Part 4

 まだぎりぎり青年と呼べそうな男が立っていた。眉毛が薄く、あごが細かった。背は高いが、病気がちのような青白い顔をしている。古くさい灰色のビジネススーツの上に、薄手のコートをはおっていた。ところどころ塗料のはげ落ちたスコップを手にしている。


「あっ、どうぞ」

 窪原は、男に煙草の箱とライターを手渡した。

「もう一度、煙草が吸えるなんて思ってもみなかった」

 そう言って、男は立ち上がったまま、スコップを脇に挟んで、箱から一本取り出し火をつけた。手を震わせながら、煙を吸い込み、味を確かめるように口の中で溜めてから吐き出す。


 しばらくして窪原は煙草を吸い終わり、吸殻を砂浜にぽとりと落とした。吸殻は、紫煙が絶えると同時に消え去った。


 青年のような男も、煙草を吸い終わり地面に落として、靴底で揉み消す。彼は満足げに軽い笑みを浮かべた。


「僕は置部といいます。置部慎二郎」

「窪原秀弘です」

「煙草、ありがとうございました。うまかった。何年ぶりだろうか。煙草を吸ったのは」

「何年ぶりって?」

「ああ、僕はこの島にたぶん二十年ぐらいいるんです。だいぶ昔、あなたのように煙草を持っている人から、一本もらったことがあったものですから」


「二十年って……」

「ええ。だから僕は現実の世界では、とっくにおじさんになっているんですよ。この島での肉体は歳をとらないんです」

「なぜこんな島に、居続けているんだい」

「体が見つからないからですよ。と言っても、僕はもう体さがしを、ほとんど諦めてしまったんですけどね。痛みがどんなものだったか、すっかり忘れてしまいました。だからといって北の島影に入る気もしない。結果的に、ずっとこの島にいるというわけです。現実の世界では、きっと植物人間にでもなっているんでしょう」置部は軽い感じで、そう言い放った。


「この島にいようと思えば、居座ることもできるんだ」

「まあ夜が耐えられればですけどね」

「夜? 夜に何かあるのか」

「……窪原さん。ひょっとして今日この島にやって来たんですか」

「まあ、そんなところなんだが」

「そうですか。まあ、夜になれば判りますよ。……それまでは知らない方がいい」

 置部はそう言って、煙草の箱とライターを窪原に返した。窪原は、また煙草を吸いたくなり箱を開けた。


 箱の中には、煙草の僅かな隙間ができていた。


「どうしたんですか」置部が覗き込む。「窪原さん。ごめんなさい。僕は窪原さんに申し訳ないことをしてしまったようです。おそらく、その煙草は他人に吸わせると無くなってしまうんでしょう」

「いいよ。一本ぐらい。でも、なんでこんなことになってるんだろう」


「そうですね……僕が思うに……そうしないと、この島の人たちは窪原さんに煙草をねだり続けて、煙草だけは自由に吸える世界になってしまうからでしょうね。そういうことを許さない世界なんですよ。この島は」


 思いの外、貴重なものだったようだ。窪原は煙草を吸うのをやめにして、薄地のシャツの胸ポケットに箱とライターを入れた。


 西の空を見上げると、陽が沈みかけていた。不吉な印象を与える赤黒い光が、海岸の空間を染めようとしている。


 これからどうすればいいんだ、途方に暮れて窪原は海岸を去っていく人々を眺めた。しばらくして、人々が同じ方向に歩いているのに気付いた。


「おい。彼らはどこに向かっているんだ?」窪原は置部に訊ねた。

「ああ。今夜のねぐらですかね。この海岸の近くにある山の頂上に広場があって、そこにはみんなが寝泊まりする小屋がたくさんあるんですよ。案内しましょうか」

「そんな所が用意されているのか。しかし頂上っていうのは、遠そうだな」


「そうでもないですよ。丘に毛がはえたようなものです。あれです」

 置部は、東の方を指差した。見ると、海岸の途切れた先に平たい形をした小山がある。


「けっこう時間がかかりそうじゃないか」

「そんなこと言ってないで、いっしょに行きましょう。独りだと道に迷うかもしれないし。それとも、まだ体をさがしますか」

「いや、今日はもう終わりにしようと思っていたんだ」


 窪原は疲れた身体を動かして、左足をくるんだジャケットを持ち、スコップをひろって重い腰をあげた。

「それでは、行きますか」

 置部は、すうっと歩き始めた。窪原は遅れないように彼の背中を追った。


 やがて、力無く歩く集団のゆっくりとした流れの中に入る。その間も、窪原は痛みが身体のどこかに走らないか注意を続けた。


 海岸が途切れたところには、道ができていた。どのくらいの人々が歩き、踏み固められたのか分からないその地面。それは死の暗い予感に満ちた者たちが通った道だった。窪原は足底から伝わる陰湿な気配に滅入りそうだった。


 置部は歩きながら、灰色のスーツの外ポケットから二個のクルミを取り出した。

「僕がこの島にやって来た時、持っていたものです。このクルミをいじっていると、妙に落ち着くんですよ。この島にいる人は、みんな気分の落ち着くものを必ず持っているみたいで、窪原さんの場合は、それが煙草なんでしょうね」

「そういうことかな……でもなんでみんなが持っているんだろう」


「おそらく――現実の世界へ戻る希望を失わないように、という配慮なんでしょう」

「〈導き〉の配慮なのか」

「違いますよ。彼は操り人形みたいなものですからね。インプットされた事だけを、こなしているに過ぎないと思いますよ。意思なんてない。僕が考えるに、生と死の狭間であるこの島を設けたある存在、神のようなものでしょうか、そいつの配慮だと思うんです。ちょっとしたやさしさを混ぜてみました、とか……こんな話、終わりにしましょう。話したって体をさがす以外に、現実の世界に戻れる手立てが思いつくわけでもなし。まったく無駄だ」


 置部は、二個のクルミを掌の中で、もて遊んだ。クルミの触れ合う音が鳴り響く。

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