったときは、俺に言えよ」

「また旨いものを教えてくれ」徹は、この少し抜けた頼りない若いチンピラのような男の言葉にそう答えた。趙は笑顔を浮かべ歩いて行った。


週半ばの木曜日、徹と奈保子は横浜にある三日月の先端の形をしたホテルの最上階にあるBARに来ていた。

店員が窓側の席に案内してくれた。徹も奈保子も仕事帰り、同じ横浜で落ち合い、

結婚式場について食事がてら話をし、その後ここに来たのだった。

席からは足元の観覧車のイルミネーション、横浜の光輝く町と道路を行き交う車のライト、港に停泊している客船の甲板のライト、その先には工業地帯のプラントを照らす光、更に奥には小さく明かりを灯しシルエットを浮かび上がらせているレインボーブリッジが見えた。暗い店内には、河合奈保子のボサノバが静かに流れていた。

「当たり前だけど、車が小さく見えておもちゃみたい。ここから見るとベイブリッジも本当に小さく見えるね」

徹は普段はウイスキーまたはジンを好んで飲んでいたが、バーに来たときはブランデーベースのサイドカーをよく飲んでいた。今日もそれをオーダーした。

奈保子はメニューを見ながら、「ブルームーンってどんなカクテル?」と訊いた。

「ジンベースでパルフェタムール、レモンを混ぜ、シェイクしたものだよ。少し強めかな」

「なに?パルフェタムールって」

「地中海沿岸で採れる柑橘系果実のリキュールに、ニオイスミレやバラ、アーモンド、バニラなどで香り付けしたもので、どことなく花のような香りがして、甘い味のお酒だよ。バイオレットリキュールとも言うよ」

「え、バイオレットなのにブルームーンなんだ」

「そうなんだよ。一般的には紫のカクテルなんだけど、フランスのマリー・ブリザール社のパルフェタムールは青いから、だからそういう名前が付けられたのかも。実際何十年も前のアメリカの文献には、ブルームーンは青いカクテルとして表記されていたそうだよ」「そうなんだ。徹君、本当に詳しいね」

「ついでに言うと、フランス語でパルフェタムールって「完全なる愛」や「真実の愛」という意味があるんだよ」

「私、それにする」

ふたりの前にはサイドカーとブルームーンが置かれた。

「奈保さん、ブルームーンって知っている?」「そのままの蒼い月?」

「月の満ち欠けの周期は約29・5日で、30日、31日ある1か月よりも、若干短い周期で満月が訪れることになるから、そのため数年に一度、同じ月に2回、満月が訪れることがあるんだよ。その2回目の満月を一般的にブルームーンと呼んでいるんだ。実際にその時、月が蒼く見えることも稀にあるのだとか。

でも蒼い月って想像がつかないよね。多くの人が見たことがないから、そのため欧米では『めったにないこと』『珍しいこと』を表す言葉として、ブルームーンって言葉が使われることになったそうだよ。今では「見ると幸せになれる」とも言われているんだよ」

「そうなんだ。蒼い月か・・。いつか月の王子と一緒に見れたらいいな」

奈保子は両手をグラスの根元に置き、上目遣いで徹を見て、呟いた。

花それぞれに花言葉があるようにカクテルにも同じものがある。ブルームーンはパルフェタムールに因んで「完全なる愛」や「真実の愛」とも云われているが、もう一つ真逆の「叶わぬ恋」というのもあった。しかし徹は敢えてそれは話さなかった。


徹は街を歩いていた。土曜日の夜の繁華街ということもあり普段以上に多くの人々が行き交っていた。

奈保子は仕事で大阪に行っていたため、徹は今晩は一人だった。自衛隊病院の上司との話があり、横浜駅西口付近にある約束の店に向かおうとしていた。

「お兄さん、遊んでいかない?可愛い子がいっぱいいるよ」「3000円で1時間飲み放題。どう?」「これからお食事でしたら是非」「生ビール1杯無料です」角毎に立っている呼び込みやチラシ配りを往なしながら歩いていると人だかりがあった。

幾人かが揉めているようだった。徹は人だかりを避け先を急ごうとすると一人の男が立ちはだかった。顔を上げると知った人物が徹を見ていた。

「你是趙的朋友吗(お前は趙の友人だよな)?」「是(そうだが)」

「一点、我要你帮助我(ちょっと手伝ってほしい)」「不能。我有一个承诺(無理だ。これから約束がある)」男は趙の仲間の一人だった。

「時間はかからない。ちょっと手伝ってほしい」「人と会う約束をしているんだ」

男はしつこく徹に言い寄ってきたが、徹はそれを振り切った。

約束の店に着くと上司は既に来店しているとのことだった。障子がある小さな個室に案内された。

簡単な挨拶をし、瓶ビールを注ぎ合いまずは乾杯した。

「佐伯先生、新婚さんなのに今日はお呼び立てして申し訳ない」

「いえ、妻は今日は大阪で仕事ですので」

「そうなの。あ、料理は適当に頼んでいるからそれから摘まんで、他に食べたいものがあったらまた注文ということでお願いします」「すみません」

「実はさあ、僕の地元は静岡なんだけど、地元の病院に跡取りで入らないかと実家を通して話があってね。医官は来年3月を以って辞めることにしたんだよ」

「え、そうなんですか」

「うーん、まあ色々悩んだのだけど、相手の女性もなかなか良くてね。40近いこのむさくるしい男を気に入ってくれたんだ」

「江川先生は、任官してもう14,5年経過していますよね?」

「そう。だから償還金はないよ。そこの病院は地域では大きめの総合病院で、僕はそこで消化器をやろうと思っているんだ。うちの病院も設備は整ってきたけど、やはり民間に比べるとまだ劣るところもあるし、第一、患者層も違うでしょ。医者としてもっと幅広くやってみたいのもあってね」「そうなんですか」

「佐伯先生は今後はどう考えているの?」

「はい、服務義務の9年は少なくとも今の職務を続けるつもりです」

「良かった!今日呼んだのは、まずそこからでさ。佐伯先生は大スターと結婚されて、やらしい話だけど償還金も問題なく払えるし、民間に移るかもなと少し思ったんだ。だけど9年だとあと2,3年あるから、佐伯先生に僕の後任をお願いできないかと思って」「私がですか?」

「他に誰がいる?優秀なのは何人かいるけど、その中でも佐伯先生は群を抜いているよ。上には僕からも話をしておくからさ。宜しく頼むよ」「上の指示を仰ぎます」「よし。じゃあ今日はこれから佐伯先生に新婚生活の極意を伝授してもらおうかな」

「一緒に住んでおりますが、実はまだ籍を入れていないですし、そんなに二人で過ごした時間も長くはないですから、私からお話できることはないですよ」

「いやいや、色々訊きたいな」

江川との会食は2時間程度で終わり、店先で別れ、徹は再び横浜の街を歩いていた。

「喂!我的朋友!」突然声が掛かった。振り向くと尾行(失敗)男の趙だった。

「你怎么了(どうした)?」

「ちょっと前に揉め事があって、サツと相手の両方に追われているんだ」「ええ!」徹は江川と会う前に見かけたあの揉め事かと思った。

「あんた度胸もあるし、その体も相当鍛えているだろ。それに真面目に見えるからサツの眼も晦(くら)ませるだろうし、しばらく一緒に居てくれないか?」

「いやだね。揉め事と聞けば関わらないことにしているんだ」

「そんなこと言わないでくれよ。ちょっとでいいから」徹は歩き出した。趙は付いてきた。

「実は最近台湾の奴らと揉めてて、さっきちょっとした小競り合いがあって、仲間が相手の一人を刺しちゃったんだよ。いや、こちらは3人、相手は6人居たんだ。仕方なかったんだ」「刃傷沙汰なら尚更関わりたくないね」

「そんなこと言わないで、ちょっとだけ、な、友達だろ?」

徹は歩みを止めて趙に向き合った。「こうしているとお前の仲間と思われるだろ。

勘弁してくれ」趙の視線は徹の後ろを見ていた。

「わ、わ、見つかった!あんたも逃げた方がいいぞ!」趙は言うや否や走り出した。

振り向くと3人の男が走ってきた。徹は背中を向け、走ってくる進路を塞ぐかのように歩道の真ん中に立った。

3人の男の一人が徹の肩を掴んだ。「你是他的同伴吗(お前はあいつの仲間か)?」

徹は何を言っているのかわからないふりをした。

「这个人不一样(こいつは違う)!这个人是日本人了(こいつは日本人だ)!」

「但是 他在和那个人说话(でもこいつはあいつと話をしていたぞ)」

「过来这里(こっちへ来い)!」「ちょっと待ってくれ!なんなんだ、人違いだろ!」徹は敢えて日本語で言った。徹は3人に連れられビルの間の細い路地に入った。

数歩歩いたところで後ろから背中を蹴られ、徹は地面に転がった。一人が馬乗りになり、左手で喉仏を押さえ、右手にかざしたナイフを徹の頬にあてた。

徹は抵抗しなかった。「お前はあいつの仲間だろ!」相手は日本語で言った。

徹は動く範囲で顔を横に振った。「ちょっと待て。こいつはやはり無関係だろう」

馬乗りの男はそう言った仲間に顔を向けた。

「でもこいつはあいつと話をしていたぞ」また徹に向けて「おい!何を話していた!」再び徹の頬にナイフを近づけた。

「因縁をつけてきたから、やめてくれと言っただけだ」徹は当たらずとも遠からずのことを言った。

「本当のことを言え!」男はナイフを握ったまま横から徹の顔を殴った。

「本当のことだ!」男はまた同じように徹を殴った。

「あなたが私に何を求めているのか全くわからない」

「おい、こいつの恰好をよく見てみろ。普通の真面目な日本人だろ。仲間ならあいつと一緒に逃げていたはずだ。もうやめておけ」

その時ゴツンという音がし、馬乗りになっている男が徹に覆い被さってきた。

一瞬見たその姿は趙だった。

趙は路地の入口から徹に馬乗りになっている男に、どこからか見つけてきた煉瓦を投げつけたのだった。

一人が趙を追った。頭に煉瓦の直撃を受けた男は後頭部を押さえ蹲(うずくま)っていた。残った一人が「やはりお前は仲間だったか!」言う矢先にナイフを取り出し、

そのまま徹の太股あたりに振り下ろした。徹は地面に背中を着けた状態で、その手首を目がけ下から力を込めて蹴り込んだ。

パキっと音がした後ナイフが落ちた。男は手首を押さえ蹲った。その隙に徹は起き上がり、走って雑踏の中に紛れ込んだ。


徹は横浜駅から東海道線に乗り二駅先の保土ヶ谷駅で降りた。そこからタクシーを拾い、国道1号で桜木町のマンションに帰ろうとした。ある種のカムフラージュだった。

しばらくタクシーに揺られ窓から外を見ていると、反対側の車線でバイクが派手に転倒した。

徹はタクシーを止めさせ、料金を払い、降りてバイクの傍で倒れている男に向かって走った。乗っていたのは服で趙だとわかった。

「大丈夫か!」「あんたか。足をやっちまった」「腕を貸せ」

「いや、いい。俺は追われているんだ。あんたは関係ない」「いいから腕を貸せ」「奴らが迫ってきているから、もう行け!」「黙って腕を貸せ!」

「俺はいいから、行ってくれ!」押し問答があった。趙が後ろを振り返った。徹も同じ方向に視線を向けた。スピードを上げて走ってくる車がいた。徹は趙を持ち上げた。

「バイクは諦めろ」「誰かのだよ」徹は趙をその肩に担ぐようにし、細い路地に走った。


「この左足は相当腫れているが、骨折しているか、ヒビが入っているかレントゲン撮影しないと判断できないな」

「じっとしていたら治るよ」趙の擦りむいた左肘から血が滴っていた。徹はハンカチをその傷口に充て「しばらく押さえてろ。血がある程度止まるから」と趙の手をそこに導いた。

二人は趙がバイクで転倒した場所から数十メーター離れたビルの屋上にいた。

6階建てのビルの屋上なので実質7階まで徹は趙を担ぎ上げた。

徹は屋上の淵からまた顔を出し、下の様子を確かめた。先程まではバイクの周りに数名の男が集まり、手分けをするような感じで辺りに散らばり趙を探しているようだったが、もうその気配、様子はなかった。

「足が痛くて一歩も歩けないな。しょうがねぇな、今晩はここで過ごすかな」

「明日になってもまた追われるんじゃないのか?」

「こんな状態だったのに明日を迎えられるんだから、なんとかなるだろう。でもあそこにあんたが来てくれなかったら、今頃・・」趙は俯き自分の足を見つめた。 

「あんたも危険な目に会う可能性があったのに、俺を見捨てなかったな・・。太感谢你了、朋友」趙は俯いたまま呟いた。

「我才要谢谢您(こちらこそありがとう)」「あとは俺たちの世界のことだ。余計なことに巻き込んじまったな、もう行ってくれ」「明日もここで過ごすつもりか?」

「数日以内に上がなんとか幕引きするだろう。痛てて、俺は横になるぜ」

「わかった」徹はその場を離れた。

趙が目覚めると体にはひざ掛けが2枚重ねて掛けられていた。目の前には、お湯が入っているマジックポット、2,3食分の食料、ペットボトルのお茶、スポーツ新聞、週刊誌、痛み止めのバファリンAがドン・キホーテの袋に入って置かれていた。

「タバコが抜けているぞ!」趙は痛みを堪えながら笑って言った。


奈保子はアウディに乗りテレビ局に向かった。徹の助手席ではなく、自ら運転し一人だった。一昨日からパジェロは定期点検で、ディーラーに預けていたのだった。明日夕方、徹が仕事帰りに横浜のディーラーに行き、パジェロを引き取ることになっていた。

以前、徹に基本的な運転操作に関するもの、パドルシフトの説明を受け、実際に運転したことがあった。初めは普段運転している車とは全くタイプが違うことで

躊躇ったが「僕が万一の時とか、奈保さんもこの車を運転できた方が良いから」と言われ奈保子は練習がてら何度か運転していた。

練習をしていたせいか、運転は問題なかった。しかし目立つ車であるので、すれ違う車や信号待ちの度に、多くの人が運転する奈保子を見るのだった。

中には奈保子と気付く者もいて、驚きの表情を浮かべたり、声を掛け手を振る者もいた。奈保子は、そんなひとり一人に会釈をしたり、手を振り返していた。

無事スタジオに着き、所定の場所に駐車した。

「どうしたんですか?奈保子さん」スタジオの入り口で待っていたマネジャーが尋ねた。「車の定期点検で、ディーラーに預けているんです」

「佐伯さんがまた送られたんですか?」「いえ、今日は自分で運転してきました」「え、あの車を!」

丁度その時に、堺正章が「奈保子ちゃん、今日はすごい車に乗って来たね」と声を掛けてきた。堺は無類の車好きとして有名で、それもありスタジオ敷地に入ってきたR8に自然と目が向いたのであった。

「おはようございます。いえ、これは婚約者の車なんです。普段私が乗っているのは今整備に出しているので、今日たまたまなんです」

「横幅がデカいのにすんなり駐車していたね」

「以前、ちょっと練習したことがありまして」

「いやいや、なかなか運転が上手いよ」「ぶつけないように慎重に運転しています」

「軍艦は詳しくないけど、いつか奈保子ちゃんの旦那さんと車の話がしたいね」

「彼は感激すると思います」堺は笑って控室に行った。

「奈保子さん、今日はここと昼食を挟んで場所を変えてドラマの打ち合わせですが、一人での運転大丈夫ですか?」「なんとか大丈夫かと思う」


奈保子はスタジオ収録とドラマの打ち合わせを終え、再びアウディに乗った。

246号を下り、途中環状8号線から世田谷通りに入り、成城に向かった。

駅近くのコインパーキングに車を停め、先日テレビの収録で紹介された話題のスイーツと夕食の食材を購入するためとあるスーパーに立ち寄った。テレビで紹介されたこともあり、目当てのスイーツは売り切れているかもと思ったが、ひとつだけ残っていた。あわせて夕食の食材を購入して店を出た。

駅前のスーパーから車に向かって歩くと一匹の犬が道路の脇に座っていた。

赤い皮の首輪を着けた柴犬のような雑種だった。奈保子は動物が好きなこともあり、

その犬に笑顔を向けた。首輪をしているが周囲を見渡しても飼い主の姿は見当たらなかった。その犬は奈保子に近づいてきた。奈保子は買い物袋を持たない手をその鼻先に出し、「付いてきちゃだめよ」と歩き過ぎた。

コインパーキングの手前で何気なく先程の犬が居た方に顔を向けると、奈保子の真後ろにその犬がいた。

「だめじゃない、付いてきちゃ」奈保子は買い物袋を停めてある車に入れ、犬を元居た場所まで連れて行こうとした。何度も振り向きながら、「こっちだよ」と声を掛け、後を付いてくる犬を元居た場所まで連れ戻った。

「お座り。ここで待っていなさい」犬を見ながら後ろ歩きでその場を離れようとした。大丈夫かなと思い、正面を向き車へ歩き出すとまた犬が奈保子に付いてきた。「だめでしょ!だめ!」犬は奈保子を見て何故か嬉しそうにしっぽを振っていた。

同じことがもう1回繰り返された。三たび犬を元居た場所まで連れて行き、

奈保子はしゃがんで犬の顔を包むように両手をあて撫でた。

「本当に付いてきちゃだめよ!」言い聞かせるように顔を近づけた。紙一重で犬の一舐めを躱した。

奈保子は立ち上がり、「だめ!」と一言言い走り出した。しばらくして振り向くと途中までは付いてきたが、少し離れたところで犬は佇み奈保子をじっと見ていた。

奈保子は、自動清算を済ませ帰路に付いた。今日あったことを徹に話したい、そう思った。

黄昏のビルの街を縫ってく高速(フリーウェイ)を徹が待つ部屋に向けて走った。

早く会いたい その想いからハンドルを握りながら心もスピードもあがった。


急いで帰ったせいか、徹はまだ帰宅していなかった。夕食の準備をし始めた時に徹が帰宅した。「奈保さん、運転は大丈夫だった?」開口一番徹は奈保子に尋ねた。

「うん、練習していたからなんとか大丈夫だったよ」「良かった。明日もあの車を運転するから、また気を付けてね」

「今日はあの車に乗っていたから、色んな人に声を掛けられたの。信号待ちの時も

そうだったし、マネジャーさんも驚いていた」

「奈保さんは、律儀だし、ファンも大事にするから大変だったね」徹は奈保子がパジェロを運転している時に、気付いて手を振る人達にもきちんと対応することを知っていた。また料金所の係員にも「お疲れ様です」「ありがとうございます」と必ず一声かけるのも知っていた。

「あの車をまず見て、運転していたのが私だったから皆驚いた感じだった」

「ああ、情景が目に浮かぶな。でもパジェロよりかはイメージに合うような感じだけどね」奈保子は少し首を傾(かし)げた。

「あと、堺正章さんが丁度私が車を留めるところを見ていて、運転が上手いねって言ってくれたの」「へー、あの堺正章さんが」

「そう。徹君の車と言ったら、冗談だと思うけど、軍艦は詳しくないけどいつか徹君と車の話がしたいって言っていたよ」

「え!本当。堺さんはクラシックカーのレースにも出ているんだよね。なんか本当にそんなことになったら、舞い上がって何も言えなくなってしまいそうだよ」

奈保子は笑っていた。

「徹君、あと今日はね、成城で買い物をしたの。そうしたら犬が付いてきて大変だったの」奈保子はその犬の出来事を上着を脱いだ徹に話した。

「そう、そんなことがあったんだ。大変だったね」

「ねー、笑って言わないでよ。本当にどうしようかと思ったんだから」

「ごめん、ごめん。でもその犬は奈保さんの優しい心を見抜いて甘えたんじゃない?」

「犬は好きだけど、首輪もしていたし、どうすることもできないわよね。車を出すときも車を追いかけてきたらどうしようと思ったもん」

「ちゃんと飼い主さんの所に戻っているといいね」

「うん。ところで徹君も犬を飼っていたんだよね?」

「僕が高校生の時に、姉が知り合いから譲り受けてね。ゴンちゃんていうオスの雑種の犬を飼っていたよ。譲り受けた姉は当初あまり面倒を見ないで、散歩や世話は専ら父と僕がやっていたよ。しばらくして父が膝を悪くして、それ以降は僕が毎日散歩していたな」「え、お姉さんは散歩には行かなかったの?」

「僕が自衛隊の寮に入ってからはようやく行くようになったけど、姉が結婚してからはまた父がゆっくり歩きながら連れて行っていたな。ゴンちゃんと触れ合うことが

僕の癒しだったし、受験生の時は本当にゴンちゃんに精神的にも助けられたと、今でも思うよ」「私と知り合った時はまだゴンちゃんは家に居たの?」

「奈保さんと初めて会ったのは僕が大学5年、研修中に天国に行ったから、その時は生きていたよ」「そうだったんだ」

「そういえば奈保さんの家の犬たちに最近会ってないな」

「この前電話した時に訊いたら、変わらず元気だって言ってたよ」

「いつか僕らも犬を飼う時があるかもね」

「実は今度、横須賀で警察犬の訓練をする仕事が入っているの」

「え、奈保さん、なんかデジャビュみたいだね」


奈保子はマンション近くのモールでショッピングをしていた。季節ものの服を見ていた。店を出た時に二人組の若者が奈保子に近づいてきた。

「川瀬奈保子さんですよね?」「あ、はい」適度に対応して離れようとしたが、普段接する人々とは違い二人は執拗に奈保子に付き纏っていた。

「すみません、買い物をしているので」「じゃあ一緒にしようよ」「何買ったの?」「家はどこですか?」からかうようにしばらく奈保子に付いて歩いた。

どうしようかと思った時、後ろから声がした。

「おい、兄ちゃん達、いい加減にした方がいいぜ」「なんだお前は?」

「調子に乗るなよ。その方は俺の大事な友達の嫁さんなんだよ」奈保子はそう言ったお世辞にも堅気には見えない、言い直すなら一見チンピラのような頼りなさ気な男を見た。

その男には同じ風貌、いや全く堅気には見えない仲間が3人いた。それを見た二人の若者はすごすごとその場を離れて行った。

奈保子が一言声を掛けようとしたら「行くぞ」と趙の兄貴分の男が声を発し、

4人は何も言わず、歩いて行った。

以前徹が趙を助けたことを、趙以外のこの3人も知っていた。普段殆ど接点がなく、また堅気で日本人で自分達の仲間でもない徹だったが、彼らにとって徹は特別だった。奈保子は釈然としない思いを抱えつつ、買い物を続けた。

季節ものの服を買った後、タクシーを拾い、中華街に来た。以前、徹が中華街で一番美味い小籠包だと言った店に来た。

店の主と思われる初老の太った女性と男が話をしていた。

「すみません、小籠包を10個頂きたいんですけど」二人は奈保子を見た。奈保子は驚いた。先程奈保子を助けた堅気とは到底思えない男がいたからだ。

趙の兄貴分だった。

「あ、先程はありがとうございました」

「おお、川瀬奈保子さん自ら小籠包を買いに来てくれたぞ!」その男は太った店の主に言った。

「嬉しいね。ご夫婦でお客さんになってくれて」奈保子は自分達が知られていることに少し驚いた。「主人も私もここの小籠包のファンなんです」

「おばちゃん、あの背の高い男前の嫁さんだよ、あの川瀬奈保子さんだよ!」

「そんなことぐらい知っているよ!しかし本当に美男、美女の夫婦だね。サービスしないといけないね」奈保子は遠慮したが「いいから。いつも旦那さんには買ってもらっているし、夫婦で私の小籠包を好きになってくれて、こっちも嬉しいから」

結局10個分と言ったが倍の20個が包まれた。堅気には到底見えない男は笑ってそのやり取りを見て、頭を下げた奈保子に片手を上げた。

本当は徹と自分ふたりでも10個は少し多いかと思っていたが、倍の20個、どうしようかと奈保子は考えた。

中華街の出口で再びタクシーを拾い、横浜駅の前で降りた。マンションに向け歩いていると前方のビルの壁に背をもたらせたホームレスがいた。その前を通り過ぎようかという時に、「あ!」と声があげられ、奈保子は何気なく目を向けた。ホームレスが「あなたの旦那にはいつも気にかけてもらっているんだよ。温かい弁当をご馳走になったこともあったよ」「え、そうなんですか」

「いや、肺が悪くてね、呼吸が苦しく道の端でのたうち回っていた時にあなたの旦那が診てくれたんだよ。皆見て見ぬふりをしていたけど、ただひとり駆け寄ってくれてね。そしてたまたま持っていたからと言って発作止めの吸入薬までくれたんだよ。

それ以来会えば色々声を掛けてくれて。もうタバコは止めた方が良いと言われたから、それ以来止めたよ。お陰で体が丈夫になったんだよ」

そういえば最近徹は葉巻を吸わなくなったと思った。

「旦那さんによろしく伝えてください」

奈保子はそのホームレスにまだ温かい小籠包10個を手渡した。ホームレスはその包みを両手で持ち上げ、頭を下げた。

奈保子はこの新しい街での徹の不思議な交友関係に驚きを隠せなかった。


「奈保子ちゃん、なんでグランドコーストリゾートだめなの?」奈保子はテレビ局の廊下で偶然出会った西島に呼び止められ、過日と同じ質問をされた。

「婚約者の彼が他で考えたいと言うもので」「あ、そう。この業界の仁義がわかってないね、素人さんは」「すみません」

「あ、そうそう、旦那さん、なんか変な噂があるけど、大丈夫?」 「え!」

「男は誰でも秘密を持っているからね。ましてやあんな男前、性悪女がほっと置くわけないもんな。でも結構自分からもいっている話も聞いたな。まあ大変だし苦労もするだろうけど、奈保子ちゃんなりに頑張ってよ。何かあったら力になるから」

過日と同じ質問をしたが、西島が奈保子に言いたかったことはこのことだった。


仕事を終え最寄り駅へ歩いていると目の前に座り込む女がいた。徹は駆け寄り、女に声を掛けた。ブラウスのボタンをひとつ多く外し、タイトのミニスカート姿で、苦しい、足も痛むと言う。徹に見えるようにハの字に立てられたた足の奥から下着が見えていた。徹は後ろに両手をつく女の体を起こし足をたたみ、脈をとった。

そしてカバンから聴診器を取り出し、胸の音、背に回りまた音を確かめ路上で診察を始めた。痛みを訴える足も診た。次に首の付け根に手を充てた。徹は一瞬動きを止め、また確認した。 え、私を女として見てない? もしかして本当に病人と思ってる? 女は徹を誘惑するか、痴漢に仕立てるつもりだった。

近くにはカメラマンも用意していた。しかし女が路上で診察を受けている姿に車が数台道に留まり、様子を伺っていたため痴漢に仕立てることもスキャンダラスな写真も撮れなかった。女自身も突然の診察に戸惑った。また女は時折「大丈夫ですか?」と気遣ってくれる優しい声と間近かで見る徹に一瞬だが心を奪われた。

川瀬奈保子にプロポーズした男だということを知っていた。テレビで見た印象と同じ、素敵な男性だと思った。何か真剣に考えている・・本当に心配されている・・

幾らかの金の他、この役割を終えたら西島と一緒の番組に続けて出演させてくれるという約束だった。その為に男女の関係にもなっていた。

しかし徹の自分を心配してくれる姿に、自分でも恥ずかしさを覚えた。

徹は携帯を取り出し、救急車を呼ぼうとした。女は急に「救急車は呼ばないで!」と叫んだ。徹の手が止まった。簡単な診察だったが、特別訴える苦しさに関する異常は見受けられなかった。女が「もう大丈夫です」と立ち上がった。

徹は意外なことを言った。「近いうちに病院で甲状腺を診てもらって下さい。少し気になることがありましたので」と言った。そして立ち去ろうとする女に

「タクシーを呼びましょうか?」と言った。「いえ、ありがとうございました」と言い、女はその場から走り出した。

翌日女は西島に失敗したことを告げた。激しい罵倒を受け、約束の金も番組出演も反故にされた。女は徹が真剣に診断してくれた際に言ったことも気になり、病院に行った。初期の甲状腺がんだった。


西島は奈保子を呼び出していた。六本木にあるBARだった。時間は21時を回ったところだ。西島はカウンターの右側に座っていた。

「奈保子ちゃん、僕の所にこんな写真が届いたんだよ。これはまだ見せられる写真だけど、まだ際どいのもあるし、残念だけど決定的なものもあってね。あの男は確かに良い男だけど、その分本当に信用していいかと思うよ」見せられた写真は徹がしゃがみ込んだ女の前で片膝をついた後ろ姿だった。

一見、何の変哲もない写真と思った。

「この写真が何かあるんですか?また何で私の婚約者が撮影されるんですか?」

「だから奈保子ちゃん言ったろ。あの男は前々から怪しいからカメラマンが張り付いているし、現に僕の所に見せられない写真が届いているんだよ」

「見せられない写真ていうのは?」

「奈保子ちゃんも子供じゃないんだから、わかるでしょ。男女のナニだよ。旦那さん、叩けばもっと出るんじゃないの?もしかしたら近づいたのは、初めから奈保子ちゃんの稼ぎが目的かもしれないよ」

奈保子は信じられなかった。自分が知る徹は誰にも優しく接し、誠実な人という認識しかなかった。確かに皆が言うように、徹は男としても魅力的だった。

まだ徹の全てを知っている訳ではないが、軽薄な感じはなく、第一、自衛官、医官としての仕事と自分との時間の隙間に逢瀬を重ねる女がいるとは思えなかったし、

今までも危うさを匂わす秘密めいたものも感じなかった。またお金は徹も十分すぎるほど持っている。

「本当ですか?」

「え!なに、疑っているの?僕は奈保子ちゃんを心配しているんだよ!これ以外の写真を見せようか?ま、ここにはないけど」

奈保子は少し動揺した。先日、グランドコーストリゾートの件で怒らせているし、

今回の事も強い口調で自分を心配しているからと言うので、軽く対応してこの場を離れようということはできなかった。

「私、ちょっとお手洗いに」「はい、いってらっしゃい」

西島は、カウンターの奥にいるバーテンダーに「女の子が好むカクテルを作って」と告げた。奈保子が戻る前に、トールグラスに注がれたグラデュエーションがかかったきれいなカクテルが席に置かれた。

西島は、手洗いに目を向け、ポケットから錠剤をひとつ取り、カクテルに落とした。


「すみませんでした」

「いいよ。でも奈保子ちゃんも大変だよね、ドラマの降板があって、更にこんなことでまた心労が増えて。先輩としても心配だし気の毒だと思っているよ。今日はじっくり話を聞くよ。まあとりあえず飲んでよ、ぐっと。頼んでおいたからさ」目の前のきれいなカクテルを勧めた。

奈保子は何気なくグラスを手に取った時、「お客様、大変申し訳ございません。レシピのひとつが抜けておりました。作り直して参ります」とバーテンダーが奈保子の手からグラスを取り下げた。

「あ、大丈夫です」奈保子は言った。西島も「いやいや折角作ってくれたし、十分旨そうだから」と慌てて言った。

バーデンダーは「申し訳ございません」と頭を下げ、シンクにグラスの中身を流した。バーテンダーは見ていた。丹精込めて作る自分のカクテルにそういう小細工を施し汚す行為を、作り手としてのプライドが許さなかった。

舌打ちをし、「なんだテメーの店は。客にカクテルのひとつもまともに出せねえのか!よくこの六本木で店なんか出せるよな。俺が潰してやろうか、えー!」 

西島が激高した。目の前の灰皿を手で払い落とし、カウンターを叩いた。奈保子は驚き、何も言えなかった。何故こんなに怒りを顕わにするのか理解できなかった。

「もう帰るわ!不愉快だよ。テメーの店は不愉快だよ!領収はきちんと色つけとけよ。そのくらいしろよな!」もう一度カウンターを叩き、スツールを蹴り倒した。

大きな物音が店内に響いた。奈保子は恥ずかしくなった。この横柄な男と一緒にいることで他の客に同じように見られるのが居た堪れなかった。

「奈保子ちゃん、さっきの写真の続きを見せようと思うんだけど。付き合ってよ」

店を出て西島は言った。

「いえ、すみません。これから用事があって。ご心配いただき、ありがとうございました。今日は失礼します」と奈保子は西島と目を合わすことなく、踵を返した。

「おい、奈保子ちゃん、おい!」奈保子は街の中を駆け出した。


あなたを信じたいけれど揺れる心 ひとりさまよう夜の街 見上げる夜空は知らぬまに涙で滲んだ


奈保子は、リビングで医学書を読んでいる徹を見ていた。本当に西島が言うようなことをしているのだろうか。カメラマンが張り付いているという それは普通ではない。実際、見せられないくらいの写真まであると。私と再会する前のことはいいとして、写真の相手はどういう人? 私以外に交際している人がいるの?

