Part 4

 地下室は相変わらずの光景で、彼らを迎えた。硬質ガラスのような氷の床。そこに埋め込まれている男の性器の群れ。ふわふわとさまよう全裸の老婆たちの幻影。


 彼らは目を合わせて、同時に大きく息をつき、別々の方向に歩き始めた。老婆の幻影が彼らに気づき、寄って来る。

 卑猥な笑みを浮かべて近づく老婆たちを、ひたすら避けながら、彼らは歩き回った。なかなか集中できない。


 窪原は、一刻も早く痛みが訪れて欲しかった。痛みを願っているなんて、おかしな感情だった。

 老婆の幻影が、すぐ側を通り過ぎて行く。頬に当たるか当たらないかのところを。窪原は、虫を払うようなしぐさで、その都度首を振った。

 窪原は目を閉じながら歩くことにした。そして痛みが訪れるのを、ただひたすら待った。


 そうして十五分ほど歩き回っただろうか。ついに痛みが訪れた。股間を微かに刺激する痛み。それは経験したことのない痛みだった。彼はすぐに立ち止まり、目を開けた。


 自分の陰茎とおぼしきものが、氷の下にあった。

 彼はまた目を閉じてひざまずき、左腕を傍らに置いて、スコップを取り出し、氷を割って掘った。氷をじかに触っている左の掌が、しだいに冷えてくる。

 場所が分からなくなって、まぶたが開いてしまう。他の男の物も、自然と目に入ってくる。確認して、すぐにまぶたを閉じる。実に嫌な時間だった。


 掻き出されて白い色に変わった氷が、目指す物の周りに小山となった頃。ようやく性器が、あらわになった。

 窪原は、恐る恐る手を出した。感触は、ぐにゃりとしていた。一瞬、吐き気が襲ったが、何とか堪えた。


 ほどなくして窪原の耳に、嗚咽する音が聴こえてきた。松瀬も自分の物を見つけたのだった。松瀬は物を手にした瞬間、嘔吐してしまっていた。この島では何も食べていないので、黄色い胃液だけが氷の上に広がっている。


 窪原は左腕をひろい上げてから、松瀬に近寄り、背中をさすってやった。

「こんなとこ、早く出ようや」松瀬は言った。

 彼は涙を流していたが、顔は笑っていた。体が全部そろった喜びに満ちていた。


 二人は、何かに追い掛けられているかのように階段を駆け昇った。

 地上に出て彼らは、ようやく一息ついた。

「良かったな。これで松瀬は現実に戻れるってわけだ」

「ああ。お前に教えてもらった情報が役に立ったよ。礼を言う」

「いや。俺だって、ある人から教えてもらったんだ」

 窪原は、松瀬に赤本の話をした。


「……そうか。そんな奴もいたのか。人の運命は様々だな。俺は本当に運がいいよ。どんなに一生懸命さがしても見つからない子供だっているというのに」

「へえ。そんな子供がいたか」

「ああ。頭が見つかる例の洞窟で、今日変な女の子がいたんだ」

 松瀬は、美咲の話をした。

「その子供の特徴を聞かせてくれないか。顔とか恰好とか」

 窪原は松瀬の話から、隣にいる女の子の片割れであることを直感した。この苦難を小さい精神で持ちこたえるのは大変だろう、窪原は慮った。今日の夜にでも訪ねてみよう、彼はそう思い立った。


 人影が、二人の背後に迫って来た。〈導き〉だった。

「お別れだな。また現実の世界で会おうぜ。俺も必ず何とかする」窪原は言った。

「……実は何のために帰るのか、俺には分からないよ」松瀬がぽつりと言う。

「まあ、そう言うな。この島から現実に帰れること自体、幸運なことなんだ」

 松瀬には、おそらく退屈な日常が待っているだけなのだろう。それでも彼の顔は喜びで、くしゃくしゃになっていた。


 〈導き〉に連れられて、松瀬が去ってゆく。

 窪原にとって生還する者を見送るのは、いい気分だった。この島に来てから、彼は初めて心の底から晴れ晴れしい気持ちになれたのだった。



          *



 頼子は、窪原の小屋の出入口の反対にあたる、窓側の方にいた。周りには彼女の他に人はいない。みな体さがしの真っ最中なのだ。背後には同じデザインの小屋が、いくつも並んでいる。


 彼女の右手には、掌からはみ出すほどの石が握られていた。

 窓から部屋の様子を伺ったその時、扉が開いて窪原が小屋に入ってきた。今日の成果を胸に抱えている。


 頼子は慌ててかがみ、身を隠した。

 窓の傍らに座り込み、しばらく両手で石をいじりながら、時の過ぎるのを待つ。


 扉が開閉する音を微かに聞き取ると、頼子はもう一度部屋の様子を伺った。

 窪原の姿は、もう無かった。おそらく秀弘は、陽が落ちるまで帰っては来ないだろう。彼女は推測した。

 彼が苦労してさがしあてた体が、部屋の中央に置かれていた。胴体から下半身はそろい、左腕もある。今朝、部屋を出た時より、二つパーツが追加されていた。頼子は窪原が着実に生の世界に近づきつつあることを知った。


 ――やっぱり、やるしかないのよ。

 念のためさらに時が過ぎるのを待つ。と、同時に心を落ち着かせる。


 見つめていた窪原の体から視線を離すと、意を決して頼子は、石を握っている手を、大きく振り上げた。

 窓ガラスが音を立てて割れる。光の残骸のようなガラスの破片が、部屋の中に広がって落ちた。

 さらに頼子は、窓ガラスを割り続けた。最後は木の桟も、叩き壊してしまった。


 安全に人が通れるくらいになって、ようやく彼女は、その行為を止めた。

 桟に残っているガラスに触れないように、注意深く体を動かしながら、破片が散乱している部屋の中に入り込む。




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