城を出て東の大陸へ(後)
「では、前を失礼して」
ガンダルヴァがまたがると、さわやかで涼しげな香りが立ちのぼった。鳥人の肌の匂いであった。持国の目の前で黄金色の翼に日の光があたり、乱反射した。
持国の手に伝わっていた振動が、ぴたりと止んだ。彼は四肢に力を入れた。
――すると。
勝身州まで伸びていると思われる龍の身体が縮みはじめた。凄まじい速さで。
とんでもない風圧が、彼らに襲いかかり、体の両側には、水しぶきの壁が立ち上がった。と同時に、低い轟音が彼らの耳を支配する。
彼らは、あっという間にはるか沖まで移動していた。さらに進んでいく。
風圧をまともに受けているのはガンダルヴァのはずだが、持国が背中越しから判断する限り、いつもと変わらないように見えた。動じている様子がないのだ。
(ところで持国様)ガンダルヴァの思念が届いた。
さすがに会話は無理だと考えたらしい。声は耳に届くことなく、後ろに流れていくことだろう。
(なんだ)
(私もピシャーチャの絵を送ってもらい、つぶさに見たのですが。ひとつ腑に落ちない点がありまして)
その時、彼らの前に、最初の白銀山脈が迫ってきた。龍の身体が斜め上方に伸び、山脈の頂上にかかっている。
(待て。山脈を越えてからにしよう。集中してないと危ない)
彼らの体が空中に斜めに浮いて、頂上をめがけて進む。
視界に白銀の山なみが映った瞬間、今度は落ちるように山あいの海に下降する。
そんなことを彼らは七度繰り返した。
最後のほうは、山脈と山脈の間が狭くなっているために、持国は今上がっているのか下がっているのか、分からなくなるほど混乱した。頭を繰り返し上下に揺さぶられて、くらくらした。
ようやく体が水平になり、水しぶきの壁が再び現れた。その水しぶきは潮の匂いがした。
(持国様。腑に落ちない点というのは、バスウのことです。バスウはたしか、巻物を持っているはずですが、あの絵にはそれが無いのです)
(懐に入れているのではないのか)
(いえ。仙人は杖を高く掲げて、明らかに法力を使っています。昔の彼ならいざしらず、今は巻物を持たずして法力を使うなど、ありえません)
持国は、巻物とバスウに関する記憶をたどった。
巻物には経がびっしり書かれていると伝えられており、それゆえ巻物は法力を増幅させる装置のような役割をすると云われていた。
バスウは長年にわたる苦行の果て、絶大なる法力を得たあと、慢心から自分に少しでも異を唱える側近たちを殺すようになった。やがて殺戮の快楽を覚え、無差別に人々を襲うようになった。その結果として地獄に落とされ、長い悔恨の日々を送ることとなる。容赦なく続く地獄の責め苦に、法力は衰え、意識もたえだえになった頃。苦行時代の並々ならぬ努力が菩薩の慈悲を促し、特別に許された。彼は、千手観音に仕えることとなり、弱くなった法力を補うために巻物を賜ったのであった。
(バスウの法力が、もとの強さを取り戻したということか。巻物を使わずとも)
(おそらくそうだと思われます)
(あやつらか。《魔》のしわざなのか)
(バスウを主に迎えたのでしょう)
主となってくれた者に《魔》たちは、自らの持つ邪念の力を半分ささげるのである。バスウの法力が、それによって地獄に落ちる前まで回復しているとしても、おかしくはない。
勝身州と云う大陸の、都や村で生きている人々の暮らしから垢のように生み出される様々な邪念。それがただよって重なり、凝り固まって実体化する《魔》たちは、自らの者の中から主を選ぶことはできない。邪念が強すぎるのである。もし仮に、仲間うちから主になる者がいたら、その者に対する嫉妬で、すぐに殺し合いが始まってしまうだろう。それゆえ《魔》たちは、主を自分たちとは無縁の者から選ぶのであった。
(やはり、急いでよかった。バスウが主になったとなると、《魔》は、かなり強い力を得たことになる。いつ勝身州の都に攻め入っても、おかしくない)
大陸が正面に見えてきた。そこに向かっているというよりも、大陸の方から近寄ってきているような錯覚に持国はとらわれた。
左に大きく曲がり、南へと向かう。左右の水しぶきの壁で見えないが、大陸を横切っているはずだった。
尾から伝わる振動が徐々に弱くなり、水しぶきの壁も低くなってきた。到着が近い。
やがて〈伸縮龍〉の動きが止まり、左右の水しぶきが消えた。目指していた南の端の海岸に着いたのだった。
「ダアーフウー」
龍の鳴き声を合図に、持国と従者たちは長い尾から降りた。龍は全身をくねらせながら、海の中へ消えた。
海水で彼らの全身はぐっしょりと濡れ、水滴が浜の白砂に滴り落ちている。彼らの四肢には、まだ振動の余韻が残っていた。
「まいりました。羽が重くなって、しばらく飛べそうにない」
鳥人は黄金色の羽を引き寄せ、毛を手で梳きながら苦笑いした。
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