いつか徹の同僚と話す機会があった。徹はスタッフや患者さんに非常に人気があるという。それは奈保子も普通に納得できると思っていたが、

思えば職場には若い看護師もいるし、徹に好意を持つ人がいてもおかしくはない、

中には徹に言い寄る人もいるのでは等と、勘繰れば切りがなかった。

ため息に気付いた徹が「奈保さん、お茶でも淹れようか?」と声を掛けた。

「ううん、大丈夫。お風呂に入ってくるね」


奈保子の中では先日のドラマの突然の降板もまだ尾を引いてていた。今日の西島の写真と話の件、西島のあの態度、徹への疑いと同時に疑う自分への嫌悪、

疲れもあり、かなり憂鬱な気分だった。


奈保子は考え事が多くなった。自身もそれは自覚していた。そのせいか番組の収録でも精彩を欠く場面も出てきた。

西島からは、会うよう携帯に頻繁に連絡があったが、返事をしていなかった。それも奈保子を更に憂鬱にさせるものだった。

また今までは普通に挨拶をしていた関係者がよそよそしくなったり、明らさまに無視をする者も出てきて、気になっていた。

挙句に知り合いの番組スタッフ等から「奈保子さんが婚約した方、モテモテらしいね。大丈夫?」「結婚、冷静に考え直したら?」とも言われた。

毎日徹の表情の裏を読み解く試みをする癖も着いてきてしまった。イヤな自分だなと思うようにもなった。

奈保子は精神的にも疲労が蓄積していった。

そんな矢先、10月の番組編成に向けた新たなドラマの収録前に、またもや降板の知らせが来た。今回もその理由がはっきりしなかった。

マネジャーに訊いてもプロデューサーも監督もはっきりした理由を言わなかったとのことだった。

ショックでしばらく口がきけなかった。更に精神的な疲労が増幅し、奈保子を圧迫した。しかし徹にはこのことを言う気にはなれなかった。

いよいよ時代劇の収録も始まる時期であったので、まずは目の前の仕事に集中しようと思った。

だが精神的な疲労はそのままで、自分の気づかない落ち度も気にせずにはいられなく、苛立ちも募るばかりであった。


「奈保さん、最近疲れているんじゃない。もう少しリラックスした方がいいと思うよ」徹の言うことが他人事で呑気な感じに受け取れた。

「そんなに軽く言わないでよ!あなたほど気楽に仕事してないの。公務員とは違うの。あなたの一言で仕事関係の人とうまくいかなくなったし、もう私の仕事に

関して口を挟まないで!あと私がいない時はどうぞどこかの女の人と好きにすごしてください!良い人ぶって私もそうですけど色んな女の人騙して、バカな女と思っているんでしょ。いいです、私は私で仕事だけ考えます!」徹は黙って奈保子を見ていた。苛立ちのピークだった。鬱憤を一気に吐き出すように言ってしまった。

奈保子は言った矢先、言ってはいけないことを言ってしまったと思った。

徹の仕事を侮辱するようなことを言ってしまった しかも心の中では徹への不信感は募っていたが、確かめもせず徹を疑いの目で見た言葉も言ってしまったと思った。

こんなことを言う自分ではなかったはずだった。

「ごめんなさい。徹君・・」奈保子は顔を両手で覆い、しゃがみ込んだ。

「ごめんね。徹君」泣き声でもう一度言った。徹は奈保子の傍に行き、奈保子の背中に手を添えた。しばらく奈保子は泣いていた。

「奈保さん、僕が原因で辛い思いをさせて、ごめん」奈保子は、ちがうと思った。

仕事で精彩を欠くのは自分のせいであり、また仕事関係の人とぎくしゃくしていることと今回の降板も自分のどこかに問題があるからと思っていた。しかし苛立ちから徹に八つ当たりをし、取り返しがつかないくらいのひどいことを言ってしまった後悔が胸に迫った。人の仕事を侮辱する こんな自分ではなかったはず 確かめもせず人を疑う自分だった? 普段とは全く違う自分に戸惑った。

一生懸命やったと思っていた仕事は中途半端だった また大事にしようと思ったこの恋愛も疑う私がいる このまま続けていける? 色々なことがあり過ぎて今は自分が自分でなくなっている 動揺を抑えられない、私は何を信じたらいいの  

ダメだ・・。

「徹君、我儘だけど、一人になる時間がほしいの。私は自分の中で整理がついてない部分、足りない部分がまだたくさんあるような気がするの。考え直したいの。

仕事のこともふたりのことも。あと私の誕生日の予定はキャンセルしてほしいの」

しばらくの沈黙があり「わかったよ、奈保さん」徹は立ち上がった。

自分の部屋に向かう時、「僕は奈保さんはいつでも一生懸命頑張っているのを知っているよ。大丈夫だよ。だから考え事もきっと良い方向になるよ。僕が邪魔をしてしまったかな。あと僕は誰も騙してないよ」

「ごめんなさい。しばらく一人にさせて」

「わかった。 お互い、時間が必要かもね」と振り向かず奈保子に呟いた。

奈保子は耳にした話から疑っていたが、徹が言った「誰も騙していない」という言葉はやはり真実かもと思った。今までの、そして今の徹の態度でそう思った。

しばらくして徹はスーツケースを持って部屋から出てきた。

「僕は他にも住む所はあるから」力なく微笑んでいた。

奈保子はもうこれで徹とは終わりだと思った。一瞬もう一度どうにかやり直せるかそんな思いが過った。愛が引き留める。しかし歯車が狂い出したようだった。

自分が言ってしまったことも含めもう二度とうまくはいかない気がした。傍まで行き、徹を抱きしめた。そして自ら唇を重ね、三秒キスして背中を向けた。

徹は黙したままだった。「本当にごめんね・・。あと、ありがとうね」奈保子は目を伏せて呟いた。徹との別れを意識した。


奈保子は時代劇の収録に入った。半年以上ぶりに北大路との共演となったが、北大路は奈保子の美しさは元より女優としての才能、仕事に対する姿勢、人間性を認めていた。今回の時代劇のシナリオを読んで、キャストに奈保子を指名した。そのことをマネジャーから聞き、顔合わせの時に真っ先に北大路に感謝の意を伝えた。以後の撮影においても心の澱を払拭するかの如く役柄に没頭した。精彩を欠くようなことはなく、むしろ現場も世間も一層奈保子に対する評価を上げた。

奈保子は、横浜のマンションには荷物を取りにいく位で、殆ど実家から仕事に通った。「おい、今日はどうした?」実家に戻った奈保子に父は言った。

「しばらくここから仕事に通うから」奈保子の返事はそれだけだった。奈保子の父はしばらく静観することにした。


西島は面白くなかった。また自身もプライベートな部分で焦燥感に苛まされていた。

奈保子は仕事での評価を上げ、新たなドラマ出演の話も出てきている。何度か古くからの知り合いに頼み、奈保子の降板を裏から工作したが、北大路との共演で評価を上げている奈保子に対して、これ以上のことは難しくなってきた。西島は自分の置かれている状況は切迫してきていると感じていた。

それが奈保子への憎悪に変わり、しかし奈保子には自分の範疇ではもはや手出しができなくなったため、その矛先を婚約者の徹に向けた。

徹を叩き、奈保子の評判を落とし、利用することを考えた。自分の知っている者に、徹の醜聞をそれとなく触れ回った。その一部は、既に奈保子も耳にした。

奈保子は所々で聞く徹の醜聞に対し、自分の中での徹の姿に疑問を持ち始めた。

会う人に心配される機会も多くなった。やはり私は騙されていたの?

自分が徹に言ってしまった言葉の後悔よりも今は疑念の方が増幅してきていた。

自分で後戻りできないようにしてしまったが、徹の裏の姿を知ってしまった今は

この状況が結果的には良かったのでないかと思うようになった。

そんな中、徹から一度、連絡があった。しかし徹の携帯に掛け直すことはしなかった。とても話す気分ではなく、また時間も距離も開けたかった。

いつしか奈保子は、自分は仕事だけでいいと思うようになった。徹とのことも全てなかったことと割り切ろうと思った。今の自分には余計なことを考えない時間が必要で、だから仕事を更に増やしてほしいとマネージャーにも相談していた。

ひと月が経った。西島は最後の一手を打った。


収録が続いている中、北大路のマネージャーから本人にあることが伝えられた。

「誰からの話だ」「西島公一さんからだそうです」]

「西島?そんなことはこの北大路が許さん!」「わかりました」

北大路の一声で全てが変わった。いや戻った。西島も長いが、北大路とでは格が違った。イメージが悪い婚約者がいる奈保子を降板させろとの話だった。


時代劇の収録も終盤に差し掛かったある日、主演の北大路と奈保子は夏の夜の帳が下りた野外セットの椅子に二人して腰掛けていた。

「奈保子ちゃん、何日か早いけど誕生日おめでとう」「あ、ありがとうございます」

「本当の誕生日は婚約者と過ごすのですか?」「あ、いえ」

「それはまたどうして?」

「私の中で色々ありまして、お互い距離を置くことになりました」

一瞬、北大路は奈保子を見て、また目を伏せた。

「邪魔が入ったようだね」「え?」奈保子は北大路の言ったことがわからなかった。

「奈保子ちゃんにとっては、不可解な降板が続いたようだが、ある男の嫌がらせだよ」奈保子はまだ理解できなかった。

「あいつは裏では評判はかなり悪い奴でね。聞けば、君達の結婚式をあるホテルに決めるのを条件に借金返済の延期を申し出たそうで、それがだめになったら君との淫らな映像を撮ることをまた延期の条件にしたらしい。酒に薬を混ぜようとしたが失敗したとも聞いたな。店でも暴れたとか。また女優を番組出演を条件に君の婚約者を貶めるのに使ったらしいね。そのためにカメラマンも雇って。今も、あちこちで根も葉もない噂を吹聴しているようだよ」奈保子は一瞬考え、驚いた。

え!西島さんが・・今、北大路が言った人物は誰かという事がわかった。 

奈保子は衝撃を受けた。しかしショックのすぐ後、徹に言ったことが脳裏に浮かんだ。

なんてことを言ってしまったの ごめんなさい・・徹君 

瞳からは涙が溢れ、そして奈保子は堰を切ったように泣いた。

「お相手の方もご存じではないと思うよ。私も長いから色々な所から情報が入るのでね」北大路は少し奈保子が落ち着くのを待った。

「奈保子ちゃん、君の婚約者には私はお会いしたことはないが、一簾の男だと思います。君達のプロポーズ映像を観ましたが、間違いはないと思う」

北大路は徹がプロポーズの後、守衛に最敬礼をした映像を思い浮かべていた。

「もう一度彼に会って、話をするべきだと思いますよ」奈保子は涙を止めることはできなかった。

「あと、10月からのドラマは、当初の予定通り、奈保子ちゃんでやることになったそうだよ」奈保子は泣きながら北大路に頭を下げた。


西島は賭博麻雀で多額の借金を抱えていた。その返済の延期を条件に、共演した奈保子の挙式をその仲間が経営するホテルで行うように仕向けると約束した。

しかしそれは叶わなかった。新しくオープンするグランドコーストリゾート汐留は、ある財界人のご子息が第一番目に挙式をすることになった。

切羽詰まった西島は話を聞く奈保子を材料に新たな交渉をしていた。しかしそれもうまくいかなかった。

「西島さん、もう待てないよ」

「川瀬奈保子のセックスビデオはどうだ。それでなんとかしてくれ!」

「一度失敗しているだろう」

「あれは、たまたま間抜けな店員が邪魔したからで、次は大丈夫。婚約解消で落ち込んだ川瀬奈保子を丸め込むんだ。あの女は俺の言うことは聞くんだよ」

「いい加減にしなよ」「頼む!」

あとは西島の呻き声と鈍い音が倉庫内に響いた。


西島は連絡が取れないまま、幾つかの仕事を休んだ。ようやく連絡が取れた時には、即入院の状態だった。明らかに全身に暴行を受けた状態だったが、

本人から口を噤み、詳しい話が聞けなかった。結局は刑事事件にはならなかった。

幾つかの仕事を無断でキャンセルしたこと、業界内では西島の賭博麻雀と中国人と思われる良からぬ輩との付き合いがあることは一部の者には知られていたが、

今回の暴行を受けたことでそれもあわせて多くの者の耳に入った。西島は、共演や出演が敬遠され、次第にメディアから姿が消えていった。


奈保子は徹との最後の日をいつも思い出し、心に深い後悔と喪失感を抱えた日々を送っていた。そんな中、女に声を掛けられた。テレビ局の廊下だった。

女は番組出演を対価に徹を貶める行動をしたことを詫びた。あらぬ証拠として使用するためカメラマンも用意した、しかし自分を心配し、真摯な対応をとった徹に対し、自身の恥ずかしさを感じたとのことだった。そして最後まで真摯な対応をした徹の

言葉が切っ掛けで病院に行き、初期の甲状腺がんの診断を受け、手術を受けたことも告げた。あのまま徹を貶め、番組出演をしていたら、自分は決して病院には行かなかっただろうと。最後に、業界内に広まった婚約者である徹の醜聞を否定した。

「間違いなく誠実な方です。どうか二人、幸せになってほしいです」と涙ながらに頭を下げ、立ち去った。

奈保子は呆然と立ち尽くした。この数か月は、自分にとって、ふたりにとって、何だったんだろうか。徹の面影が浮かんだ。

自分にとって徹とは何だったのか。頭に過(よぎ)ったのは、いつでも困っている人がいれば駆けつける姿、優しく誠実な徹 それが自分の知る徹であり、そのままであり、自分が好きになった人だった。そんな大切な人にひどいことを言い、疑い、そして失ってしまったという後悔と自己嫌悪感がより激しいものに変わった。

がむしゃらに仕事に打ち込んでいた奈保子に「奈保子、父さんも母さんも認めた男だぞ。好きになって一緒になる約束をした人を信じろ」耳に蘇ったその言葉が痛かった。馬鹿だったと思った。

「徹君、ごめんなさい。お願い許して、行かないで、私を一人にしないで!

心の叫びだった。

奈保子は横浜に向かった。掛け替えのないものを取り戻しに走った。

しかし暗い部屋には誰もいなかった。

ただ生活感が薄くなった部屋に奈保子の嗚咽だけが響いた。


奈保子は徹との関係は完全に終わったと思うようになった。しばらくは心の中に重い鉛を抱えて過ごしていくことになるだろう。

あなたの元をひとり旅立った私を許してほしいの

同じ未来を生きたかった 小さなことも分け合いながら

自分の夢を選んでゆく

優しい人を傷つけながら Alone again

徹君、好きな人ができてもいいよ 私は相応しくない、未熟だった でも気まぐれでも良いからたまには私のことを思い出してね 最後の想いとしてそう呟いた。

涙は堪(こら)えた。そして全てを忘れようと仕事に打ち込んだ。


7月24日、奈保子の元に花束が届いた。

一枚の見覚えのある手紙が添えてあった。そっと手紙を開いた。 

そこには自分の名前の横に 徹 と記してあった。

・・・ 言葉にならない声が漏れた。奈保子は手紙を胸に当て、ただ泣き続けた。



《WINGS OF MY HEART》

徹は潜水艦に医官として乗船することを決めた。自ら志願した。以前から話があった任務だったが、まだ志願する者はいなかった。

極秘任務でもあり乗船期間も含めれば五か月程は基地内と船内での生活になる。

外部との接触、通信等は一切できない。これから結婚しようとしている者は端から人員選考から除外されていた。そのため今回の徹の志願に対し、上官達は困惑した。

しかし徹は信頼できる上官に現在の状況を掻い摘んで話をしていたため、その上官を通し、今回の任務に徹が任(あた)ることとなった。

徹は奈保子に電話をした。しかし応答は元より掛かってくることもなかった。

一週間後、徹は横須賀の基地に足を踏み入れた。


奈保子は10月から放送のドラマの収録に入っていた。それ以外にもテレビ出演も入り、多忙だった。

一時業界内では徹の醜聞が広まったが、西島のことが知れ渡ったことと同時に、噂の出どころも西島だったと多くの者が知ることとなった。

最近では奈保子は、いつ結婚式をするのかと聞かれる機会が多くなった。

はっきりしたことは奈保子にもわからなかった。

「来年になるかも」最近の奈保子の仕事量からも多くの者がそれで納得していた。

奈保子は、正直心の一端には不安があった。徹と以前のような関係に戻れるのか、

本当に許してくれるのか。一刻も早く会いたいがその時徹とどう向き合ったらよいかわからなかった。その不安が拭い切れないのは、まずは徹に連絡が付かないからだった。以前、任務によっては連絡を絶つことがあると徹から聞いてはいた。

あわせてその時はそのようなことがあれば事前に伝えるという話をした。二人が距離を置いた時に徹から一度連絡があった。その時は取り次ぐ気が起こらなかったためそのままにしていた。その電話の内容は、果たしてどうなのか、今となっては確かめる術はなかった。

鳴らない電話を見つめては、会いたいと泣いていた、そんな日々が続いている。

気が付けばまた、徹のことを考えている。

困っている人がいれば自分を顧みず駆けつけ、皆に気を配り、優しく、自分をしっかり持った誠実な人、自分に向ける柔らかな眼差し、浮かんでくるのはやはり今まで見てきた同じ姿だった。

「徹君は、本当に優しい人だね」

「奈保さんもいつも同じことをしているでしょ。一緒に居るから僕もそうなるんだよ」「それは違う」

「いや、大スターでも人として大切な心をきちんと持っている奈保さんだから、優しさも自然と出てくるんだよ。その影響を僕も受けているよ。奈保さんからのやさしさの贈りものだよ」二人が平穏で幸せだった頃の会話だった。 

会いたい きつく抱きしめてこの不安を拭い去ってほしい これがきっと最後の恋になるから  心は徹で溢れていた。

奈保子は何もせずただ待つということができなかった。仕事の合間を縫って幾度か

横浜のマンションに寄った。しかしその都度状況は変わらなかった。

久々のオフの時も海辺の別荘にも足を運んだが、状況は同じだった。都内の徹の部屋も訪れた。道路から見上げた部屋は、一度も明かりが灯ったことはなかった。

「徹君、どこにいるの?私を許してくれないの?」不安からそう思う反面、まだ徹との関係を取り戻したいという切なる願望と共にその期待があった。

奈保子には、あの手紙が一縷の望みであり、今の自分の支えでもあった。徹を信じる それしかなかった。


「奈保子、どうかしたか?」「え?どうして」

「最近、顔つきが変わったような気がしたからな」「お母さんもそう思っていたわ」

実家に戻った時は、徹との関係は終わったと感じていた。また徹にひどいこと言ってしまったこともあったが、徹への不信感もあり、もう余計なことは考えず、

仕事だけに専念しようと必死だった。きっと実家に帰った時からつい最近までは表情が違っていたのだろう。

「忙しいのは知っているが、表情が少し穏やかになったと感じるのは、仕事が順調に行っているだけではないようだな」奈保子は曖昧に頷いた。

「きっと徹君も、今の奈保子と同じ気持ちを抱えて過ごしているだろうな」

「どうして?」「なんとなくだよ」奈保子の父も曖昧な返事だった。

徹は、奈保子に一度電話を掛けた。折り返しの電話もなかったこともあり、奈保子の父に電話を掛けていた。お互い余計なことは言わなかった。徹は、特殊な任務に就くことだけ伝えていた。父は奈保子に徹から一度電話があったことだけ伝えた。

「お父さん、私、間違っていた。噂に惑わされて徹君を疑って、苛立ちからひどいことも言ってしまって、私から二人の関係をやめようとしたけど、あの時はやっぱりまだ心から信じていなかったんだと思っている。でも離れて色々と今までの事を思い返してみたの。徹君は私が知っている通りの徹君だし、そんな徹君が好きになったし、そんな徹君にはいつまでも私のこと好きでいてほしいと今では心からそう思うの。

私にとって徹君は本当に大切な人ってわかったの。親の前で言うのも恥ずかしいけど、人を愛することを徹君が教えてくれたと思っている。今は徹君を心から信じている。徹君は今、私達がいる所と違うところにいるような気がしているけど、でもどこだろうと望んでくれたらいつでも飛んで行こうとそんな気持ちになっているの」

「心に翼があるようだな。それでいい」奈保子の父は笑みを浮かべ静かに呟いた。



《モノクロの恋》

10月からの放送のドラマの撮影も終わり、奈保子は年末、年始の仕事に時間を取られるようになっていた。相変わらず忙しかった。徹との婚約を機に様々な仕事の依頼が来ていた。CMも含めテレビだけでなく、雑誌インタビュー、ラジオ、イベントのゲスト等多岐に亘った。連日、朝から遅くまで仕事をこなした。

月の王子の写真はもう縁(ふち)がだいぶと曲がってしまった。あの手紙も一緒だった。何度見ただろうか。今の奈保子にとっては実体はないが唯一徹の代わりになるものであった。写真に、様々な声をかけたし、問いかけもした。もちろん返事はない。でもため息は出ない。

クリスマスも仕事が入っていた。夜は家族で過ごした。食卓で細やかなクリスマスパーティが行われた。奈保子の両親も特に徹のことに関して口に出すようなことはなく、また奈保子の心も落ち着いていたため、徹と一緒になる前と何ら変わらないクリスマスだった。

寝る前に、縁の曲がった写真に「徹君、元気にしている?今日はクリスマスだよ。どう過ごしているの?私はいつも徹君のことを思っているよ。また会える日を夢みて頑張るね。 メリークリスマス」そう呟いた。

最近は仕事の中で結婚に関する意見を聞かれる場面が多くなった。ふたりのプロポーズ映像はまだ世間には鮮明に記憶されていた。

奈保子は自分が感じたことをその都度話した。揺るぎない一貫性があり、また式を

挙げていないのでと謙虚に意見を差し控える場面もあり、そのような姿に聞き手も含め、多くの視聴者に共感された。

仕事関係や芸能界の友人は「いつ結婚式を挙げるの?」と聞く者もいれば、

「最近一緒にいる時間が少ないのじゃない?」と言う者もいる。

久しぶりに会った吉元からも同じように「奈保子さん、なんでそんなに仕事を入れているの?二人で居る時間、ないでしょ。色んな噂も流れていたけど、大丈夫よね?

今は殆どの人はあれはデマだったって認識しているからね」と言われた。

マネジャーからも一時、徹との関係を心配されたことがあった。

もちろん淋しさはない訳ではない。黄昏を見れば、月を見れば、徹の面影が胸に迫る。しかし奈保子には信じるものがあった。

そんな奈保子の表情から誰も破局はないと感じていた。


奈保子と吉元は久々に食事を共にした。

「奈保子さん、ちょっと前まで徹さんの変な噂をあちらこちらで耳にして、私も心配したけど二人は大丈夫なのよね?」吉元は確認するように訊いた。

「私もあの噂には当初動揺しましたけど、今では自信をもって否定できます」

「そうよね。噂を聞いた時は、私も徹さんと何度か話したことがあるからイメージと

かけ離れているし、嘘でしょと思ったもの。じゃ二人の仲は安泰なのよね?」

「うーん」奈保子の返事は浮かないものだった。

「でも奈保子さん、今は忙しくて徹さんとはすれ違いが多いのじゃないの?」

「吉元さんだから言いますけど、ここしばらく私は徹君には会っていなんです」「え、どういうこと?一緒に住んでいるんでしょ」

「正直に言うとあの噂は初めは自分自身も否定し切れなかったんです。仕事面でもあの時色々あって、私から徹君に時間も距離もおこうと言ったんです」

「え! まさか別れたんじゃないよね?」

「徹君とは5か月位会っていません。でも別れてはいません」

「え、電話でのやり取りはしているのよね?」

「いえ、徹君の電話は繋がらない状態なんです」

「え!え?」吉元は頭の整理が就かず、次の言葉が出なかった。

「徹君とはちゃんと繋がっているんです」「どういうこと?」

「直接会って聞いた訳ではないし、それを示すものも見聞きした訳でもないですけど、今、徹君は自衛官の仕事で連絡が取れない状態になっていると思っています」

奈保子は先日の父との会話の中、父の態度からそう思ったのであった。

「思っていますって・・。そうじゃないかもしれないじゃない!」 奈保子は、静かに微笑んだ。

離れても、離れていない 浮かべるといつも傍に 徹の優しい眼差しが 胸深く留めているから

奈保子の心は、吉元とは対照的に穏やかであった。

「うう、私には理解できない。モノクロの恋と表現すべきか・・」 



《月影のふたり》

奈保子は今年の仕事は残り二つとなった。その一つは一泊二日で関東近郊でのロケで新春時代劇のゲスト出演だった。この年末は奈保子は多くの仕事が入り、

スタジオ撮りは終えていたもの、野外と山寺でのシーンに関しては、監督も奈保子のスケジュールに合わせた形となり、年末も差し迫ったこの日程となった。

奈保子にとっては、北大路との共演から秋の番組編成で放送されたドラマを挟んだが、続けての時代劇だった。北大路との共演で女優としての評価を上げ、関係者だけでなく、世間からも今回の時代劇、奈保子の演技・表現力には期待が高まった。和装の奈保子も評判が良かった。役処としては主人公の戦国武将の姉で、主人公が若い時の姉弟の回想場面での収録だった。奈保子は多忙な中でも暇を見つけ、台本やその時代背景から役柄を作り、スタジオ収録そして今回の撮影に臨んだ。

早朝、事務所のワンボックスカーで事務所スタッフ、マネジャーと共に出発した。

「奈保子さん、今年の仕事は残すところあと二つです。大きなものは今回のロケ、あと30日の午前10時にラジオの新年一番目の放送の収録だけです。

もうひと踏ん張りですよ。あとお話頂いた通り、明後日の29日は仕事を入れてませんから」車中マネジャーは言った。

奈保子にとっては、30日に2時間程度のラジオ収録が仕事納めだが、今回のロケが色々あった今年の最後の大仕事であった。明日の帰りの予定は事務所に夕方

5時に到着となっていた。奈保子にはその後確信を持って向かう先があった。

寒い日だった。日が昇る頃には、現場に到着し、関係者、スタッフに挨拶をし、撮影の準備にかかった。

予定のシーンを撮り終え、一日目の撮影は終わり、明日はまた場所を変え、ホテルから少し離れた場所にある由緒ある寺の境内でのシーンだった。

ホテルにチェックインした際にマネジャーは「奈保子さん、お疲れ様でした。明日は恐らく天候は日中までは持つでしょうから、なんとかロケは終わりますよ。

明日も少し早いですが、5時半に電話します」と言った。

奈保子は部屋に入り、明日の準備を始めた。そしてその後のことに思いを馳せた。様々な感情が浮かび、なかなか寝付けなかった。


撮影を終え、監督、関係者、スタッフに挨拶をし、車に乗り込んだ。時刻は昼過ぎであった。奈保子は今日のこれからを考えていた。天候も気になった。

でも想いは同じと思った。

奈保子は、間違えなく今晩だと思っていた。胸の高まりはあるが、その時どのような言葉で話しかけたらよいのかわからなかった。

瞼の奥に立っている姿を思い浮かべていた。奈保子の記憶はここで途切れた。


徹は、約五か月に及ぶ任務を終えた。

船内の生活は、途中物資補給のための浮上はあったものの計三か月に及んだ。久しぶりに地面を踏んだ時は、痺れた足で立った時のようで、自分の足で地球の上に立っているという感覚が戻ったのはしばらく経ってからだった。下船してからは10日間、生活リズムを整えるトレーニングがあり、徐々に体調、体重、体格も体の感覚も戻ってきた。ゲート前で隊員と別れ、久しぶりに基地の外に出た。一度振り返り、また

