Part 6

「離しなさいよ! この体は、わたしのものなの」美咲は叫んだ。

「……もうやめて。やめてよ、美咲ちゃん。こんな、お別れしたくない」

 園美は激しく首を振る。

 その時、小屋の扉をノックする音がした。


 開く扉のきしむ音がして、〈導き〉が部屋に入ってきた。

「どうなされたんですか」

 〈導き〉の声に、二人は体を離した。ばつが悪そうに園美は、下を向いてしまった。美咲は大きく目を見開いて、〈導き〉を直視する。


「園美さん」〈導き〉は言った。

「はい!」

 大きな声で返事をしたのは、美咲の方だった。すぐに〈導き〉の前に出る。

「ちょっと待って。園美はわたしよ」園美が言う。

「〈導き〉さん。美咲がうそを言っています。ちょっと頭がおかしくなってるんです」美咲は園美を指差して言った。


「美咲ちゃん。わたし悲しい……。わかったわ。そんなことまでして、帰りたいんだったら、そうすればいい。わたしは何とかして美咲ちゃんの体を、さがしだすわ。とてもむつかしいと思うけど。だから、お願い。もう何も言わないで……」


 〈導き〉は二人の遣り取りを聞いていなかったかのように、園美の方に顔を向けた。

「おめでとうございます。貴方の体は、全てそろいました。これから現実の世界に、お連れします」

 〈導き〉が、震えている園美の手を引いた。


「まちがえないで。園美は、わたしよ」

 美咲は顔を歪めながら言った。〈導き〉は、その言葉が耳に入っていないのか、表情ひとつ変えない。

 〈導き〉と園美は、部屋を出て行こうとする。


 美咲はついに大声を上げて、泣き崩れてしまった。

 園美が振り向いた。

「美咲ちゃん。先に帰ってるね。わたし、ずっと待ってるから」

 小屋の扉が、重い音を立てて閉まった。


 美咲は、しばらく泣き続けていたが、突然顔を上げた。

「ぜったい戻ってやる。わたしは死なないわ。どんなことしたって、みんなのいる家に帰ってやるんだから」

 美咲は、扉に向かって、そうつぶやいた。まるで自分に言い聞かせるように。

 そして、部屋の中央にある自分の体が置いてある場所に行って跪き、未完成な自分自身を力いっぱい抱きしめた。美咲は、また泣き始めた。


 出入口付近に置いてあった園美の体は、やがて静かに消え失せた。


          *


「おい、窪原じゃないか。窪原だろ」

 南の海岸付近の道を、頼子と腕を組んで歩いていた窪原は、背後から声を掛けられて振り向いた。

 痩せた面長の顔が笑っていた。細い目が懐かしそうに、窪原を見ている。男は地味な灰色と白のストライプのパジャマを着ていた。


 窪原は、その男のことを記憶していた。ただし、それは少年時代の顔であった。

 この島に来て初めて過ごした夜の、明け方近くの夢で、彼を見たのである。

 それは、中学時代に経験した野球の試合のもので、窪原のエラーにより逆転サヨナラ負けを喫してしまうという苦い内容のものであった。

 試合が終わり、チーム全体が悲痛に沈む中で、窪原に声を掛けてきた男がいた。その男に『何やってんだよ、窪原!』と怒鳴られたところで夢は終わったのだった。


 彼は窪原と同じ歳のはずだが、彼の顔は少年時代とたいして変わっていなかった。変わったところといえば、坊主頭から七三の髪形になったことぐらいだ。


「久しぶりだな。ええと、名前は……」窪原は言った。

「松瀬だよ。松瀬幸司」

「あっああ、そうだったな。やっぱり、この島では思い出せないもんだな」

「中学時代、同じ野球部だったんだよな。俺たち」

 松瀬が、せかせかと喋ることも、窪原は思い出してきた。

「たぶんな。夢で見たから」

「おまえも見たのか。あのエラーで負けちまったやつ」

「何だ。まいったな。松瀬は俺のエラーが、よっぽど悔しかったんだな」

「そりゃあ、そうさ。あんな凡フライ、落とす方が、おかしいだろ。結果、逆転サヨナラだぜ」

「そうだった、そうだった。今さら遅いけど謝るよ」

「遅過ぎだ」

 二人は笑った。窪原の頭の中は、中学時代に戻っていた。


「ところで、そちらの人は奥さんか?」

 松瀬は、頼子の方に顔を向けて、訊いた。

「頼子といいます。よろしく」

 窪原が返事をする前に、彼女が先んじて答えてしまった。

 松瀬と頼子は、互いに頭を下げた。

「夫婦で、とんでもないことになってるんだな。でも、窪原がうらやましいよ。こんなきれいな奥さんもらってさ」

「いやだ」

 頼子は恥ずかし気に俯く。

「へんなお世辞やめろよ。お前らしくもない」

「いや、お世辞じゃないよ。ほんと、きれいだ」

「おまえは、どうなんだ。かわいい奥さん、もらったんじゃないのか」

「それが……分からないんだ。たぶん、まだ独身だと思う」

「そうなのか?」

「俺さ、この島に来てから三日になるんだけどさ、現実の夢っていうのを見たのは、あの野球の試合だけなんだ。おまけに」松瀬はパジャマのポケットをまさぐった。「俺が持ってる物はこれさ」

 松瀬は窪原に、いちばん気分の落ち着くものを見せた。それは野球の軟式のボールだった。

「つまり、俺が今、判っているのは自分の名前と中学時代に野球部にいたこと、それだけなんだよ」


「……ということは、松瀬は随分、幸せな人生を送ってるんじゃないのか。俺なんか、嫌な思い出ばかりだ」

「そうかな。そうだといいんだけど。俺はどうも、違うような気がするんだな」

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