Part 8

 二人の間に、沈黙が訪れた。

 やがて、すすり泣くような音が美咲の耳に届く。

「じゃあ、行ってくるね。美咲ちゃん」


 小屋のドアが開き、閉まる音を美咲は振り返ることもなく聞いていた。

 見つかるはずの場所をさがして、見つからなかったことが、美咲の意欲を著しく減退させていた。同時に焦燥と、死への恐怖が大きくなっている。

 本当は園美の初めての成功を素直に喜びたかった。この三日間というもの、園美は必ず美咲の成功を喜んでくれた。自らはまだ何も獲得していなかったにも関わらず。

 美咲は素直に喜べない自分が、とても嫌だった。園美とこれ以上、いっしょにいると妬みから何を言い出すか分からない自分を恐れて、わざと園美を遠ざけたのかもしれなかった。


 それにしても、なんでわたしのは見つからなかったのかしら、美咲は思う。


 脳裏に突然、昨日園美と見た北の海の黒々とした影の風景が、蘇ってきた。美咲は、たまらなくなって、嗚咽した。ベッドが涙で濡れてゆく。

 やがて訪れるであろう暗い未来を、美咲は直感したのだった。


         *


 広場の中央にある建物の地下室に向かう窪原は、迷いの中にいた。昨日の地下室での記憶が、彼の心を重くしていた。夥しい数の陰茎の群れ、そして全裸の老婆の幻影たち……。もともと頼子から逃れるために、行こうと思い立ったことである。地下室の光景に立ち向かう勇気ができて決めたことではないだけに、窪原は気乗りしなかった。今の気持ちでは、おそらくまた失敗してしまうだろう。


 いっそ他の場所に行って体をさがそうかとも考えてみたが、もしそこで頼子に出くわしたら説明がつかない。その確率は極めて低いはずだが、そんなことより彼女に対して、また嘘をつくということが、窪原は気に入らなかった。曲がりなりにも、地下室に降りなければ、自分を納得させることができなかった。


 そんなわけで、建物の出入口のかたわらに腰を下ろしている赤本の姿を遠目で確認した時、窪原はいささか安堵した。赤本と話し込んでいるうちに地下室に入る気が失せたと、明日頼子に報告すれば良いのだ。言い訳のネタを作ってくれた赤本に、窪原は感謝した。


 しかし窪原は建物に近づくにつれ、そんな些細な頼子との確執など、どうでもいい気持ちになってきた。

 赤本の雰囲気が、おかしい。明らかに憔悴している。この島にいる者は、必ず手にスコップを持っているものだが、それもない。窪原が赤本を目に留めてから、あまり間を置かずにポケット瓶のウイスキーを口に運んでいる。声を掛けることに、少しとまどいを覚えた。


 窪原は赤本のすぐ近くまで、やって来た。

 人の体を通して発散される独特のアルコールの臭いが、あたりに漂っていた。


「よう、また会ったな」

 窪原の声に、赤本は反応して上を向く。彼は力無く笑った。

「ここにいれば、いつかあんたに会えると思ってな。ずっと待ってたんだ」

「そんなに俺に会いたかったとはな。で、どうした」

 赤本の暗く濁った目が、宙をさまよった。

「ついに、頭を見つけたよ」

「……なんだ祝い酒か。様子がおかしいから、びっくりしたよ。おめでとう。これで現実に戻れるんだな」

 赤本は首を横に振った。

「俺は死ぬことにした。さっき会った〈導き〉にも、そう言った」

「なんだって」

 赤本は、ポケット瓶を逆さにしてウイスキーをあおった。

 こういう場合、際限なく飲めるというのも、あまり良いことではないなと窪原は思う。


「何があったのか、俺には分からないが、酒はもうそのへんにしとけ」

 窪原は、赤本から無理矢理ウイスキーを取り上げた。

「いいんだよ。今はいくら飲んでも酔えん」

「もう、ぐでんぐでんになってるよ」


 窪原は、ふさがった両手のまま赤本の肩を組んで、何とか立ち上がらせた。

「とにかく俺の小屋に来て、少し休め」

「悪いな。迷惑かけちまって」

 窪原はふらつきながらも、力の抜けている赤本を抱きかかえて自分の小屋まで歩いた。アルコールの臭いが鼻腔をつき、窪原まで酔いそうだった。


 小屋に入ってすぐに、赤本をベッドに座らせた。

 赤本は横になることはせずに、部屋の中央に置かれている窪原の見つけた体に興味を持ったようだった。酔った目で注視し続けている。

 窪原は、心持ち恥ずかしかった。俺の体に何か特別なところでもあるのだろうか、彼は思う。

「やはりそうか」

 謎の言葉を残し、赤本はベッドに倒れて目を閉じた。

 すぐに高いびきが始まった。

 窪原は持っていたウイスキーのポケット瓶を、赤本の枕元に置いた。ウイスキーは瓶の半分ぐらいまで満たされていた。


 騒音の中、窪原は煙草に火をつけた。紫煙の中に、窪原は亜矢香の顔を思い浮かべる。気が滅入る時間の連続を、その顔だけが断ち切ってくれる。何か力のようなものが、胸に満ちてくる。俺は今、彼女に支えられている――窪原は心の底から、そう思った。


 窪原は赤本が死を選ぶことにした理由を、考え掛けて、そしてやめた。考えても解るはずはないのだ。赤本の目覚めを待つほかに、理由を知る手立ては無かった。


 彼は立て続けに煙草を吸った。部屋の中が、煙で充満した。亜矢香への想いが満ちたような気がして、少しうれしかった。

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