黄昏時の冷たい海風が吹く中を歩き出した。

徹は久しぶりに携帯電話の電源を入れた。奈保子からの着信が数件、録音された音声もあった。

最後の録音には、「信じている」と入っていた。徹も乗船中は奈保子のことを考えていた。初めての出会いから一緒に過ごした時まで、何度も思い返した。

人生を賭けて、奈保子を幸せにすると誓った。自分の中での答えは揺るがなかった。


冷たい海風が吹く中、独身時代から借りてるガレージに向かった。車はディーラーの担当に預け、週1回エンジンを回す依頼をしており、昨日ガレージに入れてもらっていた。シャッターを開けた。夜間はセンサーで室内灯が点くようになっている。久々に車を眺めた。

いつしか頭の中では、奈保子との思い出を辿っていた。我に帰った。どのくらいの時間が経っていただろうか。

ドアを開け、シートに身を屈めた。ハンドルの感触を確かめ、エンジンを掛けた。

久しぶりに下腹に響くエンジンフローを聞き、ゆっくりガレージを出た。

向かった先は横浜のマンションではなく、海辺の別荘だった。


乗船前に立ち寄ったきりの海辺の別荘に着いた。入り口の鎖は外したまま、また車に乗り、スロープをゆっくり降りた。

いつもの位置に車を留め、車から降り、辺りを見渡した。敷地の手入れを業者に依頼をしていたため、荒れた印象はなかった。

徹は家には入らず、目の前の砂浜に降りた。冷たい風は、入り江に溜まる潮の香りを軽くし、辺りを澄んだ空気に変えていた。

徹は制服の上に着こんだコートの襟を閉じた。

月を見ていた。


奈保子はアクセルを踏み続けた。全ての距離を縮めたい 馳やる気持ちはあるが、

一抹の不安もない訳ではない。バックミラーを一瞬見た。

どういう顔で、どういう言葉で会ったらいいのか、しかし高鳴る胸の音が脳裏に響くだけで、まとまらず最後まで分からなかった。


入り江沿いの道を走る遠くの車のヘッドライトが近づいている。

風の音と潮騒だけだった中に耳馴れたエンジン音が被さった。

エンジン音は次第に大きくなり、しばらくすると一台の車がスロープを降りて来た。一瞬止まりかけたが、慣れたように車が留まった。

徹はまだ月を見ていた。


奈保子は濃紺のアウディを見た瞬間胸が詰まった。同時にブレーキに足が掛かった。胸の詰まりは鼓動に変わった。またゆっくりと車を進ませた。

留めた車の中から砂浜に佇む徹の背中を見た。

そして引き寄せられるかのように歩き出した。何も考えなかった。


背中越しに感じる足音と共に、徹は潮風の中に懐かしい匂いを感じた。

足音は徹の横で止まった。しばらく二人は並んで、月を見ていた。潮騒はもはや耳には入らなかった。

「徹君、ごめんなさい」懐かしい声だった。「ずっと奈保さんの事を考えていたよ」

「私も。一時は二人の出会いさえなかったんだと思い込もうとしたこともあった。でもひどいことを言ったこと、徹君を信じなかったことをずっと後悔していたの」

「奈保さんがいない人生なんか考えられない。奈保さんが、僕の生きる理由の全てだよ」

「私も離れて、徹君が自分にとってどんなに大切な人か本当にわかった」

二人は同じ思いだった。この数か月、それぞれが出会いから振り返り、重ねた時間の中で互いの存在が不可欠であるということに心で思い至っていた。

「どうして、今日はここに?」

「私が愛した人は、月の王子だから」

徹は横顔で微笑んだ。

「また僕の傍で歌ってくれないか」胸が込み上げ、言葉が出なかった。

直接的なものではなかったが、ずっと待ちわびた言葉だった。奈保子は頷いた。

徹は奈保子に顔を向けた。奈保子も徹に顔を向けた。二人は記憶の中の互いの姿とを確かめるかのように見つめ合った。

月に照らされた奈保子は、あの時と同じく、眩く、美しかった。

風に舞い顔に架かった奈保子の髪を指先で戻した。

「奈保さん、きれいだよ」

「徹君も世界で一番かっこいいよ」

海風が柔らかなそよ風のように吹いた。

そして月の前のふたつの影は静かに重なった。


今年最後の満月だった



《ONLY IN MY DREAM》

妄想だった。

夏の日の海の町、飛び交うざわめきの中、奈保子は誰かを見つめていた。

ひときわ眼を魅いた、明るい海辺には不似合いな憂いを滲ませた横顔

何故か顔は見ることができない。しかし一瞬のときめきで愛おしい人だとわかった

飛び交うざわめきの中、人知れずその手をとった

浅い夢の中に居るようで、体が浮いている 何か聞こえるようだけど、判然としない 顔の見えない人が遠のいていく 次第に世界は漆黒の闇に包まれていった。


奈保子を乗せたワンボックスカーは事故に巻き込まれた。撮影現場を離れ、高速の手前の一般道路で、雪が降り始めた路面にスリップした対向車がワンボックスカーの正面に突っ込んできた。対向車は下り坂を走行していたためスピードが出ていた。

その状態でスリップによりブレーキは元よりハンドルも制御不能のまま奈保子を乗せた車に吸い込まれるようにそして勢いそのまま激しく衝突をした。その衝撃で双方の車の前方は無残に大破した。

この事故で負傷した者は近くの中核病院に搬送された。奈保子もその一人だった。

この事故が徹と奈保子、ふたりに大きな影響を及ぼすことは、誰も想像すらできなかった。


徹は、約五か月に及ぶ任務を終えた。

ゲート前で隊員と別れ、久しぶりに基地の外に出た。一度振り返り、また黄昏時の冷たい海風が吹く中を歩き出した。

徹は久しぶりに携帯電話の電源を入れた。奈保子からの着信が数件、録音された音声もあった。

最後の録音には、「信じている」と入っていた。徹も乗船中は奈保子のことを考えていた。初めての出会いから一緒に過ごした時まで、何度も思い返した。

人生を賭けて、奈保子を幸せにすると誓った。自分の中での答えは揺るがなかった。

最後に奈保子の事務所からの着信が入っていた。奈保子の事務所から電話が入るのは珍しかった。

留守番電話を聞いて徹は凍り付いた。あやうく携帯電話を落とすところだった。奈保子の乗った車が事故に巻き込まれ、奈保子は意識不明とのことだった。

徹は急いでアウディが置いてあるガレージまで走った。戻りかけた体力の続く限り、懸命に走った。

「奈保さん、無事でいてくれ!」心の中で何度も叫んだ。

乗船期間中、車はディーラーの担当に預け、週1回エンジンを回す依頼をしており昨日、ガレージに入れてもらっていた。

息を切らしシャッターを開けた。ドアを開け、助手席に荷物を投げ込み、エンジンを掛け暖気もせず、そのまま走り出した。

徹は走行中だったが、奈保子の父に電話をした。

「おお、徹君か、奈保子のことは聞いたか!」

「事故に巻き込まれ、意識不明という事を聞いています!今、任務を終え、奈保さんが運ばれた病院に向かうところです!」

「我々も外出していて、帰宅してから知ったんだよ。これから上越新幹線に乗るところだ!」

「奈保さんの詳しい状況を聞いておりますか!」

「いや、でも一命は取り留めていることだけは聞いている」

「とにかく私も急いで向かいます!」

今年最後の満月は藍色の分厚い雪雲に阻まれ、その姿は見えなかった。


徹は、途中から雪道だったが3時間足らずで奈保子達が搬送された病院に着いた。

午後9時であった。病院受付は閉まっており、夜間受付の矢印を確認し、走った。

「婚約者が事故に巻き込まれ、こちらに搬送されたと聞いております」

「このまま真っすぐ行って、突き当りを左に行くとロビーに出るから、案内をみて救急処置室に行ってください。あ、走らないように!」

徹は早足で案内があった方に向かった。

「佐伯!」徹は声に振り向いた。

「浦岡!どうしてお前がここにいるんだ?」

「俺は今、留学から帰ってからここに勤務しているんだ。お前の婚約者が川瀬奈保子だってことは知っていたから、お前が来ると分かっていたよ。でも遅かったじゃないか。事故は昼過ぎだったぞ」

「ちょっと任務があってな。ところで彼女はどうなんだ!」

「一命は取り留めている。だが頭部を強く打っており、右肩も骨折している。他にも複数打撲痕がある。意識もまだ戻っていない。脳の損傷は現時点では見受けられないとのことだ」

「お前も治療にあたったのか?」

「いや、ここの救急外来が処置した。俺は脳外科だ。先程MRI画像を見た。脳自体の損傷は見受けられないが、脳圧はまだ高い状態だ。点滴で脳圧を下げている。

内臓のダメージはないとのことだ」「大丈夫なのか?」

「なんとも言えんが、右肩の骨折は手術の必要はないみたいだが、当分の間リハビリが必要だと思う。脳の方は、意識が戻ってからではないとどういう影響が出ているのか、まだわからん」

「会えないのか?」「今はまだ無理だ。HCU(高度治療室)にいる」徹は肩を落としたが、再び顔を上げ訊いた。

「事務所の連絡では、車同士の事故と言っていたが、他は大丈夫なのか?」

「詳しくは知らないが、死亡者はいないと聞いているぞ。でも川瀬奈保子の方の運転手の両足は厄介らしい。まだオペが続いているよ」

徹はHCUの前にいた。一命を取り留めたといえど、脳への影響を懸念していた。

どうか無事で元のままで戻ってきてほしい ただそれだけ願っていた。

「徹君!」「お父様、お母様!」「奈保子に会えたか?」

「いえ、まだ会っていません。先程高校の同級生でもあるここの医師に聞いたところ、一命は取り留めているということですが、頭部を強打していることで脳圧が高い状態で、右肩を骨折しているそうです。脳の画像検査では今のところ脳の損傷はないとのことです」

「それは安心していいということか?」

「はっきりはわかりません。右肩の骨折の方は手術の必要はないとのことですが、

リハビリは必要という事でした。意識もまだ戻っていなく、大きな事故ということで、以後どういう影響が出るか懸念も拭えません」

「予断はできないと」「そうです。まずは早く意識が戻ること、それからだと思います」

3人は、HCUの前のベンチに腰かけた。会話はなかったが、奈保子の母のすすり泣きが続いていた。

明け方、一人の医師と看護師が3人の前に立った。立ち上がり、医師の話を聞いた。

ある程度状態は落ち着いたが、本日また様々検査を実施する予定で、骨折と頭部を強打していることもあり、今後は整形外科、脳外科の医師も加わり、経過を観ていくという。奈保子の父は後遺症について尋ねたが、現状ではまだ返答できないとのことだった。また一目でもという申し出も、しばらくは面会も叶わないとのことだった。

「当面は、黙って経過を見守るしかないようだな」奈保子の父は力なく言葉を発した。

奈保子の両親は駅前のホテルにしばらく逗留し、病院に通いながら奈保子の経過を観ていくことになった。

タクシーに乗った二人を病院の前で見送り、徹は浦岡と面会した。

「浦岡、すまない。忙しいんじゃないのか?」「まあすることは鬼のようにあるが、大丈夫だ」

「俺の婚約者である彼女の画像を見せてくれないか?」

「おう、お前なら問題ないだろう」

浦岡は医局の片側にあるいくつか並んだパソコンにパスワードを入れ、電子カルテから患者名川瀬奈保子と表示された画面を立ち上げた。

徹は所見、検査値、処置内容、そして画像検査の画面を食い入るように見た。

「わかるか?」「お前ほど専門ではないが、週2回程度だが、3年ばかり横須賀にある救急外来に勤務し、様々な画像を見てきたからなんとかわかる」

これから様々検査をしていくとのことだが、確かに画像から脳には明らかな損傷は見られなかった。

「佐伯、不運な事故で婚約者が大変な状況だが、ここには俺がいるから何かあった時は真っ先にお前に連絡を入れるよ」

「ありがとう、浦岡。俺の命ともいえる婚約者なんだ。どうか宜しく頼む」徹は頭を下げた。

面会謝絶だが、徹は奈保子の回復を願い、HCUの前で二日間過ごし、三日目の早朝横須賀に向かった。


正月早々世間では、川瀬奈保子が事故に遭い一命は取り留めたが意識不明の重体であるとのニュースがあっという間に広まった。連日テレビ等で頻繁に放送された。

徹にも上官や同僚、病院関係者、多くの人から気遣いの言葉が掛った。

当然取材陣も徹のところに連日押し寄せた。徹はまだ自身も会えていないこと、進展があれば奈保子の事務所から話がある旨を伝えるだけであった。

徹は毎日2回ほど奈保子の父に連絡を入れ様子を聞いたが、進展はなかった。

しかし浦岡と面会した五日後、横須賀に向かった三日後の夕方に、徹の携帯に連絡があった。奈保子の意識が戻ったとのことだった。

徹は浦岡に礼を言い、直ぐに奈保子の父に連絡をした。奈保子の両親はホテルの部屋にいるところだが、急ぎ病院に行くとの返答だった。

徹は一刻も早く会いに行きたかったが、今勤務を投げ出すことはできなく、また渋滞時間も考慮すると、奈保子の病院に行くとなるとかなり遅くなると思った。

今日は両親が付き添うので、明日早朝に出て、会いに行くこととした。


徹は朝早く横浜を出た。奈保子の病院には、8時前に到着した。結果が良ければ、病室に移るという。むろん奈保子は特別室である。徹は時間の許す限り奈保子と

一緒に居ることを期待した。まずは顔を見たかった。可能なら時を忘れずっと抱きしめたい 搬送されてからずっと思っていた。

約束の時間に奈保子の両親と病院のロビーで落ち合った。

「奈保さんの具合はどうでしたか?」昨晩、徹は奈保子の両親は奈保子と対面したという事を聞いていた。また改めて詳しく聞きたかった。

「ううん、昨晩はHCUの中に通されて対面したが、色々な管や器械に繋がれていた状態で、表情もいつもの奈保子とは少し違った印象を持ったな。二人で声を掛けたが、大きな事故の直後という事で、まだ頭の整理が出来てない様だ。掠れた声で、はい ありがとうございます なんて言葉を遣って、我々の事もまだ認識できていない状態だったよ」徹はショックではあったが、仕方がないと思った。しかし受け答えができたことは良かったと素直に喜び安堵した。

両親も一応はそれで納得はしていた。

3人はまず主治医に会った。主治医は北村と名乗った。現在の奈保子の状態を説明し、今後の検査、入院中の治療方針を話した。あわせて昨日の奈保子と両親の対面時の様子から奈保子の記憶障害の可能性についても話があった。事故での受傷によるもので、一時的なものではないかと思うが、もう少し様子みて診断を下すとも話があった。意識は戻った。しかしまだ混乱を来す恐れがあるため、主治医の許可が下りるまで、本人が芸能人だったことや川瀬奈保子に関することは一切口に出さないことになった。解離性健忘、所謂記憶喪失と後日診断が下された。まずはゆっくりと日々を過ごし、落ち着いた環境の元、徐々に過去のことや自身の周りのことを見たり、話をし、自己の記憶を取り戻していくという方針となった。両親も婚約者である徹も現時点での過剰な接触は控えるよう言われたため、病室での長居や長話はできなかった。ましてや抱きしめることも今はできなかった。昨晩、奈保子の母が思わず奈保子を抱きしめたが、明らかに奈保子は狼狽の色をみせた。

話の後、3人は奈保子の病室に向かった。奈保子は眠っていた。

「起こさなくていいです」徹は奈保子の寝顔を時間が許す限り見つめた。

「はて、いつ、何が切っ掛けで元の奈保子に戻ってくれることやら」奈保子の病室を出た後、奈保子の父は独り言のように呟いた。

「お父様、どれだけ時間がかかるか、また何を切っ掛けに記憶が戻るかわかりませんが、その切っ掛けとなりそうなものは沢山あると思います。リハビリ期間もありますので、一歩一歩やっていくしかないです」

「そうだな。まずは生きていることに感謝しないといけないな」


特別室に移った奈保子は、少しずつ食事も口にできるようになった。奈保子の両親は面会時間の制限の中、右腕を三角巾で固定されベッド上の生活を余儀なくされている奈保子の身の回りの世話をした。「すみません。あ、あとで私がします」と奈保子はまだ目の前にいる二人を自分の両親と認識できていなかった。

それでも二人は娘の傍で表情を見たり声を聴くことだけでも嬉しかった。意識不明の重体と一報が入った時の心境と比べたら雲泥の差であった。

しばらくはそんな日々が続いていた。


主治医の北村は不定期に奈保子の病室を訪れた。

「川瀬さん。あなたは川瀬奈保子さんという名前なのですよ。今は思い出せないかもしれませんが、これからもあなたを川瀬さんと呼びますので、その時は自分が呼ばれたと思って下さい。川瀬さん、調子はどうですか?」

「はい、気分は悪くはないです。でもまだ頭が痛むような重い感じはあります」

「まあ、そうでしょう。あなたは大きな事故に巻き込まれたのですから。でももう大丈夫です。ここは大きな病院で多くの医師やスタッフがいますので、安心して過ごしてください。右肩を診てみます。痛みはまだありますか?」

「はい、まだ痛みもあり動かすことができません」

「では上着を脱いでください」奈保子は一瞬躊躇った。付き添いの看護師は三角巾で吊るされ右腕全体が動かせない奈保子の入院着の前を広げ、右肩を出した。

北村は奈保子の傍にきて右肩を診た。

「骨折はしているですが、複雑に折れていた訳ではなく、きれいに亀裂が入った状態だったので手術の必要はないと判断しています。他の影響があるかもしれないので、失礼」北村はおもむろに奈保子の入院着を更に下げた。奈保子の豊かな胸が露になった。

北村は脇の下に手を入れた。奈保子は診察の一環かと思ったが、次の瞬間、北村は

奈保子の右胸を掴んだ。「北村先生」看護師が声を掛けた。「筋肉や腱の具合を診ているんだよ。もういいですよ」看護師は奈保子の入院着の前を整えた。

北村の肩周辺の確認以外のこの胸を触ったり、脇の下に手を入れる触診は続いた。


北村の診察の次の日は、浦岡が奈保子の病室を訪れた。頭部を強打し、解離性健忘にもなっている奈保子であったため、脳外科医が就くことになった。

浦岡は担当を申し出た。上級医には都度判断を仰ぐという形で了承された。

浦岡は、患者は親友の大事な婚約者である その親友のためにも医師として担当をしたいと強く思っての申し出だった。認められなくても何らかの形で関りを持つつもりでいた。

奈保子の初めての診察の時、自己紹介をしたが婚約者の佐伯とは高校の同級生だという事は伏せていた。まだ事故から一週間程度しか経っておらず、記憶の整理もついてもいない状態で、そう告げるのは時期尚早であると分かっていた。浦岡は親友のためにもという思いから奈保子との応対を慎重かつ丁寧に行った。

体の気遣いもそうだが、日々の過ごし方、何か必要なものを訊いたり、またベッドで一日を退屈に過ごす奈保子の話し相手にもなったりと細かく対応を図った。

それは本来奈保子の両親がすることではあったが、現在の方針の中では浦岡がそれを買って出て、その詳細を両親に伝えていた。また診察の様子も徹にも伝えた。


「佐伯、今大丈夫か?」「ああ、大丈夫だ」

「お前の大事な婚約者は少しずつ食事も摂れるようになり、身体的には回復してきているぞ」

「そうか、良かった。でもまだ記憶を取り戻したとかはないよな?」

「残念だが、まだだ。急に色々進めていくことは治療方針上、しないんだよ」

「そうだったな。でもありがとうな、こうして浦岡、お前が担当になってくれたことをありがたく思っているよ」

「水臭いこと言うなよ。ところでお前は忙しいのか?」

「まあ、つい最近まで自衛隊での任務があり、その成果をレポートとしてまとめなければならなくて、勤務時間以外の時間は日々それに取られている状態だよ。でも日曜はまたそちらに行く予定だ」

「そうか。じゃまた日々の様子は俺から連絡するから、こっちに来たときは短い時間だが婚約者と貴重な時間を過ごしてくれ」

「ああ、そのためにまた日々頑張るさ。浦岡、彼女のことまた頼むな」

「ああ、任せろ。また連絡する。じゃあな」


日曜日になり、徹は奈保子の病室を訪れた。奈保子は知らない男が突然部屋に入ってきた時に普通の女性がするであろう反応をした。当然だろうと徹は思った。

先日は眠っている奈保子は見た。起きている奈保子は一回り痩せた印象だった。

しかし変わらず美しかった。この数か月ずっと奈保子の面影を追って過ごしてきた。今、目の前にいる奈保子は、右腕を三角巾で吊り、痩せた印象も相まって痛々しさえ感じる。抱きしめたい衝動を抑えた。

徹は奈保子との距離を取り、主治医の言う通り長居を避け、焦らずゆっくりと話をするよう心掛けた。自分の名前を告げたが、初めて会う人物を前にした時の反応だった。

左手で胸元を掴むような警戒する姿勢のまま「あなたは私と関りがあった方ですか?」と小さな声を発した。「そうです」「すみません。本当にわからないんです」

「大丈夫ですよ。急ぐ必要はないですし、何か急いだからその分早く色んなものを思い出せるとも限らないですから。ところで今、体調はどうですか?」

「何とか大丈夫です」「食事もしっかり摂れていますか?」「あ、はい」

一時は意識不明の状態でHCU室で集中治療を受け会うことが出来なかった奈保子が骨折と記憶消失の状態ではあるがこうして言葉を交わせられる状態になったことを素直に喜んだ。沈黙に戸惑っている奈保子が可愛かった。

「今、何か必要なものや欲しいものがありますか?食べたいものとかも」

「そういうものは浦岡先生に伝えております」

「わかりました。約半年ぶりにお目にかかりましたが、思ったより顔の艶が良いので安心しました。奈保さんは大変な事故で大けがもしていますからゆっくり静養してください。今日は顔が見れて、また話ができて良かったです。また来ますね」

ふたりの久々の対面はあっという間に終わった。

奈保子は、初めて病室を訪れ自分を奈保子さんではなく奈保さんと呼ぶ今の男のゆったりとした雰囲気にどことなく懐かしさを感じた。

ずっと自分を見つめる優しい眼差しと呼び方からして一瞬特別な人かと思ったが、

6か月ぶりに自分に会ったという事は日常的に接していた人ではないと思った。

同時に自分にとっては重要度は低いと思った。


奈保子は次第に浦岡の診察が楽しみになってきた。優しく対応をしてくれ、色々話を聞いてくれる浦岡に信頼感が生じてきた。

ある時、ふと北村先生の触診が何となく嫌だという事を奈保子は話した。それを気に留めた浦岡は病棟の看護師に何があったのか詳細を聞いた。

それは診察に関係することなのか疑問に思った。浦岡は自身に目を掛けてくれる病棟看護師長にその話をし、やめてもらうことはできないだろうかと相談した。

看護師長も気になっていたことだったと言い、私から北村先生に言っておきます との返答をしてもらった。

看護師長はベテランであり、仕事面も誰もが認め信頼されかつ人望もあり、どの医師からも一目置かれる存在であった。 北村にどう伝えたかははっきりしないが、次の診察から触診はなくなった。

奈保子は、浦岡の診察の時「先生、ありがとうございました。先生のお陰であの触診はなくなりました」と言った。

「え、あれは病棟看護師長が北村先生に言ってくれたことで、僕は関係ないです。

研修医を終えたばかりの医者で、僕にはそんな力はないですよ」と笑った。

奈保子は看護師からもうあの触診はないですよと聞いた。何故と訊くと浦岡先生がやめさせるよう対応をしたという。それで浦岡に礼を述べたが、浦岡は自分ではないと否定し、またそんな力はないと謙遜している。奈保子の浦岡に対する信頼はまた更に高まることになった。


奈保子は楽しそうに浦岡と話をする。浦岡は笑顔を交え話す奈保子に少しずつ魅かれていく自分がいることを自覚していた。笑顔の奈保子は愛らしく美しかった。

しかし奈保子は親友の婚約者であり、湧き上がる自分の想いを抑えなければならないと自分に言い聞かせた。

浦岡は奈保子がどういう人物だったか思い出すよう徐々に今までの奈保子の話をするようにした。医師と患者の信頼関係という面では十分醸成された状況であった。

奈保子は浦岡の話を真剣に聞いた。自分がテレビに出るような有名人だということを聞いたが、全く記憶も自覚もなかった。また毎日短い時間ではあるが、奈保子の衣服の洗濯や病室での身の回りの細々なことをしている二人は自分の両親であることも聞いたが、同じ思いだった。

奈保子は診察、治療の後の浦岡との雑談が楽しみであった。浦岡も診察を終えた後、奈保子と他愛もない話をするのが同じく楽しみであった。

浦岡は日々奈保子に魅かれていく自分がいることを必死で否定し、その感情を抑え込んだ。が、その膨張は抑えきらないようになってきた。

浦岡の診察は毎日、午後から行われるようになった。記憶を想起させる話を徐々に進め、時折奈保子の歌も聴かせたが、成果はなかった。

奈保子は自分がどういう人物であったか、どのように今まで過ごしてきたのか、その中でどのような人と関りがあったのか、その都度思い出そうと試みたが、できなかった。両親も同席し幼少期の家族写真を見せた時、奈保子は急に頭痛を訴え、同時に思い出せないことに対し、感情を失禁してしまった。

浦岡は両親の見ている前だったが、奈保子の肩を抱き、言葉をかけ落ち着かせようとした。奈保子の動揺は次第に治まった。

その時奈保子の体温、肌の柔らかさが浦岡の記憶に刻まれた。

奈保子も同時に浦岡の体温を感じていた。

浦岡は完全に奈保子に心を奪われた。これ以上奈保子を見ていると歯止めが効かなくなり、徹を裏切ることになると思った。

膨れ上がる気持ち、熱を収めるために浦岡は敢えて診察を休みにした。

二日開け、浦岡は多少荒治療ではあるが思い切って事故当時の奈保子の私物を見てもらうことにした。

記憶を取り戻せれば、親友を裏切らずにすむ、また親友も喜んでくれる そう思ってのことだった。

診察をし、記憶を取り戻す治療を施しているが、しかし一方ではこのまま記憶が戻らなければいい せめて記憶が戻るまでは少しでも長く奈保子と居たいという

強い思いがあった。

浦岡は、テーブルに並べた奈保子の私物から月明りの中少し上を向く徹の写真を抜いた。

カバン、壊れた携帯電話、衣服、台本、メイク道具、手帳、鍵等を見たが、

奈保子の反応はなかった。浦岡は心の中で安堵した。


奈保子の診察は毎日あったが、記憶を呼び戻すための診察やカウンセリング等は進展がみられず、奈保子の記憶も戻っていなかった。

診察と称した時間は、終始談笑に終わる日さえあった。奈保子の両親は、今後記憶を取り戻すためにどのような治療を行うのか、浦岡に訊いた。

浦岡は、急にことを進めると混乱を生じるため、徐々に進めていく 薬物は現時点では考えていない 同じ返答を繰り返すだけだった。

両親は、奈保子の表情が明るくなってきたことに対しては喜んだが、治療が施されている状態ではないことを懸念していた。


徹は土日月と3日間奈保子と一緒に過ごすために休みを取った。その間、奈保子の

両親は一旦東京に戻ることにした。

徹は3日間を通し少しずつ奈保子といる時間を増やしていこうと考えていた。秘匿任務のレポートを終え、昨晩は久々にゆっくり眠ることができた。

早朝、奈保子の身の回りの物をいくつかカバンに詰め、横浜を出た。

「おはようございます。先週もお邪魔しました佐伯です。入っていいですか?」

「おはようございます。大丈夫です」「僕のこと覚えていますか?」

「はい、先週も来られた佐伯さんですよね」徹は笑顔をみせた。

「調子はどうですか?」「はい、いいです」徹に釣られて奈保子の声も上気気味になった。

先週はほんの少しの対面であったため病室をあまり見ていなかった。室内を見渡すとパイプ椅子があったので、徹は「今日は少しお話がしたいので、座っていいですか?」と訊いた。「はい、どうぞ」徹はベッドにいる奈保子から少し離れたところにパイプ椅子を置いて座った。

「ここでは、一日どう過ごされているのですか?」

奈保子の一日の過ごし方を聞き、徹は様々話題を変えながら会話を進めた。

徹は最近身の周りで起こった可笑しいことを話したりし、奈保子の笑いのツボも知っていたので会話は弾んだものとなった。

久しぶりに奈保子の笑顔を間近で見れた徹の胸には、嬉しさがこみ上げた。

午後からは浦岡が奈保子を訪れた。奈保子はまた浦岡との時間を楽しんだ。

浦岡は奈保子の部屋を訪れた帰りに、ナースステーションに寄り、奈保子の事を尋ねた。

「今日は川瀬さんは一日中上機嫌でしたよ。午前中は婚約者の佐伯さんが来られて、外にも笑い声が聞こえるくらい話に花が咲いていました。休みを取ったそうで、月曜日までこちらにいるそうです」

表情が変わった。浦岡は徹に激しく嫉妬した。

「明日は日曜日だが、川瀬さんに集中して診察、カウンセリングをするので、他者との面会は一切断るように」

「え、婚約者の佐伯さんもですか?」

「カウンセリングと治療をするんだ!当然だろ」

浦岡は当初は純粋に親友のために自分ができることをしようと思っていた。しかし奈保子と接することで日に日に想いが募るようになり、今に至っては親友の婚約者だが自分のものにしたいという要求が抑えられなくなってしまっていた。

