Part 9

 胃が、きりきりと痛んだ。闇が、とてつもない重さとなって覆いかぶさって来るようだった。このまま動けなくなりそうだったが、死ぬとしても明日の朝まで、ここで過ごすのか。

 彼は少しばかりの安息を求めて、小屋に帰ることにした。眠気が訪れつつあった。また悪夢を見なければならない。だが、今の状態は既に悪夢そのものだった。今夜、どんな夢を見せられるか知る由もないが、こんなに酷くはないだろう。


 窪原は、すっかり軽くなった煙草の箱とライターを持ち、ジャケットにくるんだ六つの左手を抱えて、ふらふらと歩いて行った。


 小屋はその場所に、まだ普通に立っていた。彼は不思議を感じた。何となく小屋も焼けてしまっているような気がしていたからだ。

 片手で鍵を開けて、扉のノブを引く。殊の外、重い。そう感じるほど、今の窪原の力は萎えていた。


 置いてあった体が無くなり、殺風景になった部屋の中を、皮膜だけが今までと変わらず天井を漂っていた。

 窪原は、持って来た荷物をベッドの上に置いた。

 窓が壊され、地面にはガラスの破片が散乱していた。


 ――頼子。

 不思議と彼女に対する怒りは、もう湧いてこなかった。頼子を、ここまで追い込み、懲罰までに至らせたのは、結局自分自身に原因があるからだ。

 窪原は、ぐしゃぐしゃに壊された窓を見つめながら、先ほど消えてしまった自分の体と似ているなと思いながら、無意識のうちに煙草を吸おうとしていた。

 箱から煙草を取り出し、口にくわえる。

 ――残っていた。


 彼は今一度、箱の中を見た。そこには、もう何も無かった。一本だけ残っていたのだ。些細な事だったが、今の窪原には思わず震えてしまうほどの喜びだった。

 一本あればいい。一本あれば……。俺が吸う分はあるんだ、窪原は思った。一本だけ残った煙草にゆっくりと火を点けた。紫煙が立ち上り、少しだけ気分が落ち着く。


 ――残っていたのは偶然だろうか。窪原は考える。頼子は、わざと一本だけ残したのでないか。それは自分の体をずたずたにするという復讐を遂げて満足した頼子の、最後の気遣いだったのかもしれなかった。

 吸い終わると、窪原は吸殻を地面に落とし、靴底で踏んで消した。箱の中に、一本だけ煙草が現れた。


 明日の朝になったら、左手らを森に返しに行き、それから北の海に入ろう。頼子が齎したであろう、ひと時の慰安が、死への恐怖を和らげていた。

 彼は目を閉じ、眠りが訪れるのを待った。それは、死を静かに待っている者の姿に似ていた。……




 ……天から、やわらかな光が降りそそいでいる。清浄で澄んだ光。

 見渡す限り、緑の草原。点在する小さくて可愛い黄色い花。いつかどこかで見たような風景。しかし、思い出せない。


 ただ、幸福な気分で満たされている。ずっと、ここにいたい気分だ。

 腰を下ろして、目を閉じ、空気を胸いっぱいに吸い込む。

 甘い花の香りに酔う。……眠ってしまいそうだ。


 まどろみに抗い、目を開けると、遠くの方に亜矢香の姿。

 白いロングドレス。なぜか黒髪が胸まで伸びて、自然に下している。

 笑顔を浮かべながら、彼女が近づいてくる。腕を広げて、彼女を待つ。


 亜矢香は、目の前で立ち止まる。

「あなた、体を無くしたんでしょ? 食べられてしまったのよね。かわいそうに」

 彼女の眉間に、皺が寄る。


 亜矢香は、そのなだらかな腹部に手を持っていく。彼女の両手が、ぐっと腹をえぐる。白い服が血に染まる。

 血にまみれた贓物が取り出される。両手から、その器官がはみ出て、痙攣している。

 思わず悲鳴をあげてしまう。


 彼女は、ふらつきながら、それを供物のように差し出す。

「わたしのを食べれば?」……




 ……窪原は目覚めた。胸に現実の記憶を取り戻したという実感はない。架空の夢だったのだ。

 こんなものまで見せられるのか、彼は思う。先ほどの事件で、分解しかけている心に、さらに追い打ちをかけるような夢。窪原は、ほとほとうんざりした。

 そして眠気は、またすぐにやって来た。……




 ……乗用車の中だ。

 振動が激しい。かなり悪い道を走っているようだ。

 車内は、後部座席の自分と、運転手だけ。


 窓の外は漆黒。道ばたの見慣れない南国の雑草が、車のライトに照らされ、浮かびあがっては消える。

 舗装されていない、でこぼこの道を乗用車は走っている。

 闇の車内に、エンジンの音だけが聞こえている。獣が唸っているようだ。


 たまらなく不安になる。運転をしている男に声を掛ける。

「やっぱり、止めるよ。ホテルに帰してくれないか」

「……銃、撃ちたいんだろ?」

 男は振り向かずに答える。へたくそな日本語だ。日系人らしい。

「おい、ちゃんと射撃場に案内してくれるんだろうな」


 男は答えない。

 車体が傾くほどの激しい揺れが続く。ますます、不安がつのる。この男に山奥まで連れて行かれて、殺されるのではないか。


 急ブレーキ。体がつんのめり、前の座席の背もたれにぶつかる。

「着いたぜ」

 ドアを開けて降りると、古ぼけた木造の小屋がある。窓から灯りが漏れている。


 その光で、自分がまったく服を着ていないことに気付く。しかも胴体や足や腕の様々な部分に、窪みができて欠けてしまっている。不完全な醜い体。

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