Part 9
そうして三十分ぐらい過ぎただろうか。
いびきが止んで、赤本は目を覚ました。彼は頭を振りながら、ベッドから上半身を起こした。
「……不思議なもんだな。体を全部見つけると、夢は見ないんだ」
赤本は独り言を呟いた。気分が落ち着き、酔いもかなり醒めたようだ。
「わけを聞かせてくれよ」窪原は口を開いた。
「……そうだよな。誰かに――いや、あんたに話を聞いて欲しくて、ずっと待ってたんだもんな。話すよ。……俺は確かに頭を見つけた。そこまでは良かった。現実の世界に帰ろうと思っていた。でも俺は、しばらく眺めたあと、それを土の中に戻して埋めてしまった」
「何で……」
「あのさ……俺の顔は、ずたずたになっていたんだ。鼻がひん曲がってさ、左の目ん玉が取れちまってるんだ。ところどころ皮膚が切れちまっててな、糸でかろうじて繋ぎ合わせてるって感じさ。掘り出した時は、俺の顔だとはとても思えなかった。痛みがあるって勘違いして、他人様の顔を見つけちまったんじゃないかって考えたよ。でも、それはやっぱり俺の顔なんだな。そういえばさ、危篤の夢の最後に、セットを支えていた鉄柱が倒れてきてたもんな。直撃したんだろうな。……そんな顔になってまで、生きていこうと思わないよ。駆け出しとはいえ、一応俳優だしな。あの顔じゃあ、現実に戻っても俳優なんかできっこない」
「待てよ。その顔が現実の世界の顔だっていう証拠は、どこにあるんだ」
「とぼけるなよ。あんただって薄々気が付いているだろ」
そう言って、赤本は地面に置かれている胴体の切り傷を指差した。
「俺だって、思いたいよ。現実の顔がそうじゃないって。けど俺、〈導き〉に訊いちまったんだ。あいつが言うんだから、間違いないだろ」
赤本が突きつけた事実に、窪原は返す言葉がなかった。
「あんた、やっぱりいい奴だ。嘘までついて、俺を引き留めようとするんだからな。でも俺は島の影に入るよ。煙草、吸わせてくれて、ありがとよ。あれは本当にうまかった」
窪原は、ベッドに駆け寄り、手に持っていた煙草を赤本に差し出した。窪原が赤本にしてあげられるのは、そのくらいしかなかった。
「悪いな」
そう言って、赤本は手を伸ばした。
煙草のボックスの中身は、十七本になった。
窪原は、赤本のくわえた煙草に火を点けてやった。
赤本はそれを名残惜しそうに吸った。目を細めて、煙の味を楽しんでいる。
窪原も一本取り出し、また吸った。
「うまいな」赤本は言った。
「ああ」
「こんなに煙草って、うまかったんだな。現実の世界にいる間は、おそらくそう感じたことはなかった気がする。ポーズで吸ってただけかもしれない」
「俺も似たようなもんだよ。きっと」
「なあ」
「んっ?」
「かわりと言ってはなんだけど、このウイスキーをやるよ」
赤本は、枕元にあったポケット瓶をつかみ、窪原に投げて渡した。
「いいのか」
「いいんだよ。どうせあの世では飲めない」
二人は、それから黙って煙草を吸い続けた。……
煙草が短くなった。赤本は根元ぎりぎりまで吸おうとして、煙を一気に吸い込んだ。その瞬間、煙草はそれが自然であるかのように、彼の指から消失した。窪原には、その消え方が彼のこれからを暗示しているように見えて不吉に感じた。
「……じゃあ。もう行くよ」
「もう一本どうだ?」
窪原は、赤本を少しでも長く引き留めておきたかった。
「いや、もういい。どこかでやめないと、あんたの煙草を全部、吸っちまう」
それでもいいと窪原は思った。
赤本はベッドから降りて、軽くおじぎをした。
「もし生まれ変わったら、あんたとは親友になれそうな気がするよ」
「俺もそう思う」
「……あんたは俺みたいになるなよ。ちゃんと現実の方に行けよ」
「判った」
赤本は扉の方に身体を向けた。彼にとって、それは死への扉だった。
扉を開けると、日暮れ前の弱々しい光が部屋に入り込んできた。煙が、勢い良く外に飛び出していった。
「待てよ。いっしょに行こう」
窪原は、ウイスキーを持ったまま、急いで扉の前にやって来た。
二人は小屋を出て、並んで歩き出した。
窪原は、赤本が海の影に入るまでの間に、何とか生への道を選んでもらうように説得するつもりだった。しかしその言葉は、一切出てこない。へたなことを言うと、言葉が上滑りしてしまいそうで、話し掛けるのが怖かった。
「夢でよ」口を開いたのは赤本の方だった。
「ん?」
「いっしょに俳優目指して、田舎から上京してきた女がいたのさ。そいつ、二年で弱音を吐いちまってさ。田舎に帰っちまった。春だったな。ばかでかい駅のプラットホーム。絵に描いたような、よくある話だろ。つまんないよな、こんな話」
「いや」
「……その女の夢は、それ一度きりさ。でもよ、俺は判るんだ」
「判るって何が?」
「あんたには、そういう女がいないのかな。その女の記憶はそれしかないけど、俺には、はっきりと判る。夢の中では、いろんな女が、それこそごまんと出て来たけどな」
赤本の言葉から、窪原は亜矢香のことを思い出した。
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