翌日、徹は奈保子に会うことはできなかった。

看護師に尋ねると、今日は集中して、記憶を取り戻すための診察、カウンセリングを行うとのことで、徹は残念と思う気持ちもあったが、休日返上で治療にあたってくれた浦岡に心の中で感謝した。


翌日の月曜日は会うには会えた。しかし奈保子は、徹の顔を見ようとはせず、一昨日とは打って変わって冷たい態度だった。

「どうしました?どこか具合が悪いところでも?」「いえ」

「何か思っていることがあるのですか?」

「いえ。今日はひとりでいたいんです」

「わかりました。今日は帰ります。ゆっくり焦らず、静養してください」

奈保子は徹の背中を見送った。昨日、浦岡が言ったことを思い返した。

「川瀬さん、昨日来た男だけど、あまり一緒にいない方がいいと思いますよ」

「え、佐伯さんのことですか?」

「誰かわからないけど、患者を預かっているこちらとしては、無闇に尋ねた人、ひとり一人に応対してほしくないです。川瀬さんは有名人だったからこれからそんな素性の知れない者がどんどん病室に訪れることもあるかもしれない。まだ川瀬さんは治療をしている途中で、僕が見ていない所で治療方針にそぐわない言動をする可能性もあるし、第一、昨日訪ねた男が今後君に何をするかもわからないし。いいですね」

「はい、わかりました・・」 

でも何故か懐かしさを感じる 佐伯 徹さん 心で呟いた。


「奈保子、気分はどうだ?」徹と入れ替わるように月曜日の夕方に両親は奈保子の

病室を訪れた。

「はい、大丈夫です」「徹君とは色々話ができたか?」「佐伯さんですか?」

「そう、佐伯徹君だ。何も思い出さなかったか」

「約半年ぶりに私に会ったと言っていました」奈保子の両親は徹と会えば、記憶も

戻るかもと期待をしていたが、奈保子の反応から効果はなかったと思った。

奈保子の父は一瞬二人の今までの経過を話をしようと思ったが、やめた。

「今は、どんな治療を受けているんだ?」「治療?右肩のですか?」

「いや、記憶を取り戻すための治療だよ」

「これといって、特にしていることはないです」

「うん?日曜日は集中して、カウンセリングと治療をしたと聞いたけどな」

「昨日は浦岡先生と長くお話をしました。午後も話をしましたが、いつのまにか一緒に眠ってしまいました」奈保子は笑って言った。


「先生、治療は進んでいるのでしょうか?」

「色々手を変えそれこそ品を変え、試みていますよ。なにか?」

「いや、奈保子に昨日の午後は一緒に眠ってしまったと聞いたので」

「私も休み返上で治療にあたっています。そういったこともあり不覚にも眠ってしまいました」

「わかりました。でも先生、我々と婚約者もいますので、記憶を取り戻す手伝いができると思うのです。面会時間の制限はもう少し緩めて頂けませんか」

「それは考えておりますが、治療の経過をみながら医師である私が判断します」

先日、家族写真を見せた時に奈保子は取り乱してしまった。慎重に治療を進めないとという事は理解したが、家族である我々のことも、また徹のことも思い出さなまま、この浦岡という若い医師との時間が増え、奈保子も心を許し始めて、治療の成果、

奈保子の記憶が戻らないことに奈保子の父は歯がゆい思いだった。

同時に一抹の不安も過った。

奈保子の両親の面会時間は午前、午後の一時間のままだった。短い時間に奈保子に色々話し掛けるが、その時の反応、状況は変わらないままだった。


日曜日、徹は奈保子の両親と病室を訪れた。徹は先週の奈保子の態度が気になったが、今日は両親と一緒であることでまた違う状況になると思い直した。

三人の訪問に奈保子は驚いた様子だった。徹は先週カバンに入れた奈保子の私物を

持って来ていた。話の間でそれらを見せようと考えていた。

当たり障りのない話から、「奈保子、まだ思い出さないかもしれないけど、私達四人で山登りに行ったのよ」奈保子の母が話を始めた。

「ああ、あの時は大変だったな」徹はこの話が適当なのかわからなかった。

「そう大変だったわ。山崩れがあってね。皆必死だったものね」

「皆で力をあわせ被災者の救助にあたったな」

「奈保子も一緒に救助活動をしたのよ。ね、徹さん」「はい。そうでした」

「私はわかりません」

「あなたも外国人の子供に心臓マッサージをして助けたのよ」奈保子は戸惑っていた。自分の両親という人と半年ぶりに自分に会ったという男が自分も関わったという出来事を懐かしそうに話をしている。徹は奈保子の戸惑いを感じていた。

「奈保さん、肩の方はどうですか?」奈保子からの返答はなかった。

「まあ状態が良くなればリハビリが始まりますね。初めはなかなか思うように動かせないことに歯がゆさを感じるかもしれませんが、焦らず頑張ってくださいね」

奈保子は俯いたままだった。徹はカバンから五線譜と奈保子が移動中等に使用していた小さいキーボードを取り出した。

「あまり出歩けないですよね。部屋で過ごす時間を持て余すようなときはこれを手に取ってみてください」

「何ですか、これは?」「奈保子が使っていたものよ」徹は違う返答をしようとした先に奈保子の母が言った。

「わかりません。皆さんがお話されていることも、目の前の物もわかりません。佐伯さんは、半年ぶりに私に会ったといいましたね。浦岡先生はあなたにはあまり近づかないようにと仰っていました。色々なことを理解するのが難しくて、まだ私が誰だったかも自分自身わかっていないですし、頭の整理がつかない状態で混乱することばかりが続いて、辛いです」

「奈保さん、混乱させてごめんなさい。でも皆奈保さんの助けになりたいと思っているので、どうか気を悪くしないでください」

「わかっています。私の方こそすみませんでした」家族である四人であるが、これ以上の話はできず、当たり障りない話しかできなかった。


週末、奈保子の父から徹に連絡があった。

「徹君、今度の日曜日は面会謝絶だそうだ」「何かあったのですか?」

「いや、また集中治療・カウンセリングを行うということだ」

「奈保さんの様子はどうですか?」

「変わらないな。午前中は肩のリハビリ、午後は浦岡先生が1時間ぐらい診察しているよ。この前、徹君が持ってきた五線譜とキーボードは持ち帰れとのことで、

今ホテルの部屋にあるよ。時間つぶしに良いと思うし、何か思い出す切っ掛けになるのではと思うのだけどな・・」

「私もそう思ったのですが、主治医がそう言うのなら仕方ないですね」

「徹君だから言うのだが、私はあまり浦岡先生には良い印象はないな」

「うーん。私も奈保さんの言ったことで気になったこともありますが、何か考えがあったのかと思っています」

「そうだな。まあなかなかうまくいかないな」


奈保子は、今日は両親と言う二人、そしてよくわからない男、佐伯は来ないなと思った。日曜日の昼下がり、これから浦岡が病室に来るのを楽しみにしていた。

次の週の日曜日も面会謝絶となった。連絡を受けた徹は、浦岡に電話をしたがしかし通じなく、折り返しの電話もなかった。

徹は集中治療・カウンセリングが終わった後、ほんの少しでも奈保子の顔が見れたらと思い、病院まで来ていた。

ナースステーションに寄り、奈保子の様子を尋ねた。状態は変わらない、また浦岡は普段も仕事が終わった後も奈保子の病室を訪れているとのことだった。

徹は奈保子の居る特別室に続くフロアーの端にいた。しばらくすると浦岡が奈保子の部屋から出てきた。

「浦岡!」突然の呼びかけに浦岡は驚いた。

「佐伯、ここで何しているんだ!今日は集中治療の日だと聞いていなかったか?」

「いや、聞いていた。しかし一目でもと思って来たんだ」「遠慮してくれないか」「妻の顔を一目見るのもダメなのか?」

「今、彼女はお前を夫とは見ていないぞ。俺も治療計画を立てて、休み返上で治療にあたっているんだ。邪魔をしないでくれ」

「今、どういう治療をしているんだ?」「なんでお前に話す必要がある」

「おい浦岡、お前勘違いしているんじゃないのか?たとえ記憶をなくしていようと彼女は俺の妻だ。夫として治療内容を聞いているんだ」

浦岡は突然の徹の訪問に多少動揺した。動揺の最中の失言だった。

「環境を整え、過去の話や携わっていたこと、物品を織り交ぜ、カウンセリングという形で治療を行っているんだ」

「その治療計画の中には、関係者との接触機会は省かれているのか?」

「いや、そんなことはない」痛いところを突かれたと思った。

「それなら彼女の両親とそれと俺との面会時間をもっと増やしてくれないか」

「考えておく」

「? お前の上級医は関係者との接触機会に関して同じ見解なのか?」

「それこそお前に関係ない話だ!」浦岡は徹を睨みつけるように見た。

「わかった。少しでも妻の顔を見たいのだが」「ダメだ」「なぜ?」

「彼女の担当医は俺だ。俺の判断だ」二人は互いに視線を対峙していた。

「彼女のこと、宜しく頼む」徹はその場を後にした。


日曜日になり、徹は再び病院を訪れた。午前中に奈保子の両親が、そして午後から

徹が面会する予定だった。

昼過ぎに浦岡から「本日も川瀬さんの集中治療を行う。一切の面会を断るように」と通達があった。

徹は奈保子に会えない分、内容に気を遣いながら何通か手紙を書いていた。

しかし奈保子の元には届いていなかった。

次の日曜日も徹は病院に来たが今回も面会謝絶で奈保子と会えなかった。奈保子の両親とは連絡を取り合っていたので近況はわかっていたが、やはり会いたかった。

しばらく病院にいた。しかし面会謝絶解除はなく、諦めナースステーションに寄った後で徹は病院を出た。

空虚な気持ちを抱え、駐車場に向けて歩いた。

視線を上げれば、山と山の間から夕陽が放射状に広がり、空全体が燃えているように赤く染められていた。

夕陽の中、徹は思いもかけないものを見た。


浦岡は奈保子を病院の敷地に連れ出した。奈保子は歩くことはできたが浦岡は大事をとって奈保子を車いすに乗せ、自ら押した。

面会謝絶の中、浦岡と奈保子は二人の時間を楽しんだ。

「川瀬さん、少し寒いですけど外に出ませんか?」思いがけない提案に奈保子はすぐに肯首した。

「何かあったら大変だから、車いすで行きましょう。俺が押します」

「いえ、先生、私歩けます」

「君に何かあったら、俺の責任になるから」その言葉に奈保子は何も言えなかった。


「奈保さん!」徹は奈保子の元に駆け寄った。

奈保子は一瞬徹に顔を向けたが、逸らした。「奈保さん!僕だよ、徹だよ!」

奈保子は必死の形相で叫ぶ目の前の男が自分にとってどういう人なのか未だ以って分からなかった。

浦岡は咄嗟に徹の腕を掴み、離れた木陰のベンチの前まで連れ出した。

「おい!まだ容態は完全ではないんだ、混乱させるようなことは言うな!」

「何言いているんだ、俺の妻だぞ!」再び奈保子に近づく徹に浦岡は立ちはだかった。

「佐伯、彼女は今お前を必要としていない。俺は彼女の治療に携わっているんだ。

彼女は入院加療中でまだ不安定な状態だ。計画を立て慎重に進めているんだ。

お前も医者だから俺の言うことがわかるだろう。必要な時は俺の判断で連絡をする。今日は帰れ」


「先生、あの人は本当は誰?必死でしたけど・・」夕陽の中、遠ざかる背中をみて

奈保子は言った。

「君は有名人だから、君が知らなくても君を知っているように言う奴がいても不思議ではないし、あの男は君の両親とは関係があるようだが、それでも君に何かあってからでは遅いこともある。病院としても俺としても大事な人に万が一にも危害が及ぶことを避けなければならない。君の担当医は俺だ。だからどんなことからも大事な人を守るのも俺の役目だ」「大事な人?」

「そう。俺にとって君は一患者ではなく、守らなければならない大事な人だ」

「浦岡先生・・」振り向いた瞬間、浦岡の顔が目の前にあった。

奈保子は一瞬何が起こったか分からなかった。しかし唇を塞ぐ熱を帯びた圧迫感で理解した。

奈保子は俺のものだ 誰にも渡さない 浦岡はしばらく顔を離さなかった。

奈保子は不思議な感じがした。なぜか記憶の隅に同じような感覚があった。何か大事なことを忘れているような感じがした。だが瞳を閉じた。


徹は今週も奈保子に会うことはできなかった。本日も急に面会謝絶となり、両親も奈保子に会うことはできなかった。

病室のあるフロアーまで来たもののどうすることもできずそこから歩き去ろうとした徹に、見かねた看護師の一人が歩み寄った。

「佐伯さんですよね?奥様は確かに記憶は戻ってはいません。時折まだ突発的な頭痛も生じていますが、身体の方は骨折も含め、リハビリをしながら回復に向かっています」「そうですか・・。良かった。ありがとうございます。妻をよろしくお願いいたします」徹は頭を下げ、その場を後にした。

看護師達は、浦岡が何故頑なに婚約者である徹に会わせようとしないのか、奈保子の浦岡に対する視線や二人の態度からも既に気付いていた。


「浦岡先生、川瀬さんですが、もっと婚約者に会わせるべきだと思います。またご両親も会う機会が少ないように思います」

「今は、そういう段階ではない」

「何故ですか、午前中は私も様子を見に行きましたが、状態は特別変わりがないように感じました。度々急に面会謝絶をし、看護師も入室を禁じるのはどうしてですか?」

「治療があってそうしているんだよ。当たり前だろ。第一、医師の私がそう判断し治療にあたっているんだ。何なんだ、君は!」

看護師は、浦岡の判断は明らかに私念からのものと感じていた。

「上級医の藤本先生は、どうお考えなのですか?」「私の見解と同じだよ」

「そんな・・」


「川瀬さん、川瀬さんには婚約者がいたことを覚えていないんですか?川瀬さんは

浦岡先生を見ていますよね。それ違います。間違っています」

「え!私に婚約者?」

「そうです。川瀬さんもここで何回かお会いしています。毎週日曜日に来る人です。川瀬さんに会えなくても、私達ナースに様子を聞いて、いつも妻を宜しくお願いしますと、頭を下げて帰って行くんです」

「え、あの佐伯さんのことですか? え、あの人は、私のファンの一人で、浦岡先生は近づいて危害でも加えられたら病院の責任問題になると言うので、私も極力会わないように、接しないようにと思っているんです」

「川瀬さんが搬送された当初、浦岡先生は確か、川瀬さんの婚約者の同級生と聞きましたけど?」「どういうことですか?」

「私もよく知りません。でも川瀬さんの婚約者は、毎週来られる佐伯さんです」

奈保子は混乱した。婚約者? 浦岡先生と同級生? 何か脳裏に浮かんだような気がしたが、急に頭痛が起こり、しゃがみ込んでしまった。

「あ!川瀬さん、すみません!大丈夫ですか?立てますか?」


「君は、一体何をやっているんだ!医師の指示もないのに、私の患者に自分の勝手なことを吹き込んで、どういうつもりだよ!君みたいなのはここに必要ないよ!」

「先生、配置換えでも結構です。でもひとつ訊かせて下さい。毎週来られる婚約者がいるのに、先生は川瀬さんをどうするつもりですか?」

「ナースの分際で、医師である私の治療方針にケチをつけるか?」

「先生の川瀬さんへの対応は患者の範疇を超えています。ましてや婚約者は先生の同級生だったのではないですか?」「誰がそんなことを?」

「藤本先生が、だから自分から担当を申し出たんだなとそのこととあわせて仰られていました」

「そのことは川瀬さんには?」「はい、今回の話の中でそれもお話しております」

舌打ちした浦岡は「あーあ、治療計画がめちゃくちゃになったよ。どうすんの?」

「お言葉ですが、先週の日曜日、先生は川瀬さんと病院敷地に出ていましたよね。

そのときの出来事は複数の病院関係者が目にしております。あれは先生の治療計画の

一部でしょうか?」浦岡は開き直るしかなかった。

「戸籍上はまだ既婚者ではないのだから、問題はないだろう!男と女の問題だよ」


「え!浦岡先生が私の担当をはずれるのですか?」

「はい。大変に残念ですが、診療上不適切なことがありましたので」病棟看護師長は奈保子に告げた。

「何かあったんですか?」「詳しくは申し上げられません。川瀬さんは来週中には退院の予定です。それまでは浦岡先生の上級医の藤本先生が担当になります。

退院後はご自宅から都内の病院に通院して頂くことになると思います。ご両親と婚約者と一緒に力を合わせ素敵な思い出を取り戻せるよう治療にあたってください」

「婚約者と皆さん仰いますけど、あの佐伯さんのことなんですよね?」

「そう聞いておりますが」「何も思い出すことはないんです」

「思い出した時に問題が起きないよう、川瀬さんも行動は慎重にした方が良いですよ」

「過去はまだ思い出せませんが、いずれにせよ私は浦岡先生を信頼しています」

入院中奈保子はずっと不安を抱えていた。自分は記憶をなくしているという事実は早い段階で受け入れることはできたが、周りの人達に関して思い出せることもなく、

どう接したら良いか、今後どうなるか、不安以外はなかった。そのような中、親身に話を聞いてくれ、また気兼ねなく話ができ、その不安を払拭してくれる浦岡の存在は大きかった。また夕陽の中での出来事も奈保子の浦岡への想いをより強いものにしていた。浦岡が担当を外れたことは大きなショックだった。


日曜日、奈保子の面会時間の制限はなくなった。尤も明々後日の水曜日に退院となり、面会時間の多くは身の回りの整理に充てる時間となった。

「これは、もう先に持って帰っておくわね」「もうこれもいらんだろう」

「あ、それは置いておいてください。あ、それは自分でします」

奈保子は両親という二人に未だ遠慮があった。なんとか自分でもできることも二人がやってしまい、また自分でやりたいこともやってしまうため少々苛立ちもあった。

しかし心の中では、この小さな苛立ちより退院後の生活についての不安の方が遥かに大きかった。また浦岡と離れることも奈保子の気持ちを暗くさせていた。

しばらくすると徹が姿を見せた。

「いよいよ退院ですね。しばらくはご両親と一緒に過ごされるから、またゆっくり静養したらいいですよ」

「家に帰っても私どうしたらいいかわからないです」奈保子の思う不安は徹にも理解できた。

「奈保さん、日中は仕事がありますが、夜は一緒に外に出ましょう。案内したいところもいっぱいありますから」

「私はずっとここでも良いと思っているんです」心で浦岡を想った。

「不安はよくわかります。でもいつまでもここに居る訳にはいかないですから。

僕は明日と明々後日の退院日にもまた来ます。帰ってからの事、話しましょう」

「私は佐伯さんのこと全く覚えていないんです。一緒に出掛けようという思いはないです」

「でも気分転換は必要です。迎えに行きます」

「来ないでください」奈保子の胸には浦岡への想いしかなかった。


浦岡先生、見送ってもくれないんですね・・ 

退院のこの日、徹、事務所の関係者と奈保子の妹が迎えにきた。まだ記憶も戻らず、マスコミの対応もできる状態ではないため、極秘での退院という形となった。

奈保子は父の運転する車に乗って実家に向かった。車中訊かれたことへの返答以外、自ら言葉を発することはなかった。

徹は奈保子の胸の内に気付いていた。一昨日も病院に来たが平静を装い、浦岡のことには触れなかった。

しかし一人になった時、自問した。自分に何が出来ただろうか 夫として浦岡より十分に妻を支えられていただろうか 奈保子の心に浦岡がいることは知っていた。 

徹はふたりのこれからのことに考えを向けた。記憶を取り戻す切っ掛け、その機会を考えていた。


退院からの二日目の夕方、早めに仕事を切り上げた徹は奈保子の実家に来た。

奈保子の母からは、戻ってからあまり食欲がなく、部屋に一人で閉じこもっている時間が多いと聞いていた。

身の回りのことは、置き場所などを告げれば殆ど自分でし、あまり親に頼らないのが少し寂しいとも言っていた。

「奈保さん、調子はどうですか?」

「ええ、なんとか大丈夫です・・」力なく奈保子は答えた。

「家で色々自分でされていると聞きましたけど、感覚で覚えているんでしょうね」

奈保子は一瞬徹に顔を向けたが、俯いた。

「何かするとき特別使用方法、操作方法の説明を受けなくても、無意識の内に対処できているとういことは、やはり感覚で覚えているからだと思います。潜在意識の中での記憶があるからじゃないかと思いますよ。医者としては幼稚な表現ですけど」

「佐伯さんはお医者さんなんですか?」「そうです」奈保子は黙った。

奈保子の両親は何かを思い出そうとしているのかと奈保子に目を向けた。

しかし奈保子は医師ということで、ただ今は夢の中でしか会えない浦岡を想っていただけであった。

「奈保さん、良かったら少し外に出ませんか?」

「すみません。少し頭痛がするので休んでいいですか?」

奈保子は徹が来て早々に部屋に戻ってしまった。

それから二日間、両日共に奈保子は徹の申し出を断った。



《緋の少女》

次の日も徹は奈保子の家を訪れた。奈保子はほぼ一日中部屋に居るという。

徹は奈保子の部屋のドアをノックした。

「奈保さん、佐伯です。入っていいですか?」

奈保子はベッドに座り、徹に目を向けた。徹はテーブルの椅子を引き出し座った。

俯いた奈保子は黙っていた。しばらくはそのままだったが、奈保子が顔を上げ、

口を開いた。

「佐伯さん、私とあなたは婚約していたと聞いています。特別な思いがあって婚約したのだということはわかりますが、でも佐伯さんの顔を見ても思い出すことがあったり、心が騒いだり、胸が熱くなったり特別な感情が起こることはないです。私は婚約していたという事を受け入れることができません。私の想いは佐伯さんにはありません。こうして毎日のように訪ねてこられ一緒にいることは私にとってはただ苦痛なだけです」

「今の自分は本当の自分ではないという事は認識していますよね?」

「過去のことは思い出せません。でも今、私は私として日々過ごしています。

今の私の気持ちは佐伯さんは既に分かっていると思います。・・別れてください」

「いえ、今は別れません」

「いつなら」

「奈保さんが、過去から今までを通して考えることができ、それでもそういう結論に至った時です」

「それまで私は身動きが取れないままですか?」

「今もそうでしょうが、その方が更に苦しまずに済むと思います」

しばらくお互い黙ったままだった。

「私は佐伯さんを愛していましたか?」

「お互いに信じ合っていました」

「病院で私に半年ぶりに会ったと言いましたね。何があったかは訊きません。信じ合っていたという言葉がその空白を埋めていたのでしょうけど、今の私はそれを理解することはできません。婚約も同じようにそれらは今となってはお互い過去のものではないですか?」

「僕は奈保さんの全ての感覚が戻るまで、記憶が戻るまで何も終わっていないと思っています。今もこの瞬間も同じものを信じ続けています」

「私の感覚や記憶が戻るのはいつになるか誰もわからないですし、私はそんなに待つことはできません」

「急ぐ先があるからですか?」

「もう来ないでください」

二日後、奈保子は自宅を出たまま戻らなかった。


「徹君、奈保子がいなくなった」奈保子の父は今訪ねてきた徹に呆然と呟くように言った。

「え!どこかに外出したのではないですか?」

「そう思っていたが、この夜中に家を出たのではないかと思う。朝食の時間に声を掛けても返事がないので部屋をみたら、既にいなかったよ。テーブルに手紙が置いてあって、それには お世話になりました 不義理で申し訳ございません 探さないでください と書いてあったんだ」 

徹は、奈保子を探した。日曜日の昼前から深夜まで、最寄り駅周辺の商店街、近くの公園を皮切りに、自発的に家を出て行ったのなら行く先があったのではと考え、思い当たる様々な場所に足を運んた。繁華街、奈保子の所属事務所界隈、考えられる所以外もそして最後に横浜のマンションに来た。途中で奈保子の帰宅を期待して奈保子の実家に電話を掛けたが、戻ってはいなかった。そして最後の可能性があるところに電話をした。

電話は繋がったが、応答なしに切れた。改めてかけ直すと今度は着信拒否となっていた。徹は一睡もせず、仕事に行った。

仕事中も奈保子のことが気になって仕方がなかった。徹は仕事を終えると直ぐに車を走らせた。


時刻は午後9時過ぎだった。徹は職員用の駐車場に車を回した。しばらく待っていると人影が見えた。徹は車を降り、その人影に声を掛けた。

「すみません。先日お世話になりました、川瀬奈保子の夫の佐伯と申します」

突然声を掛けられた職員は一瞬驚いたが、川瀬奈保子の夫と聞いて、徹の顔をのぞきこみ、そして安心したのか、「ああ、なんでしょうか?」と返してきた。

「実はお世話になった浦岡先生にお会いしたくて来たのですが、もうお帰りになったかご存じではないでしょうか?」

「浦岡先生は、今日はもうとっくに帰宅していますよ。ひどく慌てていた様子でした」「そうですか」徹は住所を訊こうかと一瞬思ったが、やめた。

「明日の予定はご存じないでしょうか?」

「わかりませんね。明日、病院の医事課に電話して訊いたらどうですか?」

「ありがとうございます。そうします」徹は仕方ないと思った。


浦岡は仕事を終え、慌ててその足で病院の最寄り駅に向かって車を走らせた。

勤務が終わり、カバンに仕舞っていた携帯電話を見た。公衆電話からの着信表示に

メッセージが入っていた。

一瞬、また佐伯からと思い躊躇したが、再生ボタンを押し内容を聞いた。

浦岡は、走って駐車場に向い、車を急発進させた。メッセージに告げられた場所に着くと路上駐車そのままに車を飛び出し、そこに佇んでいた奈保子を抱きしめた。

その日から奈保子は浦岡の部屋で一緒に過ごすこととなった。


「おい、浦岡!」

翌日、徹は勤務を終えた浦岡を呼び止めた。徹に気付いた浦岡は驚愕の表情を一瞬浮かべたかと思うと自身の車に猛然と走り、それに乗り込み走り去っていった。

咄嗟に逃げてしまった・・ 

本当は佐伯にまず謝らないといけなかったと思っていた。 何故逃げた 

浦岡はハンドルを何度も叩きながら向き合えなかった自分を悔いた。

浦岡は徹のことが常に頭から離れなかった。当然後めたさはずっと心の中にあった。いつかきちんと話をしようとも思っていたはずだった。

浦岡は徹と奈保子の間で揺れた。しかし奈保子を失う事の方が耐え難く、奈保子とはもう離れることはできなかった。佐伯には謝らない そう決めた。

その夜浦岡は奈保子を激しく抱いた。

「どうしたの?」奈保子が浦岡に問うた。浦岡の胸に焦燥感が膨らんだ。

奈保子は俺のものだ!

「なんでもないよ」それを無理やり隠し、奈保子の髪をかき寄せ口づけた。


翌日も徹は浦岡に、奈保子に会うために病院に来ていた。

車に乗り駐車場を出た浦岡を確認し、徹も車で追いかけた。

家の前で車を留め、浦岡は奈保子の待つ自分の部屋に急ごうとした。徹も続けて車を留め、降りて浦岡を追いかけた。

「浦岡!」部屋の前まで来たところで声を掛けた。

「佐伯か。また来ると思っていたよ」一瞬驚いたが、振り向いて呟いた。

「俺の婚約者がお前のところに居るんじゃないのか?」

「ああ、いるよ」浦岡は平然と言った。

「連れて帰らせてもらう」「ちょっと待てよ。お前がどんなことをしても奈保子は帰らないと思うぜ。奈保子はもう・・」

「どけ!」浦岡の声を無視して玄関ドアに向かった。

「おい、ちょっと待てよ。奈保子はお前の事なんかこれっぽっちも考えていないぜ。あいつからも婚約は解消だって言ってたし、もうお前とは終わったんだよ!」

「今はそれでいいかもしれないが、記憶が戻った時のことを考えたのか?どれだけ苦しむか容易に想像がつくだろ!」

「俺達は愛し合っているんだ。今後奈保子のフォローは俺がする。諦めろ!帰れ!」浦岡の声も大きくなった。

徹がドアノブに手を掛けようとしたその時、「やめろ!帰れと言っているだろ!」

浦岡は後ろから徹の襟首を掴み引き倒すように勢いよく引いた。

振り向きざまに徹は浦岡を殴った。まともに徹の拳を食らった浦岡は後ろに勢いよく倒れた。

「俺だって諦めたが奈保子の方から俺の所に来たんだ!もう奈保子は俺のものだ!

