Part 5
頼子は涙を拭った。
「どうして、あんなことをしたんだ」
「きれいな水平線を眺めているうちに、何もかも嫌になったのよ。体をさがすことも、どうでもよくなって……」
「そうか。判るよ。俺だってこんなことは、もう嫌だ」
「……夢を見たわ」
頼子の目から、また涙があふれてくる。
「気絶しても見せられるのか。まったくなんて島なんだ。ここは」
「きっと、ばちが当たったのよ」
「ひどい夢だったのか」
頼子は苦笑いを浮かべた。
「秀弘にも見せたかったわ。でも見ることはないでしょうね。秀弘にとっては、きっといい夢でしょうから」
皮肉まじりの言葉を聞いた窪原の顔が、明らかに変わった。
「……俺が出てきたのか」
「そうね。もう一人、若い女の人もいたわよ」
窪原は何か言いたそうな表情をして後、ジャケットから煙草を取り出して吸い始めた。気分を落ち着かせようとしているようだった。
やはり夢の中に出てきた女とは何かあるのだろう、頼子は思う。深い関係なのかしら。窪原の態度を見て、彼女の不安は、つのっていく。
「ねえ。秀弘。場所を移りましょうよ。もう居たくないわ。こんな浜辺」
彼女の言葉で、窪原は我に返ったような顔になり、吸いかけの煙草を砂浜に落として消した。
「そうだな。でもちょっと待ってくれるか。さっきから右足に痛みを感じているんだ」
窪原はジャケットのポケットから柄だけ出ていたスコップを握って、足元を掘り始めた。湿った砂なので、掘りやすそうだった。
頼子も起き上がって、彼の作業を手伝う。
右足は間もなく出てきた。窪原の顔が、明るいものに変わった。
「ありがとう。君のおかげだ。君がいなかったら、俺、ここをさがすことはなかったよ。きっと」
笑顔で話し掛ける窪原とは対照的に、頼子の気持ちは暗いままだ。それでも無理して笑顔をつくる。
「……悪かったよな。俺だけ見つけて。つい、はしゃいじまった」
「そういうことじゃないの」
窪原の表情が、また固いものに変わった。
「ねえ、わたしたちって夫婦よね。そうよね」
「そうだ。間違いない」
「じゃあ、どうして君って、呼ぶの? 頼子って言わないの? 何だか他人みたいだわ。わたしは、さっきから名前で呼んでるいるじゃない」
「それは……現実の世界で、いつも君って言ってるからじゃないのか。そういう夫婦もいるだろ」
「ううん。わたしの夢の中では、いつもわたし、秀弘から名前で呼ばれているけど」
そう言われて、窪原は黙ってしまった。
「……ねえ、あやかって人はなんなの?」
窪原の答えは、無かった。彼は下を向いた。視線の先には、掘り出されたまま放置された右足が転がっている。
「どういう人なの?」
頼子は押し黙っている窪原に、さらに言い寄る。
その瞬間だった。
黒い影のようなものが、風のような速さで、二人の間を器用にすり抜けていった。
そして窪原の右足は、砂の上から消えていた。
頼子も彼も、黒い影をすぐに目で追った。
猿を思わせる小男が右足を抱えて、走り去ってゆく。
窪原も走り出した。しかしことのほか小男の足は速かった。さらに小男は軽業師のように体さがしをしている人々の間を抜けてゆくのに対し、窪原はぶつかってばかりいるので、二者の距離は離れていく一方だ。
頼子も窪原の後を追いかける。
窪原は諦めたように立ち止まった。小男は遠く人ごみの向こうに消えた。
頼子は、彼に追いついた。
「……ごめんなさい。何か変なことになってしまって。わたしのせいね」
「いや、いいんだ。それにしても何なんだ。あいつは。まいったよ」
「あいつ、〈地迷い〉って呼ばれてるらしいわ」
「知っているのか」
「ええ。昨日、わたしも右手を取られたの」
「取られたって、おい」
「でもだいじょうぶ、心配しないで。信用できる人が必ず戻ってくると言っていたから。とても親切な人だったの。わたしの作業を手伝ってくれたりしたのよ」
頼子は昨日の昼間の話をした。
「ちょっと待って。そいつどんな服装をしていた?」
「えっと。たしか灰色のスーツの上に、カーキ色のコートだったわ」
「やっぱり。そいつ置部っていうんじゃないのか」
「あら。どうして判ったの?」
「俺もそいつに、おととい会ったんだよ。妙に親切な奴だった」
「えっ。でも置部さん、秀弘のことは知らないようだったわ」
「そんなはずは、ないんだがな」
「だって、わたし、秀弘といっしょの写真も見せたのよ」
置部に対する疑念が、初めて頼子の胸に浮かんだ。
「で、右手は戻ってきたのか」
「まだよ」
「ほんとに体が戻ってくるのか、怪しいもんだな」
「そうなの? どうして」
「赤本って男が言っていたのさ。『ここにいる奴らを完全に信用しちゃあいけない』って。あいつの言う通りなのかもしれない。置部が、どうして知らないふりをしたかは分からないけど、ああいう親切に見える男こそ、心の中は案外腐っているのかもしれない。なにせ置部は二十年もこの島に住み着いているらしいから」
「そういえば、そんなこと言ってた。こんなところに二十年か……」
頼子は置部のことが、急に得体の知れない怪物のように思えてきた。
「……で、その赤本って人は、だいじょうぶなの。その人だって、信用できるか分からないじゃない」
「あいつか。あいつは、いい奴だよ」
窪原は笑顔になって、赤本の話を頼子に聞かせ始めた。
*
窪原と頼子から二十メートルぐらいの距離を置いて、話し込む二人の姿を、錯綜する人影に隠れて凝視している人物がいた。
それは置部だった。彼の右手の中で、二個のくるみが、ぎりぎりと音を立てていた。
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