Part 10

「……あの女にもう一度会いたかったな」

「現実に戻って、会えばいいじゃないか」

 赤本は返事をしなかった。


 二人はそのまま歩き続けて、北の海に着いた。今は彼らのほかに、誰もいない。

 島の影が、北東に長く伸びていた。窪原には、その影が、この後すぐに赤本を死に追い遣ることになるとは、どうしても思えなかった。


「見送ってくれたお礼に、いいこと教えてやるよ。北東の海岸に細長い岩があるんだ。そこにはもう行ったか?」

「いや、まだ行ってない」

「そうか。そこは洞窟になっててさ。必ず頭が埋まってるはずだ」

「本当なのか」

「死ぬ間際に、嘘はつかねえよ」

 窪原は、ありがとうと言おうと思ったが、喉が詰まって言葉にならなかった。


「それと。ウイスキーだけどよ。もったいぶってないで、さっさと飲んじまいな」

 窪原は怪訝な顔をした。赤本の言っている意味が、よく分からなかった。

「いいから、飲んじまえよ。さあ」

 赤本に促されて、窪原はウイスキーを一気に飲み干した。どろっとした液体が、喉を通り過ぎてゆく。焼けつくような喉ごしだった。そして、苦かった。それは、たまらなくやりきれない苦さだった。

「いよ、お見事」そう言って、赤本は笑った。

 しかしその笑顔は、どこか虚ろだった。

 窪原の胸が、酒で熱くなった。

 赤本の表情が、一転暗いものに変わった。死の恐怖が、彼を支配したのかもしれなかった。


「……なあ、俺は頭を見つけて、良かったのかな。悪かったのかな」

 窪原は何も言えなかった。言えるはずがなかった。

 当惑している窪原を見て、赤本は微かに笑うと、海の方に身体を向けた。

 赤本は、ひとつ大きく息を吐いた。

 叫び声を上げながら、海に突進してゆく。

 激しい水しぶきが上がり、あっという間に彼は海の影の中へ消えた。


 後はただ、波の音だけが響いていた。

 ……今の今まで、赤本は窪原の側にいた。しかし、彼はもういない。これからどこかで会うことはない。話をすることも出来ない。幻がかき消えたような、奇妙な感覚に窪原は囚われていた。


 手に握っていた空っぽの瓶も、消えていた。赤本が確かに此処にいたという証拠は、もう何も残っていなかった。自らの身体を、静かに巡っているアルコールを除いては。

 窪原は、しばらく波の動きを眺めていたが、やがて帰路についた。


 徐々に、酔いが回ってくる。

 歩きながら窪原は、赤本に教えてもらった洞窟に行くのは体さがしの最後にしようと心に決めた。頭以外の体が全部見つかってから、洞窟に行くのだ。そこでようやく体が全部そろう。現実に戻れるのは、赤本のおかげだということにしたかった。どうしても、そうしたかった。


 窪原は、小屋に帰るとすぐにベッドに横たわった。

 ウイスキーの酔いが、かなり回ってきていた。

 彼に、悪夢の誘いともなる眠気が襲って来た。

 まだ、夜になっていないというのに眠くなるのか、窪原は思う。

 ……眠ってはいけない……眠っては……。

 しかし酔いから受ける感覚に対する見返りのように、眠気は執拗に彼のまぶたを重くした。

 悪い夢を見そうだ。とびっきりの悪夢を。……





 ……頭が、くらくらする。

 左手首から先が痺れている。

 見ると大きな切り傷があり、血が、だらだらと流れている。

 フローリングの床が、赤く染まっている。


 床に倒れる。視線の先に、亜矢香が同じように倒れている。

 彼女の頭の横に、剃刀が光っている。血濡れている。

 亜矢香もまた血まみれだ。黄色と黒のチェックの柄の服が、赤く染まっている。

 彼女の背後に、ハート型の石膏。美少年のマネキン。カラフルに塗装されたゴム風船。数々のオブジェ……。亜矢香の部屋にいる。


 亜矢香が、苦しそうな顔をしながら、体を引き摺って近づいてくる。

 彼女を抱きしめる。しかし、力が入らない。

 亜矢香の瞳。生気がなく、暗くなっているが、どこまでも澄んだ瞳。

 血の臭いの中から、甘い髪の香り。

 亜矢香の途絶え途絶えの吐息。

 それでもなお、みずみずしい唇。


「震えが止まらないの……」

 開いた口から白い歯がのぞく。

 吸い寄せられるように口づける。

 これで良かったのだ。もう離れることはない。

 舌と舌が触れ合って、溶けてゆく。

 息苦しくなって、しだいに意識が遠ざかる。

 亜矢香の顔が見えなくなる。

 死ぬのは――怖くない。

 本当に? ……





 窪原は呆然として目覚めた。酒の匂いが、まだ強く口に残っている。酔いは、全く醒めていなかった。

 だが意識は、酒の酔いとは別のもの――夢の残滓に支配されていた。


 俺はいったい何を夢見たのだろう、窪原は思った。これが、赤本の言っていた危篤に至る状況の夢なのだろうか。俺は亜矢香と心中したために、この島にいるのか。じゃあ、亜矢香もこの島に来ているのか。三日もいるというのに。なぜまだ会えないんだ。頼子には会ったというのに。……どうして、頼子がこの島にいるのだ。頼子は俺を追いかけてきたのか?


 考えれば考えるほど、窪原は混乱するばかりだった。

 酒のせいで、変な夢を見たのかもしれない、彼は思う。きっとそうだ。これは架空の悪夢なんだ。……しかし、それも違っていた。現実に基づく夢は必ず目覚めた後に、記憶を取り戻したという実感があるのである。今見た夢は、確かにその実感が伴っている。亜矢香との心中は、現実にあったことなのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る