誰にも渡す気はない!」浦岡は叫ぶやいなや立ち上がり、徹に掴みかかった。

外の喧騒に気付いた奈保子が部屋のドアから顔を出した。丁度浦岡が徹に掴みかかったところだった。

浦岡と徹、二人は揉み合いになっていた。浦岡の顔からは鼻血が出て、また口の中は出血で真っ赤になっていた。

「けんかをやめて!」奈保子が咄嗟に叫んだ。奈保子の叫び声で揉み合いは途切れ、お互い押すように手を離した。浦岡は再び後ろに倒れた。口から血が溢れた。

奈保子が裸足で地面に尻をついている浦岡に駆け寄り、「大丈夫!え、血が出ている!」奈保子は浦岡を庇うように二人の間に入り、そして徹を見上げ請うた。

「佐伯さん、お願い、祐一さんを殴らないで! もう私を忘れてください! 私たちを許してください お願いします お願いします!」最後の方は奈保子の声は泣き声に変わり、徹に懇願した。

しかし徹は表情を変えず、奈保子に歩み寄りその腕を掴んだ。「連れて帰ります」

どんなに嫌がり泣き叫ぼうと奈保子を連れ戻すことだけしか考えなかった。

それが奈保子を苦しませないことだと信じていた。

奈保子の腕を掴み引き上げた徹に浦岡が殴りかかってきた。徹は浦岡が振り回す拳を悉く躱した。浦岡も必死だった。しかし力の差は歴然だった。

ふらつく浦岡が繰り出した何発目かも空砲にした時に、徹は浦岡を押し倒した。

再び奈保子の腕を引っぱり歩き出した徹の足に浦岡は倒れながらしがみ付いた。

それを振り払うように徹は足を上げた。その隙に奈保子は部屋に駆け戻った。

その足に必死にしがみ付く浦岡を引きずるような形で徹は奈保子を追った。

玄関から出てきた奈保子は包丁を自分の喉元に突き立てた。

「どうしても連れて行くつもりなら、私はここで死にます!」

「奈保子が死んだら俺も死ぬ!」足元で浦岡も叫んだ。徹は奈保子を見つめた。

奈保子は包丁の切っ先を喉に当てた。既に肉を破っているような状態だった。

奈保子の眼を見て本気だと思った。徹はしがみ付く浦岡を振り払い、その場を去った。


奈保子が買い物をしているとき、声を掛けられた。入院していた時の看護師の一人だった。

「なんで川瀬さんがここにいるんですか?」奈保子は説明に窮し、黙ってしまった。

「え!まさか浦岡先生と!」病院内では奈保子と浦岡の噂は広まっており、それによって浦岡が担当を外されたことも周知の事だった。

しばらくの沈黙の後、その看護師は口を開いた。

「ああもう婚約は解消なんですね。テレビの番組では、二人は結ばれるためにこの世に生を受けたとか言ってましたけどね。しかしねー、本当ビックリですよ」

「あの・・」「あ、大丈夫。誰にも言いませんから。男と女だから色々ありますもんね。頑張ってください」

奈保子は自分が決めたことであったのである程度の風当たりは覚悟していたつもりだったが、突然のことに動揺してしまっていた。

その日以来、奈保子は浦岡の部屋からあまり外出をしないようになった。

奈保子は、午前中に買い物に行き、まとめ買いをし、極力病院関係者との接触を避けようと考えた。

部屋で過ごす時間も長くなり、部屋全体の掃除も小まめにした。

料理に関しても、掃除に関しても帰宅した浦岡が驚き褒めてくれることが嬉しかった。

浦岡は外出をあまりしないと言う奈保子を思い、現在診療から外れていることもあり3日間休暇を取った。

奈保子の気分転換、そしてまた徹が来る可能性も考え、旅行をすることにした。

奈保子は殊の外喜んだ。

タイミング悪く、旅行の間奈保子の両親が浦岡の部屋を訪ねていた。3日間奈保子の両親は部屋の前で待っていたが、会えないまままた東京に戻って行った。

入れ違うように奈保子達が帰ってきた。浦岡の車を降り、先に玄関に来た奈保子は、ドアの隙間に挟まれている手紙に気付いた。

差出人を見てすぐにポケットに仕舞い、鍵を開けた。


旅行から帰った翌日、買い出しに出掛ける奈保子は羽織ったコートに昨日仕舞った手紙を指先が触れたことで思い出した。

自分は取り返しのつかないことをしていると書いている。実感はないのだが、先日の徹の強引さ、この手紙に記された両親という二人が3日間も帰りを待ち続けた

ことより、自分が考えつかない所で何か大変なことが起こっているのではと思った。気になったがしかし今の生活を手放すことはできなかった。

たとえ後ろ指を差されても会いたくて飛び出してきたのだから 誰が止めても今はこの愛に生きると心で決めていた。



《さよならの彼方で》

浦岡は職場にも告げずに引っ越しをした。徹はその後何度か前の部屋を訪れたが、

結局会えずにいた。

二人の生活は続いていた。奈保子は浦岡が出勤した後の時間で概ね新居の整理を終えていた。そしていつものように家事をした。

洗濯、掃除、買い物、食事の用意、ごくありふれた生活だったが、浦岡と一緒だから幸せだと思った。

ただ心に重しのように引っ掛かる徹や両親のことを考えなければ。そう思うのは、

記憶はまだ戻らず殆ど奈保子には今、この生活以外の実感はなかったからだった。


ある時奈保子は浦岡の部屋を掃除していた。机の横の棚には製薬会社からの薬のパンフレット等が無造作に重ねて置かれていた。

引っ越しの後、机の上は整頓されていたが、その横の棚の乱雑な様子が机回り全体の印象を悪くしているようだった。

奈保子はその棚に手を伸ばし、無造作に積んであるパンフレットの束を取り出した。

一番下にあった封筒が分厚く不均等に何かが入ってあったため、その影響でその上に積み重ねられたパンフレットが揃わず、乱雑に見えるようだった。

奈保子はその封筒の中身を取り出した。バサバサと床に落ちたのは未開封の手紙だった。封筒の中身を見ると一枚の写真が残っていた。

写真を手に取り眺めた。

誰? え、佐伯さん? 奈保子は既視感と懐かしさを感じた。

これ どこかで見たことがある・・

月の王子! 徹君! え!

奈保子は混乱した。突然二人の自分を同時に知ってしまった。浦岡と過ごした日々、徹と過ごした日々、そして自分が今まで過ごしてきた日々、目まぐるしく脳裏に映し出された。

全て記憶している!

記憶が完全に戻った瞬間だった。え!私・・ 奈保子は全身が凍り付いた。 

どうしよう! 全ての現実を考えると窒息死しそうな感覚に陥った。

苦しい 苦しい いやー! 奈保子は叫んだ。頭を抱え振り下ろした両腕で床を叩き、体の震えを抑えるように両腕で自分を抱き、そしてまた震えた。

どうしょうと思っても、今となってはどうすることできない状況に絶望感が襲い、

咽び泣きから声をあげ慟哭した。しばらくし、自ら自身の思考を停止させた。

奈保子は放心したままずっと同じ場所いた。


「あれ、奈保子、何してるの?そんなところで」

部屋の明かりをつけながら帰宅した浦岡は奈保子に声を掛けた。

「電気も付けないで、どうした?」奈保子の返事はなかった。

「奈保子?」

「どうして写真を隠したの? 手紙も。徹君とは同級生だったんでしょ。残酷なことをするのね。あなたの事を好きになっていたのよ」涙で腫れた目で浦岡を見た。

「え!奈保子・・まさか 記憶が戻ったのか?」浦岡は愕然とした。

これで奈保子との時間は終わりだと思った。

奈保子はこれ以上浦岡を責めるつもりはなかった。自分自身の問題であり、奈保子も同様に全てのものを失ったと思った。

奈保子はこれからのこと、徹とのこと、そして自分自身のことを何も考えられずにいた。

途方もなく考え、整理をしていかないといけないといけないこの現状に、まだ思考を巡らす気力が起こらなかった。

何から始めたらよいのか全く考えられなかった。

浦岡は、今目の前で失われていこうとするこの現実を回避すべく、考えを巡らせた。

記憶が戻った奈保子は佐伯の婚約者だ 諦めるのか? 無理だ 奈保子が好きだ 

俺のものだ! 奈保子は俺のものだ!

浦岡は、奈保子に向かった。いきなり奈保子を押し倒し口づけた。奈保子は顔を叛(そむ)けた。

「いや、やめて!」「俺はお前を失いたくない」浦岡は力ずくで奈保子を抱こうとした。奈保子は必死に抵抗した。

「いや!徹君、助けて!」咄嗟に浦岡は奈保子の頬を力任せに叩いた。

ものが破裂したような音と短い奈保子の悲鳴がほぼ同時に響いた。

一瞬の沈黙の後、奈保子は浦岡を突き飛ばし、自分のバッグを持ち、浦岡の部屋を

飛び出した。

奈保子の口から徹という名前が叫ばれた瞬間、奈保子に手を挙げてしまった・・

浦岡は全て終わったと思った。

一カ月半の同棲生活は終わった。


浦岡の部屋を飛び出した奈保子は、最初に見つけた公衆電話の受話器を手に取った。

「お母さん!」

「え!奈保子、奈保子なの?」

「お母さん、ごめんなさい ごめんなさい・・」

「奈保子、あなた、あなた記憶が戻ったの?」奈保子からの返答はなく、ただ子供のように声を上げ、泣くばかりであった。

「お、お父さん!奈保子の記憶が戻った!」

奈保子は新幹線で東京に戻り、東京駅に迎えに来た両親と実家に戻った。

奈保子は電話を切る前、受話器から泣き声で「お願い、徹君にはまだ言わないで!

まだ徹君には会えない!」と言った。そのためその日は徹へは知らせずにいた。


翌日、奈保子の父は徹に電話をした。

「徹君、奈保子の記憶が戻った。昨晩こっちに戻ってきたよ。全てを覚えている」

「本当ですか!」

「浦岡と過ごしたことも覚えており、苦しんでいる。残念だがまだ奈保子本人は、徹君に会える状態ではない」

全てを覚えている と言われた瞬間、今奈保子は苦しんでいると思った。

奈保子の父が言うように今会うべきではないと思った。

「わかりました」

「奈保子は必ず徹君とは会う。それまで待ってやってくれ」


それから1週間、奈保子は殆ど部屋に籠った。

奈保子は自分がとった行動を受け入れる以外ないと思った。しかし徹への想いがずっとそれを邪魔していた。

会いたいけど、会えない 別れないといけない 分かっていても別れたくない 

許してくれる? 私を許してはダメ  繰り返すばかりだった。

戻ってから十日経った午後、奈保子は吐き気に襲われた。ストレスからかと思ったが、思えば月のものもまだ来てはいなかった。

奈保子は家を出て薬局に行った。

奈保子の思いは、新たな決意と覚悟に変わった。淡い考えは霧散した。


その夜、奈保子の父から徹に電話があった。

「徹君、私だが」「こんばんは。奈保さんの様子はどうですか?」

「徹君、奈保子とは別れなさい」「え!どういうことですか?」

「はっきり言うが、今、奈保子は妊娠している。父親は浦岡だろう」

衝撃だった。しかし一方では、頭の片隅に追いやっていた懸念が現実のものとなってしまったと思った。

「奈保子は自分がとった行動にけじめをつけるようだ。本来なら奈保子自身が徹君に直に伝えるべきことだと分かってはいるが、やはり奈保子は心の中ではまだ徹君への愛が残っているようで、私に頼んできたよ」

衝撃でそれ以降の話は耳には入らず、また自分が何を言っていたのかもはっきりしなかった。

「自分たちの子として育てる?徹君、それは一番奈保子が苦しむことだよ」

徹もそれは分かっていた。しかし奈保子をどう支えるか混乱する頭ではそれ以外考えが浮かばなかった。

「徹君、辛いだろうが男として身を引いてほしい」

「僕は男のプライドを捨ててでも奈保さんを支えたい、ただそれだけです。奈保さんは悪くないです。僕が支えます!」

「奈保子はそんな甘えた人間じゃないよ。徹君、奈保子のことは忘れなさい。

これからここに近づく事、電話を掛けること、奈保子とも一切の接触を禁じる」

「結局僕は奈保さんに何もできなかった。このままもう会えないということですか?」

「奈保子自身が決めたことだ」

徹は黙ったままだったが、ついに我慢した嗚咽が漏れ、それが受話器を通して奈保子の父の耳に入った。

「徹君、すまない。この決断をした奈保子を許してやってほしい。  徹君ありがとう、自慢の息子だったよ」

奈保子は階段の踊り場から父と徹の電話でのやり取りを聞いていた。

泣き声が漏れないよう必死に口元を押さえながら。


「奈保子、これで良かったんだな?」泣きながら奈保子はゆっくり頷いた。

父は奈保子を抱きしめた。

「もう徹君のことは忘れなさい」

徹君、あなたが優しすぎたから 私を許しすぎたから 叱ってほしくて怒ってほしくて  あなたが遠くなったら 眩しい写真は燃(や)きます

さようなら 徹君  愛しています


「浦岡、奈保さん 妊娠したぞ」

「え!」しばらく浦岡は声が出なかった。妊娠したという事実は一瞬驚いたが、

それよりも佐伯が今自分にこの事実を伝えた意味を考えたからだった。

「佐伯、お前・・」

徹は黙っていた。浦岡はその沈黙から徹の真意を悟った。

「佐伯・・・ すまない」浦岡の声は震えていた。


翌朝、浦岡は奈保子の元へ走った。奈保子の実家は入院時のカルテの保証人に徹と

一緒に父親も記してあり、住所もそれで分かった。

浦岡は探し当てた奈保子の実家の前にいた。躊躇いもなく、玄関の呼び鈴を押した。

「はい」「あ、浦岡と申します」しばらくの沈黙の後、「何しに来た」奈保子の父が押し殺した声で言った。

「奈保子さんにお詫びをしたくて参りました」

「ふざけるんじゃない!何がお詫びだ。二人の人生を滅茶苦茶にしたんだぞ、お前は!」

「申し訳ございません。なのでお会いしてお詫びしたいのです」

「誰に詫びるんだ?お前は徹君の親友だったんじゃないのか?詫びるのはまずそっちからだろう!」

「佐伯にも申し訳ない気持ちでいっぱいです。奈保子さんにもお詫びしたいんです」

「お前なんかに奈保子を会わすことはない。帰れ!二度とここに来るな!」

厳しい対応は覚悟していた。しかし浦岡は許されないことは承知でもしっかりとした謝罪をすると決めていた。

翌日も浦岡は呼び鈴を押した。「はい」「浦岡です」

「来るなと言っただろ。お前に会うことも話すこともない。迷惑以外のなにものでもない」

「奈保子さんにお詫びを・・」「その必要はない。奈保子も我々ももうお前と一切の関わりを持ちたくないんだ。帰れ!」

その翌日も浦岡は奈保子の家の呼び鈴を押した。しかし一日中通し全く応答はなかった。

この状態は3日間続いた。

浦岡は一旦勤務している病院に戻り辞表を出した。現在休職に等しい状態であったので、あっさり受理された。諸々の手続きは一週間後にすることになった。

次の日は、身の回りの整理や挨拶回りに丸一日を費やした。

「またお前か。一切の関わりを持ちたくないと言っただろう」

「申し訳ございません。しかし奈保子さんにお詫び申し上げたいのです」

「必要ない!私はお前とこのインターホン越しに会話しているだけでも腹わたが煮くりかえるんだよ」「申し訳ありません」

「もう来ないでくれ!」

翌日も浦岡は奈保子の家を訪ねたが、以前と同様呼び鈴に対しての応答はなかった。

次の日も浦岡は奈保子の実家を訪ねた。丁度、奈保子の父が外出するところだった。奈保子の父は浦岡に一瞥をくれたものの目を合わすことはなかった。

「お父様」「だれがお前の父親だ?今私を父親と呼べるのは誰もおらん」

「申し訳ございません。佐伯と私では立場が違いました」

「当たり前だ!徹君とお前とでは比較にはならん。尤も徹君も関係は絶ったんだがな、誰かのせいでな。私はお前を男としても人としても好きになることはない。当の奈保子もお前とは会いたくないと言っている。だからもう来ないでくれ。こちらとしては迷惑千万だ!」

浦岡はその日はその場を去った。


浦岡の日参は続いた。雨の日も風の吹く日も奈保子に会う機会を、会える機会を求めて。

奈保子も両親も浦岡の姿を見ても声を掛けることはなかった。

ある日、奈保子は母親と一緒に外出することになった。奈保子の診察のため産婦人科に行くためであった。

「奈保子!」「来ないで!」奈保子は一言だけ発し、車に乗り込み走り去った。

日参して初めて見た奈保子だった。名前を呼んだが、それ以上の言葉を許さない、

隙のない返答だった。


奈保子は徹の夢を見た。

風がそよぐ木立の中、涼しい影のように見覚えのある背中が立ち止まると振り向いた

月日がふいになめらかな流れになる 徹の瞳に吸い込まれ、二人の想い出さえも透明にさせてく

時間も言葉も動きも風の中で止まった 緑の中で笑顔をくれる徹がいる

涼しい影には寄りそっていいの? もう一度あの日のように 夢の中の奈保子は呟いた。

目が覚めても胸が痛む余韻が残っていた。

切なさだけなら 愛しさだけならこんなに心震えないはず

不安なの 本当は恐いの 傍にいてほしいの

徹君、会いたいよ・・ 

人知れず涙が流れた。封印したはずの誰にも言わない心の底の言葉だった。


「おい、お前はいつまでここに来るつもりだ?」奈保子の父は浦岡に声を掛けた。

「奈保子さんにお詫びができるまでは」

「毎日来ているようだが、仕事はどうした?」「辞めました」

奈保子の父はしばらく黙っていた。

「私は奈保子さんに心からお詫びしたいのです」

「毎回お詫びと言うが、何を詫びるつもりかね?」「いや、色々と・・」

「色々とな・・。言っておくが我々にも生活があり、毎日お前を気にして過ごすことは迷惑以外のなにものでない。詫びたいという気持ちはもう十分わかったから、今日で最後にしてくれんかね」「直接奈保子さんに会って・・」

「だから当の本人もお前には会いたくないと言っているんだ。元の婚約者である徹君にも会わずにいるのに、なんでお前と会うことができる」

「お詫びもそうですが、今後のことで話し合いたいこともありまして」

「今後?奈保子自身も親である我々もお前とは金輪際関わることはない。次にお前の姿を家の前で見たら警察に通報するからそのつもりでいろ!」

浦岡の日参はそれでも続いた。しかし警察が来ることはなかった。


ある時奈保子は急に具合が悪くなった。激しい腹痛に襲われた。生憎、両親は外出中であった。

奈保子は救急車を考えたが、自身で運転してかかりつけの産婦人科に向かうことにした。

激しい腹痛に耐え、玄関を出た。しかし一歩足を運ぶのにも容赦なく痛みが襲った。車に辿り着けばなんとかなると思い、懸命に足を出した。

玄関からのほんの数メートルが気の遠くなるような距離に感じた。激しい痛みに耐えかね奈保子はその場に両膝をついて蹲った(うずくまった)。

その時浦岡が玄関の前に立った。奈保子の状態また両親が外出中ということも知らない状況であった。

玄関前に立ってしばらくすると微かな呻き声が耳に入った。初めは気にも留めなかったが、また聞こえた。

何気なく玄関の奥を覗き込んだ。玄関から道路までは数段階段がある。浦岡は階段の先に衣服を見た。

一瞬、コートが落ちていると思った。

しかし呻き声がまた耳に入った。それはそのコートから聞こえた。奈保子だ! 

浦岡は玄関の扉を開け、階段を数段駆け上がった。

やはり奈保子だった。「奈保子!どうした!」「・・あかちゃんが・・あかちゃんが・・」

まずい! 浦岡は玄関に駆け上がり、ドアを叩いた。返答があるまでかなりの力で叩いた。ドアノブを回したが、鍵がかかった状態だった。両親は不在とわかった。

浦岡は奈保子の元に戻った。奈保子が手にしていたポーチを取り、中を見た。

産婦人科の診察券があった。また奈保子は車の鍵を握っていた。

診察券の住所を見た。遠くはない! 奈保子の握っていた鍵を取り、車に乗りエンジンを掛け玄関前の道路に動かし、降りて奈保子を車に乗せ直ぐ走り出した。

「奈保子、大丈夫か!しっかりしろ!今、病院に向かっているからな!」

浦岡はハンドルを握りながら叫んだ。


浦岡は奈保子とおなかの子を助けた形となった。

担当の産婦人科医からは、一歩遅かったら母子共に危ない状態だった とのことだった。心から安堵した。

奈保子の家には病院受付から留守電が入れてあった。

夕方、帰宅して奈保子の車、姿が見えないことと留守電を聞いて両親は慌てて病院に向かった。

奈保子は入院し、経過を観ることなった。

奈保子の容態が落ち着き、病室まで浦岡は付き添った。

眠っている奈保子の顔を見て、奈保子とおなかの子が無事だったことを改めて喜んだ。自然と目が潤んだ。

浦岡の胸には様々な思いが押し寄せた。奈保子に、奈保子のおなかにいる自分の子に、徹に、今までの経過に、そして三人のそれぞれの状況に。

それぞれに思いを馳せると涙はすすり泣きと共にしばらく止まらなかった。

「皆、ごめん・・」浦岡の口から洩れた声は奈保子の耳に入っていた。

浦岡は両親が到着する前に病室を去った。


奈保子は退院した。

退院した日は浦岡の姿はなかったが、その後また浦岡は奈保子の家の玄関前に立っていた。

数日経った時、奈保子の父が佇む浦岡に声を掛けた。

「先日は、ありがとう。また大事なものをなくすところだったよ」

「いえ、たまたま」

「奈保子がお前と会うと言っている。入りなさい」「え!」

「話をしたらすぐ出て行ってくれ」

玄関で奈保子は立っていた。

「どうぞ」奈保子は応接間に浦岡を迎えた。

二人だけなった。

「この前は、ありがとうございました」

「いえ、たまたま居合わせただけで。俺は、いや僕は奈保子さんに謝らないといけないと思って、その機会をただ待っていただけです」

浦岡は自身が悪かったことを時間をかけ奈保子に話した。

徹は本当は大事な親友だった、でも奈保子を好きになってしまい、自分を抑えることができなかった、奈保子から離れることができなくなり、治療の中でインパクトがあった徹の写真を抜いたこと、徹からの手紙を全て自分で隠したことを謝罪した。また奈保子と一緒に居ながらも、徹のことが頭から離れなかった 罪悪感は心の底に分厚い澱となってずっと溜まっていたことを話した。そして奈保子に手を出してしまったこと、結果奈保子と親友の徹が別れなければならない原因を作ったこと いかに自分が弱い人間かを思い諭されたと話し、長い時間頭を下げた。

「もう良いです。私自身の問題も大きいと思っています。今後は私はこのおなかの子のために生きると決めました。あなたも自分の道を歩んでください」

浦岡は、今日を逃したらもう次に会うことはないかもしれないと思い、タイミングは悪いと感じたが、今後のことに話を向けた。

「自分はそんな資格はないことはわかっているけど、今でも奈保子さんを愛しています。おなかの子も父親として死ぬ気で守りたいと思っています。どうか・・」

「今あなたが言ったことは聞かなかったことにします。ありがとうございました」

奈保子は話の途中で立ち上がり、応接間のドアを開けた。

「奈保子さん、今僕が言ったこと、改めて考えてください。時間がかかってもいいです。どうかお願いします!」

奈保子は黙ったまま、ドアを開けた姿勢で立っていた。



《FOR THE FRIEND》

奈保子と別れることになった徹は横浜の街を歩いていた。酒を飲んでも心の洞は埋められないことは分かっていたが、そうせずには居られなかった。

愛していたもの、大事なものを失い、その中でもそれを食い止められなかった自分が歯痒く、またそれを考えれば考えるほど居た堪れなかった。

なにが人生の全てを賭け幸せにしたいだ? 結局自分は何もできなかったじゃないか

何軒ハシゴしたか。カウンターに座り注文した酒を煽り、気が付けば同じ思いになり、また店を変え、同じことを繰り返した。

「おい、大丈夫か?」飲み屋街のビルの階段に座り壁に身を預けて放心したような

状態の徹に声を掛ける者がいた。声に顔を向けた。趙だった。

「ああ、大丈夫だ」立ち上がろうとした徹はよろけた。趙は慌てて徹を支えた。

「あんたもこんな状態になるんだな」

「今日は特別だよ。俺の人生の中でたった一回だけ 今日だけだ」

「なんかあったのか?」「大事なものを失ったよ」

「大金が入った財布でも落としたのか?」

「俺の人生で一番大事なものを失くしたんだよ」

「飲みに行こうなんて誘える状態ではないよな。あんたもう家に帰んなよ」

「いや、趙さん、こんな状態で悪いが、一軒だけ付き合ってくれ」

徹は趙が知っている店に一緒に入った。チャイナパブ この界隈では割と有名ないわくつきのバーだった。

「いらっしゃーい。あら趙さん、珍しいね」「今日は友達を連れてきたよ」

「はあい、どうぞ」豊満な肉体の線がわかるチャイナドレスを着たホステスが趙が連れてきた男を見た。「あら、いい男!」趙と徹は奥のボックス席に案内された。

豊満な体のホステスが二人の間に入り、用意された水割りを作った。

追って二人のホステスが両端に付いた。

「珍しいね、趙さんが来るなんて。しかもこんないい男と一緒に」

「趙さんが霞んで見えちゃうよね」ホステス達は笑った。

徹はひとしきりホステス達の話に合わせるように、場が辛気臭くならないよう付き合った。

小一時間店で過ごし、出ようと会計をお願いした。15万円だった。趙は慌てた。「冗談だろ?俺からこんな金を取るのか?」

「あんたが連れてきた男が払えばいいじゃない」豊満な体のホステスが言った。

「俺の友達だって言っただろ」

「あんたがカモを連れて来たんだろ」「ふざけるな!払わねーぞ!」

「この店のことは趙さん、あんたも十分承知だよね」

「ママさん、ありがとう。楽しかったよ」徹は財布から15万円取り出し払った。「え、あんた・・」「趙さん、行こう」徹は趙の肩に手を添え、店を出た。

「すまない。知っている店で普段は俺達にはほぼただで飲ましてくれるから誘ったのに」

「大丈夫。たまたま財布に入っていたから。こちらこそ付き合ってくれてありがとう」

「あの店では楽しそうに振舞っていたけど、本当はなにかあったんだろう?」

「ああ、ふられたよ」

「あれ、あんたは結婚したばかりじゃなかったか?もう外に女を作ったのか?」

「その結婚相手にふられたんだよ。幸せにするなんて言ったけど、このザマだよ」「え、川瀬奈保子にふられたのか?」「そうだよ」

「あんた、それこそ早速浮気をしたのか?」

「いや、そうじゃない。でも俺は何もできずにこの結果を招いてしまったんだよ」

「何があったか分からないけど、あんたならまたすぐ女ができるだろう。早く忘れるべきだね」

忘れられるか! 徹は心の中で言った。


徹は一日だけ浴びるように飲んだ。心の傷は立ち直れない程深かったが、なんとか傍目からは普段通りの生活をしていた。

浦岡は奈保さんをしっかり支えられているだろうか? それより奈保さんは浦岡を受け入れるだろうか? 奈保さんのことだから誰からの助けも拒否するかもしれない おなかの子は浦岡の子でもある 浦岡、男として正念場だぞ。気が付けば頻繁にそんなことを心で呟いていた。

徹はやはり子供は両親の元で育てられた方が良いと思った。子供を宿している以上、それを支えるのは父親の浦岡の役割だとも思った。

実質、現在婚約は解消したような状態であり、奈保子との関りも断れていた。

徹は元婚約者という立場ではなく、もはや違う立場で奈保子のことを考えていた。

今の自分ができることは何かと。


ある時、徹はある女性と知り合った。きっかけは徹の前を歩いていた女性がカバンから財布を落とし、後ろを歩ていた徹が拾ってあげたことだった。

徹にとっては、普通の行為であった。「あ、ありがとうござます」「いえ」

女性は美しかった。清楚で知的な印象で、笑顔も可愛らしかった。

数日後、出勤途中に同じ女性に声を掛けられた。

「この前は、ありがとうございました」徹は直ぐに思い出した。

「あの日は下したばかりで、普段より多めに入っていたので、助かりました」

「それは良かったですね」「どこまで行かれるのですか?」「横須賀です」

「あ、同じ方向です。途中までご一緒していいですか?」

「生憎この通勤時間の間で考えたいことがあるので、すみません」徹は女性の申し出を断った。一瞬、女性は驚いた表情を見せたが、「わかりました」と言った。

徹が横須賀で電車の車両を降りた時、耳元で「考え事はまとまりましたか?」と先程の女性が囁き、笑顔を見せ、徹が行く方向と逆の方に歩いて行った。

翌日は車両内で離れた位置で目が合ったが、女性は笑顔で会釈しただけであった。

数日女性の姿は目にしなかったが、また横須賀駅のホームで声を掛けられた。

「ご勤務地はここ横須賀ですか?」「そうです」「私もです。毎朝お会いしますね。たまには声を掛けてくださいね」とまた笑顔を見せ、歩いて行った。

翌日、車両内で女性を見かけた。徹は目が合ったと思い、会釈したが無視された。

週が明け、また車両内で見かけた。徹は会釈をしたが、また無視された。

その日、勤務を終え横須賀駅前の繁華街近くを歩いていると、「すみません!助けてください」と女性が徹に駆け寄ってきた。

「どうしました?」女性は後ろを振り返った状態で「追いかけられています」と言い、顔を向けた。あの女性だった。

「あ、あなたは!」「ああ」「良かったです!最近電車ででも付きまとわれたり、

待ち伏せされている感じがしていたんです。今日は駅に向かって歩いていたら後を着ける男の人が見えて、走ってきたところなんです」徹は後ろを振り向いたが、多くの人が歩いており、怪しそうな人物がいるかわからなかった。

「申し訳ないですが、ご一緒に帰っていただく訳にはいかないでしょうか?」女性は上目遣いで徹に頼んだ。

「わかりました。今日は良いですが、今後も続くようなら警察に相談した方がいいですよ」「よかったー。怖かったんです」女性は徹の腕に自分の腕を絡ませた。

徹の肘は女性の豊かな左乳房に当てられていた。「ちょっと」「お願いします。恋人の振りをしてください」小さな声で女性は言い、更に乳房を押し当てた。

「待ってください。横を歩き、あなたを守りますので」徹は腕を解いた。

「すみません」女性はまた小声で言った。

「ご迷惑でしたか?」「いえ」「本当に怖かったんです」

電車内では女性が話をするばかりで徹は相槌を打つ程度で、話は盛り上がるようなことはなかった。横浜に到着した。

「あの・・良かったらお食事しませんか?お財布と今日の御礼をしたいんです」

「いえ、御礼をされることは何もしておりません。タクシーでお帰りになったらどうですか?」「家まで送っていただくのは、厚かましいですよね?」

「そこまではしません」「わかりました」女性は泣きそうな顔をして背中を向け、

雑踏の中を歩いて行った。


数日後、出勤途中の電車の中で徹は意外な人物に会った。つり革を片手で握り立っていると、スッと徹の斜め後ろから体を寄せ、「Ça fait un bail Monsieur (久しぶりだな、ムッシュ)」と声を掛ける者がいた。アレックだった。目を向けるとその後ろにはあの女性がいた。驚いた表情を見せていた。

