Part 3

 以前、この海岸線に来た時のことを彼は思い起こした。たしか四日目の朝だった。前の晩に危篤に陥る夢を見せられた朝のことである。彼は小屋の中にいると、おかしくなりそうだったので、せめて早く外の空気を吸おうと思い、目覚めるとすぐに、体さがしに出掛けたのだった。赤本は細長い岩まで歩いた記憶があった。


 あの先にまだ何かあったとは、彼は思う。早朝だったために、誰もいなかったので気が付かなかったのか。赤本は舌打ちした。


 歩き続けると、銀縁の眼鏡をした焦げ茶色のパジャマを着た男が、向こう側からやって来た。男は頭部を抱えていた。うれしそうに笑っている。海岸にも体さがしをしている者はいるが、頭はこの辺で見つけたものでは、なさそうだ。男のパジャマは、膝から下のあたりだけ濡れていた。海岸で掘り出したものだったら、もっと全体が濡れていてもいいはずだ。さらに男のパジャマに付着しているのは、砂ではなく土である。海岸でさがしている人々とは、明らかに違っていた。


 予感めいたものが、赤本の脳裏に走った。

 次にやって来たのは、双子だった。年は十を超えたくらいだろうか。赤本は、この島で双子を見るのは初めてだった。二人の表情は対照的だった。片方はにこにこしながら、頭部を抱えている。もう一人は、うらめしそうに、その頭部を眺めている。その視線は少女のそれとは思えないほど、きついものだ。二人の仲が、あまりうまくいってないことは、傍目からでも明白だった。


 赤本の予感は、確信に変わった。


 気持ちが急いて、いつの間にか彼は走り始めていた。

 全速力で走っているはずなのに細長い岩は、なかなか近くならない気がする。

 彼はその間も、さらにもう一人、学生服の青年とすれ違った。やはり、頭部を持っていた。

 細長い岩に着くと、彼はその裏側に回るために岩の周りの浅瀬に入った。波しぶきが、彼のスラックスの裾を濡らしてゆく。


 赤本の、岩の裏側に何かあるのではという思惑は外れていたが、結果的に彼は海に面している洞窟の入口を見つけることができた。

 洞窟の中では、十人ぐらいが体さがしをして、ふらふらと歩き回っていた。


 ここだ、間違いない。奴らは頭をさがしているんだ、赤本は思う。しかし、なぜ誰も俺にこの場所を教えてくれなかったんだ。俺は今日まで随分、いろんな奴らと話をしたはずなのに。四日ぐらい前に俺のウイスキーを半分も飲み干しちまった、あのじじいは何だ。あいつは確か頭を見つけたとか言っていたぞ。……そうか。そうだったのか。みんな俺を羨んでいたのか。あと頭だけになっている、この俺を……。俺はなんてバカだったんだ。ひとつも見つかっていない振りをすれば、誰か同情して教えてくれたかもしれないのに。赤本は改めて、この島の恐ろしさを実感した。


 彼は怒りをこらえながら、洞窟の中を歩き回った。怒りにまぎれて、痛みの感覚を逃さないように。

 軽い頭痛にも似た感覚は、すぐに訪れた。長い間、彼はその痛みを待っていた。十日ぶりの懐かしい痛みだった。そしてそれは赤本にとって、この島で感じる最後の痛みだった。

 しゃがみこむ。スコップを持つ手が、ぶるぶると震えている。うまく掘り出せない。いらついて赤本は、スコップを投げ出した。震える両手で土を掘り始める。


 終わる、終わるんだ。これで終わる。帰れるんだ、現実に。

 赤本は心の中で、何度も何度もそう言っていた。


         *


 窪原と頼子は、西側の海岸へと続く道を歩き続けている。道の両側に延々と背高い木々が立ち並ぶ、ひとけのない道だ。

「わたしも秀弘も早く体が全部見つかって、いっしょにもどれるといいわね」

「ああ」


 窪原は、頼子といっしょに歩きながらも、亜矢香のことをぼんやり考えてしまっていた。今までの僅かな場面で見た彼女を、繰り返し思い出す。それはまるで甘いカノンの調べを聴いているようだった。


 ……静かだった。二人の歩く足音が、耳に届くばかりだ。時折、スコップの触れ合う音がした。

 頼子は寄り掛かるようにして、窪原に絡めている腕を、さらに左手でつかんだ。その手に力がこもる。

「ん? どうした」

「黙ってないで、何か言って」

「そうだな。……君はどんな夢を見たんだ。その……俺たちに関することを」

「昨日の夜見たのは、水族館の夢だったわ」

「それは俺も見たぞ。あれは最悪だった」

「それから出会った頃のこと」

「へえ。どんな」

「秀弘が、ぜんぜん振り向いてくれなかった頃のことよ。近づいても近づいても、冷たく突き放されていたわよね。わたしが指定席を用意した映画を、すっぽかされて独りで観せられたこととか」


「そんなことあったけ」

「そういうのを、今まで山ほど。もうたくさんだわ。やめましょう。こんなお話」

 その話が終わると、また沈黙が続いた。しかしそれは無理からぬことだった。二人の間には、憂鬱な記憶しか存在していないのだから。


 窪原は、ただ腕から伝わる頼子の体温を感じていた。それはことのほか熱かった。その熱が、彼に怖れにも似た感情を引き起こしていた。


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