Part 13

「あっ、いえ。屋上にいらっしゃいますが」

「そう。屋上へは店の脇にある階段で?」

「ええ。そうですけど……」


 もう一度店を出て、階段を上る。薄暗い。

 視線の先に四角く切り取られた光が見えてくる。


 上りきると、白いコンクリート。光が反射していて眩しい。

 亜矢香が中央で、たくさんの小さな人形に囲まれている。そのひとつを手に取り、筆で色を塗っている。


 彼女の方に歩いてゆく。亜矢香の真剣な表情。充実した顔。

 仕事に集中しているのか、彼女は気付かない。


 自分の影が、亜矢香に被る。それで彼女は、ようやく気付いて顔を上げる。

 目を見開き、自分を見つめる。

「どうしてここが……」

「秀弘の手帳から、あなたの会社を調べて、電話したら、ここだって聞いたから。どう。驚いた?」

「えっええ……」

「こんなところで何してるの」

「オブジェの仕上げが間に合わなくて……。ディスプレイ作るの今夜だから。昨日から、あまり寝てないんです」

「そう。ずいぶんと、お忙しいのね。だからって、わざわざこんな場所で、やらなくてもいいんじゃない」

「ペイントを狭い部屋とかで長い時間やってると、どうしても頭が痛くなるから。今日は天気もいいし、ここに来てやってるの。眠気覚ましにもなって、一石二鳥なんです」


「……ほんとは彼とここで会うことになってるんじゃないの」

 亜矢香の手が止まる。黙って目を伏せる。図星だったようだ。

「秀弘も秀弘だわ。仕事中に会おうとしてるなんて。あなた、こんなこと続けてて、いいと思ってるの」

「いいなんて……。頼子さんには悪いと思ってるわ。いつも」

「どうだか」


 屋上から見える街並みに視線が移る。秀弘の姿を探すが、見つからない。

「ねえ。何時に会う約束をしてるの?」

「決めてないです。仕事が空いた時に来てくれるって」

「そう。じゃあ秀弘が現れるまで、ここにいることにするわ」

「そんな……」

 亜矢香のすぐ側に、しゃがみ込む。

 彼女は一瞬、石のように固まるが、すぐに手が再び動き出し、次々に人形がカラフルに塗られてゆく。それを、しばらくぼんやりと見つめる。


 繊細な指。その指が秀弘の背中を這󠄀うイメージが、ふと浮かぶ。許せなくなる。

「あなた、秀弘のどこが良くて、不倫してるの」

 亜矢香の手が、また止まり、自分の方に顔が向けられる。

「分からないわ。自分でも」

 彼女の言葉を聞いて、皮肉な笑みが思わず浮かぶ。

「だったら、別れてくれないかしら」

 亜矢香の瞳が微妙に揺れ動き、そして横を向く。明らかに拒絶のしぐさだ。

 唖然とする。

 彼女を引き摺って、屋上から突き落としたい衝動に駆られる。


 ふと、後ろの方に人の気配を感じる。

 振り向く。

 秀弘が、屋上の入り口の所で立ちすくんでいる。

 視線が合う。秀弘の哀し気な目。……その目に暖かみは感じられない。

 彼が近づいてくる。ゆっくりと。顔が、こわばっている。

「頼子、もう終わりだ。離婚しよう」

「いやよ」……


                   

        *




 窪原の心は、ぼろぼろになっていた。彼は今夜、亜矢香の夢を連続して三つも見せられていた。

 内容はどれも似ており、まだいっしょにいたいと互いに感じつつも、離れなければならない現実を思い知らされるというものだった。


 窪原は、またどうしたらいいか分からなくなっていた。北の海に入りさえすれば、もう亜矢香と離れずにすむのである。澱のように堆積した現実世界のあらゆる苦渋からも解放される。夢は確かに今、彼を死の領域に導きつつあった。


 夜明けが近くなっていた。もうすぐ今夜最後の夢がやって来る。窪原には予感めいたものがあった。次は危篤に至る夢ではないだろうか。心が死へと傾いているところで、その夢を見せられたら、朝一番に北の海に入る可能性が、ずっと高くなる。この島の夢が、人を死に追い遣る目的で存在しているならば、最も恐ろしいと推測される夢を次に見るのは、むしろ必然のような気がした。


 睡魔がゆるやかに窪原の脳を愛撫し始めた時、扉を強く何度もノックする音がした。

「頼子よ。開けて」

 その声に窪原は救われたような思いだった。少しだけ眠気が引いた。


 ベッドを駆け降りて、扉を開ける。

「どうしたんだ」

 頼子は、思い詰めた表情をしていた。

「ねえ、秀弘。離婚なんかしないわよね。しないでしょ」

「しないよ。何なんだ」

「明日もいっしょに体さがしをするわよね。死んだりしないわよね」

「だから、何なんだ。落ち着けよ」


 窪原は頼子の腕をつかみ、部屋の中に促した。

「あの女のことは忘れるんでしょ。そうよね」

「あ、ああ……。そうだよ」

「よかった……」

 彼女はそう言って、瞼を閉じた。窪原に寄り掛かってくる。眠りそうになるのを堪えていたようだ。頼子は、そのまま眠りに落ちてしまった。


 窪原は頼子を、横倒しに抱えて自分のベッドまで運んだ。

 彼女の顔は、先ほどとは打って変わって、和らいだ表情になっている。

 ともすれば北の海の波に浸食されそうになる心を、彼女が防波堤となって、くい止めてくれているような気が、窪原にはした。

 明日から、いっしょの小屋で寝起きするのもいいかもしれない、と彼は思った。その方が、ふたりにとって良い結果をもたらすような気がする。死を選択したくなるような辛い夢を見た時に、励まし合えるに違いない。

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