アレックはその女性に「邪魔をしないでくれ」と日本語で告げた。女性は二人から離れて行った。

「どうした?紳士だと思っていたが」

「相変わらずいい男だな。中国人にまでモテて」「え?彼女が」

「どこからかトオルの状況を知って近づいたんだろう」

「え?」「諜報員だろう。私のことはすぐわかると思うが、我々が知り合いだということは知らなかったはずだ」アレックは淡々と話した。

「トオルは傷心中だな。」徹は警戒した。

「君の妻が事故に遭ったというニュースを知って驚いたよ。悪かったが、また君の、いや二人の動向が気になってね」

「また俺を監視したのか」「命の恩人の二人が気になっただけだ。他意はない」

「しかし」「待て、私が今ここに居なかったらトオル、君は痴漢か何かに仕立てられていたんだぞ」徹は返す言葉が思いつかなかった。

「切ないな、君達は」自分たちのことを既に知っているのだと思った。

「ああ、結局俺はなにもできなかったよ。大事なものを守れなく、失ってしまったよ」

「間男は、うまくいってないようだ」「全部知っているんだな」

「私の母国では、結婚に拘らず、互いの連れ子も一緒に生活するけどな。元の相手は良き友だよ」


徹は横浜のマンションから自分の荷物を全て運び出し、海辺の別荘に移した。

週末、マンションの鍵を持ち、車を走らせた。


「と、徹君・・」玄関に出た奈保子の父は驚いた。

「どうしてここに来た?」驚きの表情は続いていた。

「突然に申し訳ございません。友人として奈保さんに会いに来ました」

「友人て・・」

「私は横浜のマンションを出ます。鍵を持ってきたのと少し奈保さんと話がしたいのです」

「元の婚約者として改めて奈保子と話すことがあるのか?」

「いえ、あくまで友人としてここを訪ねています」

しばらく沈黙があった。奈保子との関係が突然断ち切らされた徹の心中は察することはできる 話がしたいとはどういうことか 奈保子の動揺も気になった。

だが奈保子の父は徹を男としても人としても信用していた。友人として会いに来たという徹の眼、言葉に嘘はないだろう そう判断した。

「わかった。奈保子は知っての通り、身重だ。最近はマタニティーブルーというやつか、少し不安定でもある。奈保子が会うかどうか本人に聞いてからになるが、

いいか?」

「はい、会わないと言うのなら、鍵だけここに置いて帰ります」奈保子の父は、

変わらないな 徹君は と心で思った。

しばらく玄関で待っていると奈保子の父が「徹君、入りなさい」と玄関の扉を大きく開けた。

玄関には奈保子の母もいた。「徹さん・・。友人だなんて・・」奈保子の母は両手で口を押え、泣き声で言った。

「さあ入りなさい。奈保子は部屋で待っている」


「奈保さん、入ります」奈保子は普段着のまま、ベッドの上にちょこんと座っていた。少しばかりおなかが膨らんでいた。

久しぶりに見た奈保子は、少し疲れたようにも見えたが、相変わらず美しかった。

お互い様々な感情が浮かんだ。徹も奈保子を見て、胸が締め付けられるような感覚になり、目が潤んだ。何も考えずにただ抱きしめたい その思いを止(とど)めた。

悲しみに暮れるよりも、違う立場で奈保子を支えると決め、敢えて友人としてここに来たのだ 涙を堪えた。

奈保子は徹の顔を見た瞬間から涙を流した。

「徹君・・私・・」

「奈保さん、もう今までのことはいい。これからのことを友達として一緒に話が出来ればと思って来たんだ」徹は期間を自分の中で決めていることは言わなかった。

「友達として?」「そう。奈保さんは、おなかの子供と生きていくと決めたんだね?」

「どうしてそう思うの?」「奈保さんのことを思うとそうかなと」

「おなかの子は命に代えても産むし、育てる」力強く言った。しかしその後、奈保子は黙った。

「また別に思っていることがあるんだね?」奈保子は瞳を伏せ、頷いた。

「奈保さんは妊娠中の体調変化、気持ちの変化があって大変な中、また別の大きな不安を抱えているんだろうと思っていたよ。生まれてくる赤ちゃんにとってどういう状況がいいのか、ずっと考えているんじゃないかと思ったんだ」

「徹君はなんでも知っているようね」

「ひとりで産むと決めたの。だから徹君と・・」別れてから一時は徹に会いたいと思った。しかし今はその思いを断ち切ろうとし、新たな考えと葛藤していた。

「奈保さんが僕と別れることを決めたことに今からどうだとか言うことはないよ。

僕達は、今は以前とは違う状況にあるということはお互い認識しているよね」

奈保子は躊躇いながらも頷いた。自分は自身へのけじめと考え決断したが、友達として会いに来たと言う徹は突然突きつけた別れを乗り越えたのだろうかと思った。

「その上で、これからのことを僕で良ければ相談してほしいんだ」

「これからのこと?」

「奈保さんはひとりで産んで育てると決めたけど、ひとりで産み育てることに不安を抱かない人はいないよ。正直、浦岡のことも考えているんじゃない?」

両親、特に父は浦岡との関わりを拒絶していた。そのため誰にも何も相談できていなかった。徹が言うこれからには、浦岡は簡単には省けない存在であった。

奈保子は、浦岡に関しては、自分に謝罪するため父が追い返すのにも諦めずに通い続けたこと、自分とおなかの子を助けてくれたこと、病室で聞いた呟き、そして先日の謝罪の内容を全て含み、許していた。また浦岡の自分に対する思いも感じていた。

しかしその先は誰にも話をしていないが、どうしたらいいのかずっと考え続け、答えが出ずに迷っていた。

徹のことを考えれば自分の決意を貫徹するが、おなかの子のことを考えるとやはり

浦岡が必要ではと迷いも生じていたのだった。

そのことを徹はわかっていた。私のこと、なんでもわかっているのね 奈保子は心で思った。

「浦岡さんは、徹君には謝ったの?」「謝ったよ」「そう。許したの?」

「許したよ」徹にしてみたら託したという方が当てはまっていた。悲しい現実を受け入れた。

「奈保さんは今、浦岡のことをどう思っているの?」

「私も許している。何日も私に謝りにきて、その度父に追い返され、それでも来て。そしてこの前、私に謝ってくれたの。私、流産しかけたの。危ない状態だったんだけど謝るために玄関に立っていた浦岡さんが気付いて、助けてくれたの。そのお礼を言うのも併せて会ったの」

徹は浦岡が誠意を以って奈保子に向き合ってきたのだとわかった。徹は浦岡の奈保子に対する愛情は本物だと感じていたので、複雑な心境だったが安堵した。

「奈保さん、奈保さんがきっと心で考えているように子供にとって両親が傍にいることは大切なことだと思う。もちろんそれ以外の選択肢もある。正解はないけど、

でもこれからはしっかり赤ちゃんのことと浦岡のことを一緒に考え、自分で答えを出さないといけないよ。その相談だったらいつでも乗るから」

奈保子は徹を見た。記憶喪失だったとはいえ、浦岡と恋に落ち、妊娠までし、挙句徹に別れを切り出したのは奈保子自身であった。自分の行動のけじめの意味もあり、

自分で産んで育てる覚悟でいた。しかしおなかの子を思えば、浦岡のことも頭からは排除できなかった。奈保子にフラレた形の徹が、相談に乗ると言う。

生まれてくる子供を思い、奈保子に浦岡のことを考えるよう背中を押すようなことを言っている。

「徹君はそれでいいの?」奈保子は、徹が間接的だが浦岡と一緒になった方が良いと言っていることを理解した。

「生まれてくる赤ちゃんは多くの人に祝福されるべきだし、僕も心を込めて祝福したいと思っている。たくさんの幸せが訪れるようにね」

「ありがとう。徹君・・」自然に徹の胸に飛び込んで行こうとする自分に気付き、

咄嗟にそれをやめた。

「人には言えなかったけど、ずっと不安だったし、どうしたらいいかわからなかったの。でも徹君は・・」

「奈保さん、僕達はひと時一緒に過ごしお互いをよく知ることができたんだ。奈保さんは僕の一部だよ。だから奈保さんの不安や考えは僕はわかるよ。

淋しさも微笑みも分かち合いたいと思っている。これから先、孤独だと思う時もあるかもしれないけど、たとえ離れていても僕らは友達だよ。赤ちゃんと浦岡のことの考えが纏まるまで奈保さんが望めば会いに行く、遠くてもすべてを捨ててね」

奈保子は徹の暖かさに胸が詰まった。同時に暗い心に晴れ間が広がるのも感じた。

「徹君・・。私の一番の友達が徹君なんだね」笑いながらも奈保子の眼は潤んだ。

奈保子は徹の心の中を考えた。奈保子も徹のことは誰よりもよくわかっていた。

徹君は本当に優しいね 徹君の大きな愛を感じているよ ごめんね 本当は徹君が

一番辛いよね 

そんな素振りも見せず、敢えて友達として浦岡のことも含めた相談に乗ってくれるという。胸が痛くなり、再び涙が流れる瞬間、奈保子は徹から顔を逸らした。

奈保子はその一瞬俯いた徹の眼にも涙が溢れているのを見た。 やはり徹君は・・ 徹の心の中を見た気がした。


「良い話ができたか?」

「はい。ありがとうございました」

奈保子の父は話の内容には触れようとしなかった。

徹君は、奈保子を責めたり、復縁を迫ったりするような男ではない 子供を宿した奈保子に力を与えるようなことを話してくれたのだろう そう思った。

同時に、近いうちに我々の前からいなくなるだろう そう思った。

奈保子の父は、自ら友人だと言い、会いに来た徹は、平常を装っているが心はまだ

深く傷ついたままだろう そう思うとそれ以上言葉が出なかった。 

帰り際、徹が「恐らく皆さんにお会いするのは、あと数回くらいかもしれません」と言った言葉に奈保子の父は再び やはり潔さは変わらないなと思った。

奈保子の両親は、徹が訪ねてきて以来、奈保子の表情が明るくなり、そして気持ちも強く、前向きになったと感じていた。

良かったと思う反面、夫婦共に二人の幸せな未来を思い描いていたので、不憫でならなかった。特に奈保子の父は徹の心中を考えると切なさを禁じ得なかった。


数日後、浦岡が奈保子を訪ねてきた。しかし奈保子の父に追い返された。

去っていく浦岡の背中を2階の窓から奈保子は見ていた。

「祐一さん、もう少し時間をください」心で呟いた。



《SENTIMENTAL SUGER RAIN》

元気が出てきた奈保子に父は「奈保子、来週徹君が日米合同演習で乗船するんだが、壮行式を見に行くか?」と声を掛けた。

奈保子の父は先日奈保子を訪ねてきた徹が、自分たちと会うのはあと数回だと言ったことで、少しでも会う機会を増やそうと思っていた。

今回の壮行式は、徹に訊いた訳ではない。今は自衛隊マニアとなった奈保子の父が

自分で調べて、気付いたことだった。行ったからといって徹に会える保証はない。

しかし会えたらと思った。予め奈保子にはその旨を伝えた。

「会えるか、会えないか少しでも可能性があるなら、私も行きたい」奈保子は父に

そう言った。今までの感情とは違うが、奈保子にとって徹は依然大切な人だった。

奈保子との復縁はなく、やがて会わなくなる徹に奈保子の父は離れがたい思いがあった。奈保子の父は徹が好きだった。

ずっとこのまま、自分たちの傍で奈保子を支えてくれたら あわよくば一緒になる

ドラマのような奇跡があれば  しかしそうならないことは十分承知していた。

会えるとしたらこれが最後かもしれない 心の隅で一瞬思った。

奈保子、これでいいのか? 徹君は友人でいいのか? どう思っている  いなくなるんだぞ  奈保子の横顔を見て父は思った。


当日は曇り空だった。

壮行式は横須賀で行われた。多くの人が詰めかけ、施設内は混雑していた。

身重の奈保子のことを考え、開催時間の終わりに近い時間に来場し、施設内の港に来た。

ゆっくり歩く奈保子に寄り添い、護衛艦の停泊しているところで歩みを止めた。

丁度、出航するかという時間だった。やはり多くの人が日の丸の小旗を持って集まっていた。ふたりは出港を見送る人々の後ろに立った。

艦(ふね)の左舷に乗組員が横に均等の間隔で並び不動の姿勢のまま敬礼する姿は壮観だった。奈保子の父の心は震えた。

心の中には期待はあるものの、徹と会うことは正直難しいと思っている。

自衛隊マニアとなった奈保子の父は、これを見れただけでもここに来た甲斐があったと思った。

ポツポツと降り出した雨に、奈保子の父は奈保子の身体を考え、帰宅することを告げようとした。

「あ、徹君だ!」「え!」突然の声に父は奈保子を見た。

「ど、どこだ?」

「あそこ、船の真ん中より少し後ろ側に立っているよ」指さす奈保子の目線を辿ると いた! 紺色の制服を着た徹が不動の姿勢で敬礼をしている姿を捉えた。

「おお、いた!徹君だ!」奈保子の父の声は自然と大きくなっていた。

奈保子は一歩前に出て、大きく手を振った。そして両手を上げ、手の平を握り開く

動作をした。

その時、甲板の上の徹の左手が上がった。徹の手も同じように握られ開かれ、そして小さく掌が振られた。そして徹は僅かに体を動かし二人に敬礼を向けた。

奈保子、奈保子の父は見た。

なんと! 奈保子の父は奇跡だと思った。こんなにも離れ、しかも多くの人がいる中で徹は奈保子の姿を確認したのだった。

「お父さん!徹君が手を振った!すごい、すごいよ!私達に気付いたよ!」

奈保子は振り向き、丸い目を更に大きくし嬉々として父に言った。

そして再び「すごい!すごい!」徹に手を振り、飛び上がるように何回も背伸びをした。

こんなに嬉しそうに子供のようにはしゃぐ奈保子を久々に見たと奈保子の父は思った。同時に徹が向けた敬礼は最後の挨拶のようにも思えた。

艦は出航した。

徹君! 奈保子の叫びは汽笛に消された。

二人に向けた徹の敬礼は続いていた。

「さようなら 奈保さん・・」その時徹は呟いていた。

背伸びして大きく手を振る奈保子の後姿をみて、奈保子の父は

なぜこんなにも心を通わせられるふたりが結ばれないのか そう思うと涙が止まらなかった。

離れる艦に向けて奈保子は心で呟いた。

恋人でもなく、婚約者でもなく、友達だけど 今でも切なくなるほど・・

徹君、あなたの眼に小さくなる私を抱いていてね

奈保子自身も徹との本当の別れを予感していた。そしてその心の中では新たな決意が芽生えていた。

滲む涙か 降り出した弱い雨か 艦は霞んでいた。



《DEAR JOHN》

浦岡は再び奈保子の家を訪ねた。奈保子の父が追い返そうとした時、奈保子が止めた。

「祐一さん、入って」「奈保子!」父は奈保子の顔を見た。

立ち尽くす父に「お父さん、大事な話をするの」と告げ、二人で応接間に入った。

奈保子は自分が浦岡を家に招き入れたものの、何から話をすればいいのか戸惑っていた。

長い沈黙を破ったのは、浦岡だった。

「奈保子さん、この前の話は考えてくれましたか?」

「祐一さんは、これからのことをどう考えているの?」奈保子が浦岡に確かめたいと思ったことだった。

「今回のことで如何に自分が弱く、それでどれだけ周りに迷惑をかけたか思い知ったよ。でも僕は今までの僕ではない。過ちを改め自分自身を強く持つと決心したんだ。これからは何があっても自分に負けない、そういう覚悟で生きていくんだ!前にも言った通り、僕は奈保子さんと生まれてくる子供を死ぬ気で守る。簡単には許してくれないことはわかっている。でも僕は今でも奈保子さんを愛しているし、この愛を証明してみせる。だからここに来たんだ!」浦岡は力を込めて言った。

奈保子は浦岡の眼を見ていた。そこに揺るぎない決意を感じ取った。

「祐一さん、あなたの誠意はちゃんと私に伝わっています。私のことを愛してくれていることも。そして今あなたが言ってくれたことで、私も心を決めました。

私にもおなかの赤ちゃんにもあなたが必要なの。私は浦岡祐一さんと一緒に生きていきます」

「奈保子さん・・」

「奈保子でいいです」


「なんだと!こいつと結婚するだと! 自分で産んで育てる そう言って徹君と別れたんだろう!」

「そうよ。おなかの子と一緒に生きると決めたの」

「じゃあ、なぜ結婚なんだ?よりによってこいつと!」

「浦岡さんは、以前の浦岡さんではないの。浦岡さんの誠意はお父さんも感じているはずでしょ? 私は認めたの。おなかの子には父親が必要なの!」

「奈保子さんを、おなかの子を幸せにします!お願いします!どうか私達のことを認めてください!」浦岡も必死に頭を下げた。

「奈保子、お前は何を言っているかわかっているのか? 正気か?」

「正気よ。真面目に話をしているの」

「徹君はどうするんだ!どう説明する気だ!」

「徹君は、このことは知っているわ。迷っていた私の背中を押してくれたの!徹君が赤ちゃんと浦岡さんのことを一緒に考えるようにと言ってくれたの!

それで改めて真剣に考えた結果なの!」

「奈保子さんの妊娠を僕に知らせてくれたのも佐伯自身なんです!」

奈保子の父は絶句した。

ひとりで産んで育てる覚悟を決めた奈保子を、友人として励ましてくれていたと思っていた。

しかし実際は、自分が身を引いて二人を結びつけるように奈保子に話をしていたとは夢想だにしなかった。

「いや、認めんぞ!俺は認めんぞ!」「お父さん!」

「もういい、話すことはない。出ていけ!」奈保子の父は二人に背を向けた。

「またお願いしに来ます」と言い、浦岡は先に部屋を出た。奈保子の父は立ったまま背中を向け、母はテーブルの椅子に座り俯いていた。

奈保子は遅れて部屋を出た。玄関に立つ浦岡を見た。浦岡は奈保子に顔を向けた。

萎縮した様子はなかった。

「僕は諦めない。認めてくれるまで何度でも頭を下げに来る。奈保子さんとおなかの子のために。そして佐伯のためにも」真剣な眼差しで奈保子に言った。

その夜、奈保子と母は奈保子の部屋で長い時間話をした。

奈保子の父は、徹のことを考えていた。 徹君 お前という奴は・・ 一晩中涙が止まることはなかった。


浦岡は頻繁に訪れた。奈保子の父に毎回無視されたが、「奈保子さんとの結婚を認めてください。お願い致します」と頭を下げ続けた。

奈保子の父からは追い返すような言動はなかった。

しかし奈保子の父は無言を貫いた。

そのような中、奈保子の母は浦岡に声を掛け、話をする時間を徐々に増やしていった。

やがて浦岡は奈保子の母から家に通され、奈保子との時間も持てるようになった。

ある時は奈保子と母、浦岡3人で奈保子の病院に行くこともあった。

奈保子が全てを捨ててまで浦岡を愛したことがあった。その気持ちは一旦はなくなったようだが、奈保子自身が浦岡の気持ち、覚悟に自分も応えると話をし、

奈保子の母は改めて母親として娘である奈保子を支えると決めていた。


奈保子はいよいよ出産となった。

破水したと連絡があった浦岡は奈保子がかかっている産婦人科に急いだ。

奈保子は個室に入っており、陣痛に耐えていた。

両親が奈保子に付き添っている状態で、普段なら間を取り持ってくれる奈保子の母も今はそれどころではなく、浦岡は個室の外で待っていた。

しばらく立っていると看護師が部屋から出てきて、その後を両親に両脇を抱えられて奈保子が出てきた。

「奈保子」「祐一さん、来てくれたのね」

「奈保子、頼む!」奈保子は陣痛で歩くのもやっとな状態だったが、浦岡の声に微笑んだ。

浦岡は奈保子と両親の三人の後ろ姿を分娩室に入るまでその場で見送った。

浦岡は、分娩室の前奈保子の両親が並んで座っているところから少し離れた場所に

立っていた。

奈保子の母が浦岡に顔を向け、「祐一さん、こちらにいらっしゃい。皆で奈保子の無事の出産を祈りましょう」と声を掛けた。

浦岡は二人の横に腰掛けた。三人それぞれが内に秘めたことを口に出さず、黙っていた。

分娩室前の三人共々奈保子の無事の出産を祈っていたが、生まれるまでの心配は尽きなかった。

無言の中、微かな産声が聞こえた。居ても立ってもいられない状態をそれが止めた。

奈保子は無事出産した。

分娩室から看護師が出てきて両親が呼ばれた。

浦岡は、産声を確かに聞いたが、まだ心配は消えていなかった。

しばらくすると奈保子の父が分娩室から顔を出し、浦岡に声をかけた。

「ほら、入って我が子を見ろ」と言った。

「奈保子・・」「祐一さん、男の子よ」

「よく頑張った!ありがとう!」

奈保子と生まれたばかりの自分の血が半分入った子の二人の無事な姿を見た。

自然と涙が溢れた。

浦岡は奈保子の手を握り、もう一度「ありがとう・・」震える声で言い、人目を憚らず号泣した。

その夜、浦岡は徹に電話を掛けた。

「佐伯、生まれたよ。男の子だ。母子共に大丈夫だ」

「そうか!それは良かった。おめでとう、心から祝福するよ」

「ありがとう」

「もう抱っこしたのか?」「いや、まだ怖くて抱っこはしていない」

「愛する人が増えたな」

「佐伯、色々とすまない・・」

「もうそんなことを言うな。お前はもう父親だ。これからは家族のことだけを考えろ」

「ああ、そうだな」

「彼女にもおめでとうと伝えてくれ」

浦岡が徹と話をしたのはこれが最後だった。

徹は奈保子に連絡もせず、訪れることもなく、そして携帯電話の番号を変えた。


退院の日、奈保子の車を浦岡が運転して家族五人、家に戻った。

出産を期に父親の態度も変わった。

産まれた子供の話から、現在浦岡は無職の状態であったため今後のこと、浦岡の家のこと等、二人で話をする時間も多くなった。

そして退院の今日、「祐一君、奈保子の車を運転してくれ」と声を掛けられていた。

奈保子の父は、二人を夫婦として、そして自分達と生まれた孫もあわせ浦岡を家族として迎えていた。

奈保子は、徹からおめでとうと祝意が告げられたが、それ以降電話が繋がらないことを浦岡から聞いていた。

もし連絡があったり、訪ねて来てくれたら、お互い今まで通り普通に話もできていただろう、友達として。

徹らしい 奈保子は思った。

徹と会うことはもうないだろう 互いがそれぞれの道を歩んでいくことになったのだと改めて思った。そして自身も母親になったのだと改めて思った。

徹君、無事産まれたよ

祐一さんと赤ちゃんと明日を生きていくの

徹君と一緒に過ごした日々は、消えることない私の青春だよ

ありがとうね

産まれて間もない我が子の寝顔を見ながら呟いた。

数日後、浦岡と奈保子は正式に入籍した。



《徹と奈保子》 

奈保子は大事なことを忘れていた。横浜のマンションのことだった。妊娠、出産と育児での慌ただしさに気を取られ、思い出す機会もなく、マンション内の奈保子の私物も手つかずそのままの状態であった。

徹からの手紙がそれを思い出させた。封筒の裏は徹の名前だけで、住所の記載はなかった。

赤ちゃんの誕生を祝う言葉と家族の幸せを祈るメッセージとマンションに関して

売却も含め一切の処分を一任すると記されていた。

奈保子と浦岡はまだ新居は決めていなかった。奈保子は出産後しばらく実家で子育てを行い、浦岡は新しく勤務することになった都内の脳神経外科には自宅から通っていた。

横浜のマンションは徹が一括で支払い、名義は川瀬奈保子だった。妊娠中に友達として現れた徹から鍵を預かっていた。その時徹は既にマンションを出た形だった。

奈保子は両親と浦岡に相談した。奈保子は当初から名義は形上自分だが、徹のマンションだという認識だった。

最終的には、売却し寄付をすることとなった。

奈保子は、徹は売却したお金を受け取らない 徹ならそうするだろうと思ってのことだった。奈保子の意見に皆が賛同した。

後日になるが、寄付した団体から感謝状と盾が届いた。その時、かつて徹の都内の部屋のテレビ棚に同じような盾が幾つかあったのを奈保子は思い出した。


徹は自衛官としてキャリアを重ねていた。

最後に奈保子を見たのは護衛艦の甲板からだった。その時に奈保子との別れを完全に自身の中で決めたのだった。

奈保子が見えなくなるまで、見つめていた。ただ奈保子の幸せを祈った。

それ以降、出会い、恋愛の機会は幾度も訪れた。しかしどの場合も発展することはなかった。徹の心の中にはいつも奈保子がいた。

それを追い払うように任務に没頭した。


話は戻り、

先に行われた日米合同演習において、徹はアメリカ海軍第七艦隊少尉ジェファーソンと知り合いになった。

徹は医官として護衛艦に乗船していた。医官であるため現場をはじめ作戦会議に立ち会うことはないが、語学力を買われ上官から通訳補佐として立ち会うよう命が下った。無論、医官としての任務も課されていた。

日米士官同士は英語での会話で連絡、報告をはじめ意思疎通を行なっている。

上意下達の社会で、合同演習においては、現場での指揮伝達も英語で行われる。

日米合同演習に参加する自衛官は英語でのコミュニケーションはある程度できる者もいるが、そうではない者もいた。

現場でのその通訳補佐が徹に加えられた任務であった。

徹が立ち会ったのは、米海兵隊の小部隊と海上自衛隊の小部隊との作戦会議であった。

徹も任務の内容は承知していた。会議において作戦内容が米軍部隊長から告げられた。作戦内容が伝えられている中、海兵隊の数人が小声で話しているのが徹の耳に聞こえた。

黒人兵士と組むとは悲劇だ いや俺のパートナーはジャップだ 自衛隊は軍ではないのになぜ我々と演習するのか ジャップは足手纏いだ

しかし実際自衛隊の精鋭は鍛えられた海兵隊を凌ぐほど機敏で統率がとれ、優秀だった。

一部の海兵隊員のヘイトは続いていた。自衛隊を侮辱するような冗談をはじめ、任務作業を自衛隊員や黒人兵士を無視した形で遂行したり、荷物を蹴ったり放り投げたりするようなことがあった。見かねた自衛隊員が注意をしたが、肩をすぼめるような

仕草をし、聞き入れる様子はなかった。

自衛隊員の優秀さは時間の経過と共に多くの海兵隊員達も認識するようになった。すると一部の海兵隊員の矛先は二人の黒人兵士に向けられるようになった。

食事時、同じ様な対応をする海兵隊員に一人の黒人兵士が何かを言った。すると白人の海兵隊員と黒人が顔を近づけ口論となった。

周りは止めに入ったが、口論となった白人兵士が黒人兵士に手を出した。それを見たもう一人の黒人兵士が手を出した兵士に掴みかかった。

数人の白人兵士が加担し、二人の黒人兵士は組み伏せられ、暴行を加えられた。

一部笑って見ている海兵隊員もいた。

徹はすぐに駆け寄り、暴行を加えている兵士一人一人を引き倒した。一人が徹に殴りかかったが、徹は躱した。

「お前達は、海兵隊の精鋭だろう! 任務を考え、相応しい行動をとれ!」徹の声が響いた。

「お前は日本人だろ、しかも自衛隊のただの医官だろう! 余計な口出しをするな クサれジャップ!」

「同じ作戦を遂行するに、国籍、人種は関係ない! 敵を想定し、任務を考えれば、ここにいる一人一人を尊重すべきことは理解できるはずだ!」

徹の返しの一喝が響いた。米軍、自衛隊員双方から拍手が湧いた。

徹は白人兵士に向かい「我々軍人は時として過酷な状況に置かれるが、互いの助けが必要な時が必ずある。普段から互いをリスペクトすることは最も重要なことだ」

「今、軍人と言ったが、自衛隊は軍なのか?」「そうだ。君達と同じように祖国を守り、平和を守る志を持った誇り高きソルジャーだ。ここにいる全ての者がそうだ」

暴行に加担した白人兵士達は、倒れている黒人兵士に歩み寄り、謝罪し、手を貸し引き起こした。

一人一人が黒人兵士と抱き合っていた。再び指笛、拍手が湧き上がった。


今回の演習で一番士気が高く、互いが協力し合い機敏に動いたと評価されたのは徹が立ち合った部隊だった。

この部隊は、表面上は問題ないようだったが、一部の者が黒人差別を有しており、

作戦遂行に懸念があると黙されていた。

なぜかと訊かれた海兵隊隊長が現場に自衛隊の通訳補佐として立ち会っていた徹のこと、そして起こった全てのことを報告した。

「そいつは自衛隊の医官ということだが、どういう人物だ」

「はい少尉 既に資料を用意しています」資料を受け取り、しばらく黙読した。

「そいつをここに呼ぶことはできるか」ジェファーソン少尉は言った。


後日、徹は米軍横須賀基地に呼ばれた。自衛隊の一尉が米軍少尉に直々面通しをすることは異例中の異例だった。

案内された執務室の前に立った徹は、深く息を吸った。何故米軍将校が一介の自衛官に会うと言うのか、理由がわからなかった。

ドアをノックした。返事と共に案内係がドアを開け、徹の到着を告げた。

「初めまして、第七艦隊少尉ジェファーソンだ。お会いできて光栄だ」

「トオル サエキです。私こそ光栄です」最敬礼の姿勢で言った。チェアから立ち上がり、歩み寄ったジェファーソンは徹の眼を真っすぐ見て、手を強く握った。

徹も強く握り返した。

「座ってくれ」徹は帽子をとり、腰掛けた。「忙しい中、来てくれありがとう」

「私が呼ばれた理由は何でしょうか?」

「先日実施された米日のオペレーションの出来事から君に興味が湧いてね。ああ、シリアスに捉えないでくれ。ただ君と話がしたいと思っただけだ」

「あのオペレーションで私は何かしたでしょうか?」

「君が立ち合った部隊は期待に反してと言ったら失礼だが、目覚ましいパフォーマンスを見せ、高い評価を得た。その影にミスターサエキがいたと報告があって、君と話がしたいと思ったのだよ」

