Part 11

 明日にも体を全て揃えて、現実に帰りたかった。早くママの胸に、顔をうずめてみたかった。

 この部屋の空間も、独りだとやたら広く感じる。


 昼間、園美とあんな別れ方をしたことについて、美咲は深く悔いていた。

 家に帰ったらもっと妹にやさしくしよう、彼女は思う。でも――美咲の顔が曇る。もう会えないかもしれないね、園美ちゃん。美咲は肩を落とした。


 だが少女は激しく首を振る。ともすれば弱気になる自分の心を奮い立たせるように。

 帰るんだ。必ず帰るんだ。あの家に。美咲はそう念じながら、また天井を睨んだ。その行為を嘲笑うかのように皮膜が漂っている。


 やがて眠気は訪れ、強引に彼女のまぶたを降ろした。……



          *



 置部もまた苦渋の夜を、自分の小屋で過ごしている。

 だが昨日までとは違い、彼には生還への道が開けていた。部屋の中央には、今日見つかった左下半身が置かれている。置部はそれを、ベッドの上からじっと見つめた。今日のような調子でいけば、数日中に全て揃っても、おかしくはない。そうなるには、真菜の存在が不可欠だった。彼女は自分にとって道標のような役割を持っているのかもしれないと、置部は思った。


 神秘的な力というものを彼は信じていなかったが、真菜と接していると、そういうものを感じてしまう。さがし続けて見つからなかった体が、彼女と共に行動すると容易に見つかるような気がする。もしこれで現実の世界に戻れるのなら、こんな楽なことはなかった。


 僕にも運が向いて来たのかもしれない。置部は、そう思いながら目を閉じた。

 彼のベッドの下では、持ち主から引き離された頭部が、今も幾つか眠っている。置部は、その存在すら、もう忘れかけていた。……




 ……見るからに新築の二階建ての家。真っ白な外壁が眩しい。

 それを上から下、下から上へと、視線が何度も移動し、飽かず眺める。


「とうとう、この家に入る日が来たのね」と左から女のかん高い声。

 顔を向ける。三十ぐらいの女がいる。見慣れた女だ。全体的に、ほっそりとした女。長い間、人生を共にしている。

 返事は、あえてしない。複雑な思いで、家に視線を移す。妻の顔を見ていられない。


 右手の中にある鍵が、やけに重く感じる。投げ捨てたい衝動に駆られる。


「わたしも、これが夢だったから……。どうしたの? あなたは、うれしくないの?」

「……昨日、会社が倒産したんだ」

「えっ? うそ」

 妻は茫然としている。


 この真新しい家のローンのことを考えてしまう。組んだ時が、もう遠い過去に思える。


「わたしたち、これからどうなるの」

 それはこっちが訊きたいくらいだ。

「判るわけないだろう」


 車の音。引越しのトラックが、やって来る。空虚な荷物。新居のために買い揃えた家具も売り払うことになるだろう。

 トラックを見つめながら、妻も自分も立ちすくんだままでいる。……




 置部は目を覚ました。今までに何度も見た夢だった。この夢は今までの人生で、最悪の瞬間と云っていいものだった。


 彼は、いくつもの悪夢によって繋ぎ合わされた今までの人生を回想する。それは好む好まざるとに関わらず、この夢を見ると、嫌でも思い出してしまうものだった。


 置部は大学の経営学部を卒業した後、すぐにゼミの仲間と不動産会社を設立した。設立当初の頃は、経営が行き詰まりそうになったこともあったが、折からの不動産ブームに乗り、殊の外、会社はうまくいった。

 専務として多額の報酬を受け取るようになった置部は、学生時代から付き合っていた女と結婚した。そして、とある郊外に家を建てることにした。


 ところが、急激にやって来た不況の波によって、資金繰りに失敗し、多額の負債を抱えて会社は、あっさり倒産してしまった。手広く繁華街の土地を買い漁っていたのが裏目に出たのだった。

 今見た夢は、会社が二度目の不渡り手形を出した翌日のものである。


 会社が倒産してからの彼は、悲惨な毎日を送ることになる。

 置部にとってまずかったのは、個人名義で借りた金を会社に差し入れたことであった。加えて代表者である仲間の借金の連帯保証人にもなっていた。

 仲間は姿をくらまし、債権者は置部のもとに殺到した。家のローンも滞り、毎日妻の悪態に悩まされるようになる。


 そんな日々の中で、彼は会社を設立した時から掛けていた保険の事が、徐々に頭をちらつき始めた。

 発作的に置部が、不眠症で処方されていた睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったのは、会社が倒産してから五ヶ月目のことであった。


 それから二十年の歳月が流れている。

 借金はどうなったのだろうか。妻はどうしたのか。あの家はどうなったのか。様々な思いが、置部の頭を駆け巡る。二十年も危篤の状態が続いていれば、その全てが無くなっている可能性が高かった。妻は離婚して債権者からの難を逃れているだろう。家は当然処分されたに違いない。破産の手続きがなされ、借金は無くなっている可能性が高い。

 楽天的過ぎるかもしれないが、今、現実の世界に帰れば、新しい人生が待っていると彼は思う。


 入院している病院の治療費はどうだろう。もし存命なら、年老いた両親が支払っているか。でなければ、親戚の誰かが肩代わりしているのか。あるいは人道的な公的機関が負担しているのかもしれない。現実に戻ったら、ある程度返済しなければならないだろうが、一生働いても返せなかったと思われる莫大な借金よりは、まだましだった。


 希望を胸に抱きながら、置部は目を閉じ、次の悪夢に立ち向かって行った。……



          *



 置部の左隣の小屋の中。真菜はベッドの上で震えていた。今夜も彼女は夢の中で、父親に犯され続けていた。それもあらゆる場所で。母が留守にしている間の自宅、夜中の公園、ラブホテル……。


 眠りたくなくても、眠りは必ずやって来る。もし置部に会わなかったら、彼女は間違いなく北の海に飲み込まれていたことだろう。


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