Part 6

 窪原は、上方に視線を向けた。木々の枝や葉が、濃緑の天蓋を造っている。射し入る光は、ほんの僅かなものだ。

 もし明るいのであれば、手相や指紋などを見比べて、自分の左手を見つけることができるだろう。現在の明るさでは、それはとても無理なことだった。


 窪原は逡巡した末、いったん左手らを全部小屋に持ち帰ることにした。他人の体を持ち出すのは、もちろんためらいがある。しかし、ほとんどでたらめに歩いて辿り着いた場所だけに、左手を放置したまま去ってしまった場合、明日もう一度、戻って来れるかどうか自信がなかった。


 窪原は、恐る恐る六つの左手を地中から取り出し、ジャケットを脱いで、それにくるんだ。

 彼は持ち出した他人の左手らを、再びこの地に戻せるかどうか分からない。おそらく無理だろう。その場合、この行為は他人の運命を少しだけ変えてしまうことになる。そう思うとジャケットの中身が、よけいに重く感じた。


 この深い森を抜けてすぐに、入念に確かめることも考えたが、そうだとしても、この場所に戻ってこれないことに変わりはない。確かめているところを、人に見られて騒ぎになる可能性もあった。


 小屋に帰りさえすれば、ゆっくり落ち着いて、何とか自らの左手を判別することができるだろう。もし分からなかったら、寝そべっている自らの体の左腕に合わせてみればいいのである。きっと磁石のように左手と左腕は引き合うに違いない。

 ともあれ窪原が、また少しだけ現実の世界に近づいたことだけは確かだった。この時までは。



         *



 頼子は、北の海の浜辺を歩いている。もう夕暮れを迎えようとしていた。色を濃くした波が、浜に打ち寄せる音だけが響いている。

 彼女の表情は、何かに取り憑かれてでもいるかのように切迫していた。頼子の心の中に、自らの計画を躊躇する気持ちは全く無かった。


 今日一日の作業に絶望して、これから死に赴こうとする人の集団が、波打ち際に立ち尽くしていた。みな一様に硬い表情をしている。

 この島に来て死を選ぶ者は、すべからく最後は自殺することになるのである。北の海の影に入るかどうかは自分自身で選択するからだ。それ故、人々は最後の選択を前にすると、ある程度は必ず迷う。その迷いから生じる心の隙間に、頼子は入り込もうとしていた。


 先ほどから彼女は、その人々の内から、力の有りそうな男を選んで声を掛けていた。計画を遂行するためには、どうしても人の助けが要るのだ。

「あなた、肉を食べたくない? この島に来てから食事なんてしてないでしょう」

 いきなり声を掛けられた男たちは、たいがい面食らう。頼子の問い掛けは、ほとんど無視され、男たちは海面を再び見つめ、自らの葛藤に帰っていった。


 十人ぐらい声を掛けただろうか。やっと一人の男が応じてきた。

「ほう。何の肉だい? 牛か? 豚か? 鳥? 鳥は、あんまり好きじゃないな」

「人の肉だって、言ったら?」

 その答えに、男は憐れみを持って頼子を眺めた。彼は、静かに首を振った。そして、そこで交渉は終わってしまった。


 頼子は落胆した様子もなく、それからまた十人くらいの男に声を掛けた。ほとんど無視されたが、物好きな男も中にはいたりする。死を目の前にして自棄になり、常識が飛んでしまっているのだ。

「冥土の土産に食ってみるかな。どうせ、もう死のうと思ってたところだ。何をしたって関係ない」

 その男は下卑た笑いを唇の端に浮かべながら言った。彼の目は黄色く濁っていた。


「いろいろ手伝ってもらうことになるけど、いいかしら」

「いいぜ」

 男は太った赤ら顔をしていて、長髪だった。半袖のシャツから出ている黒く逞しい腕が、頼もしかった。頼子の目的にかなった男だった。


「ちょっと、わたしも食べてみたいわ。人の肉を」

 背後にいた、痩せこけた若い女が頼子に話し掛けた。

「こいつもいいか。俺の女なんだ」

「もちろん」頼子は答えた。

 病的な感じのする女だった。目の下にできた隈が、彼女の不幸な人生を物語っているようだった。薄汚いオレンジ色のワンピースを着ている。

 きっと、この男に振り回されてばかりの暮らしだったんだわ、頼子は思った。窪原の体を持つことはできないだろうが、木の枝ぐらいは運べそうだった。


 頼子は、男女を自らの小屋へと誘った。踏みしめる足が砂に沈み、なかなか進まない。頼子は、そのまま奈落に向かっているような気がした。


 一人の少年が、突然叫び声を上げて走り出し、海に消えた。それをきっかけにして死ぬことをためらっていた人々が、陽が沈み島の影が消えてしまうのを恐れるかのように、次々と海に入り始めた。殺伐とした光景ではあるが、それは殊の外、静かで乾いていた。宗教的な集団自殺のような光景の中を、三人は歩を進めて行く。


「あなたたちは、入らなくていいの? 一晩よけいな悪夢を見ることになるわよ」

 頼子は、二人の気持ちを確かめるかのように訊いた。

「かまわねえよ。人の肉を食ったら、また体をさがそうという気分になるかもしれないからな。まったく新しい体験が、人生を変えることだってあるだろ」

「そうかもしれないわね」

 わたしは、どうなるんだろう? 頼子は思う。秀弘の肉を食べたら。……おそらく、何も変わりはしないわ。わたしは死ぬだけ。秀弘を死に追いやって、わたしも死ぬだけ。明日の今ごろは、もうこの島にもいない。暗闇さえない無の領域に居るんだわ。

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