「私の影?それは違います。我が自衛隊もそうですが、海兵隊の精鋭が集まった部隊だったから、また互いの協力があったから高いパフォーマンスが生み出された理由なのだと思います」

「もちろんそれも理由だろう。だが、あのチームには隠れた問題があったんだよ。

君もそう感じたはずだ。でも見事に払拭された」

「はい、あの現場で感じたことがありました」

「私はいじめや差別は嫌いでね。一般社会でもそうだが特に軍隊や軍人においては、不必要なもののなにものでもないと思っている」

「仰る通りだと思います」

「そうだろう。報告を聞いた時点でも思ったが、君に会って、君の眼を見て確信したよ。私と同じ考えの人物だということをね」

しばらくジェファーソンは軍内では厳しく禁止されている差別だが現状ではなかなか改善に至らず、うまくいっていないことを話した。

「君はあの現場で一人一人をリスペクトすることが最も重要だと、また全員が祖国や平和を守る志を持った誇り高きソルジャーだと言ったと聞いたが」

「はい、確かに言いました」

「今まで米軍がずっと差別の禁止を言ってきたが、君のたった一言であの現場にいた人間の意識が変わったと報告を受けたよ」

「買いかぶり過ぎです」

「いや、そうではないはずだ。君は今までそうして生きてきたに違いないと思う。

だから相手の心に届くのだ」

「それこそ買いかぶり過ぎです」

「まあ、君の言葉があの部隊の意識を変え、本来以上のパフォーマンスを引き出したのは間違いないことだ。参考にさせてもらうよ」ジェファーソンは笑った。

「ところでミスターサエキ、近々結婚するのではないのかな?」

徹は俯いた。頭を下げたまま「その話はなくなりました」と言った。

ジェファーソンは驚いた。しばらく無言のまま徹の表情を見ていた。

「そうだったのか・・それは失礼なことを訊いたな」「いえ」

「君とは状況が違うと思うが、私が結婚するときは悩んだよ。我々軍人は常に死と隣り合わせの職業だ。そのような私が結婚して子供を授かり家庭を築いていいものかとね。しかし我々軍人は愛する祖国を守る、愛する者を守る それができる職業だと思い、ワイフにプロポーズしたんだよ」

「愛する祖国、愛する者を守ることができる職業ですか・・」

「君はまだあの美しいシンガーを愛しているのだろう?」

先程の徹の表情を見てジェファーソンはそう思った。

徹は言葉が出なかった。

「ミスターサエキ、間接的だが、その人を守ることができる職業に今も君は就いてるのだよ」

徹はハッした。奈保子のことは忘れようと、思い出さないようにとただ目の前の任務を遂行していた。しかしジェファーソンの言葉で考えが変わった。

直接ではないが、間接的に愛する人を守れる職業に就いている 確かにそうだ 

徹は自身の仕事観に新たな意義が加わった気がした。

「ジェファーソン少尉、ありがとうございます!」徹は立ち上がり、頭を深々と下げた。

「自衛隊にも素晴らしい軍人がいることがわかったよ。機会があれば、是非また君と話がしたい。今日は来てくれてありがとう」ジェファーソンも立ち上がり再び徹と手を握り合った。


奈保子は日本にいることで生活がしにくい状況になっていた。かつては徹とのプロポーズ映像が流れ婚約会見まで行ったにも拘わらず、違う相手と結婚したことは世間に特別な関心を抱かせることになる。現時点では一部の者しか知り得ない状況ではあったが、露呈するまでには、さほど時間はかからないであろう。

奈保子は、新たな人生を歩むことを決意していた。腕に抱く我が子のために新しい

環境を考えていた。浦岡も我が子のことを考え、奈保子の提案に賛同した。

奈保子は仕事で、多くの外国を訪れていた。その中でも一番気に入った国があった。

浦岡は奈保子から具体的な移住希望先を告げられた。浦岡も異存はなかった。

英語は不自由しなかった。

丁度日本の学会に講演に来ることとなっていた移住希望先の大学教授に手紙を出した。以降は来日するまでメールでやり取りをし、今までの論文を送付したりし、自身を猛烈にアピールした。

講演後多くの医師からの様々な質問に答え、ようやく会場を出ようとする教授に声を掛けた。

「ドクターブキャン! ユウイチ ウラオカです。今日の講演は、私が出席したどの講演より素晴らしかった。今日の講演の内容は私も研究テーマにしていたものです。是非、あなたの元で勉強させてください!」

浦岡は幸いにも移住希望先の大学で脳神経学の権威の教授のチームに入れることとなった。送付した論文とボストン大学に留学をしていたことが決め手だった。

浦岡はできる限りのことをし、薄給ではあったが家族が新たに生活する国での仕事を得るのに成功した。


徹はフランス大使館のアレックからある女性を紹介されていた。

フランス大使館に駐在する予定の女性武官だった。

武官とは、国家若しくは君主から官吏たる軍人に任じられた者又はその軍人の官職をいう。多くの国は軍人を配置している。

武官は、それぞれ自国の軍を代表するとともに駐在国の軍事事情を合法的に調査し,情報収集や関係構築にとどまらず、外交特権を持つ。

また活動は防衛装備品の供与や訓練など多岐にわたり、共同演習やセミナーの実施、隊の交流、相手国との距離を縮め自国の影響力やプレゼンスを高めることも任務の一環とされている。

この日、アレックは徹を都内のレストランに呼び出していた。

徹は約束した時間に店に入った。案内された席にアレックとその女性はいた。

徹はアレックと二人だけの会食のつもりでいたため、一瞬驚いた。

「変わりはなかったか、ムッシュトオル」アレックは立ち上がり徹と握手した。「今日はお声を掛けて頂き、ありがとうございます」二人共日本語で言葉を交わした。徹は一緒にいる女性に目を向けた。

「紹介しよう、次期大使館駐在武官のエマ・デュール・ド・ラ・ショームだ」

紹介したアレックが日本語だったため徹も「初めまして、海上自衛隊一尉のトオル サエキと申します」と日本語で挨拶をした。

「初めまして、フランス陸軍中佐エマ・デュール・ド・ラ・ショームです」

女性も立ち上がり、流暢な日本語で返し、徹と握手した。

鳶色の瞳に金色のショートヘア、背の高い美しい女性であった。

「ムッシュトオル、彼女は非常に優秀でね。来年には正式に武官として来日することになっている」

徹も武官がどういう立場、任務かは知っていた。武官が情報交換等をするのは、

幕僚、幹部等上層部の者たちである。一自衛官とフランス大使館駐在武官では身分に大きな解離があった。そのため徹はどう接したら良いか迷った。

「ムッシュトオル、あまり気負わず、普段通りで良い」徹の内心をわかったかのようなアレックの言葉だった。

「私は一介の自衛官なので、リュートナントコロネル・エマさんのご期待に沿える話ができるかどうか」徹はフランス軍の中佐の呼び名をかろうじて思い出した。

「エマでいいのよ、ムッシュトオル」彼女は笑って言った。

「私もトオルでいいです」徹もそう答えた。

徹は医官であり、現場のことはほぼわからない旨を正直に話した。

「先日、今の武官と一緒に米軍第七艦隊ジェファーソン少尉とお会いしました。

その時、自衛隊の情報も伺いました。日米合同演習の総評の中であなたの話が出てきたの。訊けばアレクサンドルの友人だというので、色々話を聞かせてもらったわ。

それで是非お目にかかりたいと思ったの」

「ええ!私の話が?」「少尉は良い軍人だと言っていました。またアレクサンドルの命の恩人とも聞きました。私もトオルに興味を持ったの」

「私はそんなに評価されたり、興味を持たれる人間ではないです。ただの自衛官です」徹はフランス語で言った。

「え!あなたはフランス語を話せるの?」

「独学なので全く自信はないです」

「アレクサンドル、彼がフランス語が話せるとはあなたは言わなかったわよね?」

アレックは笑っていた。

エマはジェファーソン少尉の話で佐伯徹を知った。日本に赴任することになっていたため、自身も話に挙がった自衛隊員の佐伯徹について調べた。

あのプロポーズ映像がすぐ見つけられ、それを見てエマは素敵な男性だと思った。

現在は日本の有名なシンガーと婚約中ということが分かった。

またアレックの知り合いということもフランス大使館員からも聞き、アレックに色々尋ねた。そこであのシンガーと別れたことを知った。

エマの徹に対する興味は更に深まったのだった。そして今日その本人を間近に見て、徹はやはり素敵な男性だと改めて思った。それだけでも十分だったが、フランス語が話せるとわかり、エマは二人の距離が縮まる予感がした。

三人はフランス語で会話することになった。

軍事に関すること、自衛隊に関することは話題にならず、尤も徹も武官に情報提供できるようなものは持っていなかったため、当たり障りのない話に終始したが、

徹は食事をしながらもフランスに関する知識をフル活用し、様々な話題を振った。

「え!私はそう思っていたんですが、違うんですか?」「え!日本とは真逆ですね」など多少大袈裟に返答などし、場を盛り上げた。

「トオル、今日はとても楽しかったです。来年日本に来たときはまたご一緒したいです」エマは日本語で言った。

「お互いの任務で差し障りがなければ、いつでも」徹はフランス語で答えた。

「自衛隊との公務の時は、トオルに通訳をお願いしようかしら?」

慌てた徹は「無理です。それは遠慮します」その場に笑いが起こった。

来年、時間が合う時にと再会の約束をした。


フランス大使館のアレックは出世し、副外務大臣となって、徹と再会した。

徹は殆ど休みを取らず当直も率先して自ら入っていた。

上官からはしきりに「いいから、たまにはまとまった休みを取れ」と言われる程であった。そのような徹の元に、アレックから手紙が届いた。

傷心は癒えたかという内容と共に、自らの境遇を綴り、最後には自身のバカンス中に来仏しないかと打診めいた記載があった。

徹は上官にアレックとの関係を説明し、渡仏が可能かどうか尋ねた。返答はないが、一応申請を出すように言われたため三ヶ月後に7日間の休暇の申し出をした。

徹がほぼ忘れた頃に了承という返答が来た。正味二か月が経過していた。

徹の心にはまだ奈保子の面影が残っていた。時折思い出し、しかし奈保子と家族の

幸福を祈るだけで、深く想うことはしなかった。


徹はフランス南東部の観光都市ニースに来ていた。7月は多くのフランス人がバカンスを取得し、ここニースもその賑わいを見せていた。

アレックは家族と共に3週間のバカンスを取り、前半はここニース、後半はモナコで過ごす予定という。

徹はアレックからの航空チケット、ホテル代等の提供を一切断り、自身で渡仏した。

ホテルでのチェックイン時に、フロント係から部屋のグレードアップが提示された。断りを入れるつもりだったが、アレックからの指示という事で甘受した。

デポジットは当初の金額通りで、ブラックカードで行った。

アレックと会うのは二日後となっており、アレックの家族と夕食を摂ることとなっていた。翌日はパリに戻り、一泊の後帰国予定だった。

渡仏の翌日、ホテルにアレックから電話があった。

「覚えているだろう?あのエマもニースでバカンスをとっているのだが、トオルが来ていると話したら今晩是非会いたいと言っている。予定は何かあるか?」

「特に予定はないです」「ではOKでいいな?」


待ち合わせは、徹が宿泊しているホテルとは別のホテルのロビーに7時という事だった。徹はクリーム色のスーツに白いシャツで、待ち合わせ場所に向かった。

「トオル!変わりはなかった?」エマは約束の時間きっかりに来た。彼女は両頬を付ける挨拶をした。胸元が大きく開いた夏らしいサマードレス、そしてドレスと同じ色のハット姿だった。颯爽と現れたエマは美しく、また豊かな胸の目立つ服装だったためロビーいた多くの人々の目を魅いていた。

「食事はまだでしょ? お店を予約をしているの、こっちよ」エマは徹の腕をとった。徹がエスコートされているような感じだった。

洒落たレストランの通りが見渡せる窓側のテーブルの席に着いた。

アペタイザーに徹はフローズンダイキリをオーダーした。エマも同じものをオーダーし、久々の再会を祝し、乾杯した。

「エマは一人でバカンスに来たの?」

「そうよ、ひとりよ。はじめは日本に行こうかと思ったの。一足早く」

「仕事熱心ですね」

「いいえ、一足早くの意味は、トオルに会うという意味よ」

「それは光栄です」

「申請が降りなくて、去年と同じニースにしたの。でも正解だったわ。ここでトオルに会えたのだから」エマは笑顔を見せた。

「トオルは、ニースは初めて?」「フランス自体が初めてです」

「ええ!そんなにフランス語が話せるのに?」

「独学なので、自信がないですよ。でもこの前お会いしてから、また時間を見つけて勉強しました」

「私とコミュニケーションを深めるため?」「そうかもしれません」二人は笑った。

食事中も話題は尽きず、いつのまにか長い時間が経過していた。

二人は店を出た。夏の夜の風が心地良かった。

「トオル、私の部屋でシャンパンを飲みましょう。トウキョウではそうはいかないでしょ」


翌日、予定より早くアレックに会うことになった。アレックが車でホテルまで迎えに来た。

「昨晩は眠れたか?」徹の返事は曖昧だった。

着いたのは、ニースのとあるマリーナだった。

アレックからフランス海軍の少尉階級の軍人サミュエルとその部下の一人リシャールを紹介された。

この軍人サミュエルは、日本人の徹を端から馬鹿にしていた。

「面倒だな。折角のバカンス中になぜこんなアジア人と会わなければいけないのか、気分が悪くなる。自衛隊は軍ではないし時間の無駄もいいところだ」徹の眼の前で部下にそう言った。

「全くの同感です。日本の自衛隊は戦闘経験がないと聞いています。視察や合同訓練等、我々に教えを乞うような話になるのですかね?」

「バカンス中に仕事の話はしたくない。戦闘経験がないそんな組織の少尉ということだが飾り物だな」

「しかし少尉クラスがなぜ副大臣の知り合いなんでしょうか?」

「知らん。とにかくこの無駄な時間を早く終わらせ、船に戻る そのことだけ考えよう」「そうですね。しかし何故この男に会う必要があるのでしょうかね・・」

そんな二人に徹が「アレックさんの紹介があってのことだが、私に言われてもどうしようもない」と流暢なフランス語で話すものだから、二人は度肝を抜かれた。

こんな極東の軍隊もどきの若造がフランス語を理解している訳はないと高を括っていた。アレックは薄く笑ってやりとりを見ていた。

無駄な時間は早く終わった。互いを紹介し合い、二人は適当に相槌を打ち、早々と立ち去った。

「あの日本人がフランス語を理解していたのは驚きましたが、まあ早く切り上げられてよかったですね」部下のリシャールは言った。

サミュエルはほんのひと時接しただけであったが、徹は只者ではないと心の中で感じていた。

「ムッシュトオル、私は君はやがて自衛隊の幹部級、いやそれ以上のポストに就く逸材と見込んでいる。失礼な奴だったが、奴も有望な軍人の一人だ。

将来何かの繋がりが役に立つこともある」「お気遣いありがとうございます」徹は頭を下げた。

「さて、これからが我々の時間だ。妻も子供達もムッシュトオルに会うのを楽しみにしている。行こう」徹は再びアレックの運転するベントレーの助手席に乗った。


アレックの家族との会食の後、徹はエマと待ち合わせた。7月14日はフランス革命を祝うパリ祭でもあり、国内の主な都市では軍事パレードや花火が上げられ、ここニースでも夜に花火があがっていた。花火を見終わり、プロムナード・デ・ザンクレを歩いていた。

「トオルは明日パリに戻るのよね」「明日の昼にここを経つよ」

「荷造りは終わったの?」「スーツケースひとつだよ」エマは笑って徹の腕をとった。

「じゃあ今日こそは、私の部屋に来てくれるわよね?」

その時遠くで無数の悲鳴が上がった。振り向くと押し寄せる人々の大きなうねりとその群衆の中で悲鳴と共に押し倒される人々の姿が目に写った。ドミノ倒しが迫ってくるような感覚だった。見ると大きなトラックが群衆の中を人を撥ね飛ばしながら蛇行走行している。 

エマが人のドミノ倒しに巻き込まれた。慌てて徹がエマの腕を引いた。エマは人に押しつぶされることは真逃れたが、足を挫いていた。

辺りは悲鳴や罵声、呻き声、人を呼ぶ声が入り交じり、必死の形相で逃げる者、立ち尽くす者、声を上げて泣いている者、正にカオス状態だった。

徹達の約2,30m手前でトラックは止まっていた。止まったトラックの周りには何人もの人が倒れていた。

呆然と立ち尽くす群衆の中に知っている顔があった。

「ムッシュサミュエル!」サミュエルの隣のリシャールも呆然としていた。

「何が起こった?」目の前の状況から目が離せず、正面を向いたままサミュエルは

徹に尋ねた。

「わからない・・。しかし多くの人があの暴走トラックに撥ねられた。犠牲者は数えきれない程だ!」

「テロか?」「わからない!」徹も状況を把握できずにいた。

その時止まったトラックから顔を布で覆った5人の男が下りてきた。全員手に自動小銃を持っていた。

その姿を見たサミュエルはジャケットの内側から銃を取り出した。リシャールも腰のホルスターに手を掛けた。

いきなり一人が持っていた自動小銃を乱射し、続いて他の男達も半円を描くように立ち並び乱射した。徹は咄嗟にサミュエルを突き飛ばした。

弾はサミュエルの右腕を掠めた。血しぶきを徹は見た。

銃の乱射で、周りの人々は次々と倒れ、また悲鳴を上げ人々は四方に逃げ惑った。

徹はサミュエルの落とした銃を拾った。

「おい!よせ、サエキ!」サミュエルは腕を押さえながら叫び、立ち上がろうとした徹に掴みかかった。

「自衛隊のお前が発砲したら、只じゃ済まないぞ!」

「愛する者を守るのは軍人の役目だ!」徹はサミュエルの手を振り払った。

パンッ パンッと乾いた音が二発鳴った。5人は咄嗟に屈みこんだ。

「やめろ!俺が相手だ!」背後からの声に徹を確認し、5人は銃口を向けた。

徹も5人のうちの一人に銃口を向けた。

「クソったれ!」サミュエルは叫び、左手で小さなサブガンを構え引き金を引いた。

徹が空に向けた威嚇射撃で5人の乱射は止まり、屈んで振り向いた時に隙が生まれた。居合わせたサミュエルの部下リシャールと数人の警官がその隙にそれぞれの

立ち位置から銃を連射し、数人がその場で倒れた。徹が構えた銃の引き金を引く瞬間、相手が倒れた。自動小銃の先端は空を仰ぎ、短い連射も同じ方向に放たれた。

サミュエルが放った一発が徹に銃口を向けていた男の胸を射抜いていた。

5人は、その場で射殺された。

徹はサミュエルに駆け寄り、自分のシャツを引き裂き、出血している傷口の上部を縛った。

「ムッシュサミュエル、ありがとう」「サエキ・・」サミュエルの言葉の途中で徹は立ち上がり、倒れている人に駆け寄り、応急処置とトリアージを始めた。

「ムッシュリシャール、手伝ってくれ!」

徹は駆け寄ったリシャールに重傷者、軽傷者のグループを分けるように指示をした。

「私はドクターだ。怪我人を分けるから誰か手伝ってくれ!」徹はフランス語の他、英語、中国語、日本語で周囲に呼びかけた。

その声にその場に居合わせた人々が国籍、人種を超え、次々と徹の指示に従い、怪我人を運んだ。中には他国の看護師の資格を持った者も数名いた。

遠くで救急車、パトカーのサイレンが鳴り響いていた。


救急車が徹のいる現場に着いたのは、だいぶと後だった。その間徹は看護師の資格を持つ者と重傷者の応急手当てに奔走していた。

右手を押さえながらサミュエルも遅れてきたフランス軍の部隊に状況説明や指示をしていた。

徹は救急車が着くと救急隊員に重傷度が高い人から搬送するよう指示を出していた。

居合わせた者が徹の指示の元、協力し合い、また徹が応急処置、トリアージを行なっていたため、この現場の搬送はどの現場よりスムーズな対応が図られた。

リシャールは徹を羨望と敬服の眼差しで見つめていた。背中を向けている徹にリシャールは敬礼をした。

足を挫いたエマもずっと徹を見ていた。

正に軍医だわ 今目の前で国籍も人種も関係なく、ここにいる皆がトオルの指示の元協力し、負傷者を助けている・・きっとトオルは戦場でも同じことができるわ 

「愛する者を守るのは軍人の役目だ」トオルの愛する者は、私なんかではなく、

全ての人々なんだわ ジェファーソン少尉が言っていたことがよくわかった

エマは心で呟いていた。

一段落着いたのは、事件から4時間以上経過してからだった。

徹は、現場に立っていた。視線を感じ、目を向けると道路の脇に座っているエマがいた。徹はエマに歩み寄り、跪いてエマの挫いた足に手を伸ばした。やはり腫れており、熱も持っていた。

顔を上げた徹の首にエマは両手を掛け、自ら唇を重ねた。エマは長く口づけ、もう一度口づけた。

「私の目の前であなたは死ぬところだったのよ」エマの目から涙が溢れていた。

エマは徹を抱きしめた。遊び半分で付き合ってはいけない人だと思った。

エマは恋に落ちた自分と失恋した自分が同時にいるような気持ちだった。


サミュエルは亡くなり横たえられた人達の前に佇む徹に歩み寄った。

徹は「こんな悲惨な現場を見たのは初めてだ」呟くように言った。

「ああ、俺も初めてだ」

ひとつため息をつき「腕は大丈夫か?」とサミュエルに顔を向けた。

「かすり傷だ。俺も撃たれ死ぬところだった。礼を言うよ」

サミュエルは上半身裸の徹にフランス軍の軍服を手渡した。徹は自分が着ていたシャツを切り裂き、何人かに止血処置をしたため、上半身は裸だった。

「バッヂや肩章はない。一般兵のものだ。鍛え抜いた良い体をしているが、いつまでも裸でいる訳にはいかないだろう」

「そうだった。目の前の状況に対応することで一杯いっぱいで、忘れていたよ。

ありがとう」

「サエキ、あの時お前は本当に俺の銃をぶっ放すつもりだったのか?」

「そのつもりだった」

「ぶっ放してたら、かなり厄介なことになっていたぞ」「そうか」素っ気ない返事にサミュエルは笑った。

徹がテロリストの一人にサミュエルの銃口を向けた瞬間、サミュエルが予備の銃で先に相手を射抜いたため、徹は撃たれずに、発砲せずに済んだのだった。

徹は敵を後ろから打つことをせず、威嚇射撃をした後、正面から勝負を挑んだ。

徹の威嚇射撃で動揺した5人に隙が生じ、結果、事態を収束に導くことができた。

「サエキ、連中が背を向けている時なぜ撃たなかった?」

サミュエルは正しい判断だと思っていた。あの威嚇射撃でテロリストの銃撃が実際に止まったのだった。背後から短銃で一人一人撃ち倒してもその間は自動小銃の掃射は続き、犠牲者も増えていただろう。

「俺はそんな事はしない」「サムライだからか?」

「軍人としての判断からだ」

サミュエルは こいつは本物の軍人だ と心で思い、ニヤリと笑った。


徹は壮絶なテロ現場にはいなかったこととされた。自衛隊員として両国に事情聴取等の面倒な対応を回避すべく措置だった。

アレックと軍が用意した小型の飛行機で深夜にニースを経ち、夜明け前にシャルルドゴール空港に到着した。軍の関係者に案内され、空港の中に紛れ込んだ。

その後は予定通りパリで一泊し、帰国した。


「ゆっくりバカンスを過ごしてきたか?」上官が言った。

「はい。お陰様でゆっくりできました」

「あのテロ事件の時はどうしていた?」

「カンヌで花火を見ており、翌日あのテロ事件を知りました」

徹はアレックの指示通りのことを上官に述べた。

後日、アレックから徹に手紙が届いた。政府からではなくアレック個人からのもので、礼を綴った後にエマが日本行きを辞退した旨が記されていた。

徹はまた日々の任務に勤しんだ。


徹は自衛隊病院にいた。最近では病院設備も充実してきており、今までは症状が進行、悪化した患者に対しては民間病院に転院させていたが、症状によっては継続して加療を行うようになっていた。それに伴い、入院患者もベッド数の上限に近い形で推移してきていた。この上限は60床なら患者60人という訳ではなく、

他の自衛隊病院と同様に自衛隊横須賀病院も有事に負傷者を収容することを前提としているため、常に一定の空きベッドを確保し運営しているので、実際は空きベッドはそれなりにはあった。徹は担当患者の回診を行っていた。自身が担当した患者に声を掛け、週三日勤務する毎に入院患者にも診察を行っていた。

その傍らには看護師の田所歩美が付いている。看護師歴4年の25歳、この自衛隊横須賀病院の常勤看護師であった。田所はクリクリした目つきをし、それなりの容姿を持っており、実際患者も含め病院職員、また患者として受診した自衛隊員の中にも

彼女のフアンは多かった。

徹の動きに合わせ、次に行うことを察知して、サっと準備を整える機転が利く看護師であった。回診する患者も増えてきており、徹も機転の利く田所との回診はやり易かった。

ある回診日のことだった。午後三時から順次担当患者を診察していた時だった。

田所は目の前を手で払う動きをしていた。何度か同じ動きをする彼女に「どうしました?」と尋ねた。「最近、視野の外側に黒い点が見えるんです。もしかして飛蚊症かもとは思っているんですが」

「普段はコンタクトレンズをしているの?」「はい。でもコンタクトレンズを取った時にも気づけば蚊が飛んでいて」彼女は笑って言った。

「田所さんは、近視?」「はい。小学校の高学年になってから急に視力が落ちてきて、それから普段は眼鏡、ここ数年は勤務中はコンタクトレンズを着けています。

なので先生の顔も患者さんの顔もハッキリ見えています」

徹は、田所の目、彼女の話す黒い点から若年性の網膜剥離を疑った。

「蚊が飛んで見えるのは両目?」「はい」

「いつから?」「えーと、気づいたのが2,3か月前位です。」「眼科の受診は?」

「気にはなっているんですが、なかなか行き出さなくて、まだ診察を受けていません」「田所さん、ここにも眼科があるんだから、早く受診してください」

「えー、先生、心配してくれているんですか?」「そうです。心配しています」

「嬉しいです。先生にそう言ってもらえて・・。はい、早めに受診します」

徹は自分の言葉を彼女がどう捉えようと、早めに受診するということを聞けたので良かったと思った。

月が替わり、病棟の看護師のシフトが変更になったか、徹の回診には他の看護師が付くようになった。

ある日、通りがかった病棟の看護師の詰め所に徹は田所の姿を見た。ふと思い出し、彼女に声を掛けた。田所は作業を置いて、徹へ駆けてきた。

「先生、お久しぶりです」嬉々として言った。徹は彼女の目のことを確認しておこうと思っていた。人に聞かれるのもどうかと思い、彼女を病棟の西の端にある階段まで誘い出した。

「先生、元気でしたか?私、先生の回診同行がなくなって、ショックを受けていたんですよ。たまに先生の姿を見た時に、また一緒に患者さんを診て回りたいなと思っていたんです」余計な話をするつもりはない。「田所さん、眼科は受診しましたか?」「え?いえ、まだです・・」「なんで!」強めに言ってしまった。

一瞬驚いた表情を見せたが、田所は下を向き、しばらくして泣き出した。

「理由があったのかもしれないけど、早く受診してください」「はい・・」

「仕事中だから、涙を拭いて早く戻って」徹は送り出すように彼女の背中にそっと手を当てた。そしてその階段で医局に戻った。

数日後、徹は昼休みに田所から呼び出されていた。病院の正面玄関の反対側、裏庭だった。昨日仕事が終わり医局に戻った際、机の上に封筒が置かれていた。

真っ白な普通の封筒で、何かと思い開いてみると、田所から目のことで話がしたい 詫びの文言を入れながら明日1時すぎに裏庭でお会いしたい と書いてあった。

仕方なく、時間に出向いた。田所がいた。「目の診察をしたんですね」

「はい。昨日、眼科の遠矢先生に診てもらいました」

「どうでしたか?」

「若年性の網膜剥離で、レーザー処置では手に負えず、市内の杉原眼科に紹介状を書いてもらい、受診しました。その結果、そこで手術をすることになりました」

「今、視力はどうですか?」「最近視力が落ちたかなとは思います。また写真に例えると半分くらいはぼやけて見えます」

「眼科の手術は専門外ですが、杉原眼科は多くの手術の実績もあるし、早い段階なら網膜剥離による失明を回避できると思いますよ」「はい・・」

田所は自衛隊病院の遠矢からもまた杉原眼科でも失明の危険がある旨を聞かされていた。そして改めて徹に言われたことで更にショックを受けた。

「手術はいつですか?」「三日後です」「そうですか。あまり悪いことを考えないように」田所は俯いたままっだった。

話は終わった。徹が医局に戻ろうかとした時、田所が抱き着いてきた。田所はしばらく徹の胸で泣いていた。「頑張って手術を受けてきてください」そっと腕を解き、

徹は医局に戻った。

徹は医局で遠矢と話をしていた。

「佐伯先生、彼女の両眼は微妙だよ」「かなり進行しているということですか?」

「私の診断では、手術がうまくいけば別ですが、かなり進んでいる状態とみているし、実際、視力検査でも視力もかなり低下し、視野も相当狭くなっています」


徹が勤務を終え、家に戻ろうかとした時、男から声を掛けられた。私服を着ていた。

「佐伯先生ですね?」「はい、佐伯ですが」

「あなたは看護師の田所さんとどういう関係ですか?」「はい?」「遊びで付き合っているんでしょうか?」

「あなたは誰ですか?」「質問に答えてください」「誰ともわからないか方に指図される覚えはないですが」

「どういうつもりで歩美と付き合っているのかと訊いているんです」

「お付き合いなんてしていません」「じゃあ遊びなんですね?」

「何を言っているのかわかりません」

「今日病院の裏庭で抱き合っていましたよね?」「あなたは田所さんとは?」

「かつての恋人です」「かつてのですか?」「別れましたが、彼女を想う気持ちは今も変わりません」

「はっきり申し上げますが、私は田所さんとはお付き合いはしておりません。そしてあれは抱き合っていた訳ではありません」その先は徹は言わなかった。

男は怪訝な顔をした。

「彼女は泣いていましたよね?別れ話ですか?」徹はその場から立ち去った。男は何も言わなかった。


一週間あまり経過した。

徹は勤務を終え、自衛隊病院を出ようとした。ふと見ると病院の玄関前に誰か立っていた。以前徹に声を掛けた男だった。

「佐伯先生」「あなたは、先日私に声を掛けた方ですね。何か?」

「あ、はい。先日はすみませんでした。歩美は目の手術があったとは全く知らなかったもので。彼女の母親に事情を聞きました」

「そうですか。私に何か用事があるのですか?」「あ、いえ・・」

「わざわざ謝罪することでもないですよ。では、失礼します」徹が男の脇を通り抜けようとした時、「佐伯先生、お願いがあります!彼女に会ってくれませんか?」

男は徹の前に出て言った。

「私が?」徹は田所の両眼の手術後の状態を聞いていた。

「あなたは田所さんの眼の状態を知っているのですか?」

「はい。歩美の母にも聞きましたし、本人にも会って聞きました。先生、歩美は先生に婚約者がいることを知っています。とても私に敵う相手ではない、でも先生が好きで、ずっと先生を見ていたと言っています。迷惑なのはわかっていますが、どうか彼女に会ってくれませんでしょうか?お願いします!」

