Part 8

 頼子は、肉を放り投げた。煙草の箱を地面からひろって、一本取り出し、口にくわえて火を点ける。もう、充分だった。肉の歯触りを、心ゆくまで楽しんだ。紫煙がゆらゆらと舞い、煙草の吸い口が、唇の残り血に濡れて赤く染まった。


 人々が窪原の体に群がるには、きっかけが必要だと、頼子は思った。

 煙草の箱を片手で高く掲げる。

「お吸いになりますか? 少しなら、有りますよ」

 煙草の魅惑に一人また一人と、窪原の体の周りに集まり始めた。ほとんどが男だったが、女も数人いる。

 頼子は紙箱を開けて、煙草を取り出して火を点け、手を上げて求める人たちへ次々に渡した。彼らの目は、みな血走っていた。頼子から煙草をもらって、うまそうに吸い込む。


「さっ、お肉もどうぞ。美味しいわよ」

 煙草を吸っていた男の内の一人が、ついに焼けている体に手を伸ばした。そうなると堰を切ったように肉を求めて、人々は争いを始めた。男も女もなかった。みな血眼になって、肉に飛びついた。

 久々の食事の快感に、人々は興奮した。叫びとも歓声ともつかない声が、広場に響き渡り、騒然となった。



         *



 中央広場に向かう道を歩いていた窪原は、人々の声を耳にした。

 窪原は、左手らを持ち出した後、森の中で迷ってしまい、いつもより小屋に帰る時間が遅れてしまったのだった。


 歩を進めていくうちに、彼は広場の火を認めた。

 何が起きているのか、最初はよく分からなかった。

 さらに寄って行くと、男の体が焦げて横たわっているようだ。人々がその肉を喰らう凄惨な光景に、目を見張りながら進む。


 煙草を吸っている者もいた。どうして煙草を? 疑問が不安に変わる。

 人々が口に運んでいる肉片が、どうやら自分のものであることに気付いたのは、だいぶ近くまで来た時だった。

 焚火の傍らで、自分の体が燃えてしまっている。その事実を知って、彼は思わず膝を折った。しかし、それだけではない。自分の体は、今まさに消滅しようとしているのである。


「おまえら!」窪原は叫んだ。

 彼はジャケットを放り出し、広場まで走り寄って群衆の中に飛び込んだ。

 あたりかまわず、人に殴りかかる。

 いきなり殴られた者は、わけが分からず、当然のごとく殴り返してきた。


 押し寄せる人波に、もみくちゃになった時、視界の片隅にシュミーズ姿の頼子が映った。

 彼女は無表情な顔で煙草を吸っていた。まるで眼前の光景を予測していたかのように。


 ――ひょっとして、頼子が、やったのか。きっと、そうだ。間違いない。

 窪原は、突っ掛かっている者らを押し退け、頼子の側に行き、思いっきり殴りつけた。

 頼子が持っていた煙草の箱とライターが、その勢いで飛んだ。彼女は、逃げる素振りすら、見せなかった。


 ライターはどこだ? 煙草は……。体が焼けてしまった今、それらだけでも取り返したかった。

 地に落ちていたライターと煙草を、彼は人々の交錯する足並みを掻き分けて捜し、何とか手にした。煙草の箱は、盗まれた時より、すっかり軽くなっていた。

 窪原は、頼子の方を振り返った。彼女は頬を腫れあがらせながらも、笑っていた。が、目からは涙が溢れていた。……


「みなさん! 何をしているのですか!」

 〈導き〉が叫んだ声だった。

 人々の動きが止まった。彼らは、瞬時に我に返った。この島のタブーを侵してしまったことを知ったのだった。

 そして人々は、狂乱の宴を悔いるかのように、すごすごと、それぞれの小屋に帰り始めた。


「窪原さん――ああ、頼子さんのほうです。それから」

 〈導き〉は、頼子の手助けをした男女を指差した。

「田沢さんと小林さん。ちょっと私といっしょに来てもらいますか。あなた方は、ちょっとやり過ぎました。懲罰を受けねばなりません」

「俺たちは、この女の口車に乗っただけだぜ。見逃してくれよ」男は言った。

「そうかもしれませんが、自制するチャンスは幾らでもあったはずです」

 男は舌打ちをした。女の方は押し黙って、うつむくばかりであった。

 頼子は放心したまま、虚空を見つめている。覚悟していたことなのだろう。


〈導き〉は、窪原に礼をすると、名指した三人を、広場中央の建物の方へと促した。

 彼らは建物の前まで来ると、輪郭がぼやけ、景観に溶け込んでしまった。


 さっきまでの喧騒が嘘だったように、静寂が訪れた。

 窪原の体を焼いた炎は小さくなり、薄闇に浸食されつつあった。

 彼は、人々に食い散らかされた自らの体を眺めた。黒焦げになった体の所々に骨が覗いている。彼は、無駄なことと思いつつ、散らばっていいる肉片を寄せ集め始めた。そうせずには、いられなかった。止めようとしても、腕が勝手に動いていた。


 窪原は、ひとしきり作業を終えると、放り出したジャケットを探した。

 形だけでも左手を、ほとんど骨だけになっている左腕に付けてみたかったのだ。

 ジャケットは、十メートルほど離れた所にあった。行ってみると、ジャケットの中身が、いくつか飛び出していた。窪原は、それを一つ一つ大事そうにひろい上げた。


 元の場所に戻ると、ぼろぼろの哀れな体は、そこに存在していなかったかのように消えてしまっていた。それは、彼が現実の世界に戻る手立てを失ってしまった瞬間だった。

 窪原は、地面に倒れ伏した。

 残ったのは、他人のものも含めた左手だけだった。

 俺の体……無くなってしまった。喰われてしまった。現実の世界には、もう戻れない。死ぬしかないのだ。どうすることも出来ない。

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