Part 4

 二人は西の海岸に着いた。

 相も変わらず潮干狩りに似た風景が、眼前に拡がっている。しかし体さがしをする彼らの目はぎすぎすしていて、まったく余裕がない。その中の一人になることに、窪原は抵抗感を覚えながら、ゆっくりと歩を進める。


 頼子は腕を解き、彼から離れ、海に入っていった。彼女は砂浜に背を向けて、立ちすくんだ。

 窪原は、痛みのシグナルを逃さないように目を閉じ、集中して歩いた。時折、人とぶつかるが、そんなことにかまっていられない。ぶつかる相手もまた必死になって、さがしているのだ。お互いに謝らないことが、暗黙のルールになっていることを彼はもう知っていた。


 痛みは、なかなか訪れない。いつもながら根気のいる作業だった。それを朝から、ほとんど休むことなく続けているのだ。集中力が次第に途切れてゆくのを感じ、窪原は目を開けた。

 頼子の姿を探す。

 彼女はまだ、砂浜に背を向けて立ちすくんでいた。どうやら水平線を眺めているらしい。


 窪原は彼女のかたわらに、移動した。

「どうしたんだ。体をさがさないのか?」

「考えているの」

「何を?」

「あの水平線の先には、何も無いのかなって」

 窪原は、そんなことを言い出す頼子に驚いた。意表を突かれたような、感覚だった。さざ波の音が、ざわざわと突然大きくなったような気がした。


「あるんだわ、きっと」

「えっ」

「同じような島が。だってこの島には日本人しかいないんじゃない。日本人だけこんな辛い思いをするなんて、不公平だわ」

「外国人のいる島が有るっていうのか」


 頼子はスコップを持っていない方の手で、海の水をすくった。

「……行ってみようかな」

 そう言うと、彼女は沖に向かって歩き出した。

「おい」

 制止も聞かず頼子は、どんどん海に入ってゆく。


 窪原は急いで彼女を追いかけ、海水の中の腕をつかんだ。

 二人はもう胸のあたりまで、海に浸かっていた。

「危ないぞ」

「なぜ?」

「なぜって」

「この島では、北の海に入らなければ死ぬことはないのよ。だから、もしこの海で溺れたってだいじょうぶなはずだわ」

 頼子は上半身を強く揺さぶって、窪原の腕を振り切った。

「やめるんだ。何が起こるか分からないぞ」

 その時、大きな波がやって来て、窪原は海の中に沈んだ。塩水が少し口の中に入った。それは現実の世界で飲んだものと、何ら変わらない味だった。


 波がひいた後、すぐに頼子の姿を探すが、見当たらない。




         *




 頼子は、うつ伏せになったまま波に流され、海面の下に没して夢を見ていた。……





 ……大きなデパートが立ち並ぶ街を歩いている。

 陽射しが強い。アスファルトから立ちのぼる熱が、空気をもやもやと揺らす。


 汗が頬をつたっている。買い物袋を両手に抱えているので、拭うこともできない。

 人通りは少ない。平日なのだろう。


 何の飾り気もない地下街の出入口の前に立つ。人の行き来する雑音が耳に入る。

 階段を下りてゆく。

 下りきったところで、駅の改札を目指して、左に歩を取る。


 通路に、デパートの地下一階にあたる場所が見えてくる。

 小さめのウィンドウ・ディスプレイが、いくつか続いている。


 この夏、売り出された化粧品のシリーズのウィンドウのようだ。パッケージがブルーで統一された化粧品の種類ごとに、ウィンドウが設けられている。

 化粧品を前面にして、背景に夏の風物詩の模型が、薄い青に染められ、飾られている。


 アイシャドウのコンパクトの背景に、ビーチパラソル。

 ヘアクリームと、朝顔が描かれている扇子。

 マニキュアに、蒼いシロップのかき氷。

 どれも涼しげだ。


 突然、窪原の姿が目に入る。

 彼はウィンドウの前で、二十代半ばぐらいの女と話をしている。

 窪原は淡いグリーンのサマースーツ姿だ。小さい肩掛けのビジネスカバンを持っている。女は黄色いヘンリー・シャツを着ている。ボブヘアがよく似合う丸みを帯びた顔立ち。可愛らしい印象を与える女。


 自分の姿に、窪原は気付かない。

「俺は気に入ったよ。あやかが初めて全部まかされた仕事なんだろ」

「なによ。その言い方。何だか、無理してほめているみたいに聞こえるけど」

「そんなことないよ。いや、たいした仕事したな。おまえ」

「もういい」

 二人は目を合わせて笑う。楽しそうだ。心の底から。


 窪原の顔が、ウィンドウの中に向けられる。

 二人が立っているウィンドウには、口紅がいくつか置かれ、背景に細いガラス管の電飾で作られた花火が、ちかちか色を変えながら光っている。

「夢だったんだろ」

「うん」

「あやかがこの夢に、突っ走らなきゃ、俺たち、こんなことになっていなかったかもな」

 にこやかな女の表情が、急に曇る。

「なんで今、そんなこと言うのよ」

「ごめん。……今夜おごるからさ。飲みにでも行こうよ」

「そうね……どうしようかな」


 女の視線が、窪原から外れる。それが自分に向けられ、女の表情が変わる。

 その様子に、振り向く窪原。

「頼子……」窪原の声。

 彼の狼狽した表情。

 視界が急に滲んで、何も見えなくなる。……



 頼子は目覚めた。焦点の合っていない写真のような空が見えた。瞳が涙で濡れていた。

「だいじょうぶか」

 今、夢で見たのと同じような表情の窪原が、かたわらにいた。

 頼子は横たわって、波打ち際の砂浜にいた。海水を吸い込んだ服が体にまとわりついていて、ひどく不快だ。意識を失っても、スコップをしっかり握っていた自分が、頼子には不思議だった。

「気絶している君を、ここまで引き上げるのは、けっこう大変だったよ」

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