徹は一瞬別れた奈保子を思ったが、心に仕舞った。

「私が会う必要がありますか?」

「歩美は先生が好きなんです!歩美はもう何も見えなくなります。最後に歩美が好きな先生を見せてやりたいんです!お願いします!」

男の必死の訴えだった。

「いえ、私は会いません」「お願いです。お願いします!この通りです!」

男は佐伯の前で土下座しかけた。

徹は男の腕を持ち、それを止めた。

「私は会いません。拒否したとそうお伝えください」

「そんな・・」男は両膝を付いたまま泣き出した。徹は男の気持ちがよくわかった。

「たとえ視力がなくなっていくとしても、最後に彼女の眼に映るのはあなたが一番

ふさわしいのではないでしょうか?」そう言って男の横を通り抜けた。


「佐伯先生は、来ないよ」

病室のベッドに体を起こした状態で座り、窓に目を向けている歩美に話しかけた。

「え!どういうこと?」

「佐伯先生に歩美のこと話をしたんだけど・・」

「あの話を本当に佐伯先生にしたの⁉」

「ああ。でも会わないって」

「浩平君・・」

「ごめんな」

彼女の眼に映る最後の人はやはり佐伯先生だよ 浩平は発した言葉の裏でそう思った。

「浩平君・・そこまでしてくれたの? ごめんね。後から考えて、私あんなこと言わなければよかったと思っていたの」

「でも歩美は佐伯先生のことが好きなんだろ」

「ううん。それは昔」

「昔?」「そう。今は違うの。新しい恋をしそうなの」

「え!」「誰かわかる?」

「俺の知っている人?」

「そうよ」「ええ・・」

「浩平君よ」

「え! あ、歩美、たとえ歩美の眼が見えなくなってもこれからも俺ずっと歩美の傍に居るから。歩美の眼になるから!」

「浩平君、見えるの!ちゃんと元通り見えるの!」

「歩美!」

徹は、田所が眼球の一番外側にある強膜、いわゆる白目の部分にシリコン製のスポンジを縫い付ける方法である「強膜バックリング術」という手術が成功していると聞いていのだった。


数年の月日が経った。

奈保子は、テレビやメディアから離れた。当初国内では、やはり川瀬奈保子に関するゴシップがしばらく流れていた。

当然徹の元にも多くのマスコミ関係者が訪れたが、徹は終始口を開くことはなく、

時間の経過と共に徐々に世間のふたりへの関心も薄れていった。

そのような中、奈保子は日本を離れ、仕事で何度か訪れ、魅了された国で家族と共に生活の基盤を築いていた。

奈保子は自宅にスタジオを作り、今までと同じように音楽に携わっていた。

時として、今までのようなポップスやバラード曲、ピアノのインストルメンタル曲を

作曲したりしたが、今は専ら愛する子供に聴かせるためであったり、子供の仕草、

表情の愛おしさを曲にすることが中心になっていた。

自分が作った歌を子供が無邪気に楽しそうに歌う姿が、愛おしくあり、またこの上ない喜びでもあった。

愛する家族との日々は幸せに満ちていた。しかし時々ふっと思うことがあった 

違う人生があったとしたらどうだっただろうか?

今は子供への曲が中心だが、もし日本に居たらアーティストとしての自分はどういう変遷を辿っていただろうか?

自分を思い描いてはまた頭の中で掻き消す そんなことを繰り返すのだった。

徹君 今どうしているの? 結婚したの?



《As long as we are dreaming》

海上自衛隊はオーストラリア軍との合同演習を行う事となり、このオペレーションに徹も参加することになった。

オーストラリ軍は対中政策の一環として軍事面でもその対応を図っていた。その中心は北部のダーウィン基地であったが、今回の自衛隊との合同訓練においてはインド洋の自由な航行作戦の一環ではあるが、シドニー基地を拠点に行うこととなっていた。

訓練の四日前までにシドニー基地に到着し、明後日からの訓練初日に備え艦内外で

準備が進められていた。

徹はオーストラリ海軍大佐トーマスと話をしていた。トーマスは軍医ではなく、

駆逐艦の艦長だった。

徹は各国の海軍関係者から知られる存在になっていた。

西側の各国間の軍事会議などで、時折自衛隊の話が出た時に海上自衛官の徹の話題が出ることがあった。

最近はオーストラリア軍も対中包囲網なるオペレーション会議が軍事同盟国の米海軍と行われるようになり、トーマスもその会議に顔を並べていた。

米軍のジェファーソン少尉から日米合同演習、またフランスニースのテロ事件のことも聞いた。

トーマスも徹に興味を持ち、自ら出向いて徹に声を掛けたのだった。

柔らかな物腰、固い意志を持った眼差し、時折見せる屈託のない笑顔 トーマスは徹の話を様々聞いていた。

話をする者が皆、徹という人物を好きになるのがわかった。

本日は夕刻よりオーストラリ軍主催のレセプションパーティ、所謂歓迎式典が開催されることになっていた。

「パーティーの時にまた話そう」トーマスは徹に右手を差し伸べ、固く握った後、

その場を後にした。

軍のレセプションパーティーはオペラハウス近くの基地内で行われた。音楽隊が君が代とオーストラリア国歌を演奏し、オーストラリア海軍大将の挨拶、今回合同演習の指揮官の両国の大佐へと話が移って行った。式典中もそうだが、立食パーティーでも殆どトーマス大佐と話す時間はなかった。

徹は自身の任務の遂行に気を向けた。


数か月後、オーストラリア軍より日米豪間での士官の机上作戦の打診があった。

軍医、医官の交流研修も行われることになっており、自衛隊からは徹をはじめ8名が参加することとなった。

徹は再びオーストラリアを訪れていた。軍医、医官の交流研修は東海岸ヌーサ・ヘッズで行われることになっていた。

徹は自衛隊幹部及び全国から選ばれた医官と共に会場のあるリゾートホテルに到着した。

三日間通して時間厳守で行われる研修は朝から夕方まで続いた。研修は全て英語で行われた。徹が選ばれた理由の一つであり、またもう一つの理由はオーストラリア海軍大佐トーマスからのリクエストもあった。

医療処置は日米豪それぞれに微妙な違いがあり、今回の研修においてはケーススタディを通し、共通の知識、手技等を習得することを目的としていた。

日米豪のエリートが集結した中でも徹の存在感は際立っていた。

語学力が大いにその裏付けとなっていたが、徹の豊富な医学的知識、状況分析力、

提案処置に関し居合わせたどの軍医、医官も舌を巻いた。

救急救命センターでの経験、実際のニースでの惨事の経験とそこで得た知識が大いに役に立っていた。

そして時折混ぜるウイットに富んだ冗談も含め、その場にいる各国幹部も全員が徹に魅入った感じになり、徹は研修の初日で既に一目置かれる存在となっていた。

米軍の軍医でもあり大尉であるマクダニエルはジェファーソン少尉より徹の話を事前に聞いていた。

同じくオーストラリア軍軍医でマクダニエルと同様本研修のアドバイザーでもある

オニール大尉もトーマス大佐から自衛隊の興味深い男と情報を得ていた。

二人は自衛隊幹部のアドバイザーに、徹は人としても非常に魅力的で、また素晴らしい軍医だと告げていた。

二日目の研修後は会場のホテルの一角で懇親会が催された。日米豪の参加者は交流を深めた。

マクダニエルもオニールも徹と長く話をした。他国の参加者も次々に徹に声を掛け、徹は殆ど誰かと話通しで会を終えた。何も口にできなかった。

三日目の研修も夕方に終わり、各国の参加者と研修の労をねぎらい写真撮影したり、名残を惜しんだ。

しばらくして徹は幹部達や他の医官とは離れ、一人ヌーサのメインビーチ沿いに伸びるヘイスティングス・ストリートを散策していた。

ヌーサは温暖な気候で過ごしやすくまた海をはじめ自然が美しいことでも有名なオーストラリア屈指のリゾート地であり、世界中のセレブリティだけでなく、リタイアしたオーストラリア人が移住したり、別荘を構えたり、またこの地に新婚旅行、家族で旅行をする者も多かった。時間があれば徹は是非この美しい街を見てみたいと思っていた。

ヘイスティングス・ストリートは、短い距離ではあるがこの地域の目抜き通りで、

洒落たレストラン、カフェ、店が並び、年間通して賑わいを見せ、今日も多くの人々が行き交っていた。

通りでは軍服を着たオーストラリア軍の兵士も所々で見かけたが、自衛隊の制服を着た者は徹だけであった。リゾート服や海辺の服装の者が多く、見慣れない軍服姿は目立ち、徹を見る者も多かった。

歩いていると徹の目の前で老婆が躓いて倒れた。

徹は思わず駆け寄った。同時に駆け寄った者がいた。女性だった。

二人で老婆を起こし、徹は老婆の手を握りケガの有無を尋ねた。また女性は道路に

転がった手提げかばんを拾い、老婆に手渡し、スカートの裾のほこりを払った。

幸いにケガはなく、老婆は礼の言葉を述べて、歩き出した。

無事を確認したその時にお互いの顔を見合った。

驚きの表情は徹だけではなかった。何か言いかけた時、3,4歳くらいの男の子が駆け寄りその女性の腰にしがみついた。

女性は目に力を込めた。徹はそれを察した。

お互い何も言わず何もなかったように立ち去った。

女性はしばらくして振り向いた。同時に徹も振り向いた。同じタイミングだった。

振り向いた女性に目深に帽子を被った徹は敬礼をした。差し込む夕陽の中で徹の頬が一瞬輝いた。

しばらくその姿を瞳に焼き付け、女性は再び背を向けた。

「ママ、泣いているの?」「ううん」

「誰あの人、知っている人?」

「月の王子よ」思わず言葉が漏れてしまった。

「変なの。あ、ママあそこに行こう」


徹はホテルの部屋のバルコニーに立っていた。時折吹き付ける風でヘアーオイルでセットした髪も乱れた。

半月が空に浮かび、目の前に広がる海面にはその月へと続く白い帯が輝いている。

徹は思いがけず会えた奈保子を想っていた。

南半球の、リゾート地とはいえ、こんな所で会えるとは夢にも思わなかった

心の中でずっと面影を追っていた。

美しさは記憶の中と変わらなかった。

「奈保さん・・」

思うことは幾つもあったが、口から発せられた言葉は、徹が奈保子を呼ぶその言葉だけだった。しかしそれは風に掻き消された。


奈保子は自宅のテラスで月を見ていた。

数か月前、自衛隊がオーストラリア軍と合同演習を行うことをニュースで知った。

その時、徹を思い浮かべた。徹が今も自衛隊員なのか、またそうだとしてもこの合同演習に来ているのかもわからない 

不確かで非現実的なものとしてそれ以上深く思うことはなかった。

しばらくは徹のことを思い出すこともなかった。

しかし期せずして今日突然の再会となった。

思いもかけず、出会った 変わらない徹君

かつて愛した月の王子

遠く離れたのに、こんなにも近い距離に来ていた

何故かいつも出会う二人 なんなんだろう


顔を上げ、流れる白い雲を追った。

脳裏では、自分に敬礼をする徹の姿を思い浮かべていた。

欠けた月は、淋しさに似て、忘れていた心が痛んだ。


奈保子は、徹とのことを思い描いていた。

黄昏時の海辺の別荘 徹は海を見ながらテラスのウッドチェアーに座っている 

後ろから近づき、その肩に頬を寄せた

そのまま二人で夕映えを見ていた

引き潮の海 風がそっと愛の終わりを告げた  

これは全て夢だよ こんな時でも優しく言う徹

徹の手を取りその指に唇をあてた 

ふたりで見ていた夢を忘れないでね

徹は切ったばかりの髪に静かに触れた



《ENGAGEMENT》

一人の時間になった時、再び徹と一緒になって過ごしている自分を思い描いてはまた頭の中で掻き消す そんな時間が増えた。

ピアノに向かい、ふたりを思い描きながら弾き始める しかしいつも途中で指を止めてしまう。これ以上弾いてはだめと自制するのだった。


心の中では同じ状態が続いている。徹が今でもひとりでいると風の便りで聞いていた。どう過ごしてきたの 想い馳せながら、奈保子は懐かしいことを思い出した。

ふたりが一緒に暮らし始めた時のことだった。

ある日曜日、徹と奈保子は横浜の街を歩いていた。奈保子は久々のオフだった。

ふたりは横浜に住んでいるが、日中に一緒にこの街を散歩する機会はまだ少なく、

徹も奈保子もなんとなくしかこの街の様子を把握していなかった。

「徹君、この前観覧車に乗ったけど、大きなビルばかりで街の様子はあまりわからなかったよね」「そうだね。この前乗った時はマンションの位置は確認はしたけど、

街の様子はあまりわからなかったな」

二人は山下公園方向に足を向けた。ゆっくり色々と散策し、思い付いたところで昼食を摂ればいいとマンションを出る前に話をしていた。

しばらくふたりで歩いていた。ふと奈保子が外人の老夫婦を見て「徹君、あの人達何か困っている様じゃない?」

徹は歩み寄り「May I help you?」と尋ねた。徹と外人の夫婦の夫がしばらく話をしていた。奈保子は老夫婦の妻の方に目を向けた。

パーマがかかった銀色の髪、サングラス、柄の入った黄色いシャツ、白いパンツに

スニーカーを履いていた。きれいな初老の女性だった。

その女性は奈保子と目が合うとなにかを言いながら、指で足を指し、手のひらと首を振った。その仕草で奈保子は、足が痛いのだとわかった。

徹は奈保子に顔を向け、「奈保さん、この方の奥様が足が痛いそうで、長く歩けないから近くで食事ができるところがないかと尋ねているのだけど、どこか良いところがあるかな?」「私もあまり良く知らないけど・・」徹は再び老夫婦に顔を向け、

何か食べたいものがあるか尋ねた。

妻の方が「中華料理は昨晩食べたわ。それ以外ならあなたが薦めてくれるところならどこでもいいわ」と言った。

老夫婦は山下公園近くの外資系ホテルに宿泊しており、徹達とは反対のみなとみらいに行く途中だったとのことだった。徹は来た道を振り返り、2回ほど立ち寄ったことがある和食の店を老夫婦に伝えた。「そこでかまわない」夫が答えた。

徹は道に出てタクシーを探した。しかし反対車線の方は駅に向かうタクシーが頻繁に通るが、中心から離れるこの車線は空車のタクシーがなかなか通らなかった。

徹は夫に「タクシーを拾ってくるので待っていてほしい」と告げ、「奈保さん、確かこの先にベンチがあるので奥様をそちらに案内して。僕はタクシーを拾ってそこまで行くから」と言い走り出した。

奈保子は周りを見渡し、少し先にベンチがあるのを確認し、片言の英語で妻に寄り添い案内した。ベンチに妻を座らせ、夫に顔を向け横に座るようジェスチャーで示したが、夫は微笑みながら首を横に振った。妻は座りながら自分の横を指さし、奈保子にここに座るよう促した。夫に顔を向けると夫は奈保子に頷いた。

奈保子は横に座り、「足は大丈夫ですか?」と尋ねた。

「少し痛みがあるけど問題ないわ」短い単語だったので理解した。

奈保子は、以前アメリカで有名ミュージシャン達と一カ月間アルバム制作をしたことがあり、多少は英語を話すことができた。しばらく使うことがなかった英語の会話に当初は戸惑ったが、徐々に思い出してきていた。

妻は「あなた達は親切ね」と言った。奈保子は首を横に振った。

「あなた達はこの近くに住んでいるの?」「はい、散歩をしている途中です。私たちは最近引っ越してきて、まだ詳しくこの周りのことを理解していないのです」

「そうなのね。ところで彼はあなたの夫なの?」「はい」

「あなたもとても美しいけど、あなたの夫もとてもハンサムね。夫の若いころの雰囲気に似ているわ」奈保子はハンサム ハズバンド ヤングという単語で何となく意味を掴んだ。夫も妻の言葉に頷き、奈保子に「あなたの夫の職業は何か?」と尋ねた。一瞬奈保子はなんと説明したら良いか困惑したが、「ネイビー、ドクター」と咄嗟に思いついたことを言った。

「本当に?」妻が言った。夫も「やはりそうか!」と笑顔で言った。

丁度その時、一台のタクシーが停まり、徹が降りてきた。徹は夫に「目的の店は伝えております。どうぞこのタクシーに乗ってください」と言った。

夫は「迷惑でなければ、その店で私達と一緒に食事をしないか?」「是非、そうしてもらいたいわ」妻も続けて言って奈保子に目を向けた。奈保子は徹を見た。

「折角の申し出だけど断ろうと思う」「待って、徹君。私、この方たちの話を聞いてみたいの」少し驚いたが徹は笑って「わかった」といい、夫婦に一緒に行く旨、また妻が是非あなた達とお話がしたいと言っていることを伝えた。

老夫婦はとても喜んだ。

ほんの数分の距離であったが、老夫婦は、アトランタから一昨日日本に来て、明日に日光東照宮、そして京都、大阪に行く予定だということを話した。

徹も東照宮は行ったことがあり、その歴史や煌びやかな装飾の建造物の話をし、是非見てほしいと伝えた。

店に着いた。徹は店員に掘り炬燵の席をお願いした。案内され、互いの夫婦が向かい合う形で席に着いた。

「この店は創業55年で、一般的な日本料理を出すところです。横浜でも古くからあることで有名な店です。気軽に食事を摂るような店ですが、こんなところで良かったでしょうか?」

「もちろんよ。こういうところを希望していたの。店の雰囲気も日本的でとても良いわ」と妻が言った。

夫は掘り炬燵に興味を示し、「これなら日本の雰囲気もそのままで、妻の足の負担もないな」と言った。妻もこの席が良かったらしく「ありがとう」と徹に言った。

お茶とメニュー表が運ばれ、「何か食べたいものがあったら、仰ってください。

私たちが説明します」と徹は言った。

奈保子は「私たち」と徹が言った時、徹の顔を見た。徹には英語を話せると言ったことはない 尤も話せるという程のレベルではないけど片言であればなんとかわかる タクシーを待っている間のこと、私がこの方たちの話を聞いてみたいと言ったことで徹君はそれを察したのだろう 奈保子はそう思った。また自分が理解できなくても徹がいるからと安心感があった。

ふたりの説明を受けながら、老夫婦は注文をした。

「あなた達は新婚なの?」「そうです」徹が初老の妻に答えた。

「先程、君の妻からあなたは海軍の軍医だと聞いたが?」今度は夫が徹に尋ねた。

徹は一瞬奈保子の顔を見て、「そうです」と答えた。

「私はとっくに退役したがアメリカ海軍に所属していたよ」

「夫は一時期第七艦隊に所属し、駆逐艦の艦長をしていたのよ。だからまず横浜に来たの」徹は驚き、思わず立ち上がり夫に敬礼をした。

夫は笑って「昔のことだ。オールドネイビーだよ」徹に座るよう促した。

「私の妻もあなたを見て、若い頃の私と同じ雰囲気があると言ったが、私もあなたに同じ匂いを感じたよ。良い目をしている。私にはわかる、あなたが人間的にもそうだが、優秀な軍人だということがね」徹は首を横に振った。

奈保子は初老の妻に「長年、あなたはどのように夫を支えていたのですか?」と尋ねた。

「あなたの周りには、軍人の妻はいないの?」

「はい。いないので是非お話を伺いたかったのです」奈保子が答えた。

「あなたは今仕事をしているの?」「はい」

「そうよね。今は女性も仕事をするのが当たり前。私たちの頃は軍人の妻の多くは家庭に収まっていたから、参考になるかしら?」

「是非聞かせてください」奈保子は体を真っすぐ向け、妻に頭を下げた。

「わかったわ」妻は笑って言った。

「夫は年に数回しか家に帰ってこなかったわ。一緒に過ごした時間は短かったから、今こうして二人の時間を楽しんでいるの。やはり夫は軍人だからいつ死ぬかと常に心配は尽きなかった。湾岸戦争に向かった時は毎日夫と同じ艦に乗る人達の無事を必死に祈っていたわ。でも家に帰った時は、極度の緊張から解き放たれる時間でもあるから、ひたすらリラックスしてもらうようにしたの。笑顔を絶やさずね」

「笑顔を絶やさず ですね」

「そう。妻の笑顔、それが家の中では一番大事なの」

「私も妻の笑顔に何度も癒されたよ。私は妻や家族のことももちろん心の中にいつもあったが、やはり乗組員の命、その家族のことが念頭にあったよ。任務が終わった時、またクリスマス休暇や年に数回の帰宅の時は妻の笑顔、手料理で毎回リラックスできたよ」徹も二人の話すことに大きく頷いた。

「軍人の妻だから心配事は尽きないけど、心の隅で覚悟は持ちつつもあまり不幸な結果を思わないことよ。お互いの愛を信じていれば、こうして私達のように色々なことを乗り越えられるわ」初老の妻は奈保子の手を握って言った。

「あなたなら、あなた達なら大丈夫」妻は頷いた奈保子を抱き寄せ額の横に自身の頬をつけた。

そうこうしているうちに注文した品が卓上に並んだ。

老夫婦は箸の使い方が上手だった。訊けば妻も日本には過去に一度来たことがあり、また日本食が好きで箸には馴れ親しんでいたとのことだった。

4人は食事の後もしばらく談笑した。

「Please be our guest.」そう言って徹は会計をしようとしたが、夫に「No」と言われてしまった。

徹が店員にタクシーを頼んだ。4人は店の入り口でタクシーを待った。

徹は「足の痛みは大丈夫ですか?」と尋ねた。「痛みのことは忘れていたわ」との返答だった。

タクシーの到着を店員が徹に告げた。

「二人の貴重なデートの時間を邪魔してごめんなさいね。まだ日本に来たばかりだけど、日本の方と、あなた達のような素敵な方達とこんなにたくさん話ができてとても良かった。幸せな時間だったわ。ありがとう。あなた達も幸せにね」

「Have a goodlife」夫は徹に手を差し伸べ、徹も強く握り返した。

奈保子も初老の妻と抱き合っていた。

二人はタクシーに乗り込んだ。徹は敬礼で見送った。窓越しに夫は敬礼を返した。

「奈保さん、やはり一緒に食事して良かったよ」

「うん。私も話が聞けて良かった。最後少し泣きそうになっちゃった」

「奈保さんの笑顔が僕の一番の癒しだよ」徹は奈保子の肩を抱き寄せた。

「徹君、私、ずっと徹君を支えるからね」

「僕が奈保さんを幸せにするから。約束する。だから一緒に居てくれるだけでいいよ。奈保さんにはいつまでも歌っていてほしいと思っている」徹はそう言った。



《White Snow Beach  ~Say it’s over~ 》

冬晴れの休日、徹は久々に海辺の別荘に来ていた。南半球とは季節が逆で、未明まで降った雪は目の前の砂浜も白く覆っていた。突然の再会からひと月余が過ぎていた。

思い出を辿るためにここに来たのか、否、なんとなく懐かしさに赴くまま来てしまったと言った方が正解か。

あの時は、予期せぬ出会いに互いが言葉も交わすことなく、只見つめ合うだけだった。

以来、胸に募る想いはあったが、それを口にすることはなかった。

しばらく静かな海を眺めていた。陽が反射し眩しさを覚える砂浜を越え、沖に目を向けていた。

空(うつ)ろに奈保子のことを考えた。しばらく時が過ぎ、そして我に返った。

冬のカモメが一羽、緩やかな風に身を任せるように飛んでいた。

何気なく話し掛けるように誰もいない隣に顔を向けた。

奈保子が傍に居ると錯覚してしまっていた。

ここも奈保子と過ごした時間が長いところだった。どこに目を向けても忘れていた光景が次々に脳裏に浮かんできた。

徹はここには早く来すぎてしまったと思った。ヌーサでの出会いの後のように、平穏だったはずの心はさざ波が立つように再び痛み出した。

それを振り払うように目の前の砂浜に降りた。

幾つかの足跡を残した後、足元の雪を手に取った。

冷たさを感じた時、「寂しいよ・・」つい漏らした言葉に言った徹自身が戸惑った。徹が決して口に出すことはなかった言葉だった。

振り返り、ふたりで過ごした別荘に目を向けた。

テラスから奈保子が見ている そんな情景が思い浮かんだ。ヌーサで見た奈保子が立っていた。

同じように言葉も交わすことなく、只見つめ合うだけだった。

不意に「愛していると もう言わないで」、そう呟いた気がした。

掌の雪は溶け、消えていた。それがふたりの全てだと思った。

静かな笑みを浮かべ、徹は空を見上げた。



《ブルームーン 月影のふたり》

一人になった時だけ、徹のことを想う。何故か高鳴る胸に動揺してしまう。

何一つ欠点などない幸せな生活である。昔の恋人を想ってしまう自分はいけないのか

いいえ恋人ではなく、友達だった人と繕う自分がいる。


奈保子はテラスに佇み、満月になった月を見ていた。

徹のことを思い浮かべていた。

これは別の自分が言う言葉・・

でも生きている限り、これで封印する そしてあなたを忘れる


二人が出会ったのは、教習所だった 背が高く、爽やかな青年だった あの時は弟のような感じでしかなかった

そのあと一度コンサートで会った しばらくはそれっきりだった

そして酔ってしまった私を助けてくれた 逞しい大人の男性になって現れてくれた

それから二人の時間がはじまった

月夜のデート?も楽しかった 月の王子に少しドキドキしたかな

災害救助の時に、私はあなたに本当に恋をした

優しくて、誠実で、強いあなたに 優しい微笑みを湛えたあなたに

寂しさがずっとあったけど、私にプロポーズしてくれた

嬉しかった

その後は色々な出来事があって、今になっているけど

最後にあなたを見たのは、確か横須賀の壮行式

私達に気付いたよね お父さんも言っていたけど 奇跡だよ

この前、会ったのも奇跡だよね 私たちが出会ったのも奇跡だよね

優しくて、誠実で、強くて、そしてかっこよくて、

徹君、あなたのことを想うと、いつも私は大きな愛に包まれていたと感じる

籍を入れていたら二人の運命は変わっていたかな

導かれない悲しい星の定めにあった二人  本当はあなたと・・

心の中の言葉を一旦とめた。


生まれ変わったいつの日か

もう一度 あなたに出会える奇跡があったなら

蒼く輝く満月の前で伝えたい


「いつまでも あなたの傍で、あなたのために歌いたい」


最後の言葉として、心で呟いた  

                    


~月影のふたり~  (完)





佐伯 徹

中国主席がサミットで来日した。

晩餐会の席、主席は天皇の前で「あなたの父が中国で行った数多の蛮行のことをこの場で謝罪してほしい」と中国語でいうところ末席にいた徹は立ち上がり、

「その発言は場に相応しくなく、著しく不快な発言である」と中国語で言い、止めようと主席の前まで歩み出た。中国語を英語にする通訳は巧みに訳を変えて会場に伝えていたため、会場の中国語を知らない人間は何のことか分からなかった。

一介の政府の役人が一国の主席の前に立ち、その話を遮ることは考えられないことだった。慌てた日本政府関係者は徹をその場から出そうとした。

徹は会場に聞こえるよう今主席が言った内容を英語とフランス語で伝えた。会場はどよめいた。

その時中国のSPが徹に銃口を向けた。徹は両手を上げた。もう一人の中国のSPも徹に銃口を向けた。会場が一瞬にして凍り付いた。

その時、ドレス姿の女性が素早く動き、陛下たちの元へ走った。

元フランス陸軍中佐のエマだった。皇宮警察より一足早いタイミングで陛下たちの盾になるべく二人の前に立ちはだかった。

「ここは私たちが警護します」皇宮警察の警備隊長が英語で声を掛けた。

「わかりました」エマは日本語で答えた。敬礼をした警備隊長は「ミセス、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」「エマ・デュール・サエキと申します」

中国のSPの一人が銃口を向けたまま徹に歩み寄ってきた。

その時、ひとりの男の声がした「オーストラリア軍参事官トーマスだ。そいつから銃を下せ。これ以上会場の雰囲気を壊すな」

その声に中国のSPの一人がトーマスに銃口を向けた。トーマスもホルスターから銃を抜きSPに向け構えた。

「オーストラリア軍として同盟国日本のその政務官を撃ったらお前を撃つ」

「フランス軍もだ」サミュエルも立ち上がり、銃を構えた。

「アメリカ軍もだ」ジェファーソンも立ち上がった。

会場では立ち上がるものが後を絶たなかった。

予想だにしなかった展開に激しく動揺した中国主席はその場を立ち去り、側近に訊いた。

「何者だ⁉あの日本の政務官は?」



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