体さがし
青山獣炭
一日目
Part 1
男が深く息を吐くと、薄い紫煙が顔のすぐ前を上昇していった。
その煙の先には、見事なほど青い空が拡がっている。
紫煙がうねりながら昇る空を眺めながら、彼は今の置かれた状況を考えていた。
いつからかは分からないが、気が付くと座っていて、煙草をぼんやりと吸っていたのだ。座っている地面には、やわらかい草が生えていて、座り心地は悪くない。
彼は自分に関する記憶のほとんどを失っていた。唯一、自分の名前だけが頭に残っていた。
窪原秀弘。
あとは何ひとつ思い出せない。年齢も、仕事も、家族も、そもそもなぜ、今この場所に居るのか――それらの記憶の一切が欠落しているのである。
窪原は煙草を吸い終わると、吸殻を地面に落として靴底で揉み消した。靴を上げると、潰れて平たくなっているはずの吸殻は無い。彼は、さっきから何本も吸っているのだが、同じ現象が繰り返されているのだった。
くすんだ緑のサマージャケットの内ポケットから、窪原は煙草とライターを取り出した。何も描かれていない白地のボックスの中身は、いっぱいになっている。ボックスから何本取り出して吸っても、吸い終われば必ず二十本になっているのだ。
彼はライターを眺めた。銀色のスリムな形。小さくもなく、大きくもなく、とても使い勝手が良いものだ。それは彼の掌に、なじんでいた。眼を刺すほどでもない、心地良い反射光が窪原の不安な気持ちをなごませた。
満杯になっているボックスの端を指で軽く叩き、一本取り出す。窪原は、このしぐさがたまらなく好きだなと感じていた。今までに幾度となく繰り返してきた気がする。彼はライターを着火した。
新たな煙草の味と香りを楽しみながら、窪原は座っている場所の先、砂浜――波打ち際――海――水平線へと視線を移していった。
これは現実のことではない。おそらく夢を見ているのだろう。この風景全体に非現実感が漂っていた。中天高く浮かんでいる太陽さえ、彼には嘘くさく思えてしょうがなかった。
サマージャケットを着てはいるが、暑さは全く感じない。まるでエアコンで程良く調整された室内にいるような気分だった。
ふと気が付くと、一人の痩せ細った男が、かたわらに立っていた。目がぎょろりとして、顎の長い顔。漆黒のダッフルコートを身に纏っている。窪原は、この男の出現を待っていたようでもあり、恐れていたようでもあるような不思議な心持ちになった。
「こんにちは。窪原秀弘さん。私は〈導き〉と申します。この島での生活を謂わばガイドする役割を担っている者です」
男の喋り方には抑揚がなかった。顔の表情も、ほとんど動かない。催眠術にでも掛けられているかのように口だけが自動的に動いている感じだった。
「島? ここは島なのか」
「そうです。周囲を歩くと丸三日間ほど時間を要する島です。けっこう大きいですね。緑が少なく、索漠とした風景の続く島です。バカンスのつもりで長く滞在する気分には、とてもなれない場所です」
どうしてそんなひどい島に来てしまったのだろう。どうせ夢を見るなら、もっと素敵な場所にすれば良かったのに、と窪原は思う。
「ところで」男は続ける。「現在貴方の置かれている状況を、お話しすることにします。大変申し上げにくいのですが……。貴方は今、危篤の状態に陥っているのです」
「……言っている意味がよく分からないんだけど」
「そうですか。でも貴方だって薄々感じているでしょう? ここは夢の中の世界なんですよ。貴方は今、危篤の状態の中で夢を見ているんです」
そう言われても窪原は実感が涌かなかった。自分が死にかけているとは、とても思えなかった。夢の中にいるのであろう自分は、どこも痛みは無く、自在に身体を動かすことができる。健康そのものだ。
「しかし簡単に夢とも言い切れないんです。なぜなら、この夢の世界での出来事は確かに現実と結び付くのですから」
〈導き〉はそう言って、漆黒のダッフルコートのポケットから、園芸用の小さなスコップを取り出した。
「貴方にこの島で、ひとつの作業をしてもらいます。辛い作業です。島のあちこちに貴方とそっくり同じ体が、いくつかに別れて埋まっています。それを、このスコップで掘り出して集めていただきたいのです。体が全て集まったら、貴方はこの夢から醒め、現実に戻れます。集まらないときは――」
「死ぬのか」
「そうです。この作業の完成を何らかの理由で諦めてしまったときが、貴方の死ぬ時なのです。そうなったら、島の北側の海に行って、太陽の影になっているところから潜ってください。平穏で暖かな新しい世界が、貴方を待っています。それは素晴らしい世界ですよ」
「平穏で暖か……素晴らしい……」
窪原は譫言のように、〈導き〉の言葉を繰り返した。
「もし、島でやっていただく作業よりも新しい世界の方に興味をお持ちでしたら、今すぐにでも北の海に御案内いたしますが。その方が私も好都合なのです。抱えている件数が一件でも減ることは、私にとって喜びですから。この島には貴方のような日本人がたくさんいらっしゃって、けっこう忙しいのです」
窪原は動揺していた。何も考えられなかった。彼は自動人形のようになって煙草を消し、薄いジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、また吸った。
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