Part 10

 彼はそれをひろい上げ、体の右下半身の先にくっつけた。生還というゴールに、また一歩近づいたことになる。しかし、今日の惨状を考えると、素直に喜ぶことはできなかった。


 窪原は、いつものようにジャケットを脱ぎ、ベッドの下の方に放り投げた。

 その時彼は、ジャケットのポケットに入っている煙草とライターのことを、ふと思い出した。窪原は今日一日、怖くて煙草を吸えなかった。ライターを手に取っただけで、亜矢香を想い出してしまうに違いなかったから。この島にいる間は、もう煙草を吸うことはないだろうと彼は思った。


 頼子の右手も、きっと帰ってきたのだろう。窪原は、彼女の喜ぶ姿が目に浮かんだ。頼子に対して愛情を感じているのだろうか。必ずしもそうではない、と彼は思う。彼女に対する気持ちは、言ってみれば同胞のようなものだ。いっしょに生活していて、違和感のない女。だからこそ、彼は頼子と結婚したのだろう。


 亜矢香への想いを残しながら、頼子と生きて行こうとしている窪原は、結局今までの人生の態度と同じであることに気が付いた。これでいいのだろうか。彼にまた迷いが生じ始めていた。


 例によって眠気が訪れる。

 窪原は、明日体がひとつでも見つかることを祈りながら、眠りについた。……




 ……鏡のような水面。光が反射している。

 視界が、ゆらゆらと揺れている。

 新緑に囲まれた湖にいる。遠くには山々。穏やかな陽射し。


 独りでボートに乗っている。

 漕ぐこともなく、ただぼんやりとする。様々なストレスが消えていくような気分。


 やがて、強い風が吹いてくる。

 ボートが揺れて、だんだんひどくなる。不安になってくる。


 ふいに突風。ボートが傾く。縁をつかもうとするが、つかめない。

 ボートから落ちてしまう。


 水中。沈んでゆく。息が吸えない。反射的に口を閉じる。

 必死にもがいて、浮き上がろうとするが、湖面は遠くなるばかりだ。

 苦しくなって、力が抜けてくる。湖底に到達する。

 少し離れたところに魚の群れ。不釣り合いな大きい眼と口を持っている。黒々とした影のようだ。


 魚たちが、一斉に動き出す。

 先を争って、右腕に吸い付いてくる。

 振り払っても、振り払っても離れない。

 右腕に強烈な痛み。喰われているようだ。

 痛みのために叫ぶと、口から水が入ってくる。


 自分の右手が、眼前を漂う。きれいに右腕は喰われてしまったらしい。……




 右腕を押さえながら、窪原は目覚めた。指で右腕をさすり、筋肉の感触を確かめる。

 窪原は、ほっとした。非現実の悪夢にも関わらず、それはあまりにリアルだったからだ。


 またも非現実の悪夢の衝撃を受けた彼だったが、亜矢香の夢を見せられるよりは、まだましだった。窪原は、もう彼女の夢を見たくなかった。しかし、この島で見せられる夢の構造からして、今夜も亜矢香が夢に出て来るのは必然のような気がした。

 もし、悪夢を支配している者がいるとしたら、彼はおそらく頭を地に擦り付けてでも、亜矢香の夢を避けてくれるように、懇願するだろう。それほどまでに窪原は、今彼女の夢を見るのが怖かった。


 しだいに脳に靄がかかる中、窪原は亜矢香の顔を思い出さないように注意した。それがあまり意味のない行為だと知りながらも。



         *



 窪原の隣りの小屋では、美咲がベッドに横たわって、天井を睨んでいた。ゆらゆらと皮膜が、美咲の恐怖をあおるように揺れている。


 今日、園美がこの島を去ってから美咲は、懸命に体をさがし続けてきた。

 その成果が、部屋の床に現れている。うつむきに置かれた下半身と、両手両腕。つまり、あと胴体と、問題の頭部だけになっているのである。一日という短い時間の中で、これだけのものが見つかったのは、昨日までのことを考えれば、美咲にとっては奇跡に近いことだった。


 しかしながら少女の心に、どうしても見つからない頭部のことが重くのしかかっていた。今日も一度洞窟を訪れたのだが、無駄に終わった。

 どうして? どうしてなの、美咲は思う。答えは、いくら考えても分からない。彼女にできることは、明日も洞窟に行くことだけだった。


 眠気が襲って来ると、美咲は泣きそうな顔になった。昨日までは園美といっしょに励まし合って耐えた夜だった。やはり、この夜を独りで過ごすのは、きつい。

 美咲は、頭を抱え、震えながら眠りについた。……




 ……うす暗い。

 ふかふかとした、ふとん。太陽の光のにおいがする。

 狭い箱のような部屋。きっと押し入れの中だ。

 右のすきまから、たてにほそ長く光が入ってきてる。

 外から子どもの泣き声が聞こえてくる。園美だ。

 人が歩いてくる音。

「まあ、園美どうしたの?」ママの声だ。

「美咲ちゃんと鬼ごっこしてて、いくらさがしても見つからないの」

「こんなになるまで、かくれているなんて。美咲、美咲どこ?」

 押入れを開ける。

 ママと園美の姿が目に入る。

 光とともに、ママと園美の姿が目に入る。

「美咲。だめじゃないの。あなた、お姉ちゃんなんだから、園美を泣かしたりしちゃ」

 どうしてわたしが、しかられるの? 見つからないように、うまくかくれただけなのに。

「冷たい子ね」

 ママと園美は、部屋を出てゆく。

 取り残された自分が悲しくなる。

 ――わたし、悪くないよ。ルールどおり、やっただけだもん。ママ、わたしのこと嫌いなのかな。……




 美咲は目覚めた。美咲の夢は、ママに嫌われる夢が多い。またそんな夢を見せられて、少女の心は重く沈んだ。











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