Part 11

 窪原はもう一度、その獲得した記憶を、丹念に始めから思い出していった。

 やがて、彼は現在との相違点を見つけ出した。それは視界の片隅に入っていた、自分の服装だった。


 左手首を見た時。床に倒れ込んだ時。亜矢香を抱きしめた時。そこに見えていたのは、藍色のビジネススーツとカラーワイシャツだった。窪原は今、サマージャケットにシャツを着ている。


 先ほどの夢は、今ここにいる原因ではないようだった。では何なのか。

 そこまで考えた時、またも眠気が訪れた。抗えない。窪原は目を閉じる。……




 ……〈導き〉がいる。

 すぐ隣に亜矢香が立っている。チェックの柄のハウス・ドレスを着ている。

 あたりは見覚えのある風景。砂浜近くの草むら。島の最初にいた場所。

「それでは私はこれで」

 〈導き〉は軽く礼をして、東の方角に去る。


 今、自らの置かれている立場を必死に理解しようとする。はっきりしているのは、この島に別々に埋まっている体を見つけ出さねばならないということ。そうしなければ、現実の世界には戻れない。

 この島から一刻でも早く、脱出しなければ。


 体をさがしに、歩み出す。まずは、この草むらの先にある砂浜から。

「あのう……すいません」後ろから女の声。亜矢香の声。


 振り向くと、不安げな表情が目に飛び込んでくる。

「わたし……あなたとは……他人じゃないような気がするんですけど」

 その言葉に首をかしげる。亜矢香をしげしげと眺める。

 不思議な女だ、と思う。


「俺には、よく分からないな。自分の名前以外は、記憶を失ってるんだ」

「それは、わたしもそうだけど……」

 もう一度、砂浜の方に身体を向ける。


「あの……」

 再び、振り向く。

「まだ、何か」

「島の影には入らないんですか」

「……体が全部見つかるかどうか、やってみないと分からないけど、一応ベストは尽くそうと思ってるよ。だって、そのために、この島にいるんだから」

「そうですか……」

 亜矢香の瞳から、涙がこぼれる。

 なぜか胸がせつなくなる。


「やだ、わたし、なんで泣いたりなんかしてるんだろ」

 亜矢香は、とぼとぼと北の方に向かってゆく。北側は土が盛り上がっていて、その先の風景は分からない。

 彼女の頭上には、蒼穹が拡がっている。


 亜矢香が見えなくなったところで、たまらないほど胸がせつなくなる。……




 窪原は失意の中、目覚めた。この島に、かつて来たことがあったという事実も驚きではあったが、それよりも、いくら記憶を失っているとはいえ、亜矢香が自分にとって、どういう存在なのか分からなかったということの方が、ずっと衝撃的だった。


 彼は自分が情けなかった。亜矢香は、すぐに窪原のことを直感的に理解したのだ。俺は何で分からなかったんだ、窪原は思う。いっしょに心中してくれた相手のはずなのに。俺は亜矢香を本当に愛していたのだろうか?


 窪原は煙草を取り出し、火を点けた。吸いながら、亜矢香のライターをじっと見つめる。

 彼女の失望した後ろ姿が、鮮やかに蘇ってきた。たまらなくなって目を閉じ、まぶたを指で押さえる。亜矢香に対してすまない、という気持ちで胸がいっぱいになっていた。


 煙草は吸われることなく、長くなり過ぎた灰が、下に落ちてゆく。灰はベッドに落ちる寸前で、すっと消える。フィルターのところまで燃えた煙草もやがて、彼の指から消失した。

 それでも窪原は、まだ動けなかった。


 窓から射し込む光は、希薄な白から、いつしか際立った赤に変色していた。



         *



 夕暮れの赤錆びた光に照らされ、小屋に帰りゆく人々の姿には、今日の結果が、はっきりと表れている。小脇に体のパーツを抱え、充実した表情をしている者。何の成果もなく夜を迎えるのが怖いため、陽が沈んで島の影が消えてしまう前に、北の海に入ろうと急いでいる者。自分の体さがしが、いかに順調に進んでいるか誰彼となく、べらべらと話し掛ける者。顔が弛緩したまま泣いている者。立ち止まったまま、念仏を唱える者。夕暮れは一日のうちで、最も彼らの明暗が別れる時間帯であった。


 その群衆の中に、置部の姿もあった。

 カーキ色のコートに何かをくるみ、満足げな顔をして歩いている。その包み方から、中身は頭部であることが容易に想像できる。


 置部は初めて明るい昼日中から、人々のいる目の前で頭部をさがしたのだった。

 頭が痛む振りをしては、土を掘り返す。何十回もそれを繰り返していれば、いいかげん怪しまれても仕方のないところだが、存外人々は無関心で自らの頭さがしに集中している。こんな状況なら、もっと昔から堂々と他人の頭さがしをすべきだったと、少し悔いていた。


 陽が沈み、宵闇が空間に侵入してくる。逢魔が時の訪れであった。

 置部は、群衆の流れに抗うようにして立っている二つの人影をみとめた。

 人影のひとつは、おなじみの〈導き〉だった。


 置部は、あわてて大事な持ち物を背中に回した。半日近く費やして、やっとさがし当てた獲物を取り上げられては、たまらない。

〈導き〉の視線が、置部には一瞬鋭くなったように見えた。が、彼は何も言わない。いつもの無表情だ。後ろめたい気持ちから、そういうふうに見えただけかもしれなかった。



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