Part 2

 〈導き〉は無表情のまま、辛抱強く窪原の答えを待っていた。


「いや……止めておこう……最後の時は自分で決めたい」

 言葉を絞り出すように、窪原は答えた。

「そうですか。それでは」

 〈導き〉は、スコップを窪原に手渡した。


「その……何て言うか……俺の身体は現実の世界でも、ばらばらになっているのかな?」

「いえ、そういうことではないんです。これはあくまで、この世界のルールでして。貴方は試されているんです」

「何を?」

「それはおいおい判ります。ご健闘をお祈りします」

 そう言って〈導き〉は立ち去ろうとした。

「ちょっと待ってくれ。この広い島の地面から、どうやって自分の体をさがし出すんだ?」


「そうですね。それは大切なことでした。私としたことが、うっかりしてました。……とにかく闇雲に歩き回ってください。そうしているうちに、やがてどこかで貴方の身体のある部分に痛みが走ります。ほんの微かな痛みですから、恐れないでください。例えば、右手に痛みが走ったとしましょう。その痛みの感じた足元を掘ってみてください。十センチぐらい掘れば、貴方の右手は出てくるはずです。……ご理解いただけましたか」

 窪原は無言のまま、うなずいた。


「それでは私はこれで。今日は忙しい。次の仕事ができたようです」

 〈導き〉は軽く礼をして、東の方角に去った。窪原の座っている場所から、三十メートルぐらい先に、二人の少女が座っているのが見えた。さっきまでは、誰もいなかったはずなのに。


 窪原はうつむいて、吸いかけの煙草を地面になすりつけて消した。その瞬間、指にあった煙草の感触も無くなった。まるで手品をやっているようだ。彼は掌を見つめながら、そう思った。

 考えなければならないことが、たくさんあるような気がした。これは夢だ。それでいて、現実でもあるらしい。窪原は〈導き〉の言っていたことが、全て嘘であることを願った。

 これは単なる悪夢で、もう少ししたら目覚めて、夢で良かったと思う。そして健康な自分の肉体を確認して安堵する。気持ちのいい朝が始まる……。


 しかし窪原の考えは、そこで終わってしまった。自分が現実の世界で、どういう生活をしているのかどうしても思い出せないのだ。それどころか自分がどういう顔をしているのかさえ記憶に無かった。俺は本当に存在しているのか? 窪原は、だんだん不安になってきた。


 彼は立ち上がり、波打ち際に向かって歩いた。


 おだやかな波が砂浜を滑るように打ち寄せ、染み込み、引いている。


 窪原は濡れるのもかまわず、そのまま海に入り、自分の顔が海面に映る深さの所まで歩き続けた。

 ゆらゆらと動く海面の中に、自分の顔を見つけて、彼はとりあえず胸を撫で下ろす。そうだ。この顔だ。眉毛が太く、反対に目は細い。鼻は大きめで、唇が薄く、あごが尖っている。なじみの顔だ。どうして今まで思い出せなかったのだろう。髪の毛が薄く、白髪もほんの少しだが混じっている。目の下に浅く皺が刻まれている。もう若いとはいえない。歳をとったのだ。歳――。

 窪原は、また昏い不安の淵に落ちていった。思い出せない。自分の年齢を。


彼は海面から視線をはずし、呆然としながら振り返ると、よろよろしながら砂浜に戻っていった。また座り込む。


 黒い薄地のジーンズが太ももの真ん中あたりまで、びしょびしょになっていた。左手に持っていたスコップも濡れて、きらきら光っている。


 夢から醒めたいと欲した瞬間に、まぶたを開けることができたら、と窪原は思った。とりわけ今見ている夢は、もうこの先一秒だって見続けたくないのだ。ばらばらになっている死体を掻き集めるような作業など、窪原はしたくなかった。しかもそれは自身の体なのだ。


 いっそ島の北側の海にあるという影に潜ってしまうのもいいかもしれない。平穏で暖か……素晴らしい……。甘美な響きが、彼の頭を支配する。静かな水面だが荒涼とした北の海のイメージが浮かんできた。


 ……いや。だめだ。やるだけやってみなければ。彼は首を振って、決断した。


 窪原は〈導き〉の去っていった方角に、もう一度顔を向けた。〈導き〉が例の二人の少女に話し掛けている。少女は二人とも泣いていた。〈導き〉は子供に対してもあの事務的な口調で話しているのだろうか。少女たちもまた、俺と同じ境遇なのだ、窪原は思う。彼らのいるその方角に足を進めていく気には、なれなかった。


 彼は勢い良く立ち上がって、振り返った。座っていた草むらの背後には、ちょっとした勾配が右にも左にもあり、高台のようになっていて、その先は見えない。窪原はとりあえず、左の方へと歩き始めた。


 身体のどこかに痛みが走らないか、一歩一歩ゆっくり慎重に足を運ぶ。

 やわらかい砂が足にめり込み、腰に力を入れないと進まない。足場の悪いなか二十メートルほど歩くと、勾配がきつくなり手を地面につけて登るような感じになった。微かな痛みとやらは、いっこうに訪れない。


 登りきると、視界は一気に開けた。海岸は遠くの方まで続いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る