Part 5

 ハイヒールの底に潰された透明な破片が、さらに細かくなった。


 頼子は、今も愛している男の不完全な肉体をしげしげと眺めた。しかしながら、この男の心は頼子には向いていないのだ。おそらくずっと前から。それは彼女も、既によく判っていた。充分過ぎるほどに。


 彼女は、肉体のふくらはぎのところを両方握った。やはり、かなり重い。

 力を振り絞って、頼子は窪原の体を引き摺った。

 体を持ちながら、部屋に入ってきた時と同じように、注意深く窓をくぐると、後は一気に体を引き摺り出した。

 尖ったガラスの先が、脇腹のあたりを裂いた。まるで生きているかのように、血が流れ出す。しかし彼女は、それを気にも止めなかった。


 頼子は、あたりを見渡した。人の気配は無かった。

 だいじょうぶ。わたしの小屋まで引いて行けるわ、頼子は思う。

 彼女の小屋は、ここから五軒先のところにあるのである。


 汗を拭って再びふくらはぎを持つ。頼子は、人間の体が、これほど重いとは思っていなかった。引き摺り続けるうち、腰が痛くなってきた。腕もだるさを増してくる。さすがに途中で止めようと何度も思ったが、何とか堪えて自らの小屋まで引っ張って行った。


 窪原の体を置いて扉を開けると、葉の着いた小枝がたくさん積んであった。それは彼女が、午前から今までの時間を費やして集めたものだった。

 ごく小さな森と化した部屋の中央に、彼女は窪原の体を置いた。


 盗んできた体を眺めながら、頼子は盗んだ煙草を吸った。彼女の胸は悲しみに満ちていた。ここにあるのは所詮、窪原の残骸のようなものでしかない。頼子が求めていたのは、こんな状況ではなかった。しかし、なぜかこうなってしまった。まだ、後戻りできるが、頼子は敢えてそうしたくはなかった。


 彼女は、煙草を揉み消した。

 夕方になったら、いよいよ自分の計画を、後戻りできないところまで実行に移すつもりだった。



         *



 この島に地を這󠄀う動物はいない。植物と人間だけだ。なぜ動物がいないのか。それはこの島の環境に馴染まないからだ。

 植物は、地中に四散している体を巧妙に隠蔽して人々を惑わす。だが、動物は時として人々の心に慰安をもたらしてしまうことがある。小動物なら、尚更だ。また、命をも奪うような猛獣は、この島には必要ない。人々は既に生命の危険に晒されているのである。


 美咲は、島の南側の岩肌に寝そべり、現実の世界で飼っていた小猫のことを思い浮かべていた。ミーヤという名前の、茶色い縞の入った猫だった。


 昨晩少女は、その小猫の夢を二度連続で見たのである。


 一度目の夢は、ペットショップでミーヤを買ってきた日から始まった。ママに何度も、おねだりをして、やっと買ってもらったものだった。

 だがその子猫は、一生懸命お世話をしても、なかなか美咲にはなつかず、最後に小指を強く噛まれたところで目が覚めた。


 二度目の夢は、その小猫が、行方知れずになってしまった夢であった。

 それは美咲の、ちょっとした不注意から始まった。真夏の部屋で、開けっぱなしにした窓から、お昼寝でうとうとした瞬間に、ふいに出て行ってしまったのだった。


 その日、ママやパパに外へ捜しに行ってもらい、美咲は夜遅くまで、まんじりともせず子猫の帰りを待っていた。

 その間、毎日餌をあげたことや、オモチャでいっしょに遊んだり、水をあげるのを忘れて具合が悪くなったことなど、様々な思い出が頭に浮かんだ。とりわけ思い出されたのは、美咲が横になっていると、すぐに気持ち良さそうに目を閉じて甘えてくるしぐさだった。それが、たまらなく可愛かった。


 夜が更けて、次の日になっても、ミーヤは帰って来なかった。失ってしまった哀しみの中で、美咲は目が覚めた。


 きっとすぐ戻って来るつもりだったけど、家の場所が分からなくなったんだわ。少女は、そう思うことにした。

 美咲は、またミーヤに会いたかった。現実の世界に帰っても、会えるかどうかは分からないけれども、また会うためには、体をさがさなければならない。頭と胴体を。


 陽は、西の地平線に近づきつつある。

 美咲は、再び体さがしへの気力が沸き起こってきた。

 立ち上がって、北の方角に振り返る。とりあえず、胴体を見つけるために。


 すると、ミーヤが歩いていた。懐かしい茶色の縞の毛なみ。むろん、それは幻影であった。しかし、美咲には明らかな実体として感じられた。

「ミーヤ!」

 美咲は、子猫の後を追った。

 ミーヤは、あるところで、ゆっくりと旋回し、ふと消えた。


 少女が子猫の消えたところで立ち止まると、肩から胸、腹部の方まで痛みを感じる。

 美咲はスコップを取り出し、その場所を夢中になって掘った。

 はたして、胴体が出てきた。


 ああ、きっとミーヤが手助けしてくれたんだ、美咲は思う。ミーヤがわたしを呼んでいるんだ。ひょっとしたら、家に帰っているのかもしれない。そう考えたら、ぜひとも現実に帰りたくなってきた。


 こうして、いよいよ少女の体さがしは、頭だけとなった。

 でも、どうやってさがせばいいの? あの場所には、もうなんども行ったのに……。美咲は、自らの胴体を目の前にして、また途方に暮れた。



          *



 頼子の奸計を知らぬまま、窪原は体さがしを続けている。

 今、彼は西にある深い森にいた。だいぶ時間を掛けて、この仄暗い地に辿り着いたのである。


 緑濃い大木が乱立する中、窪原は地面を見つめたまま困惑していた。

 そこで彼は左手に痛みを感じ、その場を掘ってみたのだが、何と左手が、重なったまま六つも、ごそっと出てきたのだ。どれもみな男の手で、同じくらいの大きさである。ぱっと見ただけでは、どれが自分の手なのか、すぐには判断がつかない。

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